『日本国紀』読書ノート(71) | こはにわ歴史堂のブログ

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71】「目安箱」は戦国時代にもあった。

 

吉宗の改革である「享保の改革」についても、誤解や誤りが随所にみられます。

どこからどう手をつけてよいやらわからないので、目立つところから一つずつお話ししていきたいと思います。

 

「大和朝廷成立以来、千年以上、庶民は政府に対し口を出すことはできなかった(直訴は極刑)。その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステムは、近代の先進国でもおそらく初めてのことではないだろうか。」(P203)

 

この2文だけでも、どう説明しようかと、戸惑うばかりです。

 

まず「直訴は極刑」だったのでしょうか。

1275年の「阿氐河荘の荘民の訴状」などは有名(小学校の教科書にも出てくる)ですが、この農民は別に極刑には処せられていません。

室町時代の惣村でも、百姓申状を添えて年貢の減免を訴える愁訴もありました。

1441年の嘉吉の徳政一揆は、幕府に徳政を要求するもので、幕府はその要求を認めて徳政令を発令しています。

後に幕府は、分一銭の制度も取り入れ、「徳政令出してほしけりゃカネを出せ。」「徳政令出されたくなかったらカネを出せ」、という方法で債権者・債務者両方から一定の手数料を集める、ということをしています。

庶民が「政府に口出しする」どころか具体的な政策を要求して幕府がこれを呑んでいることがわかります。

いずれも高校教科書レベルで記されていることで、百田氏がなんで「千年以上、庶民は政府に口出しできなかった(直訴は極刑)。」などと説明されているのか不思議です。

 

さて、幕府の政策は「前例」の無いオリジナル、というのは実はほとんど無かったといえます。

いつか、どこかで、だれかが、すでにやっていることの焼き直し、誇張、アレンジである場合がほとんどです。

 

「目安箱」は、戦国時代からあったようなんですよね…

ですから、「これは日本史上初の画期的なシステムである。」(P203)というわけではありません。

吉宗の投書受付箱は、何と呼ばれていたかはよくわかっておらず、明治時代になってから吉宗の投書箱を「目安箱」と呼ぶようになりました。

「捨て文」という方法で政治に関する訴え(密告)をすることが17世紀終わりごろから増えました。『御触書寛保集成』の中には「目安箱」設置の目的が書かれていて、「捨て文」を防止するために始めた、ということが記されています。

「無記名」禁止、住所・氏名が必要で、「政治に関すること」「役人の不正」以外の訴えは認めていません。

 

領地の庶民の意見を聞く、というのは、武家ではよく見られました。

北条氏康なども庶民の訴えを聞くために「目安箱」を設置していたようです。

 

家之事、慈悲深信仰専順路存詰候間、国中之間立邪民百姓之上迄、    無非分為可致沙汰、十年已来置目安箱、諸人之訴御聞届、探求候

    事、一点毛頭心中ニ會乎偏頗無之候間…

                   五月廿八日氏康金剛王院御同宿中

               北条氏康書状・『安房妙本寺文書』

 

「民百姓の上までも非分なく裁断するため、十年来、目安箱を置いて諸人り訴えを聞き届け…」という表現がみられるのがわかります。

武田信玄も、同じように目安箱を設けていたようなのですが、こちらは『甲陽軍艦』に出てくる話なので後の創作かもしれません。

 

「近代の先進国でもおそらく初めてのことではないだろうか。」というような説明を百田氏は好まれますが、そもそも中世ヨーロッパの諸都市ではすでに市民が市政の運営をおこなっていましたし、13世紀のイギリスでも、都市の代表や地主などが貴族とともに議会を形成していました。違う形で人々の意見を吸い上げる制度ができていましたから、「投書箱」という形式をとっていないだけです。庶民の訴えをお上が聞き届ける、という形式はむしろ前近代的といえるでしょう。