「信仰の対象」であった産後の胎盤が、条例によって「処理」される現代

7月28日(木)2時0分 messy

人間の胎盤は、くさみのないレバーのような味がして、とても美味しいのだという。

「胎盤を食べるなんて気持ち悪い」と思う人がほとんどかもしれない。しかし獣は出産すると自分の胎盤を自分で食べるらしいし、日本列島の一部地域でも、胎盤を食べると乳の出が良くなるという伝承がかつて存在していた。荒唐無稽な話でもないようだ。

胎盤や卵膜など、後産の際に体の外へ出されるもののことを、まとめて胞衣と呼ぶ。「ほうい」ではなく「えな」と読む。

胞衣をめぐる習俗は非常に多様で、生活と信仰が密接に関わっている。あとで詳しく説明するが、日本各地には胞衣を埋める習俗があった。この「埋める」という行為ひとつ取っても、どこに埋めるのか、何に包んで埋めるのか、そして誰が埋めるのか、時代や場所によって多種多様な事例が確認されている。

現代でも胞衣の処理にはルールがある。各自治体において「胞衣及び産汚物取締条例」という法令が存在し、胞衣や産汚物(羊水などが付着した布、紙類)は専門業者によって「処理」されなければならないのだ。例えば東京都の「胞衣及び産汚物取締条例」では、胞衣(現在は、妊娠4カ月以下の胎児の「死胎」も含まれている。「胞衣」という言葉が指す範囲は時代によって変動している)の処理について、取り扱い業者や取り扱い場所などが細かく指定されている。

胞衣の扱われ方が細かく決められている点は今も昔も変わらない。しかし前近代から近代にかけて、胞衣は「信仰の対象」から「処理するゴミ」へ、確実に変遷を遂げている。「信仰」も薄らぎ、「処理」されていることも知らなかった私たちは、いま「胞衣」をどのように捉えることができるだろうか。

「生」と「死」の間に納められる胞衣

中世では「胞衣納」という儀式が行われていた。

室町幕府に使えていた蜷川親元という官僚の日記「親元日記」には、彼の上司である伊勢貞親の子が生まれた時の胞衣納について記されている。

(1)伊勢貞親が産所に赴いて洗った胞衣を入れた桶を受け取り、吉兆と言われる方角の山へ行く。
(2)河原者(当時の被差別階級の人々であるが、その一方で職能集団に属している場合も多かった)らが穴を掘り、その中に壺を据える。
(3)典薬頭(てんやくのかみ。典薬寮という部署の長官)が壺の中に胞衣桶を納め、蓋をして土をかける。
(4)河原者がそれを埋め、上に松を植える。
(5)儀式が終わり、帰路につく。帰宅直前に貞親はそれまで着ていた白の直垂を脱いで裃に着替える。
(参考:横井清「的と胞衣」平凡社、1998年)

短い史料なので確証は得られないが、どうも胞衣の扱われ方が奇妙に感じられる。

以前「地獄と女性の深い関係 鎌倉時代の絵巻物から伺える女性蔑視」という記事にも書いたように、中世では女性の経血は「穢れ」として扱われていた。だが、胞衣桶を穴まで持っていくのは伊勢貞親本人であり、胞衣桶を壺に収めて穴に埋めるのは朝廷の医療を司っていた典薬寮の長官だ。穴を掘るのは当時の被差別階級だった河原者であるが、胞衣を直接は扱っていない。

この人選には明らかな意図を感じるし、ある種の形式も見られる。どうやら胞衣は単なる汚物ではなく、聖性と丁重さを以て処置されていたようだ。上から松を植えるという行為は、死者の埋葬において類似の事例が存在する。「山」も「河原者」も、中世においては境界線上の存在であり、胞衣自体もまた「生」と「死」の境界にあるものと認識されていたのかもしれない。

奈良県の伝承では、家の床下、戸口、敷居の下など、人が踏む場所に埋めるという例が数多く見られる。胞衣を子供の分身として解釈し、たくさんの人に踏まれることによって子供が丈夫に育つというまじないだそうだ。胞衣を埋めたところを動物が最初に踏むと子供がその動物を異常に恐れるようになるので、胞衣を埋めたら子供の父親がその地を最初に踏んで、親を畏れ敬う子になるよう願をかけるという習俗もあったようである。

