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「宗教不要論」に関する若干の感想
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昨夜は投稿できなかったので、代わりに今朝に。ミャンマーは(雨季だから当然ですが)毎日雨で、暑季の熱気が日ごとに薄まり、徐々に過ごしやすくなっています。
(部屋のすぐ近くに蛇が出現!)
ニコ生で放送などをしていると、ときどき「僕は宗教なんて必要ないと思うんだけど」といった趣旨のコメントをもらうことがあります。そして、それに対する私の返答は昔からずっと決まっていて、「もちろん、あなたにとっては必要ないんだと思いますよ。ただ、世界の現状を見れば、それを必要だと考えている人が一定数存在するのは自明のことです。その人たちにはその人たちの人生と価値体系があるわけだし、あなたにはあなたの人生と価値体系がある。日本においては幸運なことに、宗教に関わらなくても生きていけるし、そのほうが『健全』であるとも考えられているのだから、あなたが宗教を不要だと考えるなら、あなたは関わらなければいいんですよ」と言うことにしています。
私としては、これで十分な返答だと思っているのですが、それに納得できない人たちも一定数はいて、かなり攻撃的なコメントを連投しはじめたり、中には「お前は仏教徒のくせに、俺に真面目に仏教を押しつけないとは何事だ!」みたいな、ものすごい怒りだし方をする人もいました。
正直なところ、私は自分がいわゆる「仏教徒」であるかどうかについては懐疑的です。私にとっていちばん大切なことは、自分が信じて実行するに足る「生き方の筋」を、可能な限り予断を排しつつ探求するということであって、仏教はそのための有力な手段の一つ、インド思想の術語で言えば、プラマーナ(真理の認識手段)の一つにすぎない。したがって、「仏教」という名の下に語られることであれば、全てを無前提に受け入れるということは全く論外ですし、いつも言っているように、私が俗人として生きるにあたって、自分の行為の準則として実際に採用しているのは、仏教よりもむしろ陽明学です。
ただ、そうは言っても「ニー仏」などという名前で活動をしている以上、私のことを「仏教徒」であると考えて、ひいては「宗教側」の人間として応答を求める人が出てくるのも、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
そう思うので、「宗教側」として穏当であると思われる、上述のような答えをいつも返すようにしているのですが、まあ納得できない・したくない人たちは、どうしても一定数いるようです。
そういった人たちに対して、私が(余計に話がこじれるのはわかっているので)直接には言わないけれど、いつも心に思うことが一つあって、それは、「そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのものを、もう少し省察してみたほうがいいんじゃないか」ということです。
おそらく彼らの言い分としては、「宗教は人々が対立する原因になるし、その結果として、はなはだしくはテロを起こすようなこともある。したがって、それを批判することは正当だ」ということなのだろうと思います。そしてそれはたぶん一定程度、「正しい」批判でもあるのでしょう。
ただ、私が気になるのは、それを言う人たちの中に、「そうした対立は『宗教が』その原因になっているのであって、宗教をもたない自分たちはそうした動因から自由である。したがって、みんなが自分と同じように考えるようになれば宗教はなくなるし、余計な対立もなくなるはずだ」という発想が、見受けられがちなところです。こうした発想は、私の見方からすれば、全くナイーブなものであると言わざるを得ません。
何度も繰り返し述べているように、「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
「事実」として客観的に確認できるわけではない価値を、敢えて自分の意志で選び取るわけですから、そこには当然、責任が発生する。そして責任を取るからには、そこには同時に「プライド」もかかってきます。ツイッターなどを眺めていればすぐにわかることですが、自分の価値判断を表明して、それを他者に否定されると、ほとんどの人は怒りを感じる。価値判断には責任と同時に、プライドがかかっているからです。「意見と人格は分けるべき」などと、無茶を言う人も中にはいますが、そういう人がいざ自分の「意見」を否定されると、怒りを隠せずにいることがしばしばなのは、私たちが日常よく観察する出来事ですね。
要するに、誰でもが(「宗教」という名がそこにつくかどうかには関わりなく)自分の「信仰」をもっており、意識の度合いの濃淡はあれ、そこに責任とプライドをかけながら生きている。誰でもが、自分の「信仰」をできれば他者に承認して欲しいと願っているし、それを正面から否定されると怒りを感じる。そして、その怒りから生じた対立は、時に暴力にまで、発展することもある。
既におわかりのように、この事情自体は、「宗教」という名分がそこに冠されるかどうかには関わりなく、人類のコミュニケーション全体について普遍的なことです。もちろん、宗教が自分たちにとっての「絶対的なもの」を、この世において実現しようとした場合、その対立にドライブがかかるということはあるでしょう。ただ、それもまた「宗教」に限った事情では必ずしもありません。例えば「正義」という名分の下に、同じことが行われることがままあるのは、私たちが十分に知っているところですから。
いつも繰り返し述べていることですが、ここでも私が言いたいのは、「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」ということです。
最初の問題に戻りますと、「宗教不要論」をどうしても他者に承認させたいという欲望がある人たちには、あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしいのですね。
自分は愚かな信仰から自由な立場からものを言っているのだから、迷妄に毒されている人々を批判するのは全く「正しい」。そのように考えてしまうならば、それは実のところ、「宗教はいらない教」の信者が、他宗教の信者を「気に入らないから」という理由で罵っているという構図と、たいして変わるところがありません。
誤解してほしくはないのですが、このように言うことで、私は「宗教や信仰を批判するな」と主張しているわけではありません。ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい、ということですね。
朝に書くと脳が頑張ってしまうので、ついまたこんな長文を書いてしまいました。次の更新は再び夜に戻して、まったり軽めに続けていきたいと思います。
(部屋のすぐ近くに蛇が出現!)
ニコ生で放送などをしていると、ときどき「僕は宗教なんて必要ないと思うんだけど」といった趣旨のコメントをもらうことがあります。そして、それに対する私の返答は昔からずっと決まっていて、「もちろん、あなたにとっては必要ないんだと思いますよ。ただ、世界の現状を見れば、それを必要だと考えている人が一定数存在するのは自明のことです。その人たちにはその人たちの人生と価値体系があるわけだし、あなたにはあなたの人生と価値体系がある。日本においては幸運なことに、宗教に関わらなくても生きていけるし、そのほうが『健全』であるとも考えられているのだから、あなたが宗教を不要だと考えるなら、あなたは関わらなければいいんですよ」と言うことにしています。
私としては、これで十分な返答だと思っているのですが、それに納得できない人たちも一定数はいて、かなり攻撃的なコメントを連投しはじめたり、中には「お前は仏教徒のくせに、俺に真面目に仏教を押しつけないとは何事だ!」みたいな、ものすごい怒りだし方をする人もいました。
正直なところ、私は自分がいわゆる「仏教徒」であるかどうかについては懐疑的です。私にとっていちばん大切なことは、自分が信じて実行するに足る「生き方の筋」を、可能な限り予断を排しつつ探求するということであって、仏教はそのための有力な手段の一つ、インド思想の術語で言えば、プラマーナ(真理の認識手段)の一つにすぎない。したがって、「仏教」という名の下に語られることであれば、全てを無前提に受け入れるということは全く論外ですし、いつも言っているように、私が俗人として生きるにあたって、自分の行為の準則として実際に採用しているのは、仏教よりもむしろ陽明学です。
ただ、そうは言っても「ニー仏」などという名前で活動をしている以上、私のことを「仏教徒」であると考えて、ひいては「宗教側」の人間として応答を求める人が出てくるのも、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
そう思うので、「宗教側」として穏当であると思われる、上述のような答えをいつも返すようにしているのですが、まあ納得できない・したくない人たちは、どうしても一定数いるようです。
そういった人たちに対して、私が(余計に話がこじれるのはわかっているので)直接には言わないけれど、いつも心に思うことが一つあって、それは、「そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのものを、もう少し省察してみたほうがいいんじゃないか」ということです。
おそらく彼らの言い分としては、「宗教は人々が対立する原因になるし、その結果として、はなはだしくはテロを起こすようなこともある。したがって、それを批判することは正当だ」ということなのだろうと思います。そしてそれはたぶん一定程度、「正しい」批判でもあるのでしょう。
ただ、私が気になるのは、それを言う人たちの中に、「そうした対立は『宗教が』その原因になっているのであって、宗教をもたない自分たちはそうした動因から自由である。したがって、みんなが自分と同じように考えるようになれば宗教はなくなるし、余計な対立もなくなるはずだ」という発想が、見受けられがちなところです。こうした発想は、私の見方からすれば、全くナイーブなものであると言わざるを得ません。
何度も繰り返し述べているように、「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
「事実」として客観的に確認できるわけではない価値を、敢えて自分の意志で選び取るわけですから、そこには当然、責任が発生する。そして責任を取るからには、そこには同時に「プライド」もかかってきます。ツイッターなどを眺めていればすぐにわかることですが、自分の価値判断を表明して、それを他者に否定されると、ほとんどの人は怒りを感じる。価値判断には責任と同時に、プライドがかかっているからです。「意見と人格は分けるべき」などと、無茶を言う人も中にはいますが、そういう人がいざ自分の「意見」を否定されると、怒りを隠せずにいることがしばしばなのは、私たちが日常よく観察する出来事ですね。
要するに、誰でもが(「宗教」という名がそこにつくかどうかには関わりなく)自分の「信仰」をもっており、意識の度合いの濃淡はあれ、そこに責任とプライドをかけながら生きている。誰でもが、自分の「信仰」をできれば他者に承認して欲しいと願っているし、それを正面から否定されると怒りを感じる。そして、その怒りから生じた対立は、時に暴力にまで、発展することもある。
既におわかりのように、この事情自体は、「宗教」という名分がそこに冠されるかどうかには関わりなく、人類のコミュニケーション全体について普遍的なことです。もちろん、宗教が自分たちにとっての「絶対的なもの」を、この世において実現しようとした場合、その対立にドライブがかかるということはあるでしょう。ただ、それもまた「宗教」に限った事情では必ずしもありません。例えば「正義」という名分の下に、同じことが行われることがままあるのは、私たちが十分に知っているところですから。
いつも繰り返し述べていることですが、ここでも私が言いたいのは、「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」ということです。
最初の問題に戻りますと、「宗教不要論」をどうしても他者に承認させたいという欲望がある人たちには、あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしいのですね。
自分は愚かな信仰から自由な立場からものを言っているのだから、迷妄に毒されている人々を批判するのは全く「正しい」。そのように考えてしまうならば、それは実のところ、「宗教はいらない教」の信者が、他宗教の信者を「気に入らないから」という理由で罵っているという構図と、たいして変わるところがありません。
誤解してほしくはないのですが、このように言うことで、私は「宗教や信仰を批判するな」と主張しているわけではありません。ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい、ということですね。
朝に書くと脳が頑張ってしまうので、ついまたこんな長文を書いてしまいました。次の更新は再び夜に戻して、まったり軽めに続けていきたいと思います。
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信仰者と宗教不要論者たちの宗教に関する思考回路は全く別物ですよね。特に宗教不要論者は宗教がなんたるかを理解していないし、自覚していないかもしれないが感情論が内包している。ですが、私は宗教不要論者が合理的な考えをしているとも思うのですよ。それは、おそらく日本において、宗教による最大幸福よりも、宗教勧誘や宗教がらみの事件や政治の不幸量のほうが多いからなんですね。もちろん筆者のようにミクロによる宗教の理解もわかりますが、マクロでみた場合、日本における宗教っていうのはマイノリティによる声で、そして図々しく見えるのだと思うのですよ。宗教不要論者が宗教を省察することもわかります。しかし、信仰者が好きなだけ宗教勧誘するという行為が生んでいる反発を信仰者は考えていないし、日本人の宗教嫌悪はその影響もあると思います。これは鶏が先か、卵が先かの議論ですが、宗教不要論者ももちろんですが信仰者も無宗教者に宗教を勧誘することの反発を考えるべきだと思いますね。
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宗教とは何か、と考えてみました。
人間はその唯一のアベレージである論理において、起点となる部分を必要としますが、
これ自体は特異点として論理にそぐわない性質があります。
もちろん起点以外の仮定と結論は理想的には現実に起こる事実とそこから正しい手続きを持って行われる予想です。
なので、起点自体が結論に悪影響を及ぼさないと思います。
しかし、この手続きは不可逆的な過程によるもので、これを逆にたどっていき、「なぜそう考えたのか」
「そもそも私とはなんなのか」と考えていくと、当然本来の起点とは異なる道へとそれてしまいます。
この行方を失った逆進論理の行く末を私たちは「クォリア」「ゴースト」もしくは「魂」と呼ぶわけです。
この現象は人間をひとつのコンピュータとみなすならば(むしろコンピュータは人間の真似事みたいなもんですが)
これは「初期欠陥」とも言うべきもので、根絶こそ出来ませんが、これがわかって行動していればいくらかマシかも
しれません。
少なくとも存在もしないモノのために人が傷つけられ、あまつさえ殺されるような現状よりは。
それならまだ、(もちろんあってはならないですが)欲望やかのために人を殺す方がまだ進歩もあるというもの
欲は元々人を生かすためのものです。欠陥はあれど、人のためのものなのです。
人間はその唯一のアベレージである論理において、起点となる部分を必要としますが、
これ自体は特異点として論理にそぐわない性質があります。
もちろん起点以外の仮定と結論は理想的には現実に起こる事実とそこから正しい手続きを持って行われる予想です。
なので、起点自体が結論に悪影響を及ぼさないと思います。
しかし、この手続きは不可逆的な過程によるもので、これを逆にたどっていき、「なぜそう考えたのか」
「そもそも私とはなんなのか」と考えていくと、当然本来の起点とは異なる道へとそれてしまいます。
この行方を失った逆進論理の行く末を私たちは「クォリア」「ゴースト」もしくは「魂」と呼ぶわけです。
この現象は人間をひとつのコンピュータとみなすならば(むしろコンピュータは人間の真似事みたいなもんですが)
これは「初期欠陥」とも言うべきもので、根絶こそ出来ませんが、これがわかって行動していればいくらかマシかも
しれません。
少なくとも存在もしないモノのために人が傷つけられ、あまつさえ殺されるような現状よりは。
それならまだ、(もちろんあってはならないですが)欲望やかのために人を殺す方がまだ進歩もあるというもの
欲は元々人を生かすためのものです。欠陥はあれど、人のためのものなのです。
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著者さんの鮮やかな記述の中に、過去に読んだニーチェの思想を思い出しました。
たしかに人間は、自分が信じて疑わないような、自分がその世界の中に生きているような考え方(思想というと、少々堅苦しい感じですが・・・)を必ず保持していますし、
その考え方が否定されると、その否定が明確な根拠に基づいているにせよ、いないにせよ、必ず傷ついてしまいますね。
しかし、記事にあるような”批判”をしてくるような人(僕もたまに見かけるのですが・・・)を見ていると、
哲学的思考の甘さをひりひりと痛感するのは、僕だけでしょうか。
学校での教育で「言葉でなされる主張」は体系から瑣末に至るまで全て、明確な根拠など存在しない、
とてもあやふやで地に足が着いていなく、取り付く島のないものだとは習ってこなかったのでしょうか・・・?
「教養不足」などという”おじん臭い”ことは言いたくないのですが、自らの幼い主張に凝り固まって固執する人を見ると、
この言葉がリアリティをもって迫ってくる感をぬぐえません。
たしかに人間は、自分が信じて疑わないような、自分がその世界の中に生きているような考え方(思想というと、少々堅苦しい感じですが・・・)を必ず保持していますし、
その考え方が否定されると、その否定が明確な根拠に基づいているにせよ、いないにせよ、必ず傷ついてしまいますね。
しかし、記事にあるような”批判”をしてくるような人(僕もたまに見かけるのですが・・・)を見ていると、
哲学的思考の甘さをひりひりと痛感するのは、僕だけでしょうか。
学校での教育で「言葉でなされる主張」は体系から瑣末に至るまで全て、明確な根拠など存在しない、
とてもあやふやで地に足が着いていなく、取り付く島のないものだとは習ってこなかったのでしょうか・・・?
