『日本国紀』読書ノート(92) | こはにわ歴史堂のブログ

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92】高杉晋作を「魔王のようだ」と評したのはオールコックではない。

 

幕府のことを「右往左往」と評するならば、長州藩のほうが幕末、はるかに「右往左往」していたと思います。

にもかかわらず、長州藩の「右往左往」ぶりには言及がみられません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435226424.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433912416.html

 

攘夷論は、大きく二つに分けられます。これは私の個人的な感覚ですが…

 

「科学的攘夷」と「空想的攘夷」

 

「科学的攘夷」は、いきなり近代的な諸外国を打ち払うのは無理。よって、まず近代化を図って富国強兵を進め、もって外国の侵略を阻止する。そのための方便として開国・通商を進める。佐久間象山などが明確にこの考え方を示していると思います。長州藩では長井雅楽などの考え方です。

 

「空想的攘夷」は、「鎖国」は国の祖法、日本が外国の脅威に屈するわけにはいかない。ゆえに外国人を排斥し、場合によっては「異人切り」も含めて諸外国を打ち払う、というもの。久坂玄瑞、高杉晋作、そして桂小五郎も最初はこの考え方でした。

 

実際、当時は前者を「大攘夷」、そしてその立場から批判的に後者を「小攘夷」と説明しています。

 

ペリーの来航、開国、さらにはハリスとの交渉、無勅許通商条約調印は、「小攘夷」を中心とする尊王攘夷論を沸騰させました。

井伊直弼は、「安政の大獄」を展開し、長州藩の吉田松陰も巻き込まれてしまいます。

これに対して、長井雅楽は、「開国し、外国の技術を導入し、よって富国強兵を図る」という「大攘夷」を藩論としました。

これを「航海遠略策」といいます。

 

しかし、久坂玄瑞と前原一誠がこれにキレます。

そして長井雅楽暗殺計画を進行させました。

長井は、当時の幕府の老中で「公武合体」を進める安藤信正・久世広周と接近し、長州藩を「大攘夷」でまとめようとしました。

しかし、坂下門外の変が起こると、久坂玄瑞・桂小五郎らの攘夷論が盛り上がり、都の貴族、岩倉具視と久坂玄瑞が手を組み、「大攘夷」論は朝廷を軽んずる考え方である、として長井は失脚することになります。

 

こうして藩論は、条約破棄・攘夷の考え方に大きく舵を切ることになりました。これを「破約攘夷論」といいます。

「小攘夷」派は、ただちに攘夷を決行しました。

1863年5月10日、馬関海峡を航行中のアメリカ・フランス・オランダの艦船を無通告で砲撃する暴挙に出ます。

6月、アメリカが報復に出ました。

南北戦争中で、大規模な軍事行動には出られませんでしたが、南軍の軍艦を追いかけてきていた北軍の軍艦ワイオミングが横浜に来航していたので、アメリカはこの軍艦を用います。

下関砲台の射程外から下関港を砲撃し、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破しました。

 

「…アメリカ軍艦が報復に来て、長州の軍艦を撃沈し、下関の町を砲撃した。」(P251)

 

と説明されていますが、撃沈されたのは庚申丸で、ワイオミングは「下関の町」ではなく「下関港」を狙って砲撃しています。

 

ところが、これでも長州藩は懲りずに、馬関海峡を通過する外国船を砲撃するかまえを崩しません。

諸外国、とくにイギリスは、幕府に対して、国際法に完全に違反している長州藩を処罰するように要求し、あわせて賠償金も請求しました。

しかし、幕府が依然として処罰できないことに業を煮やした四ヶ国は、長州藩を直接攻撃することにしたのです。

ですから、

 

「列強によるこの襲撃は、攘夷の急先鋒であった長州藩に西洋の力を見せつけ、攘夷が不可能であることを示す目的もあった。」(P251)

 

という説明は百田氏の推測にすぎません。そのような目的をイギリスも他国も説明していません。イギリス公使オールコックははっきりと、「幕府が長州藩を処罰しないから」と明言しています。

 

こうして四国艦隊による攻撃を受け、長州藩は、ほぼ軍事的に無力化されてしまいました。

長州藩の講和使節は高杉晋作でしたが、イギリス側の通訳アーネスト=サトウの記録によると、高杉晋作はイギリス側の要求をすべて受け入れた、とされています。

 

「驚くべきは、五十五歳のイギリス公使、ラザフォード=オールコックと交渉した高杉が満二十四歳であったことだ。この時、オールコックは高杉のことを『魔王のようだった』と評している。」(P252)

 

これは、いったい何の話のことでしょうか。

四国艦隊の旗艦ユーライアスに高杉は乗船して「談判」するのですが、相手は司令官レオポルド=キューパーでラザフォード=オールコックではありません。

オールコックが「魔王のようだ」と評している、とされていますが通訳のアーネスト=サトウと誤認されていると思います。

「ルシフェルのように傲然としていたが、イギリス側の要求はすべて受け入れた」(「ルシフェル」を魔王と訳してよいかどうかは微妙なところですが)と記録しています。

 

さて、1863年から1864年の説明を時系列に沿って整理させていただきますと、

 

1863年5月 長州藩外国船砲撃

   7月 薩英戦争

   8月 八月十八日の政変

1864年6月 池田屋事件

  7月 禁門の変・第1次長州征伐

   8月 四国艦隊下関砲撃事件

 

ということになるのですが…

 

「八月十八日の政変」の説明が抜けています。

 

5月に攘夷を実行した長州藩は、朝廷や薩摩藩から危険視され、攘夷派公家とともに京都から追放されました。

この後、新撰組によって京都に潜伏していた長州藩士たちが捕縛され、池田屋事件となります。これを不服に思った長州藩は、兵を率いて京都に攻め上り、禁門の変となりました。

久坂玄瑞などはこの時に戦死し、幕府も長州征伐を決定します。

そして8月に四国艦隊の攻撃を受けることになります。

 

まさにこの二年間に長州藩は大攘夷、小攘夷、大攘夷と藩論を「右往左往」させたあげく下関戦争で多額の賠償金を要求され、しかもそれは幕府が支払うことになり、結果、その支払いの滞りを理由にして1866年に「改税約書」に調印させられることになります。

それまで「不平等」じゃなかった通商条約が「不平等」なものにかわり(関税が20%から5%に引き下げられ)、日本は経済的に大きな損失を受けることになるんです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

薩長を中心とする明治新政府は、たくみに、過去の自分たちの「失敗」を幕府の責任にすりかえてこの時期の説明をするようになり、戦後も1990年代くらいまでその枠組みで説明されてきました。

 

「彦島租借拒否」の話も、そもそもこの「談判」では出されていません。

確かに、交渉前の四ヶ国側の覚え書きには「賠償金が支払われるまでの担保として彦島をおさえては?」という記録があるようですが、伊藤博文が回顧している「租借」という概念は1870年代以降(アジアにおいては日清戦争後)の考え方です。

イギリスの要求を全面的に受け入れた屈辱的講和の「罪悪感」を緩和するためにつくり出されたフィクションであるか、伊藤博文の「記憶の混同」のどちらかです。