『日本国紀』読書ノート(81) | こはにわ歴史堂のブログ

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81】「大津浜事件」と「宝島事件」は「異国船打払令」のきっかけなのか?。

 

「大津浜事件」や「宝島事件」が異国船打払令(文政の無二念打払令)をきっかけとする、という考え方ですが、現在では違う見方に変わり、これらは教科書では一切触れません。

 

「文政七年(一八二四)、『大津浜事件』が起きた。これはイギリスの捕鯨船の乗組員十二人が水戸藩の大津浜(現在の茨城県北茨城市大津町)に上陸した事件である。…この時、大津浜に上陸したイギリス人たちは、船に壊血病の患者が出たので、新鮮な野菜と水を求めてやってきたのだった。水戸藩士が彼らを捕らえたが、事情を聞いた幕府役人は、水と野菜を与えて釈放した。」(P216)

「しかし水戸藩では、この幕府の対応を手ぬるいと非難する声が上がった。」(P217)

 

この事件は、かつては外国船の威しに屈した幕府役人が、ことなかれ主義からイギリス人を釈放した、という解釈がなされました。とくに明治維新後、安政の大獄で弾圧された人や、尊王攘夷派の人々の「名誉回復」が図られる中、幕末の幕府の「対応」を「腰抜け」と批判する「現政権による前政権批判」の材料の一つとなっていたものです。

 

水戸藩士たちは上陸した外国人を捕らえて監禁するなど、かなりムチャな対応をしました。イギリス船からは砲撃(空砲)もおこなわれたようです。

幕府の役人が調べたら、薪・水を求めていること、船内に病人がいることがわかり、「薪水給与令」にしたがってイギリス人を釈放しました。

「違法行為」は水戸藩側にあり、幕府役人の対応のほうが当時の「合法的」措置です。

これに怒ったのは水戸藩ではなく、藤田幽谷です。

彼は子の藤田東湖に異人を斬ってこい、と命じて送り出そうとしますが、その時はもうイギリス人は釈放された後でした。

が、しかし… この話、ちょっといわくがありまして…

 

この話は、 1844年の藤田東湖の『回天詩心』の「三度死を決して而も死せず」の「一回目の死の決心」で回顧されている話で、これが1840年代、さらに明治時代にこの事件を「再評価」させた理由なのです。

この頃(1842)、従来の打払令を止め、「天保の薪水給与令」が出されていました。幕府の弱腰外交に水戸藩は苛立っていた時。

20年前にあった「大津浜事件」を回顧して、「あの時もこうだった」として大津浜事件が再度クローズアップされたのです。

 

さて、幕府が1825年に「異国船打払令」を出すきっかけとなったのは、「大津浜事件」ではない別の「視点」がありました。

幕府の鎖国の目的は、「幕府による貿易独占」がその一つです。

ところがこの「大津浜事件」と同じ1824年、水戸藩の漁民たちが、沖合にあらわれていたイギリスの捕鯨船団と「交流」し、いろいろな「商取引」をしていたことがわかったのです。

水戸藩の一部が問題視したのは「大津浜事件」でした(しかもこの事件が再認識されたのは1844)が、幕府が問題視したのは水戸藩の漁民による「私交易」(抜け荷)でした。

 

各地の沿岸に現れていた捕鯨船や商船と、沿岸漁民、一部商人はすでに「交流」を始めていたのです。

2016年にハーバード大学のハウエル教授が「えげれす人がやってきた!-ペリー来航前夜」と題した講演を日本で行っていて、大津浜に上陸したイギリス人が漁民と交流している記録について明らかにしています。1822年以降、小笠原諸島など近海に捕鯨船が多数現れて、漁民との交流・交易があったことを指摘しています。)

これを「途絶」するのが異国船打払令(文政の無二念打払令)の主な目的であった、という考え方に現在では変わってきました。(『蛮社の獄のすべて』田中弘之・吉川弘文館)

「大津浜事件」や「宝島事件」は、幕末・維新「武勇伝」としての色合いが強いために、現在ではトーンダウンした評価に変わっています。

(「宝島事件」に至っては、これは薩摩藩内部の問題です。)

 

教科書に採用されない事件には、「それなりの」理由があり、現在の教科書はできるだけ一次史料に基づき、多くの研究者の評価に耐えたものが選ばれるようになっているのが現状です。

 

以下は蛇足ですが…

吉村昭の小説『幕末軍艦「回天」始末』の中に『牛』という題名の短編小説が附録されています。これ、「宝島事件」を扱ったものです。機会があれば読まれてみてはどうでしょうか。