「教養不足」などという”おじん臭い”ことは言いたくないのですが、自らの幼い主張に凝り固まって固執する人を見ると、
この言葉がリアリティをもって迫ってくる感をぬぐえません。
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宗教って言ってみれば、ただの逃げ道でしか無い訳で結局元を正せば全て同じ様な内容でどこもかしこも似たりよったりな存在なんですよね。キリスト教だのヒンドゥー教だの仏教だのと言っても結局、自分が苦しいのは今までのの自分の行いが悪かっただの、前世でうんぬんかんぬんだのと責任を過去に押し付ける為の物で、苦しみを紛らわせる為の要は痛み止め的な存在なんですよ。誰だって、痛いのは嫌なんですから。人生の痛み止めが宗教であって、効能やら用量使用制限その他云々が教典だのなんだのと言う細かいことになる訳で、宗教不要って言ってる人は其れだけ人生が楽しく、そして宗教を必要とせずに独自の解決方法がある訳で不要論者は信仰者に対してそれを否定する発言はいかんと思ってます。逆に、信仰者は無宗教の人に対して宗教を勧めるのは可笑しいんですよ
要は、喘息持ちの人に、糖尿病患者が打つペニシリンを勧めたって喘息が改善する訳でもないんだし、お互いがまったく一致していないのでここが交わる事は一切無いんです。病気を治したり、誤魔化したりするのが薬であり、人生の薬が宗教なんですよ
宗教不要論者は特定宗教を信仰せず否定はしていると思いますが、『神様』と言う存在に祈っていると思いますよ。例えば、宝くじ当たらないかな~とか明日晴れればいいのにな、とかそう言う次元が低いレベルの願いって誰に対して言っているのか?って話になってくる訳で、ここで登場するのは自分が作り上げてきた、正体不明で名前もない『神様』と言う漠然とした存在に対しての願いでしょう
そう言う風に考えれば、人間何らかしらの『信仰対象』を持っていて、これが『宗教』になると思います。だから、宗教不要論者はには『君は確率と計算で生きているのかい?』と尋ねれば良いと思います
要は、喘息持ちの人に、糖尿病患者が打つペニシリンを勧めたって喘息が改善する訳でもないんだし、お互いがまったく一致していないのでここが交わる事は一切無いんです。病気を治したり、誤魔化したりするのが薬であり、人生の薬が宗教なんですよ
宗教不要論者は特定宗教を信仰せず否定はしていると思いますが、『神様』と言う存在に祈っていると思いますよ。例えば、宝くじ当たらないかな~とか明日晴れればいいのにな、とかそう言う次元が低いレベルの願いって誰に対して言っているのか?って話になってくる訳で、ここで登場するのは自分が作り上げてきた、正体不明で名前もない『神様』と言う漠然とした存在に対しての願いでしょう
そう言う風に考えれば、人間何らかしらの『信仰対象』を持っていて、これが『宗教』になると思います。だから、宗教不要論者はには『君は確率と計算で生きているのかい?』と尋ねれば良いと思います
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自分なりに単純化すれば、問題を起こすのは自分の価値観や意見を盲目的に正しいと思い込んでいる為か、自分と食い違う考えを持つ相手を理解しようともせず、それどころか、その違いを許容する器も持たない連中なんですよね。必然的に攻撃的だから、迷惑この上ない。
個人的なポイントは、この手の盲目的な考え方が共有されるかと群集心理や仲間意識が働くかで、本来は宗教に限らないと思うが、一定のカリスマなり、社会正義なり、意思をまとめる思想や雰囲気があると、明確な宗教という形が無くても実際問題、暴力的になっているでしょう。彼らはこれを宗教みたいな物だとは思わないでしょうが、一つの考え方に囚われている、つまり信仰ゆえに宗教ですよね。
実際、問題を起こすカルト宗教もあるでしょうが、本文中に書かれている通り、はっきりとした宗教団体がすべて無くなれば万事解決ってのはお花畑的に思えます。
もしそんな事が出来るならば、自分が即日無くしたい宗教は、「自分の考えだけが絶対正義だ。お前は間違ってる。改めろ」教です。
まとまりのない文になりましたが、言いたいことは常に自分の思考を多面的に考察しなおせって事ですかね。
個人的なポイントは、この手の盲目的な考え方が共有されるかと群集心理や仲間意識が働くかで、本来は宗教に限らないと思うが、一定のカリスマなり、社会正義なり、意思をまとめる思想や雰囲気があると、明確な宗教という形が無くても実際問題、暴力的になっているでしょう。彼らはこれを宗教みたいな物だとは思わないでしょうが、一つの考え方に囚われている、つまり信仰ゆえに宗教ですよね。
実際、問題を起こすカルト宗教もあるでしょうが、本文中に書かれている通り、はっきりとした宗教団体がすべて無くなれば万事解決ってのはお花畑的に思えます。
もしそんな事が出来るならば、自分が即日無くしたい宗教は、「自分の考えだけが絶対正義だ。お前は間違ってる。改めろ」教です。
まとまりのない文になりましたが、言いたいことは常に自分の思考を多面的に考察しなおせって事ですかね。
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>>11
>少なくとも現代の価値観では明らかにBさんの意思が優先されます
これこそ、現代日本の「弱者は保護するべきだ」という潮流に乗っているだけの(哲学的には)浅はかな詭弁ですよ。
ここでの議論の焦点は、「いかに現代社会の流れに乗れるか」という政治学的な方面では決してなく、
限定的で閉鎖的な社会の一時期に固定されない、より広い観点から眺める哲学的な思考を行っています。
この記事の流れを汲んで、「思い込んでいる」というキーワードを使うと、
・ 「歴史の流れの中で、現代の考え方がもっとも成熟していると思い込んでいる」
・ 「詭弁という言葉を、その奥深い意味合いを正確に描写しようとせずに、自分に都合が良い意味合いだけで使用して相手に通じると思い込んでいる」
・ 「そして、その自分にとって都合の良い解釈でもってして、相手を断罪できると思い込んでいる」
こんなところでしょうか
>少なくとも現代の価値観では明らかにBさんの意思が優先されます
これこそ、現代日本の「弱者は保護するべきだ」という潮流に乗っているだけの(哲学的には)浅はかな詭弁ですよ。
ここでの議論の焦点は、「いかに現代社会の流れに乗れるか」という政治学的な方面では決してなく、
限定的で閉鎖的な社会の一時期に固定されない、より広い観点から眺める哲学的な思考を行っています。
この記事の流れを汲んで、「思い込んでいる」というキーワードを使うと、
・ 「歴史の流れの中で、現代の考え方がもっとも成熟していると思い込んでいる」
・ 「詭弁という言葉を、その奥深い意味合いを正確に描写しようとせずに、自分に都合が良い意味合いだけで使用して相手に通じると思い込んでいる」
・ 「そして、その自分にとって都合の良い解釈でもってして、相手を断罪できると思い込んでいる」
こんなところでしょうか
×
一人の人間がこの世界の全てを確認しようとしても、この世界は広く・深すぎる。勢い、日々の暮らしに忙しい人間は、ほとんどの部分を他人の言うままに「信じる」しかない。
この世の果てと過去未来がどうなっており、人間はどう行動するべきか?の知識体系は、科学教の発生以前は宗教が担当してきた。ほんの数十人の賢者の言葉を元にして出来た教典が、権力者(坊主達)の都合の元に改竄されてきた、という経緯を見ると正確性は科学教には及ぶべくもない。しかし天国や永遠の命といった希望を持たせてくれると言う点では科学は宗教の足下にも及ばない。
人がどんな宗教を信じようと自由だと思う。人は希望がなければ生きて行けないのだから。(政府とマスコミについてはここでは無視する。)
この世の果てと過去未来がどうなっており、人間はどう行動するべきか?の知識体系は、科学教の発生以前は宗教が担当してきた。ほんの数十人の賢者の言葉を元にして出来た教典が、権力者(坊主達)の都合の元に改竄されてきた、という経緯を見ると正確性は科学教には及ぶべくもない。しかし天国や永遠の命といった希望を持たせてくれると言う点では科学は宗教の足下にも及ばない。
人がどんな宗教を信じようと自由だと思う。人は希望がなければ生きて行けないのだから。(政府とマスコミについてはここでは無視する。)
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少なくとも、私は投稿主さんの意見に十分な納得を得られましたね。
個人的な意見を言うなら、宗教というのは人生の道標の一つだと思っています。
私自身は無神論者で、それぞれの宗教の教えを隅々まで理解しているわけではないのですが、その内容は私たちの社会生活における指針となりうるものが多く存在していると記憶しています。
神という存在を信じることで自身を律することが出来るのであれば、それは社会生活における立派な手段であるといえるでしょう。
それを踏まえて主さんが受けた批判を見てみると、「この問題って宗教関係ないよね」と思わざるを得ません。
『(私に)宗教はいらない』という主張は理解できます。神を信じずとも、社会規範に則り生きることは可能ですから。
ですが、『宗教が対立を生み出している。だから宗教は存在してはいけない』というのはとんでもない暴論でしょう。
そもそもこういった対立は、我々の『自分と異なる考えを許容したくない』という欲求が生み出しているものですから。
今まさに、『宗教は対立を生む悪者だ』と声高に叫ぶ方のように。
どんな宗教であっても、信仰している方々個人の性質は千差万別です。
宗教は教えであり、それをどう捉えるかはその人次第ということが、この事実から導けるでしょう。
これは「彼ら自身が問題と叫ぶ行為を実行している」という主さんの意見に繋がります。
こんな感じで私なりの思考で今回の問題を考察していった結果、本文の内容にとても説得力を感じられました。
それだけ今回の記事がしっかりとした論理で書かれた文章であるという証拠だと思います。
今のネット社会全体の問題なのでしょうが、自分の意見を公開することに忌避感を覚えずに済むようになった代わりに、無秩序な批判を撒き散らす人々が増えてきていると感じます。
意見を発するというのは自己を曝す行為だということをもっと多くの方に自覚してほしいと、切に願っています。
同時に、私も主さんのようなしっかりとした意見を発信できるようになりたいと思わされました。
普段はまずこんな思考をしないぐーたら人間なもので…orz
今後の投稿を、陰ながら応援させていただきます。
長文失礼しました。
個人的な意見を言うなら、宗教というのは人生の道標の一つだと思っています。
私自身は無神論者で、それぞれの宗教の教えを隅々まで理解しているわけではないのですが、その内容は私たちの社会生活における指針となりうるものが多く存在していると記憶しています。
神という存在を信じることで自身を律することが出来るのであれば、それは社会生活における立派な手段であるといえるでしょう。
それを踏まえて主さんが受けた批判を見てみると、「この問題って宗教関係ないよね」と思わざるを得ません。
『(私に)宗教はいらない』という主張は理解できます。神を信じずとも、社会規範に則り生きることは可能ですから。
ですが、『宗教が対立を生み出している。だから宗教は存在してはいけない』というのはとんでもない暴論でしょう。
そもそもこういった対立は、我々の『自分と異なる考えを許容したくない』という欲求が生み出しているものですから。
今まさに、『宗教は対立を生む悪者だ』と声高に叫ぶ方のように。
どんな宗教であっても、信仰している方々個人の性質は千差万別です。
宗教は教えであり、それをどう捉えるかはその人次第ということが、この事実から導けるでしょう。
これは「彼ら自身が問題と叫ぶ行為を実行している」という主さんの意見に繋がります。
こんな感じで私なりの思考で今回の問題を考察していった結果、本文の内容にとても説得力を感じられました。
それだけ今回の記事がしっかりとした論理で書かれた文章であるという証拠だと思います。
今のネット社会全体の問題なのでしょうが、自分の意見を公開することに忌避感を覚えずに済むようになった代わりに、無秩序な批判を撒き散らす人々が増えてきていると感じます。
意見を発するというのは自己を曝す行為だということをもっと多くの方に自覚してほしいと、切に願っています。
同時に、私も主さんのようなしっかりとした意見を発信できるようになりたいと思わされました。
普段はまずこんな思考をしないぐーたら人間なもので…orz
今後の投稿を、陰ながら応援させていただきます。
長文失礼しました。
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無宗教って言うか聖おにいいさん読んだ程度ですが仏教、基督教に関しての自分の宗教観をば
仏教に関しては『考え続ける者への教科書』でしょうか
生物がなぜ生きそして死んでいくのか、なぜ諸行無常であるのかに対する一定の解、いわゆる悟りと無を提示しているのが仏教であると考えています
これに関して反論する人は仏教徒でなくともたどり着ける人はいるでしょうが仏教が最も判りやすく、また多くの人が早くたどり着けるのが仏教であると思っています。アヒンサー自体努力目標であるとも聞いていますし
なので一人でも多くの人が悟りへと辿り着くために仏教は必要であると考えています
基督教に関しては『人間の和解の書』でしょうか
アガペーと呼ぶ肉体的でない愛の形や汝の隣人を愛せや右の頬をぶたれたら・・・と言う格言、またイエス・キリストをはじめとする聖人の自己犠牲による多くへの救済に見られる今争っている人間を和解に導く、絶対的大多数を幸福にするものが基督教の基本であり原点であると考えます
肉体的快楽追求は多くの場合人と争わなければ手に入らないものですので基督教の戒めは他者と争わないために作られていると考えます
なのでこれに関しては性悪説側の意見になりますが多くの人がお互いを思いやるために基督教は必要であると考えます
ただ他の宗教に関しては不勉強なのでなんともいえませんが仏教、基督教だけで4割程度の人間がいるわけですし流石に不要とは切り捨てられないですね
仏教に関しては『考え続ける者への教科書』でしょうか
生物がなぜ生きそして死んでいくのか、なぜ諸行無常であるのかに対する一定の解、いわゆる悟りと無を提示しているのが仏教であると考えています
これに関して反論する人は仏教徒でなくともたどり着ける人はいるでしょうが仏教が最も判りやすく、また多くの人が早くたどり着けるのが仏教であると思っています。アヒンサー自体努力目標であるとも聞いていますし
なので一人でも多くの人が悟りへと辿り着くために仏教は必要であると考えています
基督教に関しては『人間の和解の書』でしょうか
アガペーと呼ぶ肉体的でない愛の形や汝の隣人を愛せや右の頬をぶたれたら・・・と言う格言、またイエス・キリストをはじめとする聖人の自己犠牲による多くへの救済に見られる今争っている人間を和解に導く、絶対的大多数を幸福にするものが基督教の基本であり原点であると考えます
肉体的快楽追求は多くの場合人と争わなければ手に入らないものですので基督教の戒めは他者と争わないために作られていると考えます
なのでこれに関しては性悪説側の意見になりますが多くの人がお互いを思いやるために基督教は必要であると考えます
ただ他の宗教に関しては不勉強なのでなんともいえませんが仏教、基督教だけで4割程度の人間がいるわけですし流石に不要とは切り捨てられないですね
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さあ、あなたの領地・諸侯・民衆を同期させましょう!
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さてこれを見たあなた、我らがスパゲッティ・モンスター教に入信しませんか?
我らが神はあらゆるドグマを否定しません!彼らの神は慈悲深いのです!ラーメン!
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>そのように対立をつくりだした上で、なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという、あなた自身のナラティブに表現されてしまっている根本的な傾向そのもの
まさにこれは後でおっしゃってるように、ある意味ゆずれない「信仰」なんでしょうね。そして当人はそのことを自覚していない。もしくは、なかば無意識に自覚を避けている。
たとえば自覚すること、「気付く」ことこそがもっとも当人にとって苦痛に満ちたことなのであり、眼をそらし続けることである種の疾病利得(失礼)を得ていたりすることもある ...のかどうかはともかく、“マインドフルネス” からだいぶん遠いことはたしかでしょうね。
そういえば、さっそくウ・ジョーティカ師の “Forgiveness”(というのもすばらしいタイトルですね)を読ませていただいたんですが、そのなかの一節、〈許さないことによって/ありとあらゆる人生の問題について/手軽に使える説明、もしくは口実が手に入るのです〉というフレーズは、自分にもグッサリ突き刺さりました。そして、〈許さないでいることは、ある種の牢獄です〉というのも、そうかもしれないなと。
〈なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという/根本的な傾向〉を持つ人にとって、他者との関係は、それぞれ自分が勝ったり負けたりしている差で現されるものでしかないのかもしれず、ある意味終わりのない争いのなかに身を置かざるを得ない。そこでいつ起こるかわからない自分への攻撃から身を守ろうとするとき、〈牢獄〉にいるのってじつは何かと都合がいいんじゃないかとも。牢獄に勝手に入ってくる人はあまりいないですからね(笑)。ただ、そこにpeace of mindはないんでしょうけど。
まさにこれは後でおっしゃってるように、ある意味ゆずれない「信仰」なんでしょうね。そして当人はそのことを自覚していない。もしくは、なかば無意識に自覚を避けている。
たとえば自覚すること、「気付く」ことこそがもっとも当人にとって苦痛に満ちたことなのであり、眼をそらし続けることである種の疾病利得(失礼)を得ていたりすることもある ...のかどうかはともかく、“マインドフルネス” からだいぶん遠いことはたしかでしょうね。
そういえば、さっそくウ・ジョーティカ師の “Forgiveness”(というのもすばらしいタイトルですね)を読ませていただいたんですが、そのなかの一節、〈許さないことによって/ありとあらゆる人生の問題について/手軽に使える説明、もしくは口実が手に入るのです〉というフレーズは、自分にもグッサリ突き刺さりました。そして、〈許さないでいることは、ある種の牢獄です〉というのも、そうかもしれないなと。
〈なんとしてでも他者を自分の考え方に同調させないと気が済まないという/根本的な傾向〉を持つ人にとって、他者との関係は、それぞれ自分が勝ったり負けたりしている差で現されるものでしかないのかもしれず、ある意味終わりのない争いのなかに身を置かざるを得ない。そこでいつ起こるかわからない自分への攻撃から身を守ろうとするとき、〈牢獄〉にいるのってじつは何かと都合がいいんじゃないかとも。牢獄に勝手に入ってくる人はあまりいないですからね(笑)。ただ、そこにpeace of mindはないんでしょうけど。
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おぎゃぁと生まれたその日から
宗教と密接した人生を送っている人がいるわけで
そういう人に対して、なんで、戦争や諍いを生む戦争を棄てないの?
と放言してしまうのは、配慮に欠く、無神経な発言ではあるのかなと
幸運なのか不幸なのか、宗教から切り離されて
個人の自由に委ねられている、という建前に生きて育った人からすると
宗教とともにある人生、そこにあるのが当たり前で手放すという選択肢すらない人生
ってのが理解できないんじゃないのかなぁ
異質な他者への共感ができない、身の回りの範囲の価値観がすべてで
まぁ、それは向こう側の人でも同じなのかもしれないですけど
どうも”宗教”というと神は絶対でそれを否定することは許さない
”狂信者”なイメージしか持ててないってのは困っちゃうな
神様やら教団や戒律と距離を持って生きている人もいるし
現代風に解釈をして生活している人もいる、そんな当たり前のことすら知らないで
ただひたすらに怖いもの、頭が悪いものだと決めかかってる態度
自分が科学だのイデオロギー、思想で安定してるからと
他の人から宗教を奪ってそれを与えれば安定するにちがいない、と
うかつにも思ってしまうのは人間としてダメだから止めておきなよ、とは言いたくもなるか
宗教と密接した人生を送っている人がいるわけで
そういう人に対して、なんで、戦争や諍いを生む戦争を棄てないの?
