【70】「正徳の治」を誤解している。
「家宣は将軍になると、ただちに『生類憐みの令』を廃止した。そして学者の新井白石を侍講(政治顧問)に登用して、元禄時代に改鋳した貨幣の金銀含有量を元に戻した。これによって幕府の財政も悪化したが、同時に市中に出回る貨幣の流通量が減り、日本全体がインフレからデフレへ転換し、世の中は不景気となった。このあたりが経済の不思議なところである。」(P201)
「正徳の治」をまず、たいへん誤解されていて、誤りがあります。
百田氏は「正徳の治」の貨幣改鋳が2回行われていたことをご存知ないようです。
誤解① 家宣は貨幣の金銀含有量を元に戻していない。
家宣が「正徳小判」を発行したと思い込まれているようです。「正徳小判」は「元禄小判」の前、すなわち「慶長小判」の金銀含有量にもどしたものですが、これは1714年の発行です。家宣は1712年に死んでいて、「正徳小判」は家継の代の1714年に出されました。
誤解② 家宣の経済政策の担い手は新井白石ではなく荻原重秀であった。
家宣の時に貨幣改鋳をおこなったのは、実は勘定奉行の荻原重秀です(かれは「正徳の治」でも経済政策を担当をしていました。綱吉が死んで家宣になった段階で勘定奉行荻原重秀が解任されたと勘違いされているのではないでしょうか)。
1711年に出された「宝永小判」は金の量はさらに減らされ、しかも全体の重量は元禄小判の半分しかありませんでした。しかし、「元禄小判」だけではなく、この小判への交換は進まず、「慶長小判」は退蔵されつづけ、荻原重秀による通貨政策はここに完全に失敗したのです。
私は、荻原重秀を再評価している派ですが、それはあくまでも佐渡金山の再生や東大寺大仏の復興、元禄検地についての業績です。彼の経済政策はやはり失敗で、ましてや「金融緩和政策」などではありませんでした。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12431319509.html
元禄小判は「改鋳前の一両と改鋳後の一両の貨幣の価値は変わらず」(P180)と百田氏は説明されていましたが、「慶長小判」は死蔵されたままで交換が進まず、各藩が持っていた「慶長小判」を幕府は何とか引き出そうとしましたが藩は一切応じていないのです。グレシャムの法則の通り、「悪貨が良貨を駆逐する」というのは正しかったといえます。
『江戸の貨幣物語』(三上隆三・東洋経済新報社)
『近世銀座の研究』(田谷博吉・吉川弘文館)
それから、1707年には富士山の噴火による大被害が各地に出ます。荻原重秀はこの被害救済のために「増税」しました。
全国の大名に諸国高役金をかけ、100石につき金2両ずつ復興金を集めたのです。
集まった金は約49万両でしたが不思議なことに、復旧に使用されたのは6万3000両で、残りの40数万両は、ほかのことに流用されました。何かを名目として税を集めて、別の使徒に用いる、という経済政策だったことも忘れてはいけないところです。
さて、「宝永小判」は、金の含有量も少なく(「慶長小判」の金の量の半分)、おまけに全体の重量も半分であったため、「二分小判」と揶揄され、幕府の貨幣政策についての信用は著しく低下してしまいました。まさに『三王外記』が揶揄したように「幕府の貨幣は瓦礫同然」だったのです。
家宣が死の床にあったとき、新井白石はようやく荻原重秀を勘定奉行から解任し、1714年、「慶長小判」とまったく同じ「正徳小判」を発行し、「元禄小判」・「宝永小判」で混乱した貨幣流通を回復させました。
さて、「正徳の治」については百田氏の扱いはきわめて過小です。
通貨政策にしか言及しておらず(しかもその事実を誤認して説明している)、「長崎貿易」の制限にも触れず、「朝鮮通信使の接待簡素化」にも触れていません。
さらには「閑院宮家の創設」にも触れていません。
それまで宮家は、伏見・桂・有栖川の3家しかなく、多くの皇族が出家して門跡寺院に入室してしまっていました。
新井白石は費用を捻出し、閑院宮家を設立して4家とするのですが、のちに皇統断絶の危機が訪れるのですが、この閑院宮家から天皇が出ることになります。百田氏がこの話にまったく触れていないのは、不思議な気がしました。
やはり、「江戸時代においては政治の表舞台にまったく登場しなかった『天皇』」(P230)と説明されているように、江戸時代の幕府と朝廷の関係をかなり低く評価されていることがわかる部分です。