教科書からの「消え方」というのは、三種類あります。
教科書の改訂は、四年に一回なのですが、その四年に一回の改訂の中で、付け加えられたり消えて行ったりしていくのですが…
第一のパターンは、小学校・中学校・高校、一斉に姿を消す場合。
これは、明確な「誤り」と「新発見」が判明した場合。
印象的だったのは「和同開珎」「長屋王の木簡」「旧石器」に関する記述です。「和同開珎」の場合は「富本銭」の発見で、「最初の貨幣」という記述が消えたました。
すべての教科書が四年後の改訂で一斉に「富本銭」を掲載したのです。
「長屋王邸」の跡の発掘で多数の木簡が発見され、当時の生活などが明らかになったことを受けて、木簡の内容が急激に教科書で取り上げられました。
「旧石器」に関しては、ある考古学者の発掘ねつ造が明らかになったときです。
とくに高校の教科書が受けた“被害”は甚大で、「馬場壇」遺跡をはじめ、国史指定された遺跡などすべて消え失せました…
第二のパターンは、まず小学校の教科書の記述が変わり、それからだんだんと中学、高校と「下から上に」変わっていくパターンです。
これは新発見などももちろんそうなのですが、「読み方」や「説明の仕方」が変わって、誤りでもないので、「この新しい学年」からそのように記述を変化させていこう、という意図がある場合です。
「士農工商」などが典型的な例で、小学校では説明の仕方が変わった、もう教えなくなったが、中学や高校は「まだ」そのまま、という場合も一時期起こります。
ある学年の子が成長していく中で、小・中・高、一貫して説明がブレないように、同じようにするためだと思います。
世界などでは、この傾向が多く、コロンブスの新大陸「発見」が「到達」に変わる、というようなこともありました。
第三のパターンは、高校の教科書の記述が変わり、だんだんと中学、小学校と変化していくパターンです。
学術的な、専門的な内容で、高校生には教えてもよいだろう、という変化があった場合のものです。
で、徐々に、学年を下げて説明して、「様子を見ながら」中学、小学校、へと説明を変化させていく場合です。
「鎖国」は、まず高校の教科書の記述から内容が変わりました。それから「聖徳太子」は、まっさきに高校の教科書で「厩戸王」という表記に変わり、「聖徳太子はいなかったのではないか」という学説を紹介するものも出るようになりましたが、中学・高校の教科書は聖徳太子のままであるケースがほとんどです。
「新説」というのは、また「そうではない」という説も出てくるので、高校での記述で止まる場合があります。
「大和朝廷遊牧騎馬民族説」なども、高校の教科書で書かれて紹介された時期もありましたが、小・中の記述には及んでいません。「聖徳太子いなかった説」も現在はやはり否定されつつあり、おそらくそういうことになりそうです。
さてさて、「元寇」なのですが…
現在、「元寇」という表現は、高校の教科書から消えつつあります。
どう変化しているかというと
「蒙古襲来」
という表記になりつつあります。
実は、「元寇」当時、そして後の室町時代も、そして江戸時代の初期まで、蒙古襲来のことを「元寇」と表現することはありませんでした。
一級史料(当時の記録)でもっとも多いのが「蒙古襲来」で、「異賊襲来」「蒙古合戦」という表記もあります。
攻める側の元の記録では「征東」あるいは「東征」がほとんどで、一つの歴史用語として確立はされていません。
元にとっては、一回目(文永の役)は、南宋攻略のための“牽制”にすぎず、日本遠征というよりも、南宋攻撃の一方面作戦に過ぎなかったからです。
そもそも「元寇」は誰が使い始めた言葉やねんっ と、なりますが、
水戸光圀
が、『大日本史』の中で使用したのが初めてです。
「寇」という文字は、外敵の侵入を意味するものですが、ただ、「掠めとる」「暴れこんできてそのまま帰る」みたいなイメージが強いので、個人的には「刀伊の入寇」や「倭寇」はふさわしい表現だと思うのですが、意図を持った大規模な軍事行動には用いない言葉と思います。
水戸光圀の影響力はさすがに大きく、後の歴史書では「元寇始末」「蒙古寇」などの表現が頻発するようになります。
ちなみに「蒙古」というのは、モンゴル帝国自らが中国語で表記したもので、向こう側でも使用されている用語です。ただし、「大蒙古」と称していましたが…
さて、「元寇」の内容に関しても大きな変化がみられるようになりました。
現在の教科書では、「暴風雨で」元軍が引き上げた、というような説明が少なくなりました。
元側の記録では、「撤退」開始が先で、「暴風雨」が後だからです。
暴風雨で撤退を余儀なくされたのではなく、日本の武士たちの巧みな作戦で苦戦し、撤退を決定した、というのが実際でした。
“苦戦”と言えば、日本が一騎打ちで、元が集団戦法を用いたため、日本側が苦労した、みたいな説明を一時よくしました。
塾の先生なども、おもしろおかしく「やぁやぁ我こそは」と日本が名乗りをあげて、それに対して元は無視して集団で襲いかかった、みたいな「わらい話」にしてしまいがちですが、そんな事実はありません。
その記述は「元寇」の30年近くも後に書かれた『八幡愚童訓』にみられるものであまり信用できません。当時の一級史料では、元の集団戦法を、日本軍の奇襲、ゲリラ戦法が翻弄し、モンゴル得意の大軍事行動を展開させなかった、というのが実際です。(このあたりの詳細は拙著『超軽っ日本史』『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』を是非お読みください。御家人たちの活躍をたくさん紹介しています。)
暴風雨で退散した、というのは、貴族や天皇の“祈禱”によって元を撃退できたのだ、と自慢する貴族の日記などにみられるホラ話が出展です。
暴風雨による撤退、集団戦法による苦戦、というのは、現在では虚構や誇張であることが判明しているんです。
ついでに、
元寇の恩賞が不十分で、御家人が窮乏し、その窮乏を救うために徳政令が出されたがかえって混乱し、よって幕府への不満が高まって幕府が滅びた、という
「元寇」→恩賞不満→「徳政令」→社会の混乱・幕府への不満→「倒幕運動」
の流れによる説明は現在ではほとんどしません。
こんな簡単なものではないからです。
元寇の前から御家人の窮乏は進展していて、徳政令と元寇は関係がありません。
元寇で幕府が弱体化した、というのは完全な誤りで、むしろ西国にも幕府の実質的支配が及ぶ出来事で、北条支配体制は強化されました。
北条氏の支配強化への不満が、倒幕運動につなかったので、「幕府滅亡元寇原因説」は現在では誤りとされています。
歴史はいろいろな事件の目に見える、目に見えないつながりによって流れていくので、元寇が幕府の滅亡と無関係とは言いませんが、これを強調しすぎてしまいますと、別の事実、もっと大切な部分を見失ってしまいます。
何か一つの明快な原因で歴史が動くことはない、ということですね。
歴史は「単線」理解ではなく「複線」理解が大切です。