「処理する汚物」となった胞衣

こういった習俗は近代まで当たり前のように続いていたようだが、この流れを一変させる出来事が19世紀末に発生する。

江戸時代末期の1858年に始まったコレラの大流行だ。

江戸時代末期から明治時代にかけて、伝染病の流行が複数回発生していたことが確認されている。コレラ以外にも、痘瘡、赤痢、ペストなど、開国直後の時期は多くの伝染病が蔓延していた。前述した例の奈良県でもそれは変わらず、赤痢の大流行で2000人近い患者と500人以上の死者を出している。

伝染病の拡大を防ぐためには、患者の体液などがついた物品から感染が広がらないよう、物品の処理、清掃と衛生的な環境の維持が必要になる。「清潔法施行規則」が生まれたのは、何度かの伝染病大流行を経た明治28年7月16日のことであった。下水の処理や便所の清潔を保つことなどを定めたこの条例の第8条が、胞衣にまつわる規則なのだ。

「胎盤、胞衣、汚血、産児及死者ヲ洗滌シタル汚水ヲ床下二埋却又ハ放流スヘカラス」

すなわち出産で出たものを床下に埋めたりその辺に放り出したりするな、という内容である。ここでは胎盤も胞衣も「汚血」も並列して並べられており、これらは「清潔に反するもの」、全て「汚物」扱いされていることが見て取れる。このとき、胞衣は「信仰の対象」から「処理すべき汚物」であることが明文化された。第8条に違反した場合、一日の拘留または10銭以上1円以下の罰金刑に処せられた。「衛生」という言葉が広まるのは明治を迎えてからのことだ。それまで丁重に扱って床下や門に埋めていた胞衣を、突然「汚いからきちんと条例に従って廃棄しましょう」と言われても、文化を変えられるわけではない。

実際、清潔法施行規則第8条は6年後に改正され、刑罰が「10日以上の拘留または1円95銭の罰金」と重くなっている。刑罰を重くしなければならないほど、違反者が多かったということだろう。

「衛生」の観念とともに胞衣が汚物へカテゴライズされるようになって以来、少しずつそれまでの習俗は駆逐され、焼却処分や公的機関への引き渡しが行われるようになった。胞衣を汚物と変えたのは、伝染病という脅威から身を守るためだけでなく、前近代的な習俗を振り払いたいという人びとの思惑もあったのかもしれない。そしてその一方で、親しんできた習俗が廃れていく喪失感を覚えていた人もいたのだろう。実は同時期に、胞衣納めの儀式を失った人々のために「胞衣神社」も創建されていた。

冒頭で書いた通り、現代では胞衣の処理は専門業者しか行えない。この専門業者というのが「胞衣会社」と呼ばれる存在で、東京では1890年に日本胞衣株式会社が設立されるなど、その走りは伝染病の蔓延以降に生まれている。私たちが存在している現代は、胞衣を信仰の対象にしていた中世と地続きなのだ。

胞衣から考える、生命のあり方

かつて信仰の対象であった胞衣が「処理」されていることに対して、私は何も思わない。病気と闘ってきた人間の歴史の結果であり、人間の生命を守るために習俗を捨てることは必要な対応であった。

ただ、胞衣について考える機会があってもよいのではないかと思う。自分をかつて包んでいたものについて、過去にはどんな信仰があり、どんな事情があったのかを考えることは、人が生命とどのように向き合ってきたかという歴史を考えることでもあるのだ。

今も各地に「胞衣塚」などの胞衣をめぐる遺跡は存在している。もし近所の神社や寺などで名前に「胞衣」が入った遺物を見つけたら、それはきっと胞衣を埋めた儀式の場だ。

人間の生活のあり方が変化しても、胞衣という不思議なものの存在は変わっていない。ただそれをどう認識するかは時代によって異なっており、そこに人の暮らしや価値観が反映されているのだ。私は今、100年後の胞衣がどうやって処理されているのか、ぼんやりと想像している。
(正しい倫理子)

参考文献
安井眞奈美「怪異と身体の民俗学」せりか書房、2014年
横井清「的と胞衣」平凡社、1998年

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