と放言してしまうのは、配慮に欠く、無神経な発言ではあるのかなと
幸運なのか不幸なのか、宗教から切り離されて
個人の自由に委ねられている、という建前に生きて育った人からすると
宗教とともにある人生、そこにあるのが当たり前で手放すという選択肢すらない人生
ってのが理解できないんじゃないのかなぁ
異質な他者への共感ができない、身の回りの範囲の価値観がすべてで
まぁ、それは向こう側の人でも同じなのかもしれないですけど
どうも”宗教”というと神は絶対でそれを否定することは許さない
”狂信者”なイメージしか持ててないってのは困っちゃうな
神様やら教団や戒律と距離を持って生きている人もいるし
現代風に解釈をして生活している人もいる、そんな当たり前のことすら知らないで
ただひたすらに怖いもの、頭が悪いものだと決めかかってる態度
自分が科学だのイデオロギー、思想で安定してるからと
他の人から宗教を奪ってそれを与えれば安定するにちがいない、と
うかつにも思ってしまうのは人間としてダメだから止めておきなよ、とは言いたくもなるか
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歴史を見る限り同じ人類同士に殺し合いを引き起こし続けてる宗教は、「必要ないと思う」とかじゃなく、"不健全"だから消えてなくなるべきだと思います。
数少ない食べ物を取り合ってる訳でもないのに同じ種族で殺し合ってるという異常事体なんだから「必要な人も居る」とか言ってる場合じゃない、神なんて信仰は不健全な事だと人類全体が自覚し賢くならなきゃいけないはずです。何かを信じるって?自分を信じてろ。神だかそれに準ずる偉そうな他人だかを信じてなきゃ気が済まないなんて、いつまでもそんな主体性の無い情けない人達ばかりでは困ります。
まあインターネットの登場により、今まで情報というのは一部の権力者しか発信出来なかったのが、このようにもうほんと誰でも発信し閲覧出来るようになり電気信号に変換できる物なら瞬きよりも早く地球の裏側まで届くようになった今日、人類全体の知識の向上により宗教なんてものの事実上の消滅は時間の問題だと確信してます。
数少ない食べ物を取り合ってる訳でもないのに同じ種族で殺し合ってるという異常事体なんだから「必要な人も居る」とか言ってる場合じゃない、神なんて信仰は不健全な事だと人類全体が自覚し賢くならなきゃいけないはずです。何かを信じるって?自分を信じてろ。神だかそれに準ずる偉そうな他人だかを信じてなきゃ気が済まないなんて、いつまでもそんな主体性の無い情けない人達ばかりでは困ります。
まあインターネットの登場により、今まで情報というのは一部の権力者しか発信出来なかったのが、このようにもうほんと誰でも発信し閲覧出来るようになり電気信号に変換できる物なら瞬きよりも早く地球の裏側まで届くようになった今日、人類全体の知識の向上により宗教なんてものの事実上の消滅は時間の問題だと確信してます。
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この意見が正しいとすれば全ての行動を無根拠と切り捨てる事が出来るだろう
利害によって契約された物を守ろうが、その利益自体が無根拠な価値と言えるし
ただこれがそもそも正しいのかは俺は馬鹿だから分からないが、少なくともこの考えを広めるという事は争いを無くす所か、更に活性化させかねない危険思想の可能性も多いにあるけど
今現在多数派によって保たれている秩序は、昔に比べたら少数の人間によって壊す事なんていとも簡単になった訳だし
目の前で核発射スイッチを押そうとしている人間を止める事も、信仰している宗教を押しつける一つの争い
こんな事を話しているのも又、誰しもが形は違えど「信仰」を持っているから自覚すべきという自分の意見である「信仰」という「無根拠な価値」がそうさせているのか
俺は、多数の人間が無自覚なまま生きていく事が俺個人の「無根拠な価値」を高めると「信仰」しているから受け入れるつもりは毛頭無いな
ちょっと言葉遊びが過ぎたわ
利害によって契約された物を守ろうが、その利益自体が無根拠な価値と言えるし
ただこれがそもそも正しいのかは俺は馬鹿だから分からないが、少なくともこの考えを広めるという事は争いを無くす所か、更に活性化させかねない危険思想の可能性も多いにあるけど
今現在多数派によって保たれている秩序は、昔に比べたら少数の人間によって壊す事なんていとも簡単になった訳だし
目の前で核発射スイッチを押そうとしている人間を止める事も、信仰している宗教を押しつける一つの争い
こんな事を話しているのも又、誰しもが形は違えど「信仰」を持っているから自覚すべきという自分の意見である「信仰」という「無根拠な価値」がそうさせているのか
俺は、多数の人間が無自覚なまま生きていく事が俺個人の「無根拠な価値」を高めると「信仰」しているから受け入れるつもりは毛頭無いな
ちょっと言葉遊びが過ぎたわ
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つくづく思うに宗教=まっとうな人で、無宗教=野蛮人だと思う
中世ヨーロッパみたいな考えだけども、昔の日本でも教養とかあるのは宗教人で宗教を否定する輩はお話にならぬ方向を向いてた
モーセが十戒を授かったとき、民は金の子牛の前で馬鹿踊りをやってた、そのときと今も何も変わってないと思う
20世紀を振り返るに共産主義者がやったことを野蛮と言わずに何というべきか?しかも彼らが担ぎあげた思想は
やればやるほど悪くなるマルクス主義、そういう状況は実際今も昔も一緒で未来もそうなのだと思う
無宗教は野蛮人、ただ彼ら自身はマルクスの亡霊(いや悪霊か)とかに囚われててまったく気づいてない
それは大昔も昔も今も一緒なのだと思う
中世ヨーロッパみたいな考えだけども、昔の日本でも教養とかあるのは宗教人で宗教を否定する輩はお話にならぬ方向を向いてた
モーセが十戒を授かったとき、民は金の子牛の前で馬鹿踊りをやってた、そのときと今も何も変わってないと思う
20世紀を振り返るに共産主義者がやったことを野蛮と言わずに何というべきか?しかも彼らが担ぎあげた思想は
やればやるほど悪くなるマルクス主義、そういう状況は実際今も昔も一緒で未来もそうなのだと思う
無宗教は野蛮人、ただ彼ら自身はマルクスの亡霊(いや悪霊か)とかに囚われててまったく気づいてない
それは大昔も昔も今も一緒なのだと思う
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個人的には不必要論唱える側なら本文にあるような声が大きくて目立つだけの極々単純に他人の価値観土足で踏み荒そうとするって類の人間よりも自分の中で作り上げた「宗教」って名前の宗教像を前提にものを語るようなタイプの方が苦手だわ
こうでああで、だから、のこうでああでの部分が単なる一宗派の一教義だったりカルト新興も混ざってたりでそれで当人はそれを「宗教」を否定する材料足り得てるように展開してて何かむず痒さが半端ない
マスコミが取り上げるオタク像を目にした時とかと似た感じ
個々限定的に見ればそれぞれはそう間違いでは無いんだけどそれでもってそういうものとして括る事への違和感みたいなものが本当にむずむずする
偏ってる事にさえ気付いてない理不尽さ的な
むず痒いってだけでどうともないんだけど
何かね
こうでああで、だから、のこうでああでの部分が単なる一宗派の一教義だったりカルト新興も混ざってたりでそれで当人はそれを「宗教」を否定する材料足り得てるように展開してて何かむず痒さが半端ない
マスコミが取り上げるオタク像を目にした時とかと似た感じ
個々限定的に見ればそれぞれはそう間違いでは無いんだけどそれでもってそういうものとして括る事への違和感みたいなものが本当にむずむずする
偏ってる事にさえ気付いてない理不尽さ的な
むず痒いってだけでどうともないんだけど
何かね
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宗教ってもっとさ、シンプルに考えるべきじゃないのかねっていつも思う
人間が感じる根本的なことって世界中ほとんど変わらんと思うのよ
例えば人が亡くなったら弔ってあげたいよね
赤ちゃんが生まれれば喜ぶし、作物が採れれば太陽とか雨に感謝するみたいな
原始宗教って言うかさ、太古の昔から人が抱いてきた感情が社会通念になってルールとかモラルが作られてきた訳でしょ
どんな宗教でもそこが原点だと思うんだよね 昔は宗教=道徳みたいなもんだったと思うしさ
俺は普通の一般人だからさ、一応仏教徒だけど宗教には人並みに葬式とか法事に出てお盆とか彼岸には墓参り行ってくらいの関わりしかない
当然正月は初詣行くしクリスマスにはケーキ食うしねw
俺には神様がいるのかどうかはわからないけどさ、少なくとも会ったことないし声を聴いたこともないよ
だから多分いると思う人の中にはいるし、いないと思う人の中にはいない そんくらいの認識
だけど俺は神様って呼ばれてるのは人の良心のことだと思うんだよね だから必ずしもその名前が神様である必要はないって考えてる
感謝したり労わったり慈しんだり そういう心が神様って呼ばれるモノなんじゃないのかね?
大抵さ、どの宗教でも悪いことすんなって教えがあるよね
でもそれって神様の教えだから守らなきゃいけないの?
そうじゃなくて神様に言われなくても人として守ろうよって話しじゃない?
俺は神様に感謝するのは良いことだと思う 神様にじゃなくても誰かに感謝するって大事なことだしね
でも信仰って言葉を出して神様をダシに使っちゃダメよ 神様への感謝と願いくらいまでが信仰だと思う
例えば「神様が○○教以外の宗教は異端だから改宗させろって言ってる」ここまで行っちゃうとダメだね
神様は言わねーよそんなことw 独裁者じゃあるまいしw 世界征服したい神様はRPGだけで十分ですw
まともに考えれば人がやることは人が責任取るべきだよね 神様自らやってるわけじゃないしさ
神様に責任擦り付けちゃダメ 勝手なこと言って神様に迷惑かけんなと言いたい
それとさ、なんにも悪いことしてなくても不運な事故で亡くなったり絶望のドン底で苦しい思いをして亡くなる人もいるよね
悪いことしまくっててものうのうと生きてるのもいる でもそれって神様のせいでそうなってる訳じゃないでしょ?
神様はわざわざ人を殺そうなんて思ってないよ それがどんなに悪人でもさ
だって人を傷付けるのは良くないことだもん これも「神は私を見捨てたのか」って思っちゃダメだと思うんだよね
まぁ悪いことしてたらバチ当たるのかもしれないけど、少なくとも悪いことしてない人間を不幸にすることはない
そういう意地の悪いことしないから神様なんだよ だから悪いことしてないのに不幸な目にあったなら運がなかったとしか言いようがない
生きている以上完璧に不幸から逃れる術はないからさ 生きてりゃ良いことも悪いことも起きるわな
で、そういう辛くてどうしても耐えられないような時は、今まで関心のなかった人でも宗教に縋ってもいいと思う
でも1番大切にするべきなのは人間であって神様じゃないと俺は思うよ
自分を直接助けてくれるのは神様じゃなくて必ず人間だからね
人間社会で起きることは全部人間の行いによって起きるってことを忘れない方がいいんじゃないかな
そこに神様の行いは直接関与しないでしょ 影も形も見えない神様の行いなんて誰も確認できないからさ
めっちゃ長くなっちゃったけど、どんな宗教の教えでも根本にあるのは人としての良心ってことが言いたかったんだ
そしてそれは毛皮着て槍持ってマンモス追っかけてた頃からすでに人間が持ってたモノでしょってこと
その時点で後に宗教になる根本的な部分は完成してたんだと思うんだよね
んでそれは何も神様を信じてるから生まれるモノではない 無神論者にだって良心はあるからね
人間の根本にあるモノはみんな同じなんだからさ、争ってないで人間は(俺も含めて)いい加減もう一度原点を見直そうよって思う
良心ってモノについてちょっと自分に問い掛けるだけで、悟り開く必要も聖人になる必要もないことだしね
全く収拾ついてないクソ駄文だったけど、もしここまで読んでくれた人がいたならありがとう
つまんなくて読んだ時間無駄にさせちゃってたらごめんねw
人間が感じる根本的なことって世界中ほとんど変わらんと思うのよ
例えば人が亡くなったら弔ってあげたいよね
赤ちゃんが生まれれば喜ぶし、作物が採れれば太陽とか雨に感謝するみたいな
原始宗教って言うかさ、太古の昔から人が抱いてきた感情が社会通念になってルールとかモラルが作られてきた訳でしょ
どんな宗教でもそこが原点だと思うんだよね 昔は宗教=道徳みたいなもんだったと思うしさ
俺は普通の一般人だからさ、一応仏教徒だけど宗教には人並みに葬式とか法事に出てお盆とか彼岸には墓参り行ってくらいの関わりしかない
当然正月は初詣行くしクリスマスにはケーキ食うしねw
俺には神様がいるのかどうかはわからないけどさ、少なくとも会ったことないし声を聴いたこともないよ
だから多分いると思う人の中にはいるし、いないと思う人の中にはいない そんくらいの認識
だけど俺は神様って呼ばれてるのは人の良心のことだと思うんだよね だから必ずしもその名前が神様である必要はないって考えてる
感謝したり労わったり慈しんだり そういう心が神様って呼ばれるモノなんじゃないのかね?
大抵さ、どの宗教でも悪いことすんなって教えがあるよね
でもそれって神様の教えだから守らなきゃいけないの?
そうじゃなくて神様に言われなくても人として守ろうよって話しじゃない?
俺は神様に感謝するのは良いことだと思う 神様にじゃなくても誰かに感謝するって大事なことだしね
でも信仰って言葉を出して神様をダシに使っちゃダメよ 神様への感謝と願いくらいまでが信仰だと思う
例えば「神様が○○教以外の宗教は異端だから改宗させろって言ってる」ここまで行っちゃうとダメだね
神様は言わねーよそんなことw 独裁者じゃあるまいしw 世界征服したい神様はRPGだけで十分ですw
まともに考えれば人がやることは人が責任取るべきだよね 神様自らやってるわけじゃないしさ
神様に責任擦り付けちゃダメ 勝手なこと言って神様に迷惑かけんなと言いたい
それとさ、なんにも悪いことしてなくても不運な事故で亡くなったり絶望のドン底で苦しい思いをして亡くなる人もいるよね
悪いことしまくっててものうのうと生きてるのもいる でもそれって神様のせいでそうなってる訳じゃないでしょ?
神様はわざわざ人を殺そうなんて思ってないよ それがどんなに悪人でもさ
だって人を傷付けるのは良くないことだもん これも「神は私を見捨てたのか」って思っちゃダメだと思うんだよね
まぁ悪いことしてたらバチ当たるのかもしれないけど、少なくとも悪いことしてない人間を不幸にすることはない
そういう意地の悪いことしないから神様なんだよ だから悪いことしてないのに不幸な目にあったなら運がなかったとしか言いようがない
生きている以上完璧に不幸から逃れる術はないからさ 生きてりゃ良いことも悪いことも起きるわな
で、そういう辛くてどうしても耐えられないような時は、今まで関心のなかった人でも宗教に縋ってもいいと思う
でも1番大切にするべきなのは人間であって神様じゃないと俺は思うよ
自分を直接助けてくれるのは神様じゃなくて必ず人間だからね
人間社会で起きることは全部人間の行いによって起きるってことを忘れない方がいいんじゃないかな
そこに神様の行いは直接関与しないでしょ 影も形も見えない神様の行いなんて誰も確認できないからさ
めっちゃ長くなっちゃったけど、どんな宗教の教えでも根本にあるのは人としての良心ってことが言いたかったんだ
そしてそれは毛皮着て槍持ってマンモス追っかけてた頃からすでに人間が持ってたモノでしょってこと
その時点で後に宗教になる根本的な部分は完成してたんだと思うんだよね
んでそれは何も神様を信じてるから生まれるモノではない 無神論者にだって良心はあるからね
人間の根本にあるモノはみんな同じなんだからさ、争ってないで人間は(俺も含めて)いい加減もう一度原点を見直そうよって思う
良心ってモノについてちょっと自分に問い掛けるだけで、悟り開く必要も聖人になる必要もないことだしね
全く収拾ついてないクソ駄文だったけど、もしここまで読んでくれた人がいたならありがとう
つまんなくて読んだ時間無駄にさせちゃってたらごめんねw
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まず歴史を見る限り、異なった宗教でも共存していた事例はあるので
宗教=殺し合い、なんてのはイメージにすぎないわけです
宗教を口実とした戦争や虐殺、争いもありますが
「”不健全”な宗教」を口実としない戦争も多数起きているのも
歴史を見ていれば分かるわけです
たとえば冷戦という戦争をしていますね
宗教が不健全であるから消えるべきと言うなら
共産主義や資本主義は消えてなくなるべきだ
イデオロギーを捨てるべき、とも言わなければフェアではないかな
そもそも宗教が不健全なのではなく
人間そのものが不健全である、ってのがより正しいと思われる
健全、不健全と分ける習性を持った人間の思考自体が不健全さそのもの、という見方もできるか
>数少ない食べ物を取り合ってる訳でもないのに同じ種族で殺し合ってるという異常事体なんだから
少ない資源を取り合わない環境でも、人は他人と自分を比較します
比較して嫉妬して羨み、相手より優位に立とうとする、競争する
誰しも自分は劣っているとは思いたくない、自分こそがサル山のボスになりたいと願うわけです
それが実現するかどうかは分かりませんけどね
物質的に満たされていても、差がある限り人は争います
殺しあい競いあう異常事態が常態で、殺し合ってない事態がきっと人間としては異常だと思われます
そうであるならば、少し中二臭いですが
宗教は”不健全”と断言するなら、人間は争うものであるから”不健全”で消えるべき
とまで発展して言わなければズルい気もしますね
>「必要な人も居る」とか言ってる場合じゃない、神なんて信仰は不健全な事だと
>人類全体が自覚し賢くならなきゃいけないはずです。何かを信じるって?自分を信じてろ。
>神だかそれに準ずる偉そうな他人だかを信じてなきゃ気が済まないなんて、
>いつまでもそんな主体性の無い情けない人達ばかりでは困ります。
人類全体が自覚し賢くなる必要はたぶんないです
というか、自分が正しいと思ってるだけの同じ賢さにみんななれば良いのに
って考え自体がすでに争いを孕んでいますね
倫理的に問題のある、嫌な人間として言いますが
宗教を消して戦争がなくなればハッピーになる、なんて
無邪気な考えも疑っていくべきじゃないか?と
たとえばアフリカの恵まれない子どもを助けても
それが成長してアフリカの恵まれない大人になって
仕事もなく、たくさんの子どもを生み貧困を生むような間抜けな事態
Aをなくせば平和になって万事解決、なんて風に世界はできていません
BやCやDという不具合、もっとたくさんの問題が生じてAがなくなった後のバランスを取るだけで
