『日本国紀』読書ノート(91) | こはにわ歴史堂のブログ

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91】「戊午の密勅」の意味を間違えている。

 

「水戸藩主の徳川斉昭ら幕政改革派(一橋派)は一橋慶喜を推したが、大老の井伊直弼ら幕府保守派(南紀派)が推す紀伊徳川家当主の慶福(家茂)が継嗣となった。家茂は将軍となったが、政治の実権は引き続き大老の井伊直弼が握っていた。」(P238P239)

 

と説明されていますが、一橋派が「幕政改革派」で、南紀派が「保守派」という分類はしません。斉昭は「改革派」でしょうか。井伊直弼は「保守派」でしょうか。

政治信条的には、斉昭は攘夷を志向していましたし、井伊直弼は開国・通商派で、しかももともと無勅許反対派でもありました。

「一橋派」「南紀派」というのは、将軍の継嗣問題における派です。

 

「尊王攘夷の志士たちが京都に集まり、井伊直弼を打倒するための謀議に及び、孝明天皇は、井伊直弼を排斥する密勅(天皇が出す秘密の勅命)を水戸家に下した。これを知った井伊直弼は密勅に関係した人物や、自分の政策に反対する者たちを次々と処罰していく。これを『安政の大獄』という。」(P239)

 

まず、「戊午の密勅」を誤って理解されています。

「密勅」は別に「秘密の勅命」ではありません。関白の参内無し(関白を通さず)に出すものです。(また関白の添え書き付きで幕府にも「遅れて」届きました。)

内容は漢文ですが、百田氏はお読みになったことがあるのでしょうか。

「井伊直弼を排斥する」内容は書かれていません。

 

内容は、「勅許を得ずに調印したのはけしからん、理由をちゃんと説明せよ」、ということ、それに「御三家やその他の藩は一体となって幕府に協力せよ」、そして「幕府は攘夷をおこなう体制改革をせよ」、ということです。

井伊直弼を排斥せよ、など一言も書かれていません。(「公武御合体」という表現もみられます。)

 

それから、「安政の大獄」は、「戊午の密勅」があってから始まったのではありません。さらに厳しくなった、と説明するべきです。

「安政の大獄」は、無勅許調印、将軍継嗣問題で「不時登城によって御政道を乱した」理由で、徳川慶勝・松平慶永・徳川斉昭らを隠居・謹慎させたことから始まります。

(吉田松陰は、事情聴取の際に、老中暗殺計画を自身で「暴露」したことから刑を受けることになりました。)

 

桜田門外の変についても「俗説」に触れられています。

 

「この時、彦根藩の行列には護衛の藩士が六十人いたとされるが、わずか十八人の刺客に藩主の首をとられている。」 

「当日は季節外れの雪で、彦根藩の侍たちは刀の柄に袋をかぶせていたために抜刀するのに手間取った…」」

「そもそも雪から守るために柄袋をかぶせるなど、何のための刀かという、間抜けな話だ。」(P240)

 

ちなみに当時の大名行列の伴の武士たちは、天候にかかわらず、「柄袋」をつけています。

雪から守るために柄袋をしていた、というのは俗説です(昔、ドラマの『花の生涯』でそのような「演出」がみられました)

また、護衛の藩士は60人ではありません。26人が護衛の藩士で、他は小者・足軽で彼らは武器を持たない荷物運びでした。「襲撃と同時に少なくない藩士が逃走した」というのは小者・足軽のことです。

不意打ちで、しかも銃撃され、雨具に身をつつんで動きがとりにくい状況でしたから、18人と26人ならば、藩主を打ち取られても仕方がありません。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

「新たに老中になった安藤信正(磐城平藩主)と久世広周(関宿藩主)は、早急に幕府の威信を回復させなくてはならなかった。」(P241)

 

とありますが、安藤信正も久世広周も「新たに老中になった」のではありません。

安藤信正は桜田門外の変の前から老中ですし、久世広周は「再任」です(阿部正弘が老中のときに老中をしていた)

 

ちなみに安藤信正が、「坂下門外の変」で幕府の威信を低下させた理由で罷免された、というのは表向きの理由です。変後も、外国公使と面談などし、政務を執っていましたが、女性問題や収賄容疑で責任をとらされました。