きっとろくなことにならないで終わりますね、そんなに世界はシンプルにできてはいない
だから、宗教をなくせば戦争も争いもなくなってハッピーだからそうすべきだ、と言うのは
頭の中で考えるだけの、単なる戯れで済ませている分にはいいんですけどね
理想的な形で争いがなくなる世界っていうのは
自己と他者の境界がない、すべてが均質な、すべてが一つの世界ということになりますか
そういう世界は死んでいる世界で、たぶん賢さとは縁遠いものになるでしょう
忌み嫌っている宗教でもその境地を到達点としているところもありますね
自分はそういうのはゾッとして嫌ですけれど
自分自身は神、あるいはそれに準ずる存在であると
強力な主体性の個があふれた方が人がぶつかる事例も多くなると思いますが
そっちの方が争いが起こらないと言う人がいる、少し考えてみると
我を張り合う弱肉強食の世界になり、上位者が下位者を食い物にする秩序が生まれるだけですね
新しい個が誕生しその競争に参加しても争いが起こる
宗教では神という上位者を立てることによって
その神の下での平等という形での秩序ということになりますか
弱者に対しての救済を実現したり、強者の横暴にブレーキをかける
人間のすぐれた知恵として作用する部分もあります
あるいは法でも良いですけれど、そこでも上位者を立てている事のが多い、天皇やら神やらね
すべての人の同意として、上位の何かを立てず法を打ち立てるという事例もあるんでしょうけど
形で考えるにさほど変わってないような
>人類全体の知識の向上により宗教なんてものの事実上の消滅は時間の問題だと確信してます。
知識の向上があっても人間という生き物の宿命であるところの寿命が解決できない限り
宗教の消滅はないと思いますね
死んだら何にもない、そこでおしまいってのは
なかなか受け入れがたい考えでしょう、すべての人が強いわけではない
宗教=殺し合い、なんてのはイメージにすぎないわけです
宗教を口実とした戦争や虐殺、争いもありますが
「”不健全”な宗教」を口実としない戦争も多数起きているのも
歴史を見ていれば分かるわけです
たとえば冷戦という戦争をしていますね
宗教が不健全であるから消えるべきと言うなら
共産主義や資本主義は消えてなくなるべきだ
イデオロギーを捨てるべき、とも言わなければフェアではないかな
そもそも宗教が不健全なのではなく
人間そのものが不健全である、ってのがより正しいと思われる
健全、不健全と分ける習性を持った人間の思考自体が不健全さそのもの、という見方もできるか
>数少ない食べ物を取り合ってる訳でもないのに同じ種族で殺し合ってるという異常事体なんだから
少ない資源を取り合わない環境でも、人は他人と自分を比較します
比較して嫉妬して羨み、相手より優位に立とうとする、競争する
誰しも自分は劣っているとは思いたくない、自分こそがサル山のボスになりたいと願うわけです
それが実現するかどうかは分かりませんけどね
物質的に満たされていても、差がある限り人は争います
殺しあい競いあう異常事態が常態で、殺し合ってない事態がきっと人間としては異常だと思われます
そうであるならば、少し中二臭いですが
宗教は”不健全”と断言するなら、人間は争うものであるから”不健全”で消えるべき
とまで発展して言わなければズルい気もしますね
>「必要な人も居る」とか言ってる場合じゃない、神なんて信仰は不健全な事だと
>人類全体が自覚し賢くならなきゃいけないはずです。何かを信じるって?自分を信じてろ。
>神だかそれに準ずる偉そうな他人だかを信じてなきゃ気が済まないなんて、
>いつまでもそんな主体性の無い情けない人達ばかりでは困ります。
人類全体が自覚し賢くなる必要はたぶんないです
というか、自分が正しいと思ってるだけの同じ賢さにみんななれば良いのに
って考え自体がすでに争いを孕んでいますね
倫理的に問題のある、嫌な人間として言いますが
宗教を消して戦争がなくなればハッピーになる、なんて
無邪気な考えも疑っていくべきじゃないか?と
たとえばアフリカの恵まれない子どもを助けても
それが成長してアフリカの恵まれない大人になって
仕事もなく、たくさんの子どもを生み貧困を生むような間抜けな事態
Aをなくせば平和になって万事解決、なんて風に世界はできていません
BやCやDという不具合、もっとたくさんの問題が生じてAがなくなった後のバランスを取るだけで
きっとろくなことにならないで終わりますね、そんなに世界はシンプルにできてはいない
だから、宗教をなくせば戦争も争いもなくなってハッピーだからそうすべきだ、と言うのは
頭の中で考えるだけの、単なる戯れで済ませている分にはいいんですけどね
理想的な形で争いがなくなる世界っていうのは
自己と他者の境界がない、すべてが均質な、すべてが一つの世界ということになりますか
そういう世界は死んでいる世界で、たぶん賢さとは縁遠いものになるでしょう
忌み嫌っている宗教でもその境地を到達点としているところもありますね
自分はそういうのはゾッとして嫌ですけれど
自分自身は神、あるいはそれに準ずる存在であると
強力な主体性の個があふれた方が人がぶつかる事例も多くなると思いますが
そっちの方が争いが起こらないと言う人がいる、少し考えてみると
我を張り合う弱肉強食の世界になり、上位者が下位者を食い物にする秩序が生まれるだけですね
新しい個が誕生しその競争に参加しても争いが起こる
宗教では神という上位者を立てることによって
その神の下での平等という形での秩序ということになりますか
弱者に対しての救済を実現したり、強者の横暴にブレーキをかける
人間のすぐれた知恵として作用する部分もあります
あるいは法でも良いですけれど、そこでも上位者を立てている事のが多い、天皇やら神やらね
すべての人の同意として、上位の何かを立てず法を打ち立てるという事例もあるんでしょうけど
形で考えるにさほど変わってないような
>人類全体の知識の向上により宗教なんてものの事実上の消滅は時間の問題だと確信してます。
知識の向上があっても人間という生き物の宿命であるところの寿命が解決できない限り
宗教の消滅はないと思いますね
死んだら何にもない、そこでおしまいってのは
なかなか受け入れがたい考えでしょう、すべての人が強いわけではない
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こういう言い合いができるのが、豊かさを持ちえている日本人ですよねー>宗教がいらないかどうかの是非
日本は自然豊かな国土で、豊かでそのまま飲んでも病気とは無縁の水があり、食料生産に適した土地と気候がある。
そうした土地で過ごしているから、彼らが生み出した神様だって優しいものが多いし、七福神なんかがそうであるように「幸恵む」存在なわけで。
でも、ユダヤ教が生まれた環境はそうじゃない。厳しい環境も多く、それゆえに遊牧してた人も多い。農作に適した土地をめぐって昔から戦争も絶えなかった。(これは日本にも言えたことだけど)
だから神様は「現状の理不尽(=試練)を与えて人を試してるんだ」と解釈してるし、そういう価値観の延長で着ている。
仏教が広まったのも、やっぱり法然というカリスマが戦争で苦しむ人々に何かしてやれないか、と悩んだ末の「南無阿弥陀仏」と唱えて救う専修念仏があったればこそとはいえ、やっぱり人々が救いを求めていたからこそなんだ。
宗教というのは拠り所もないし、現状の理不尽の妥協案が思いつかない(そもそも存在しない)ときに、人に価値と連帯感を与えることが結局、最大目的。
それであるがゆえ、宗教には戦争抑止できる構造も、自分たち以外への保障を行う構造が一切ない。
そんな宗教が大きな化け物になり戦争要因にもなった過去がある以上、警戒するなというのが無理な話。
現在の僕らは豊かであるし、物の尺度というものに「科学」という一神教をもっている。
故に僕らはその考えに追従せず、空想上の存在を崇めているかつての宗教家たちに怪訝な顔をするのであって、宗教そのものを理解したくないわけじゃない。興味がないなら無視を決め込めばいいけど、現実にはそういった宗教からのデメリットを被ることが多くて、だから批判も起こる。
いわば科学教vsかつての宗教という構図が日本にはあって、それに無自覚であるがゆえに無宗教vs宗教家なんてことになってる。宗教家の人にもそのことは弁えてほしいとは思う。今は科学教こそ、多数派なのだから。
日本は自然豊かな国土で、豊かでそのまま飲んでも病気とは無縁の水があり、食料生産に適した土地と気候がある。
そうした土地で過ごしているから、彼らが生み出した神様だって優しいものが多いし、七福神なんかがそうであるように「幸恵む」存在なわけで。
でも、ユダヤ教が生まれた環境はそうじゃない。厳しい環境も多く、それゆえに遊牧してた人も多い。農作に適した土地をめぐって昔から戦争も絶えなかった。(これは日本にも言えたことだけど)
だから神様は「現状の理不尽(=試練)を与えて人を試してるんだ」と解釈してるし、そういう価値観の延長で着ている。
仏教が広まったのも、やっぱり法然というカリスマが戦争で苦しむ人々に何かしてやれないか、と悩んだ末の「南無阿弥陀仏」と唱えて救う専修念仏があったればこそとはいえ、やっぱり人々が救いを求めていたからこそなんだ。
宗教というのは拠り所もないし、現状の理不尽の妥協案が思いつかない(そもそも存在しない)ときに、人に価値と連帯感を与えることが結局、最大目的。
それであるがゆえ、宗教には戦争抑止できる構造も、自分たち以外への保障を行う構造が一切ない。
そんな宗教が大きな化け物になり戦争要因にもなった過去がある以上、警戒するなというのが無理な話。
現在の僕らは豊かであるし、物の尺度というものに「科学」という一神教をもっている。
故に僕らはその考えに追従せず、空想上の存在を崇めているかつての宗教家たちに怪訝な顔をするのであって、宗教そのものを理解したくないわけじゃない。興味がないなら無視を決め込めばいいけど、現実にはそういった宗教からのデメリットを被ることが多くて、だから批判も起こる。
いわば科学教vsかつての宗教という構図が日本にはあって、それに無自覚であるがゆえに無宗教vs宗教家なんてことになってる。宗教家の人にもそのことは弁えてほしいとは思う。今は科学教こそ、多数派なのだから。
×
幸せに生きるために特定の宗教が必要だと思うなら、他人に押しつけなければ何を信じても自由だけどね。
もともと宗教の生まれはコミュニティにおいてのルールみたいな意味合いもあるわけで。
たとえば童話の内容の多くが「子供への道徳的な教えor忠告」になっているのと同じで、宗教の多くは大人が共存するための教えとして生まれた。
ハッキリとした法整備がなされていなかった当時は、確かに必要だったんだと思うよ。
ただ国によって法律が定められ、宗教による行動の統制が必要なくなった今の世の中でも必要かどうかは疑問。
本来の役目を「法」に取って代わられた事によって存在意義を見失い、近年は争いの種になってばかりいるから。
宗教の原点を忘れなければ何も悪いことは起こらないはずなのに、皮肉だよね・・・
もともと宗教の生まれはコミュニティにおいてのルールみたいな意味合いもあるわけで。
たとえば童話の内容の多くが「子供への道徳的な教えor忠告」になっているのと同じで、宗教の多くは大人が共存するための教えとして生まれた。
ハッキリとした法整備がなされていなかった当時は、確かに必要だったんだと思うよ。
ただ国によって法律が定められ、宗教による行動の統制が必要なくなった今の世の中でも必要かどうかは疑問。
本来の役目を「法」に取って代わられた事によって存在意義を見失い、近年は争いの種になってばかりいるから。
宗教の原点を忘れなければ何も悪いことは起こらないはずなのに、皮肉だよね・・・
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昔は法律や警察機能が整備されていなくて
宗教が法律の肩代わりをしていた所があるんですわ。
だから宗教って「地獄に落ちる」とか脅迫めいてるでしょ?
そして今でも法律や警察機能が整備されていない国は宗教に依存するしかないのです。
つまり逆に言うと、高度経済成長により法律や警察機能が整備された国では
宗教は不要になるんですわ。
その最先端を行ってるのが日本って訳です。
残念ながら今の日本で言うところの宗教は
お金儲けの手段でしかないのです。新旧関係なくね。
信教の自由が法律によって保障されているので、信じる信じないは勝手なのですが
興味の無い人にさぞかし存在するように語るのは
勘弁して頂きたいですね。
宗教が法律の肩代わりをしていた所があるんですわ。
だから宗教って「地獄に落ちる」とか脅迫めいてるでしょ?
そして今でも法律や警察機能が整備されていない国は宗教に依存するしかないのです。
つまり逆に言うと、高度経済成長により法律や警察機能が整備された国では
宗教は不要になるんですわ。
その最先端を行ってるのが日本って訳です。
残念ながら今の日本で言うところの宗教は
お金儲けの手段でしかないのです。新旧関係なくね。
信教の自由が法律によって保障されているので、信じる信じないは勝手なのですが
興味の無い人にさぞかし存在するように語るのは
勘弁して頂きたいですね。
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成り立ちを知ってなぜ必要だったか理解すれば自ずとどうすべきか見えてくるけど、一定以上の教育を施せないと宗教って形のテンプレが手っ取り早い。
十分な知能と道徳の備わってない人間ばかりになれば、なんで人の物盗っちゃいけないの?殺しちゃいけないの?っていう想像すれば社会全体、延いては本人の身にどのような影響を及ぼすかすぐわかる事の、想像もつかない人たちが蔓延したとしても、恐怖心や欲求に抑止や方向転換を働かせる宗教の教えが手っ取り早い。
「どうして○○しちゃいけないの?」「神様の天罰が下るからよ」「わあ怖い、やらないでおこう」「なんで人に優しくするといいの?」「天国で酒池肉林の宴が待ってるのよ」「わあい、人の為に今日もがんばろう」これで話が済む。
だから、テンプレとして絶対であると教えたほうが手っ取り早い。
個人的には人生観そのものってより人の思想の補助輪のような物だと思ってます。
十分な知能と道徳の備わってない人間ばかりになれば、なんで人の物盗っちゃいけないの?殺しちゃいけないの?っていう想像すれば社会全体、延いては本人の身にどのような影響を及ぼすかすぐわかる事の、想像もつかない人たちが蔓延したとしても、恐怖心や欲求に抑止や方向転換を働かせる宗教の教えが手っ取り早い。
「どうして○○しちゃいけないの?」「神様の天罰が下るからよ」「わあ怖い、やらないでおこう」「なんで人に優しくするといいの?」「天国で酒池肉林の宴が待ってるのよ」「わあい、人の為に今日もがんばろう」これで話が済む。
だから、テンプレとして絶対であると教えたほうが手っ取り早い。
個人的には人生観そのものってより人の思想の補助輪のような物だと思ってます。
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> 高度経済成長により法律や警察機能が整備された国
> ...
> その最先端を行ってるのが日本って訳です。
法治国家を標榜しておきながら全くそれを達成出来ていないのに最先端とか笑わせる。
そもそもその後生大事にしている法体系自体が古代ギリシャ由来の哲学とキリスト教的思想の賜物だというのに。
>宗教は不要になるんですわ。
上記の理由で、その主張は仕送りもらって学費払ってもらってる大学生が独り立ちしていると主張しているのと同じだと。
大体司法システムとかいう議員さん達が好き勝手に変えられるようなものが行動規範足りえるんですか?
>社会全体、延いては本人の身にどのような影響を及ぼすかすぐわかる事
集団の中の善悪で物を見る価値観をもつ人はこのような意見をよくおっしゃるけど、例えば 1)自分の属する社会が社会が他の社会と対立した時 2)社会と自分個人(や家族など自分を含めた小さな共同体)が対立した時 3)周囲の社会がそもそも間違っている時 には、その規範では解を得られない。そもそもその考え自体が「社会と自分個人との協調がすなわち自らの幸福である」という信仰に基づいている。
無宗教を標榜するのは結構だけど、自らの行動規範や思想の根底にあるものを正しく説明できない人が、宗教のあり方そのものを批判するのは無意味だ。
> ...
> その最先端を行ってるのが日本って訳です。
法治国家を標榜しておきながら全くそれを達成出来ていないのに最先端とか笑わせる。
そもそもその後生大事にしている法体系自体が古代ギリシャ由来の哲学とキリスト教的思想の賜物だというのに。
>宗教は不要になるんですわ。
上記の理由で、その主張は仕送りもらって学費払ってもらってる大学生が独り立ちしていると主張しているのと同じだと。
大体司法システムとかいう議員さん達が好き勝手に変えられるようなものが行動規範足りえるんですか?
>社会全体、延いては本人の身にどのような影響を及ぼすかすぐわかる事
集団の中の善悪で物を見る価値観をもつ人はこのような意見をよくおっしゃるけど、例えば 1)自分の属する社会が社会が他の社会と対立した時 2)社会と自分個人(や家族など自分を含めた小さな共同体)が対立した時 3)周囲の社会がそもそも間違っている時 には、その規範では解を得られない。そもそもその考え自体が「社会と自分個人との協調がすなわち自らの幸福である」という信仰に基づいている。
無宗教を標榜するのは結構だけど、自らの行動規範や思想の根底にあるものを正しく説明できない人が、宗教のあり方そのものを批判するのは無意味だ。
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宗教なんて必要無いって人が宗教を理由に人を不幸にしたり殺したり事はほぼ無いけど、宗教にのめり込んでる人が宗教を理由に人を不幸にしたり殺したりする事は日常のように起こってるよね?
加えて、元々宗教ってホラ吹きの妄言とそれを利用して執政者が民衆をコントロールする為に生み出されたものだよね?
つまり宗教は「必要としている人がいる」ではなく「必要とされるよう仕向けられている人がいる」が正解。
実際、宗教を必要としていない人たちも、宗教なんて影も形も存在しない筈の野生動物も、極普通に生存できている。
「宗教を必要としている」とされる人達の「宗教を必要としている理由」は、必ず外的な要因なのだから、必ず取り除くことが出来る。
生存必需の水や空気とは違うのだから。
信仰なんてものは、その時その時で「信じてみっかなー」程度に思う、個人個人違う「何か」で良い。教義も経典も必要無い。土地も建物も関係無い。
神様なんてその場で作って次の日には忘れてる程度のもの。今日太陽の神様に祈って、次の日雨の神様に祈るもウェルカム。
もし宗教が存在するとしても、こんなずぼらでいい加減で低俗なので充分だよ。
加えて、元々宗教ってホラ吹きの妄言とそれを利用して執政者が民衆をコントロールする為に生み出されたものだよね?
つまり宗教は「必要としている人がいる」ではなく「必要とされるよう仕向けられている人がいる」が正解。
実際、宗教を必要としていない人たちも、宗教なんて影も形も存在しない筈の野生動物も、極普通に生存できている。
「宗教を必要としている」とされる人達の「宗教を必要としている理由」は、必ず外的な要因なのだから、必ず取り除くことが出来る。
生存必需の水や空気とは違うのだから。
信仰なんてものは、その時その時で「信じてみっかなー」程度に思う、個人個人違う「何か」で良い。教義も経典も必要無い。土地も建物も関係無い。
神様なんてその場で作って次の日には忘れてる程度のもの。今日太陽の神様に祈って、次の日雨の神様に祈るもウェルカム。
もし宗教が存在するとしても、こんなずぼらでいい加減で低俗なので充分だよ。
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いくつかコメント見てると「宗教」が指してるものがニー仏さんと記事閲覧者とでずれてる気がする。で、「宗教なんていらなかったんや!」的なことをコメントしてる人は記事でいってた「信仰を持たない人はいない」という主張を曲解しているか無視しているように思える。ニー仏さんのいう「宗教不要教」の人々はやはり一定の割合でここにもいるようだ。その内の何割かは同時に「科学の信徒」であることが少し悲しい。科学の理論体系が唯の一つも「信仰」を含んでいないと考えている人がどれだけいることやら。照明できない無根拠な前提をおかなければ理論が展開できないことも知らずに科学を「妄信」することはよくないことだと思う。冷静で有能な科学者ならむしろそのことに自覚的なはずで、逆に言えば、そういう風に考えてしまっている時点でその人は「科学教」の立派な信者に違いないのだから。
長文コメ汚ししてすみません。活発な議論を見てるとつい口をはさみたがる人の性をお許しくだされw
長文コメ汚ししてすみません。活発な議論を見てるとつい口をはさみたがる人の性をお許しくだされw
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日本でも、無神論者は金だったり、アイドルだったりを熱心に信仰している。
無趣味で無気力な人もいますが、人は基本的に自分が信じるものを何かしらやってるもの。
コロコロ変わる法律は正しいものでもないし、人々が幸せになれるものでもない。
人はいずれ死ぬもの。だったら死の世界を司る、完璧な存在を崇拝する気持ちになって当然ではあると思う。
が、その宗教も、法律同様に人間が作り、時代遅れになっているものがあるのも事実。
神がそもそも存在していないせいで、真理を自分勝手に解釈できてしまい、宗教が元で戦争になったり、テロになったりする問題もある。
そこで、無神論者や他宗教は批判するわけだけど、正しいものと洗脳されてしまっている人間は、宗教が自分の一部になってしまっているから、批判してもなかなか変われるものではない。
無趣味で無気力な人もいますが、人は基本的に自分が信じるものを何かしらやってるもの。
コロコロ変わる法律は正しいものでもないし、人々が幸せになれるものでもない。
人はいずれ死ぬもの。だったら死の世界を司る、完璧な存在を崇拝する気持ちになって当然ではあると思う。
が、その宗教も、法律同様に人間が作り、時代遅れになっているものがあるのも事実。
神がそもそも存在していないせいで、真理を自分勝手に解釈できてしまい、宗教が元で戦争になったり、テロになったりする問題もある。
そこで、無神論者や他宗教は批判するわけだけど、正しいものと洗脳されてしまっている人間は、宗教が自分の一部になってしまっているから、批判してもなかなか変われるものではない。
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>>102
違うね。
人は何にも影響されずには生きることは出来ない。
そこで貴方がどんな思想に縛られ、どんな規範に従って考え、行動しているかということを問うているのが「貴方は何を信じていますか」という問だ。雨の神や天の神に祈るのは結構だが、貴方をその行動に動かす根底を記述しなさいと言っているのだ。
それを記述するのが宗教といったり哲学を名を付けられたりするものだ。
自分の『宗教』を自覚しているということは、自分が何に縛られているのかということに自覚的であり、それを御しようとしているということ。
凡その殺人者には相手を殺すに足る彼らなりの理由があり、その理由の根底にあるものは信仰と呼ばれるたぐいのものだ。
そしてそれに自覚的でないというのなら、その殺人者は最も蒙昧で哀れな人間の一人だということになるのだろう。自分が人の命を奪った理由さえ理解できていないのだから。
違うね。
人は何にも影響されずには生きることは出来ない。
そこで貴方がどんな思想に縛られ、どんな規範に従って考え、行動しているかということを問うているのが「貴方は何を信じていますか」という問だ。雨の神や天の神に祈るのは結構だが、貴方をその行動に動かす根底を記述しなさいと言っているのだ。
それを記述するのが宗教といったり哲学を名を付けられたりするものだ。
自分の『宗教』を自覚しているということは、自分が何に縛られているのかということに自覚的であり、それを御しようとしているということ。
凡その殺人者には相手を殺すに足る彼らなりの理由があり、その理由の根底にあるものは信仰と呼ばれるたぐいのものだ。
そしてそれに自覚的でないというのなら、その殺人者は最も蒙昧で哀れな人間の一人だということになるのだろう。自分が人の命を奪った理由さえ理解できていないのだから。
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>>113
> 正しく説明出来なくていいし、無意味でいいんじゃない?
そう、善悪の話ではないから、貴方がそうであることは全く問題がない。
ただ、それは貴方が自分の『宗教』を自覚していないだけであり、宗教が必要かどうかといった類の議論に参加するだけの資質がないと一蹴される十分な理由になってしまう。議論の内容が理解できないだろうと思われるからね。
あとおせっかいを言わせてもらうと、自分の根底を理解していないということは、それに変化があった時に容易には気付けないということになる。>>109 のように自分の思想の『マニュアル』に無自覚で、それによって自分が『強い』と勘違いしている人間ほど周囲から容易にそれを書き換えることができる。そもそも自分が全く独自に考えだした思想なんてものが存在しない以上、必ず何かに影響されているわけだから、それをきちんと理解しておいたほうがよいのは自明だと思うけど。
> 正しく説明出来なくていいし、無意味でいいんじゃない?
そう、善悪の話ではないから、貴方がそうであることは全く問題がない。
ただ、それは貴方が自分の『宗教』を自覚していないだけであり、宗教が必要かどうかといった類の議論に参加するだけの資質がないと一蹴される十分な理由になってしまう。議論の内容が理解できないだろうと思われるからね。
あとおせっかいを言わせてもらうと、自分の根底を理解していないということは、それに変化があった時に容易には気付けないということになる。>>109 のように自分の思想の『マニュアル』に無自覚で、それによって自分が『強い』と勘違いしている人間ほど周囲から容易にそれを書き換えることができる。そもそも自分が全く独自に考えだした思想なんてものが存在しない以上、必ず何かに影響されているわけだから、それをきちんと理解しておいたほうがよいのは自明だと思うけど。
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神が居るなら一つだけ望むかな。
宗教が原因で起きる戦争、テロ、差別、拷問、虐待、偏見、搾取、格差、錯覚、盲信、偏向教育が無くなり、
色々苦しんだり、泣いたりしてる人が今ココで幸せになるように。
中東の女性器切除や、インドでの女性の顔に強酸をかけて溶かす事件とか。一生のトラウマレベルの事件だった。(心が強靭じゃないなら多分見ない方が良い…)
やっちゃいけない事ってあるだろ…、 あげく被害者女性の方が差別や非難されるとか…。
男女の格差が政治や宗教のお墨付きな所だとこう言う事件が多い気がする。
男女平等や偏見のない社会を望むのも宗教って言うならそれで良い。 自由で誰も泣かないならそれで良い。
宗教が原因で起きる戦争、テロ、差別、拷問、虐待、偏見、搾取、格差、錯覚、盲信、偏向教育が無くなり、
色々苦しんだり、泣いたりしてる人が今ココで幸せになるように。
中東の女性器切除や、インドでの女性の顔に強酸をかけて溶かす事件とか。一生のトラウマレベルの事件だった。(心が強靭じゃないなら多分見ない方が良い…)
やっちゃいけない事ってあるだろ…、 あげく被害者女性の方が差別や非難されるとか…。
男女の格差が政治や宗教のお墨付きな所だとこう言う事件が多い気がする。
男女平等や偏見のない社会を望むのも宗教って言うならそれで良い。 自由で誰も泣かないならそれで良い。
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>>120
いや、「個人が持っている信念」と貴方が形容しているものが宗教そのものである以上、「宗教が不要である」というのはどうなの?ということだろう。
そもそもその信念というのは全くのオリジナルというものは存在しえなくて、誰しもが必ずいずれかの『信念』のグループに自覚的であるにしろ無自覚的であるにしろ所属しているので、「やたら広範囲で信じられてしまう」ことを回避するのは不可能。
それできっと貴方が言いたいのは「組織宗教」の有意性についてであると感じるけども、これはこの記事の意図している所ではない。それについて論ずるのならば、個々の組織について「結果起こる問題」を考察する必要があるね。そうじゃないと戦争が起こるから国家体制というものは不要なんだというような暴論になってしまう。
いや、「個人が持っている信念」と貴方が形容しているものが宗教そのものである以上、「宗教が不要である」というのはどうなの?ということだろう。
そもそもその信念というのは全くのオリジナルというものは存在しえなくて、誰しもが必ずいずれかの『信念』のグループに自覚的であるにしろ無自覚的であるにしろ所属しているので、「やたら広範囲で信じられてしまう」ことを回避するのは不可能。
それできっと貴方が言いたいのは「組織宗教」の有意性についてであると感じるけども、これはこの記事の意図している所ではない。それについて論ずるのならば、個々の組織について「結果起こる問題」を考察する必要があるね。そうじゃないと戦争が起こるから国家体制というものは不要なんだというような暴論になってしまう。
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>>119
>ただ、それは貴方が自分の『宗教』を自覚していないだけであり、宗教が必要かどうかといった類の議論に参加するだけの資質がないと一蹴される十分な理由になってしまう。議論の内容が理解できないだろうと思われるからね。
自覚してる必要あるの?宗教なんてその辺にいくらでも転がってるんだし、それ見りゃいいじゃん?
一蹴されて何か問題あるん?させとけばいいじゃない。していいけどしたら怒るよ。怒らないけど。
>そもそも自分が全く独自に考えだした思想なんてものが存在しない以上、必ず何かに影響されているわけだから、それをきちんと理解しておいたほうがよいのは自明だと思うけど
「オムルカペペリッチェがバナナトルネードでマレメット」という事は、多分オイラ以外に考えてる人居ないんじゃないかな?知らないけど。
理解しなくていいんじゃない?理解してると思うけど理解してないのが理解してないことにはならないし。
>ただ、それは貴方が自分の『宗教』を自覚していないだけであり、宗教が必要かどうかといった類の議論に参加するだけの資質がないと一蹴される十分な理由になってしまう。議論の内容が理解できないだろうと思われるからね。
自覚してる必要あるの?宗教なんてその辺にいくらでも転がってるんだし、それ見りゃいいじゃん?
一蹴されて何か問題あるん?させとけばいいじゃない。していいけどしたら怒るよ。怒らないけど。
>そもそも自分が全く独自に考えだした思想なんてものが存在しない以上、必ず何かに影響されているわけだから、それをきちんと理解しておいたほうがよいのは自明だと思うけど
「オムルカペペリッチェがバナナトルネードでマレメット」という事は、多分オイラ以外に考えてる人居ないんじゃないかな?知らないけど。
理解しなくていいんじゃない?理解してると思うけど理解してないのが理解してないことにはならないし。
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>>130
これから先はほんとにタダのおせっかいやな…
> 自覚してる必要あるの?...
だから善悪の問題ではない。それは貴方の自由だ。ただ自分の宗教についても知らないのにどうして人の宗教の話を出来るのかと言う話。
>「オムルカペペリッチェが...
それが貴方の行動規範なのであればそれで結構。貴方はそれに従って住む場所を決め、何を学ぶか決め、働き先を決め、恋人を決め、人生を決めているということなのだろう。
しかし、その理由をマジメに順に辿って行くと、何かの思想に必ずぶち当たる。そういう作業をするかしないかは自由。でも傍から見ると人形師を知らずに踊っている操り人形のように見える。そういうおせっかい。
これから先はほんとにタダのおせっかいやな…
> 自覚してる必要あるの?...
だから善悪の問題ではない。それは貴方の自由だ。ただ自分の宗教についても知らないのにどうして人の宗教の話を出来るのかと言う話。
>「オムルカペペリッチェが...
それが貴方の行動規範なのであればそれで結構。貴方はそれに従って住む場所を決め、何を学ぶか決め、働き先を決め、恋人を決め、人生を決めているということなのだろう。
しかし、その理由をマジメに順に辿って行くと、何かの思想に必ずぶち当たる。そういう作業をするかしないかは自由。でも傍から見ると人形師を知らずに踊っている操り人形のように見える。そういうおせっかい。
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仏教徒でも親が○○寺の檀家だから引き継いだ~程度の信仰なら離壇してもいいのではないでしょうか
真剣に信仰してお墓参りもかかさない人やこれからそう言う人から教わって引きつぐ若い人の妨げになると思います
都会と田舎は事情が違うので都会の方は信じてもいない宗教を引き継ぐ必要はないです
田舎に残って長男として仏壇とお墓を護るつもりの人が先祖代々続いているお墓をまもるでしょう
宗教は確実に衰退してるけど今すぐ不要と考えるのはすこし乱暴な気がします
賢くなりすぎて純粋に宗教を信じる時代じゃなくなってるし
不景気な時代に出費を削る事を考えてまっ先にお金のかかる信じてもいない宗教が上がるでしょう
宗教家の人達は一生懸命考えてると思いますよ無宗教なんて嘯いてる次の世代が出て来てるんだから
真剣に信仰してお墓参りもかかさない人やこれからそう言う人から教わって引きつぐ若い人の妨げになると思います
都会と田舎は事情が違うので都会の方は信じてもいない宗教を引き継ぐ必要はないです
田舎に残って長男として仏壇とお墓を護るつもりの人が先祖代々続いているお墓をまもるでしょう
宗教は確実に衰退してるけど今すぐ不要と考えるのはすこし乱暴な気がします
賢くなりすぎて純粋に宗教を信じる時代じゃなくなってるし
不景気な時代に出費を削る事を考えてまっ先にお金のかかる信じてもいない宗教が上がるでしょう
宗教家の人達は一生懸命考えてると思いますよ無宗教なんて嘯いてる次の世代が出て来てるんだから
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俺はどの宗教も信じていないが、要不要を云々するアホにも解るように事実を述べよう。
まず、だれも「新興宗教」の話はしてない。民族のルーツである「宗教」の話をしてる。
そして「宗教」は役に立つ。これは歴史が証明している。いるかいらないか以前の話だ。
信心の助けがあって乗り越えられた飢饉や疫病や政治問題や移民問題は数多くある。
で、俺らは信心深い先人が織り成す世界に寝そべり「宗教いらない」って言ってる。
それが現実。偉そうでその実なにも知らない、何も持たない俺たちの真実だ。
無宗教?とんでもない。俺も大抵だが興味も学もないだけだろう。
それでも中身の無い文句を通したいのなら、パンや肉を喰わない方がいい。
あれらは大陸の農家が神に祈りつつ、こつこつと育てあげたものを原材料にしてる。
まず、だれも「新興宗教」の話はしてない。民族のルーツである「宗教」の話をしてる。
そして「宗教」は役に立つ。これは歴史が証明している。いるかいらないか以前の話だ。
信心の助けがあって乗り越えられた飢饉や疫病や政治問題や移民問題は数多くある。
で、俺らは信心深い先人が織り成す世界に寝そべり「宗教いらない」って言ってる。
それが現実。偉そうでその実なにも知らない、何も持たない俺たちの真実だ。
無宗教?とんでもない。俺も大抵だが興味も学もないだけだろう。
それでも中身の無い文句を通したいのなら、パンや肉を喰わない方がいい。
あれらは大陸の農家が神に祈りつつ、こつこつと育てあげたものを原材料にしてる。
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>>136
>自分の宗教についても知らないのにどうして人の宗教の話を出来るのかと言う話
自分の宗教を知らなくても人の宗教の話はできるじゃない。人の宗教の話をすればいいんだから。簡単じゃない
>それが貴方の行動規範なのであればそれで結構。貴方はそれに従って住む場所を決め、何を学ぶか決め、働き先を決め、恋人を決め、人生を決めているということなのだろう。
全然。
住む場所は住んでるから住んでるだけだし、何を学ぶかを決めるのはオイラだし、働き先は働かせて貰えてるから働いてるし、恋人はオイラが決めるもんであってオイラが決めるもんじゃないし、人生は決めてる訳じゃなくオイラが決めてるから決まってくれてるんだよ?
アレは一切関係ない。
>傍から見ると人形師を知らずに踊っている操り人形のように見える
それって何か問題あるん?
操り人形って、操る人がいないから操り人形であって、操る人がいたら操り人形じゃないのもでしょ?
人形師が居ようが居まいが変わんないじゃない。
>自分の宗教についても知らないのにどうして人の宗教の話を出来るのかと言う話
自分の宗教を知らなくても人の宗教の話はできるじゃない。人の宗教の話をすればいいんだから。簡単じゃない
>それが貴方の行動規範なのであればそれで結構。貴方はそれに従って住む場所を決め、何を学ぶか決め、働き先を決め、恋人を決め、人生を決めているということなのだろう。
全然。
住む場所は住んでるから住んでるだけだし、何を学ぶかを決めるのはオイラだし、働き先は働かせて貰えてるから働いてるし、恋人はオイラが決めるもんであってオイラが決めるもんじゃないし、人生は決めてる訳じゃなくオイラが決めてるから決まってくれてるんだよ?
アレは一切関係ない。
>傍から見ると人形師を知らずに踊っている操り人形のように見える
それって何か問題あるん?
操り人形って、操る人がいないから操り人形であって、操る人がいたら操り人形じゃないのもでしょ?
人形師が居ようが居まいが変わんないじゃない。
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>>139
>偉そうでその実なにも知らない、何も持たない俺たちの真実だ
それで何か問題あるん?
知ってようが知るまいが、別に死にゃしないっしょ。誰か殺す事にもならんだろし。
>それでも中身の無い文句を通したいのなら、パンや肉を喰わない方がいい。
あれらは大陸の農家が神に祈りつつ、こつこつと育てあげたものを原材料にしてる。
いや、起源がどうとか神がどうとか関係ないんじゃない?
そこにそれがあって、それを手にする事が出来るなら、そっから先は個人の思うままにすりゃいい事じゃない?
ただ、「過去あれこれ云々あったんだから先人のそれをありがたがれ」とか「神を信じ、信仰を持った人がいたから今が有る」とか「神の奇跡を思い信仰しなさい」って前面に出して押し付けんといてくれんかって話で。
自分の知ること知ってれば充分じゃねって話。知ってること知らなくてももちろん良いし、知らないこと知ってても無問題だけど。
>偉そうでその実なにも知らない、何も持たない俺たちの真実だ
それで何か問題あるん?
知ってようが知るまいが、別に死にゃしないっしょ。誰か殺す事にもならんだろし。
>それでも中身の無い文句を通したいのなら、パンや肉を喰わない方がいい。
あれらは大陸の農家が神に祈りつつ、こつこつと育てあげたものを原材料にしてる。
いや、起源がどうとか神がどうとか関係ないんじゃない?
そこにそれがあって、それを手にする事が出来るなら、そっから先は個人の思うままにすりゃいい事じゃない?
ただ、「過去あれこれ云々あったんだから先人のそれをありがたがれ」とか「神を信じ、信仰を持った人がいたから今が有る」とか「神の奇跡を思い信仰しなさい」って前面に出して押し付けんといてくれんかって話で。
自分の知ること知ってれば充分じゃねって話。知ってること知らなくてももちろん良いし、知らないこと知ってても無問題だけど。
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ある意味無教徒と思っている人が一番いろんな宗教の影響を受けて生きていることが多いと思います。一見無関心、無関係の体を装い、高見の見物が如く何かに対して語る人ほど要注意だと私は考えています。日本に日本人として生を受けたからには、日本にある宗教となんらかかわらずに生きていけるほうが不自然でありおかしい話ではないでしょうか(宗教は人間の歴史にイコールできるほど古くから人間の考えとしてありますから)。よって「自分はどんな宗教も信じない、影響を受けない」といけしゃあしゃあと言ってのける人の傲慢さを私は感じてしまう。
ちなみに私は仏教の教えを一番尊敬しています。
それが危険なのかどうかはわかりかねますが、すくなくとも他人が尊敬、崇拝している高貴なものを「どうでもいい」といういわれ方をして、気持ちいい人はいないですね。やり方はどうであれ、多分そう主さんの文章がそうとられてしまうような書き方に、叩く人は感じてしまって、批判されたのかも。
とかいってるこの私の物言いもある意味では無教徒という「宗教」に属する方の癇に障っているのでしょう。
ちなみに私は仏教の教えを一番尊敬しています。
それが危険なのかどうかはわかりかねますが、すくなくとも他人が尊敬、崇拝している高貴なものを「どうでもいい」といういわれ方をして、気持ちいい人はいないですね。やり方はどうであれ、多分そう主さんの文章がそうとられてしまうような書き方に、叩く人は感じてしまって、批判されたのかも。
とかいってるこの私の物言いもある意味では無教徒という「宗教」に属する方の癇に障っているのでしょう。
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僕は不要というより宗教のあり方に疑問を抱く。
これはアメリカなどの刑務所でキリスト教徒が熱心に祈っているのを見てからだ。
こいつらは殺人という罪を犯してキリスト教の教えに反しているのにも関わらず、なぜ宗教に固執するのか?それは冒涜ではないか?
もし教徒が、その教え通りに生きているなら僕はそのような生き方も肯定できる。
しかし、現実は全く違うわけで、一体なんのために宗教はあるのか?
もし、教えに反する行為をするなら、その宗教を捨てる覚悟が必要なのではないか?
結局、宗教なんていうのは個人に都合のいい思い込みに過ぎない。
宗教を馬鹿にすると怒るらしいが、じゃあ何故罪を犯すのか刑務所の人間に聞いてみたいものである。
その結果は神は全て許してくれるなどと都合のいいことを言うらしいので、やっぱり日本人には理解できない精神なんだと悟った。
これはアメリカなどの刑務所でキリスト教徒が熱心に祈っているのを見てからだ。
こいつらは殺人という罪を犯してキリスト教の教えに反しているのにも関わらず、なぜ宗教に固執するのか?それは冒涜ではないか?
もし教徒が、その教え通りに生きているなら僕はそのような生き方も肯定できる。
しかし、現実は全く違うわけで、一体なんのために宗教はあるのか?
もし、教えに反する行為をするなら、その宗教を捨てる覚悟が必要なのではないか?
結局、宗教なんていうのは個人に都合のいい思い込みに過ぎない。
宗教を馬鹿にすると怒るらしいが、じゃあ何故罪を犯すのか刑務所の人間に聞いてみたいものである。
その結果は神は全て許してくれるなどと都合のいいことを言うらしいので、やっぱり日本人には理解できない精神なんだと悟った。
×
自分としては、宗教云々よりも、それを使って他の信仰を貶めたり、真実を偽って悪行を行ったり、神の意思のためという理屈で殺人・戦争を正当化させる事が気に食わないです。(異教徒狩りや魔女裁判、エルサレムにおける宗教戦争とか、少し異なりますが韓国の歴史改竄・捏造もある意味では宗教染みてます)
どれを信仰するかは個人の自由ではありますが、それらを使って偽りの歴史を生み出したり、私服を肥やす者が存在する限り、宗教不要論に対する答えは出ないと思っています。
ちなみに、個人的には他者に迷惑をかけないのであれば宗教が存在しても構わないとは思っています。ただ、一神教のあり方と歴史には疑問は持ちますが・・・
どれを信仰するかは個人の自由ではありますが、それらを使って偽りの歴史を生み出したり、私服を肥やす者が存在する限り、宗教不要論に対する答えは出ないと思っています。
ちなみに、個人的には他者に迷惑をかけないのであれば宗教が存在しても構わないとは思っています。ただ、一神教のあり方と歴史には疑問は持ちますが・・・
×
>>54で書き忘れたが、信仰自体について他人に強要する気はさらさら無い
ただ、社会に大きく関わっているのは明白で、言ってみれば法事が既に価値観の押しつけだしお前は関わるなと言われても生きている以上無理な話だと思う
個人的に一番問題だと思ってるのは、特別な物じゃない「信仰」は人それぞれあるものと言いながら、公然と法律で特別に守られている事
これは本来守ってる法律の方の問題なんだろうが、それもこれも力を持った宗教家がを特別視しろと迫っているか、宗教というのは隠れ蓑として最適だからと考えられる
他の集団と比べ突出して無教養な人間を集める事や、洗脳に近い事が合法で出来るからそういう体質になりやすい。布教自体個人が持っていた利害を教義に反するとして塗り替えていく訳だから、「無根拠な価値」を選ぶのにいとも簡単に他人が誘導できる現状において無信仰教よりも危険性が高い
それらの事を考えると、「組織」として成立させておくには不健全で欠陥があるってことだろう
ただ、社会に大きく関わっているのは明白で、言ってみれば法事が既に価値観の押しつけだしお前は関わるなと言われても生きている以上無理な話だと思う
個人的に一番問題だと思ってるのは、特別な物じゃない「信仰」は人それぞれあるものと言いながら、公然と法律で特別に守られている事
これは本来守ってる法律の方の問題なんだろうが、それもこれも力を持った宗教家がを特別視しろと迫っているか、宗教というのは隠れ蓑として最適だからと考えられる
他の集団と比べ突出して無教養な人間を集める事や、洗脳に近い事が合法で出来るからそういう体質になりやすい。布教自体個人が持っていた利害を教義に反するとして塗り替えていく訳だから、「無根拠な価値」を選ぶのにいとも簡単に他人が誘導できる現状において無信仰教よりも危険性が高い
それらの事を考えると、「組織」として成立させておくには不健全で欠陥があるってことだろう
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>>163
常識が何を規範にしているのか、そんな歴史的な、もしくは哲学的な問いに答えられるほどの頭は持っていませんが、少なくとも、死者をなぜ火葬し、埋葬しなければならないのか、この問いについて、無神論者の人はこう答えると思います。
「世間体や条例によって定められているから」
冷たいようですが、突き詰めればそれが結論です。
情の深い人であるならば「家族や友人との別れを惜しむため」と答える人もいるでしょう。
火葬せずに死体を土に埋めることが許可されていてなおかつ、それを行う労力を必要とせず、世間体を気にする必要もないならば、葬儀の費用や労力を惜しみ、そのまま土に埋める人というのは少なからず存在するはずです。
お盆が終わっても雑草が伸び放題、花は枯れ、小汚いお墓があったりしますよね。そういう人たちは、はたして宗教を信仰しているといえるのでしょうか?
あなたが思っている以上に、宗教への価値を見出せていない人というのは結構いるものだと思いますよ。その人たちは宗教を信じてもいないし、仰ぎ教えを請うているわけでもありません。
常識が何を規範にしているのか、そんな歴史的な、もしくは哲学的な問いに答えられるほどの頭は持っていませんが、少なくとも、死者をなぜ火葬し、埋葬しなければならないのか、この問いについて、無神論者の人はこう答えると思います。
「世間体や条例によって定められているから」
冷たいようですが、突き詰めればそれが結論です。
情の深い人であるならば「家族や友人との別れを惜しむため」と答える人もいるでしょう。
火葬せずに死体を土に埋めることが許可されていてなおかつ、それを行う労力を必要とせず、世間体を気にする必要もないならば、葬儀の費用や労力を惜しみ、そのまま土に埋める人というのは少なからず存在するはずです。
お盆が終わっても雑草が伸び放題、花は枯れ、小汚いお墓があったりしますよね。そういう人たちは、はたして宗教を信仰しているといえるのでしょうか?
あなたが思っている以上に、宗教への価値を見出せていない人というのは結構いるものだと思いますよ。その人たちは宗教を信じてもいないし、仰ぎ教えを請うているわけでもありません。
×
宗教戦争とは常に「お前らの宗教は間違っている」から始まります
決して「私達の宗教は素晴らしい」から入ることはありません
信仰深い人間は他の宗教を信じられないかと言えば、そんなことはありません
「自分の中の神様は決して揺るがず全てに存在する」と心得ているため
「自分の神様」と「他人の神様」が存在することに不快感を感じません
では「お前らの宗教は間違っている」とは何か
それは「異質なものを受け入れられずに悪と断定する行為」です
常識から逸脱した人を悪と断定してしまうのと全く同じです
「異質で受け入れがたい」から、相手が何をしようが悪に見えてしまい
どれだけ学ぼうが、まず悪い面を優先的に捉えてしまい思考が停止します
そうして相手を完全に否定し続けるのが「宗教戦争」の本質です
「異質で受け入れがたいから、悪い面を優先的に捉えて思考が停止する」
これは現代日本の、他国への宗教観と全く同じではないのでしょうか?
キリスト教にユダヤ教にイスラム教全てが邪悪なものに見えるのは
「貴方が受け入れられないから」という単純な理由ではないのでしょうか?
日本は同じようなことを韓国から受けています、そしてそれを日本は
いらだたしく感じているでしょう、実は日本もまた同じ行為を
別の国にする可能性を孕んでいることを忘れてはいけません
忘れてしまったとき、日本は「宗教なき宗教戦争」へと突入してしまいます
決して「私達の宗教は素晴らしい」から入ることはありません
信仰深い人間は他の宗教を信じられないかと言えば、そんなことはありません
「自分の中の神様は決して揺るがず全てに存在する」と心得ているため
「自分の神様」と「他人の神様」が存在することに不快感を感じません
では「お前らの宗教は間違っている」とは何か
それは「異質なものを受け入れられずに悪と断定する行為」です
常識から逸脱した人を悪と断定してしまうのと全く同じです
「異質で受け入れがたい」から、相手が何をしようが悪に見えてしまい
どれだけ学ぼうが、まず悪い面を優先的に捉えてしまい思考が停止します
そうして相手を完全に否定し続けるのが「宗教戦争」の本質です
「異質で受け入れがたいから、悪い面を優先的に捉えて思考が停止する」
これは現代日本の、他国への宗教観と全く同じではないのでしょうか?
キリスト教にユダヤ教にイスラム教全てが邪悪なものに見えるのは
「貴方が受け入れられないから」という単純な理由ではないのでしょうか?
日本は同じようなことを韓国から受けています、そしてそれを日本は
いらだたしく感じているでしょう、実は日本もまた同じ行為を
別の国にする可能性を孕んでいることを忘れてはいけません
忘れてしまったとき、日本は「宗教なき宗教戦争」へと突入してしまいます
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>>157
宗教ってのは優等生の最初っからなにも間違いを犯さない人のためのものじゃ無い、きっとね
間違いを犯したり、失敗したり、ろくでもない人間が救いを求めるから宗教やら神が必要になるわけでね
罪を犯すからこそ、自分に課すべき戒律を守れないからこそ宗教が必要なんでしょう
病んでいるからこそ、医者や薬での治療が必要なのと同じように
病人に病んでるから、医者にかかるな、飲んでる薬を捨てろ、というのはマズい
自分は○○教の信徒であるって人が考える以上の戒律順守を
○○教の指導的な立場でも関係者でもない
ましてや神様でもない、無関係な人がそれを強いているってのは奇妙な話だ
冒涜と言うけれど、それを誰かがとやかく言うべきではないし言う資格もない
そのような言動、他者の自由を踏みにじる冒涜が行われないように
信教の自由って形で日本においては法整備されているわけだね
どうしても自分の信仰を誰かに課したい、強制したいというなら宗教でもおこすべきだろう
それでも信徒となった人があなたの考える戒律を守り、冒涜しないとは限らないわけですが
罪についての認識もちょっと違う気がしますね
罪ってのは今住んでいる共同体の法を犯したっていう狭い範囲での犯罪だけではなく
もっと人間が、人間として生きていく上で生じてしまう罪をも内包しているものだと思いますよ
たとえば、だいたいの人間が
良くないと知りつつも嘘をつき、生きるのに必要な以上に他の動物を殺している、間接的にもね
救いを求めている人がいるのを知っておきながら救おうともしない
刑務所にいるような人間と自分の方が上でまともだと自惚れる、などなどたくさんの罪がありますな
正しい人としてどうかしている、人間がこうありたいと願うところから逸脱した外道なわけです
刑務所にいる人間も罪人ではあるが、上記のことで言えば多くの人も十分に罪人です
本来ならば罰せられなければいけない、それを実行するのは神である、という人もいるでしょう
他人には厳しいくせに、自分の犯している冒涜は不問にしてしまう人でも
まともな人間であるならば、神がなくとも、信心がなくとも
自己にいる”良心の部分”が自分の罪を許さないと思うのですが、どうでしょう?
そういったどの人間が持つであろう”良心の部分”すらない人こそが
人間社会にとって脅威になる、おそろしい怪物なのかもしれませんね
脳の器質的な問題でそういうことも起こりうるらしいですが
宗教ってのは優等生の最初っからなにも間違いを犯さない人のためのものじゃ無い、きっとね
間違いを犯したり、失敗したり、ろくでもない人間が救いを求めるから宗教やら神が必要になるわけでね
罪を犯すからこそ、自分に課すべき戒律を守れないからこそ宗教が必要なんでしょう
病んでいるからこそ、医者や薬での治療が必要なのと同じように
病人に病んでるから、医者にかかるな、飲んでる薬を捨てろ、というのはマズい
自分は○○教の信徒であるって人が考える以上の戒律順守を
○○教の指導的な立場でも関係者でもない
ましてや神様でもない、無関係な人がそれを強いているってのは奇妙な話だ
冒涜と言うけれど、それを誰かがとやかく言うべきではないし言う資格もない
そのような言動、他者の自由を踏みにじる冒涜が行われないように
信教の自由って形で日本においては法整備されているわけだね
どうしても自分の信仰を誰かに課したい、強制したいというなら宗教でもおこすべきだろう
それでも信徒となった人があなたの考える戒律を守り、冒涜しないとは限らないわけですが
罪についての認識もちょっと違う気がしますね
罪ってのは今住んでいる共同体の法を犯したっていう狭い範囲での犯罪だけではなく
もっと人間が、人間として生きていく上で生じてしまう罪をも内包しているものだと思いますよ
たとえば、だいたいの人間が
良くないと知りつつも嘘をつき、生きるのに必要な以上に他の動物を殺している、間接的にもね
救いを求めている人がいるのを知っておきながら救おうともしない
刑務所にいるような人間と自分の方が上でまともだと自惚れる、などなどたくさんの罪がありますな
正しい人としてどうかしている、人間がこうありたいと願うところから逸脱した外道なわけです
刑務所にいる人間も罪人ではあるが、上記のことで言えば多くの人も十分に罪人です
本来ならば罰せられなければいけない、それを実行するのは神である、という人もいるでしょう
他人には厳しいくせに、自分の犯している冒涜は不問にしてしまう人でも
まともな人間であるならば、神がなくとも、信心がなくとも
自己にいる”良心の部分”が自分の罪を許さないと思うのですが、どうでしょう?
そういったどの人間が持つであろう”良心の部分”すらない人こそが
人間社会にとって脅威になる、おそろしい怪物なのかもしれませんね
脳の器質的な問題でそういうことも起こりうるらしいですが
×
戦争や闘争の原因になるものが必要だとは思えない。
世界が手を取り合って、世界で世界を支えていく。
そんな姿勢になれない原因の一つに宗教があると思う。
だから俺は宗教を必要だと感じない。
宗教と道徳は関係してるようなことを言ってますが、宗教にまったく興味のない俺でも一応道徳はあると思ってます。
別に宗教なんか無くても、そんなことわかると思うんです。
神様がいけないと決めたから、なんていい方しなくても。
周りの人間が、いけないことだ。と教えていく、それだけで十分に道徳は得られるものだと思います。
人が作ったものが人を超えられるわけないんですよ。
神様を作った人間はとっくの昔に神様を超えちゃってるんです。
世界が手を取り合って、世界で世界を支えていく。
そんな姿勢になれない原因の一つに宗教があると思う。
だから俺は宗教を必要だと感じない。
宗教と道徳は関係してるようなことを言ってますが、宗教にまったく興味のない俺でも一応道徳はあると思ってます。
別に宗教なんか無くても、そんなことわかると思うんです。
神様がいけないと決めたから、なんていい方しなくても。
周りの人間が、いけないことだ。と教えていく、それだけで十分に道徳は得られるものだと思います。
人が作ったものが人を超えられるわけないんですよ。
神様を作った人間はとっくの昔に神様を超えちゃってるんです。
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宗教についての話になると、宗教が統一された(または人間を統一しようとする)思想だと言って嫌悪感を持って批判したり非難したりする人がいたりするけど、正直他人の価値観が違うことについてとやかく攻撃するのってくだらない気がします。受け入れられないとしても、「そういう考え方もありか。まぁ、自分が信じるかどうか別だけど。」くらいで、なんていうか許すってのも上から目線っぽいですけど信じるものくらい自由にしたらいいと思います。ただ、キリスト教やイスラム教などの古くからある宗教ではなくオウム真理教などの新興宗教の中で、他人の命を奪うことを一方的な考えで押し付けてしまうのは社会的にみても多分今の社会で生きている各個人の目線から見てもさすがにないですね。
×
>>ただ、批判するのであれば、それを自分自身もそこから免れてはいないところの、人類にとっての普遍的な問題とリンクさせつつ考えないと、結局のところ自分自身も批判対象と同じ行為を無自覚のまま行なってしまうことになる。ゆえに、批判を生産的なものにしたいのであれば、自分が「何」を問題にしていて、また「なぜ」それを批判したいと思うのかを、よくよく省察してみてほしい
これには同意します。
結局は互いをけなし合ってしまうことに繋がりがちだと思ったためです。子供みたいな単純な感想ですが。
「宗教不要論」に関して考えたときに、宗教が必要だと感じたことがあるか思い出してみました。
個人的な範囲内で宗教が必要だと感じたのは、おそらく死ぬ時だと思います。
新興宗教は分かりませんが、仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教は死後の世界が保証されている為、死ぬことに不安を覚えず、もしくは死への不安を軽減できるため、少しでも安らかに死ねるように思えます。
(私は宗教に関して識者ではない為、「死後の世界があるから死ぬ時に怖くないなんて考えは安直で偏見じみているかもしれません。この考えは私の主観です。実際の宗教はこの考えと異なるものだとは思います」)
死後の世界に行けるかどうかはともかく(死ぬことや死後の世界へ進むことを体験するのは生きている限り不可能である為考えようがありません)、死に直面した時に死への不安を減らすのに、何かを信仰していることは役に立つと思います。
これには同意します。
結局は互いをけなし合ってしまうことに繋がりがちだと思ったためです。子供みたいな単純な感想ですが。
「宗教不要論」に関して考えたときに、宗教が必要だと感じたことがあるか思い出してみました。
個人的な範囲内で宗教が必要だと感じたのは、おそらく死ぬ時だと思います。
新興宗教は分かりませんが、仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教は死後の世界が保証されている為、死ぬことに不安を覚えず、もしくは死への不安を軽減できるため、少しでも安らかに死ねるように思えます。
(私は宗教に関して識者ではない為、「死後の世界があるから死ぬ時に怖くないなんて考えは安直で偏見じみているかもしれません。この考えは私の主観です。実際の宗教はこの考えと異なるものだとは思います」)
死後の世界に行けるかどうかはともかく(死ぬことや死後の世界へ進むことを体験するのは生きている限り不可能である為考えようがありません)、死に直面した時に死への不安を減らすのに、何かを信仰していることは役に立つと思います。
×
俺は神を信じてるし、俺にとっては必要だけど、ほかの人に強要する気はないなぁ
そもそも、強要したら「信仰」じゃないじゃん
それは「恐喝」とか「詐欺」とかに分類されるただの犯罪、あるいは迷惑行為。
結局、マナーを守らない一部の自称☆宗教家さんのおかげで、
宗教にかかわるあらゆるものが毛嫌いされてしまうのはなんというか・・・残念?
んー、いや、「面倒」かな。
感覚的には、自分が好きで聴いてるアーティストの一部のファンが暴走して、
個人的に楽しんでるだけの自分にまで偏見の目を向けられる感じ。
宗教を信じるかどうかなんて、つまるところ見解の相違。
「酢豚にパイナポーは、入れる派?入れない派?」とか
「カレーにジャガさんは、入れる派?入れない派?入れるけど崩さない派?トロトロに溶かし込む派?」
程度の違いじゃないかな。
そもそも、強要したら「信仰」じゃないじゃん
それは「恐喝」とか「詐欺」とかに分類されるただの犯罪、あるいは迷惑行為。
結局、マナーを守らない一部の自称☆宗教家さんのおかげで、
宗教にかかわるあらゆるものが毛嫌いされてしまうのはなんというか・・・残念?
んー、いや、「面倒」かな。
感覚的には、自分が好きで聴いてるアーティストの一部のファンが暴走して、
個人的に楽しんでるだけの自分にまで偏見の目を向けられる感じ。
宗教を信じるかどうかなんて、つまるところ見解の相違。
「酢豚にパイナポーは、入れる派?入れない派?」とか
「カレーにジャガさんは、入れる派?入れない派?入れるけど崩さない派?トロトロに溶かし込む派?」
程度の違いじゃないかな。
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>>204
ちょっと誤解させてしまったかもしれないですけど、そこでは本物のヤクザと宗教の関係を言っている訳ではなくて、恩を売って寄生するようなヤクザ的発想だと言いたいだけです
>>失礼と解ってても草が生えるというものです
失礼に当たらないと思っていたならともかく、分かっていたというのはわざわざ文章に入れる事を選択したという事ですよね。あなたは無自覚かもしれませんが、実はあなたの宗教は『「宗教反対派」の反対をする宗教』だったりするんじゃないですか?単に「幼稚」な人間なのかもしれないですけど
私が言いたいのは筆者の言う対立が無限ループで存在すると言う事。かくいう私もその中にいる1人なのだろうし
ちょっと誤解させてしまったかもしれないですけど、そこでは本物のヤクザと宗教の関係を言っている訳ではなくて、恩を売って寄生するようなヤクザ的発想だと言いたいだけです
>>失礼と解ってても草が生えるというものです
失礼に当たらないと思っていたならともかく、分かっていたというのはわざわざ文章に入れる事を選択したという事ですよね。あなたは無自覚かもしれませんが、実はあなたの宗教は『「宗教反対派」の反対をする宗教』だったりするんじゃないですか?単に「幼稚」な人間なのかもしれないですけど
私が言いたいのは筆者の言う対立が無限ループで存在すると言う事。かくいう私もその中にいる1人なのだろうし
×
うーん、あんまり誤解がないように
こういうこともあるよってことで言っておかないといけないんだろうけど
宗教戦争ってされているものも
己の宗教の誇示が目的であったり原因ではない
経済問題や既得権をめぐる権力闘争といった国内政治の問題であったり
気候変動による作物被害やらが遠因があることも考慮に入れないといけない
純粋な宗教対立だけでの戦争やら殺人はほとんどないんじゃないか?
宗教をめぐる言説は戦争をはじめる理由に使いやすかったり
人を殺人者に仕立てあげる時の動機づけとして有用であるから利用されるだけであって
狂信者が無理解に誰かに襲いかかっているってイメージは
一部は正しく反映してるかもだが、すべてではないのであんまり正しくない
こういうこともあるよってことで言っておかないといけないんだろうけど
宗教戦争ってされているものも
己の宗教の誇示が目的であったり原因ではない
経済問題や既得権をめぐる権力闘争といった国内政治の問題であったり
気候変動による作物被害やらが遠因があることも考慮に入れないといけない
純粋な宗教対立だけでの戦争やら殺人はほとんどないんじゃないか?
宗教をめぐる言説は戦争をはじめる理由に使いやすかったり
人を殺人者に仕立てあげる時の動機づけとして有用であるから利用されるだけであって
狂信者が無理解に誰かに襲いかかっているってイメージは
一部は正しく反映してるかもだが、すべてではないのであんまり正しくない
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宗教に関して、良くも悪くも思いませんが、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教など、宗教は多々存在しますが、一貫して謳っている内容の殆どが、「生きている時に善行を積むと、死んだ後(来世)でいい事がありますよ。」と言った内容です。
神が存在するかどうかに至っては、個人としては宇宙人と同じくらい、どうでもいい存在なんですよね。
実際、目に見えて何かをする訳でもなければ、アドバイスをくれる訳でもない、頭数にすらならない存在なんですよね。
ただ、要不要に関しては、あった方がいいと思います。
心のよりどころとしての一面もさることながら、歴史的な訓戒として伝える事により、目に見える平和な世の中の成り立ちを教えるのに必要となるからです。
隣が何を信じて、何を信じていないのかは個人として、どうでもいいのですが、勧誘行為や迷惑行為はどっちにしろやめて貰いたいですね。
反対の理由を持つ人は、この辺りを論点としている人が多いですからね。
神が存在するかどうかに至っては、個人としては宇宙人と同じくらい、どうでもいい存在なんですよね。
実際、目に見えて何かをする訳でもなければ、アドバイスをくれる訳でもない、頭数にすらならない存在なんですよね。
ただ、要不要に関しては、あった方がいいと思います。
心のよりどころとしての一面もさることながら、歴史的な訓戒として伝える事により、目に見える平和な世の中の成り立ちを教えるのに必要となるからです。
隣が何を信じて、何を信じていないのかは個人として、どうでもいいのですが、勧誘行為や迷惑行為はどっちにしろやめて貰いたいですね。
反対の理由を持つ人は、この辺りを論点としている人が多いですからね。
×
信仰を抱いており、その信仰に真摯な人間は、他の何者かが形成した宗教形態の存在無しに自らの信仰を問う事が出来る。即ち、信仰心がある人間にとって宗教は必ずしも必要無いという事になる。
では宗教は何にとって必要なのか。それは無知・無学な民衆の統制システムとしてである。
信仰というものは、個人にとって自らの存在意義を問うプロセスである。従って、自己分析を行い自らを問いただす行為を忌避する未成熟な人々にとって、形態化された宗教というものは、社会や生活上での矛盾や理不尽に対しての安易な回答を得られる手段となっている。つまり、社会に常に存在する未成熟な個人が存在する以上、システムとしての宗教には必ず需要が存在する。
では宗教は何にとって必要なのか。それは無知・無学な民衆の統制システムとしてである。
信仰というものは、個人にとって自らの存在意義を問うプロセスである。従って、自己分析を行い自らを問いただす行為を忌避する未成熟な人々にとって、形態化された宗教というものは、社会や生活上での矛盾や理不尽に対しての安易な回答を得られる手段となっている。つまり、社会に常に存在する未成熟な個人が存在する以上、システムとしての宗教には必ず需要が存在する。
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いやー、是々非々で考えようぜと言ってはみたが、やっぱりカオスな感じになっちゃってるねー。
とりあえず、論点としては。
・宗教には哲学的側面がある
・宗教には規範的・道徳的側面がある
・宗教は権力と結びつき、それ故に時として過ちを犯し、腐敗する
・宗教はひとつ間違えると排他的な人間を生み出す
・宗教は生活や文化と切っても切り離せない
・絶対者の存在を持ち出して人を脅す宗教(カルト)は確かに存在するが、全ての宗教がそうではない
・ひとつの神を信じる宗教だけではない
・能動的な信仰のみが宗教ではない
・宗教を(ポジティブな意味で)生きる上での心の拠り所にしている人は、一定数存在している
・宗教を自身の価値基準・思考・判断のベースにしている人は、一定数存在している
・宗教を盲信し、それ故に周囲の人々に迷惑や不快感を与える人は、一定数存在している
・宗教の持ち得る排他性、自己優越性、カルトの持つ危険性を毛嫌いして宗教に否定的な人は、一定数存在している
他にもあるかもしれないけど、まぁ、こんなところかな。
とりあえず、論点としては。
・宗教には哲学的側面がある
・宗教には規範的・道徳的側面がある
・宗教は権力と結びつき、それ故に時として過ちを犯し、腐敗する
・宗教はひとつ間違えると排他的な人間を生み出す
・宗教は生活や文化と切っても切り離せない
・絶対者の存在を持ち出して人を脅す宗教(カルト)は確かに存在するが、全ての宗教がそうではない
・ひとつの神を信じる宗教だけではない
・能動的な信仰のみが宗教ではない
・宗教を(ポジティブな意味で)生きる上での心の拠り所にしている人は、一定数存在している
・宗教を自身の価値基準・思考・判断のベースにしている人は、一定数存在している
・宗教を盲信し、それ故に周囲の人々に迷惑や不快感を与える人は、一定数存在している
・宗教の持ち得る排他性、自己優越性、カルトの持つ危険性を毛嫌いして宗教に否定的な人は、一定数存在している
他にもあるかもしれないけど、まぁ、こんなところかな。
×
記事を全部読んでたら、混乱してきたが読んでいて何となく感じた事。
コメントのパターン
①宗教は昔からあるし、文化的にも密着してるから必要だよ!←墓参りとか葬式とか世間体でやってるだけだし!
②自分の信じる自分を信じろ!宗教など貧弱ぅ!貧弱ぅ!←人間強い人ばかりじゃあないんだよ!
③勧誘めんどくさい氏ね!←勧誘の仕方の問題だろ宗教とは関係ぇねぇし!
④争いの元になるから宗教いらん!←宗教のお陰で共同体が団結したり、辛い事を乗り越えた事だってあるんだ!
⑤お前の意見は気に食わん!←てめえの意見の方が気に食わん!
⑥どっちでもいいじゃん。争うのやめようぜ!
そもそも、結論が出る問題じゃないわな。個人の信条の話だし。
必要派、不要派共に根拠にしてる事は結局は物事の一側面に過ぎないしね。
争い云々という観点において言うのであれば、
「貴方は貴方の考え方を持てばいい、それに対して私は否定も肯定もしない」というスタンスで行けば、
とりあえず対立は回避できるんじゃないかとは思う。
とはいえ、無視を決め込むってのもつまらないので、
喧嘩にならない程度に言い争うのは文明的でいいと思う(小並感)
コメントのパターン
①宗教は昔からあるし、文化的にも密着してるから必要だよ!←墓参りとか葬式とか世間体でやってるだけだし!
②自分の信じる自分を信じろ!宗教など貧弱ぅ!貧弱ぅ!←人間強い人ばかりじゃあないんだよ!
③勧誘めんどくさい氏ね!←勧誘の仕方の問題だろ宗教とは関係ぇねぇし!
④争いの元になるから宗教いらん!←宗教のお陰で共同体が団結したり、辛い事を乗り越えた事だってあるんだ!
⑤お前の意見は気に食わん!←てめえの意見の方が気に食わん!
⑥どっちでもいいじゃん。争うのやめようぜ!
そもそも、結論が出る問題じゃないわな。個人の信条の話だし。
必要派、不要派共に根拠にしてる事は結局は物事の一側面に過ぎないしね。
争い云々という観点において言うのであれば、
「貴方は貴方の考え方を持てばいい、それに対して私は否定も肯定もしない」というスタンスで行けば、
とりあえず対立は回避できるんじゃないかとは思う。
とはいえ、無視を決め込むってのもつまらないので、
喧嘩にならない程度に言い争うのは文明的でいいと思う(小並感)
×
日本に住んでる以上、無宗教なんてことはありえない。
物を大事にする、は神道の教え(物には魂が宿るから)
お年寄りや年長者、子供を大事にするのは仏教の教え。
小さい頃から当たり前にしている、教えられていることはこうやって細かく見ると全て宗教の教えになっている。
だが、『私がこの教えで幸せになったのだから、あなたもやれば幸せになる』は絶対嘘。
これだけは絶対。なぜなら各々の世界観で物を見、物を聞いているから。
宗教なんて身内でわいわいやってるヲタクと一緒。一種のコミュニティにカテゴリ分け出来る。
もし神様を信じるなら、日がな一日念仏やらお祈りするよりも、困った時の神頼み。位のレベルで良いんじゃないだろうか。
もし神様がおわすなら、そんな万人億人の願いを一から十まで叶えてられないしね。
物を大事にする、は神道の教え(物には魂が宿るから)
お年寄りや年長者、子供を大事にするのは仏教の教え。
小さい頃から当たり前にしている、教えられていることはこうやって細かく見ると全て宗教の教えになっている。
だが、『私がこの教えで幸せになったのだから、あなたもやれば幸せになる』は絶対嘘。
これだけは絶対。なぜなら各々の世界観で物を見、物を聞いているから。
宗教なんて身内でわいわいやってるヲタクと一緒。一種のコミュニティにカテゴリ分け出来る。
もし神様を信じるなら、日がな一日念仏やらお祈りするよりも、困った時の神頼み。位のレベルで良いんじゃないだろうか。
もし神様がおわすなら、そんな万人億人の願いを一から十まで叶えてられないしね。
×
気になってもっかい来てみたら想像以上に荒れてたw
まぁ荒れてもおかしくない話題だわなw
みんな真剣に※してるからこそこの状況なんだろう
でもさ、煽り合いとかケンカ腰の※はどうかと思うよ
「人は自分の意見を否定されると怒りを感じる」って正に本文の内容そのままになっちゃってるじゃん
議論するのは必要だけど、これは勝ち負けの話じゃないでしょ
他人の意見を否定したからって誰かの共感を得られるとも限らないし
だからここで議論してても解決なんてしないかもしれないけどさ、でもみんなが真剣に書き込んでるとこが全部無駄ってこともないでしょ
自分と違う意見を見つけたら なんでこの人はこう思ってるんだろう? って考えてみればいいんじゃないのかな
意見はその人の生い立ちとか環境がバックボーンになってるから、その辺も含めて考えてみると共感までいかなくても理解することが出来るかもしれないよ
そういう相手を理解しようとする行為こそ、本文で一番伝えたいことだったんじゃないかと思うんだよね
まぁ荒れてもおかしくない話題だわなw
みんな真剣に※してるからこそこの状況なんだろう
でもさ、煽り合いとかケンカ腰の※はどうかと思うよ
「人は自分の意見を否定されると怒りを感じる」って正に本文の内容そのままになっちゃってるじゃん
議論するのは必要だけど、これは勝ち負けの話じゃないでしょ
他人の意見を否定したからって誰かの共感を得られるとも限らないし
だからここで議論してても解決なんてしないかもしれないけどさ、でもみんなが真剣に書き込んでるとこが全部無駄ってこともないでしょ
自分と違う意見を見つけたら なんでこの人はこう思ってるんだろう? って考えてみればいいんじゃないのかな
意見はその人の生い立ちとか環境がバックボーンになってるから、その辺も含めて考えてみると共感までいかなくても理解することが出来るかもしれないよ
そういう相手を理解しようとする行為こそ、本文で一番伝えたいことだったんじゃないかと思うんだよね
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その人が半ギレみたいな態度になったのは、
きっと宗教人ならではの意見みたいなもっと響く答えを求めてたけど
どこかで聞いたような言葉が返ってきたから
期待ハズレでがっかり→逆ギレ とか、あるいは
その人達は“議論したかった”のにあなたのバッサリ突き放した感に苛立ったのかもしれないし
正直あなたの苛立った、キツイ調子の、上から目線の、偉そうな文は印象良く無いです
あなたに突っかかってきた人が皆「対立を作り出して自分の意見に同調させようとした」
人だというのは、ちょっと十把一絡げすぎじゃないでしょうか
口下手だっただけで、喧嘩したかったわけじゃないひとも居たんじゃないかな~
きっと宗教人ならではの意見みたいなもっと響く答えを求めてたけど
どこかで聞いたような言葉が返ってきたから
期待ハズレでがっかり→逆ギレ とか、あるいは
その人達は“議論したかった”のにあなたのバッサリ突き放した感に苛立ったのかもしれないし
正直あなたの苛立った、キツイ調子の、上から目線の、偉そうな文は印象良く無いです
あなたに突っかかってきた人が皆「対立を作り出して自分の意見に同調させようとした」
人だというのは、ちょっと十把一絡げすぎじゃないでしょうか
口下手だっただけで、喧嘩したかったわけじゃないひとも居たんじゃないかな~
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現代人は無宗教教という一種の信仰にとりつかれている。信じる対象が人より上位の物から人と同等の所へ降りてしまった為に、形而上の物に対して意識が向かずに道徳とか倫理と言ったものは崩壊し、妙なヒューマニズム、人類至上主義みたいなものが蔓延している。例えば科学を知らない人間は、科学の限界を見極める事が出来ずに、自分にとって「理解は出来ないが全能であるもの」として科学を信仰するが、科学を深く学んでいる人間からすれば数式を読むのも詩を読むのもあまり変わらない。一種の自己表現として論文を読む。それは信仰の対象にはなり得ず、一つの人の考え方に触れる為の窓である。「論理的であるべき」なのは当たり前だが、論理的であるからと言って、それが無謬であるとは限らない。例えばジレンマの問題は、60年以上も解決していない。ジレンマに出会った時、それに対する数ある論文の内1つ2つの結果を見て知ったような気になって自分の身を委ねるのは愚かとしか言いようがない。板挟み状態でどの道に進むのが正しいのか、どの道に徳があるのかを選択する時の孤独感から救済される為には、やはり人より上位の物を信仰するのが良い。
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宗教の存在しない世界だったら
1 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 22:29:34.65 ID:3eDcIPf60
中東のゴタゴタも魔女狩りも悪質な新興宗教の勧誘も無い素晴らしい世界だと思う
51 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 23:35:46.53 ID:4KnP3w9T0
巫女さんの脇の下ぺろぺろもできなくなるぞ?!
52 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 23:36:51.16 ID:3eDcIPf60
»51
それはダメだわ
全撤回するありがとう
日本人の宗教観なんてこれで十分なんである
1 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 22:29:34.65 ID:3eDcIPf60
中東のゴタゴタも魔女狩りも悪質な新興宗教の勧誘も無い素晴らしい世界だと思う
51 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 23:35:46.53 ID:4KnP3w9T0
巫女さんの脇の下ぺろぺろもできなくなるぞ?!
52 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします2013/06/02(日) 23:36:51.16 ID:3eDcIPf60
»51
それはダメだわ
全撤回するありがとう
日本人の宗教観なんてこれで十分なんである
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宗教が無くても人はいがみあったり殺し合ったりしてるもんねー。
宗教紛争と匂いが近い民族紛争にしたって、
紛争が起こる前まではいたって平和裏に折り合っていた民族同士、
それこそ民族の違いそのものを認識しないくらい平和だった人たちが
社会不安の折に誰かにアジられるにつれ、次第に同調者が増え不安が膨らみ、
いつしか怒れるマイノリティが「普通の」一般大衆を押し流し、戦争に駆り立てるようになる、と
こういう不幸な例が近代にもけっこうある。
あとはアレだね、宗教を「宗教」のカギ括弧の中のブラックボックスにしてる人が多すぎ。
まず自分で箱を開けて中身を理解して、多種多様な歴史的実用例を探らないと語るに語れないでしょ
宗教紛争と匂いが近い民族紛争にしたって、
紛争が起こる前まではいたって平和裏に折り合っていた民族同士、
それこそ民族の違いそのものを認識しないくらい平和だった人たちが
社会不安の折に誰かにアジられるにつれ、次第に同調者が増え不安が膨らみ、
いつしか怒れるマイノリティが「普通の」一般大衆を押し流し、戦争に駆り立てるようになる、と
こういう不幸な例が近代にもけっこうある。
あとはアレだね、宗教を「宗教」のカギ括弧の中のブラックボックスにしてる人が多すぎ。
まず自分で箱を開けて中身を理解して、多種多様な歴史的実用例を探らないと語るに語れないでしょ
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「宗教や信仰をもて」ということではなくて、「何も信じていない人などいないのだから、せめて私たちは、自分の信仰に可能な限り自覚的であるべきだ」
「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
こうやって意見を押し付けてる時点で、こいつも同じ穴の狢だっていうことは自覚してるのかな?
とりあえず、筆者にはこの言葉を送るよ
『あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしい』
「何も信じていない人」というのは、この世にはいない。意識的か無意識的かの差はあるけれども、誰だって究極的には「無根拠」な何らかの価値を「信じて」いて、そこに一瞬一瞬、自分を賭けながら生きている。
こうやって意見を押し付けてる時点で、こいつも同じ穴の狢だっていうことは自覚してるのかな?
とりあえず、筆者にはこの言葉を送るよ
『あなたの根底にあって、あなたを衝き動かしているその欲望自体が、実はあなた自身が問題視している現象の、根源的な原因になっている可能性を、少し考えてみてほしい』
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宗教不要論もある意味宗教化してる気もする。
宗教と特別視しているようだが、愛国心だって宗教の一種になる。
宗教を危険視する論法として度が過ぎた信仰によって排他的になり新しい思想を受け入れないことだと思うが、
この排他的になり新しい見方を受け入れられない人間なんて一杯いるし人間の弱さとして誰しも内包している。
今日の政治や外交にたいしての民衆の反応でも見受けられる。
そして宗教は大昔には政治ツールだったわけで、マスメディアをも担っていた。
つまり人間の社会を握っているわけだ。
人間の脳には社会生活を円滑に営むために信仰を生みだそうとするシステムがそもそも備わっている(近年の心理学研究の結果)ので、何事にも悪や特定の人間の利益に利用されてしまえば大惨事になるのは宗教に限らない。事実上宗教不要論はただの『他者に無理強いするな、他の国を巻き込むな、一人でやってろ』の精神論でしかなく宗教そのものを論じているとはあまり思えない。
宗教と特別視しているようだが、愛国心だって宗教の一種になる。
宗教を危険視する論法として度が過ぎた信仰によって排他的になり新しい思想を受け入れないことだと思うが、
この排他的になり新しい見方を受け入れられない人間なんて一杯いるし人間の弱さとして誰しも内包している。
今日の政治や外交にたいしての民衆の反応でも見受けられる。
そして宗教は大昔には政治ツールだったわけで、マスメディアをも担っていた。
つまり人間の社会を握っているわけだ。
人間の脳には社会生活を円滑に営むために信仰を生みだそうとするシステムがそもそも備わっている(近年の心理学研究の結果)ので、何事にも悪や特定の人間の利益に利用されてしまえば大惨事になるのは宗教に限らない。事実上宗教不要論はただの『他者に無理強いするな、他の国を巻き込むな、一人でやってろ』の精神論でしかなく宗教そのものを論じているとはあまり思えない。
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押し付けなければいいのだけれど押しつけがあるのが宗教だからなぁ。
文化進行は宗教と語学で行われるものであるのは歴史的に明らか。
宗教によって戦争がって部分があるけれど実は戦後に活躍するのが宗教。
基本的に負けた国は勝った国の宗教や言語による侵略を受けやすいんだよね。
そしてそれ以前にあった宗教の弾圧。
これを行うことで治めやすくするのでござる。
これ国外のことばっかりに見えるけれど、日本でだって天津神、国津神もしかり信長辺りもしかり。
宗教って自然に力を持つし、かつ不幸な状態ほど影響力が強くなりがちなので権力者が宗教と直結していないと危険なのです(権力者視点
文化進行は宗教と語学で行われるものであるのは歴史的に明らか。
宗教によって戦争がって部分があるけれど実は戦後に活躍するのが宗教。
基本的に負けた国は勝った国の宗教や言語による侵略を受けやすいんだよね。
そしてそれ以前にあった宗教の弾圧。
これを行うことで治めやすくするのでござる。
これ国外のことばっかりに見えるけれど、日本でだって天津神、国津神もしかり信長辺りもしかり。
宗教って自然に力を持つし、かつ不幸な状態ほど影響力が強くなりがちなので権力者が宗教と直結していないと危険なのです(権力者視点
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>>343
う~ん、確かに考えを押し付けることなく宗教を広げるのは難しいです。ただ、考えを押し付けたり、他信仰の人達を弾圧したりすることをしなくても、広めることは可能なんです。(例としてあげるなら、釈迦が賭博を開いた後、遊ぶついでに話しを聞いてぐらいの気持ちで仏教の考えを話したケースとか)ようするに、その考えが受け入れられるかどうかなんだよね宗教は。それができない、する気がないから、宗教戦争して、多神教の神を悪魔化させる。私服を肥やしたいから魔女狩りする、免罪符を作るみたいになる。
第一、エルサレムにおける宗教戦争および内乱は、ほぼ同じ神様であるヤハウェ(基アッラー)信仰同士[キリスト教、イスラム教、ユダヤ教]でやってることだからね~・・・(考えが近い、同じ聖地)でも、それを認めようとはしないから、争いは起きるわけで・・・まあ、キリスト教は広まった辺りから、もはや別宗教といっても良い位に腐敗しちゃってましたが。
韓国のあり方は宗教に例えるとわかりやすいってのはあるけど、実際、戦争や争いごとの原因のひとつは考えの押し付けだから、ある意味では全ての国にあてはまる事なのかも知れません・・・(右翼、左翼の考え方もコレに近いかな?)
まあ要するに、国の考え方もある種の宗教みたいなものだから、それに従うか否かは個人に委ねる必要があると自分は考えてます。
ちなみに、自分は自分の信じる道を進もうと考えてます。それで、自分が崩壊することになっても、それを他人のせいにしない為に。そのぐらいの考えの方が生きやすいというのもありますが(笑)
う~ん、確かに考えを押し付けることなく宗教を広げるのは難しいです。ただ、考えを押し付けたり、他信仰の人達を弾圧したりすることをしなくても、広めることは可能なんです。(例としてあげるなら、釈迦が賭博を開いた後、遊ぶついでに話しを聞いてぐらいの気持ちで仏教の考えを話したケースとか)ようするに、その考えが受け入れられるかどうかなんだよね宗教は。それができない、する気がないから、宗教戦争して、多神教の神を悪魔化させる。私服を肥やしたいから魔女狩りする、免罪符を作るみたいになる。
第一、エルサレムにおける宗教戦争および内乱は、ほぼ同じ神様であるヤハウェ(基アッラー)信仰同士[キリスト教、イスラム教、ユダヤ教]でやってることだからね~・・・(考えが近い、同じ聖地)でも、それを認めようとはしないから、争いは起きるわけで・・・まあ、キリスト教は広まった辺りから、もはや別宗教といっても良い位に腐敗しちゃってましたが。
韓国のあり方は宗教に例えるとわかりやすいってのはあるけど、実際、戦争や争いごとの原因のひとつは考えの押し付けだから、ある意味では全ての国にあてはまる事なのかも知れません・・・(右翼、左翼の考え方もコレに近いかな?)
まあ要するに、国の考え方もある種の宗教みたいなものだから、それに従うか否かは個人に委ねる必要があると自分は考えてます。
ちなみに、自分は自分の信じる道を進もうと考えてます。それで、自分が崩壊することになっても、それを他人のせいにしない為に。そのぐらいの考えの方が生きやすいというのもありますが(笑)
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戦勝国の押しつけ以前の明治維新の頃から
西欧列強に追いつけ追い越せで近代化を進めていたので
押しつけではなく進んで変化を受け入れた、まぁ上層階級の方の主導だけど
また、一方で天皇を中心とした神政国家も可能性として考えられ
廃仏毀釈という神道と仏教を引きはがす宗教弾圧もやっちゃってますね
(暴力的なそれを想定してなかったのかもだけど、一部地域じゃ暴走が酷かったようで)
昭和初期には教育勅語などの結果が実って
天皇崇拝、信仰が生まれて成功したとも言えるんでしょうけど
いくら現人神がついていても負ける時は負けますな
資本主義だの先進国ってのも、その限界を理解した上でなら良いんですけど
社会進化論、みたいなのに傾倒すると、ちょっとそりゃ違うんじゃねぇの?とは思うかなぁ
どうも今の日本を生きる自分たちは、進んでる、正解、素晴らしい、ので
イスラム国家だとか、ムスリムを見下してOKみたいな態度でいる人がいて困惑する
西欧列強に追いつけ追い越せで近代化を進めていたので
押しつけではなく進んで変化を受け入れた、まぁ上層階級の方の主導だけど
また、一方で天皇を中心とした神政国家も可能性として考えられ
廃仏毀釈という神道と仏教を引きはがす宗教弾圧もやっちゃってますね
(暴力的なそれを想定してなかったのかもだけど、一部地域じゃ暴走が酷かったようで)
昭和初期には教育勅語などの結果が実って
天皇崇拝、信仰が生まれて成功したとも言えるんでしょうけど
いくら現人神がついていても負ける時は負けますな
資本主義だの先進国ってのも、その限界を理解した上でなら良いんですけど
社会進化論、みたいなのに傾倒すると、ちょっとそりゃ違うんじゃねぇの?とは思うかなぁ
どうも今の日本を生きる自分たちは、進んでる、正解、素晴らしい、ので
イスラム国家だとか、ムスリムを見下してOKみたいな態度でいる人がいて困惑する
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無宗教も一つの宗教として考えれば、宗教を無くすことというのは極めて困難であり、むしろ不可能です。
どの宗教も力が大きくほど(信者が多くほど)思考停止に落ちってしまう可能性が高い、
他人と自分との違いを受け入れられなくて、究極の平等(皆を無理矢理自分と同じにする)に走ってしまう。
例:昔のキリスト教、唯一神教互いの戦い、フェミ、シーシェパード、過激な○×団体
この暴走を防ぐために日本にいるのが唯一神教ではなく多神教であり、結果的に文化的な多様性に達成した。
維新の頃に列強に植民地として支配されることを恐れながらも、思考停止してあいつらの文化を全て鵜呑みとはしなかったんだ。
どの宗教も力が大きくほど(信者が多くほど)思考停止に落ちってしまう可能性が高い、
他人と自分との違いを受け入れられなくて、究極の平等(皆を無理矢理自分と同じにする)に走ってしまう。
例:昔のキリスト教、唯一神教互いの戦い、フェミ、シーシェパード、過激な○×団体
この暴走を防ぐために日本にいるのが唯一神教ではなく多神教であり、結果的に文化的な多様性に達成した。
維新の頃に列強に植民地として支配されることを恐れながらも、思考停止してあいつらの文化を全て鵜呑みとはしなかったんだ。
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>>361
理解はできるが納得はしないって状態でいいんじゃないかな。
宗教っていうからなんか胡散臭くなるんであって、
あなたは神はいないという心の柱をもっている。
信仰者は神はいるという心の柱をもっている。
それぞれの心の柱に基づいて価値や判断をしている。
そこには善悪なんてものは存在しないのでは無いかと思う。
自分と違う考え方に触れると嫌悪感が先走るのは仕方のない事ですけどね。
深く掘り下げたくないのであれば、宗教はスルーすればいいし。
深く掘り下げるつもりがあるのなら、信仰者に突っ込みを入れたり文献調べたりして。
どういう経緯で宗教は成り立ってきたのかとか勉強したりすると、理解は出来るようになると思うよ。
理解はできるが納得はしないって状態でいいんじゃないかな。
宗教っていうからなんか胡散臭くなるんであって、
あなたは神はいないという心の柱をもっている。
信仰者は神はいるという心の柱をもっている。
それぞれの心の柱に基づいて価値や判断をしている。
そこには善悪なんてものは存在しないのでは無いかと思う。
自分と違う考え方に触れると嫌悪感が先走るのは仕方のない事ですけどね。
深く掘り下げたくないのであれば、宗教はスルーすればいいし。
深く掘り下げるつもりがあるのなら、信仰者に突っ込みを入れたり文献調べたりして。
どういう経緯で宗教は成り立ってきたのかとか勉強したりすると、理解は出来るようになると思うよ。
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神様がいないと100%の証明はできませんが限りなく0に近いと思っているので、なんの根拠もなしに神様を信じてる人を見るとそれは事実と違うよと言いたくなってしまうんです。(まあ、ほっといてくれよというかもしれませんが)
良い悪いという話でもない(神というものが曖昧だから悪用しやすいという側面もある)物の考え方の違いであればそういう考え方もあるのだなと思えるのですが・・・
宗教の教えによる良い影響もあるし、真っ向から否定しようものならそれが争いの原因にもなりうるので現状で宗教を排除するといことは無理だと思いますが、科学が進歩するにつれて今より衰退していくのではないでしょうか?
>>363
文献を調べたりして勉強すれば宗教に対する嫌悪感も和らぐかもしれませんね
良い悪いという話でもない(神というものが曖昧だから悪用しやすいという側面もある)物の考え方の違いであればそういう考え方もあるのだなと思えるのですが・・・
宗教の教えによる良い影響もあるし、真っ向から否定しようものならそれが争いの原因にもなりうるので現状で宗教を排除するといことは無理だと思いますが、科学が進歩するにつれて今より衰退していくのではないでしょうか?
>>363
文献を調べたりして勉強すれば宗教に対する嫌悪感も和らぐかもしれませんね
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>>361
「宗教」に関してもいろいろな学問においてそれぞれの学術用語での定義とか
辞書によるものだとか色いろあるのだろうけれど
たとえば、神なんかいないよと考えてはいるが
輪廻転生を信じている人がいるとすると(祖霊信仰を伴わないものとして)
それはまぁ、「死生観」「世界観」とも言えるんでしょうが
そういう明確な神が不在でも「宗教」あるいは「宗教っぽいモノ」は可能だと思われます
神の教えも、神っていう主語があることわざみたいなもんだと考えておけばいいのでは?
基本的に、ある共同体(社会)において生きるに間違いがないようにという言葉なので
嫌悪感を持つ必要もないように思われます
ただ、神の教えというのも変容したり、個人の勝手な解釈が入ったりするので
この人が考えている神の教えなんだな、と保留をすべきだとは思いますが
「宗教」に関してもいろいろな学問においてそれぞれの学術用語での定義とか
辞書によるものだとか色いろあるのだろうけれど
たとえば、神なんかいないよと考えてはいるが
輪廻転生を信じている人がいるとすると(祖霊信仰を伴わないものとして)
それはまぁ、「死生観」「世界観」とも言えるんでしょうが
そういう明確な神が不在でも「宗教」あるいは「宗教っぽいモノ」は可能だと思われます
神の教えも、神っていう主語があることわざみたいなもんだと考えておけばいいのでは?
基本的に、ある共同体(社会)において生きるに間違いがないようにという言葉なので
嫌悪感を持つ必要もないように思われます
ただ、神の教えというのも変容したり、個人の勝手な解釈が入ったりするので
この人が考えている神の教えなんだな、と保留をすべきだとは思いますが