『日本国紀』読書ノート(69) | こはにわ歴史堂のブログ

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69】やっぱり「百姓一揆」と「農民」を誤解している。

 

歴史の説明の基本は、「いつの話か」「どこの話か」「だれの話か」です。

小学校の教科書は、この「型」を外してはいません。

 

「百姓一揆」や農民の生活を、「江戸時代」で一つにくくって説明するのは無謀です。

江戸時代は二百六十余年あります。

①いったい「いつの」時期の話なのか?

 

江戸時代は、「幕藩体制」で、藩ごとに法律も経済運営も違います。幕府の支配地域と大名の領地ではまったく異なることも起こっています。

②いったい「どこの」村の話なのか?

 

二百六十余年の歴史の中で、農民の社会構造も変化していきます。

「士農工商」の「農」は一つでは無く、本百姓・水呑百姓、田畑を失った小百姓など、農村内部でも身分の差・貧富の差がありました。

③いったい「だれの」話なのか?

 

まず、①の「いつの話か」ということで言うならば、「一揆」は時期的には4つに分けられます。

 

17世紀前半は、中世の名残があり、武力蜂起や逃散、というものがみられました。

江戸時代にも土一揆的な一揆は起こっていて、件数的には約160件みられます。

17世紀後半は、「代表越訴型」といいます。

代表者が、地元の代官の不正・厳しい年貢の徴収などをもう一つ上の組織・領主に訴える、というものです。

 

「江戸時代の一揆は、農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどである。」(P200)

 

と説明されていますが、これは「代表越訴型」の一面を示したものにすぎません。

これとて、首謀者は厳しく取り締まられました。下総の佐倉惣五郎、上野の磔茂左衛門のような「義民」伝説が生まれた背景はこれです。

 

17世紀末からは「惣百姓一揆」の段階に入ります。藩領全般にわたるものも多く(全藩一揆)1686年の信濃松本藩の嘉助騒動、1738年ま陸奥磐城平藩の元文一揆があげられます。

年貢の増徴や新税の停止、専売制の撤廃などを要求し、藩に協力している商人や村役人の家を打ちこわすなどの実力行動もとっています。

「武士と争うような一揆」(P200)はなくとも、商人や村役人に対してはかなり乱暴狼藉を働いています。

これに村内での争い(富農と小作人の争い)である「村方騒動」を入れると、「交渉する」という穏便なものとはいえず、村方騒動は1710年代以降、増加の一途をたどっています。

 

最終段階は、開国にともなう国内の混乱と諸物価高騰による一揆で、国学の尊王思想が地方にも拡大したことも背景にあり、一揆の中で(口実として)「世直し」が叫ばれるようになりました。これが「世直し一揆」というものです。

 

②の「どこの話か」というのも重要です。

百田氏の一揆の説明は、幕領での一部の状態です。

大名領の年貢率は大変高く、一揆も「暴力」をともなうものが多く、前述の四段階をふんで、とくに過激になっていきました。

ところが19世紀前半、安定していたはずの幕領にも変化があらわれます。

1836年、甲斐国の郡内や、三河国の加茂で一揆が起ったのです。

郡内では80ヵ村1万人規模の一揆、加茂では240ヵ村1万2000人の一揆でした。

これが幕府に与えた衝撃は大きく、翌年の大塩の乱とあわせて、天保の改革の契機となった、と教科書では説明します。

 

従来の一揆の「イメージ」を否定しながら、実は、別の「一部の時期の一部の場所の一部の農民のイメージ」で「一揆の全体像」を語ってしまっています。

「悲惨な農民のイメージは一種の印象操作」(P198)と指摘されていますが、これでは逆の印象操作に陥ります。

「時期・場所・階層」別に一揆をとらえないと、「一揆のイメージ」の振り子が逆に振っただけになってしまうのです

 

「江戸時代の農民は人口の約八割を占めていた。よく考えればわかることだが、収穫した米の半分を年貢で取るということは、残りの二割の人口でそれを食べていたことになり、それはあまりにも不自然である。また人口の八割がヒエやアワばかりを食べていたならば、日本のほとんどの農地がヒエ畑やアワ畑だったということになる。」

(P198)

 

というか、よく考えたらわかることですが、ムギは二毛作ですし、別に畑も農民は所有しているので家族が食する分のアワ・ヒエなどはちゃんと栽培できています。

 

寛政3年(1791)から三年間、上野国高崎藩の郡奉行が記録(『地方凡例録』)には当時の標準的農家の例が紹介されています。

 

[家族]5人(耕作者3人・幼老2人)

[耕作地]二毛作ができる水田4反・畑1反5畝

[収穫]米6石7斗2升

[裏作]麦2石4斗

[畑]ヒエ3畝7斗・アワ3畝6斗・イモ2畝3石2斗・小豆1畝1斗2升

残りで野菜類を生産しています。

[総収入]1532分銭34

ここから年貢・生活費を引くと1両1分37文赤字でした。

 

ヒエやアワばかりを食べていても、日本の耕地がヒエ畑やアワ畑になることはありません。

問題は、この「慢性的赤字」をどのようにして解消していたか、です。

高崎藩の場合は、農民たちは夜に養蚕に励み、タバコを作ったりしています。

また入会地の山林を利用して炭を作るものもいました。

富農の稲作・麦作を1日100文、馬を借りて労役をして200文、というようにアルバイトでまかなっていた者もいます。

「農民は着実に富を蓄え、休日を増やしたばかりか、村祭りなどの機会を利用して娯楽を享受するようになっていた。」(P199)

 

というのは、一面的な見方で、「富みを蓄えていた」のではなく、日々の赤字を補填するために、養蚕・たばこ作り・商品作物作りに勤しんでいたことがわかります。

江戸に近い北関東の農村ですから、まだなんとかなりますが、都市の発達していない地方の農村の窮状は容易に想像できます。

「休日を増やした」というのは何のことを言っているのかわかりませんし、村祭りによる娯楽というのは支配者が農民の不満をそらす、緩和するための行事、という側面もあったことを忘れてはいけません。

 

③の「だれの話か」という側面はより重要です。

「享保の改革」後、18世紀後半は、幕藩体制の大きな曲がり角になりました。

村では、一部の有力な農民が、村役人をつとめて貧しい農民を年季奉公人として使役するようになる地主経営がみられるようになります(「地主手作」)

農地の売買は禁止されていましたが、実は抜け道があり、困窮した農民にカネを貸し付け、返済不能になった場合、土地の「利用権」を質にとって事実上「買い集めた」のと同じような方法をとりました。

田畑を失った小百姓は小作人となるか、年季奉公や日雇いに従事し、江戸や大坂などの大都市に流入していくことになります。

 

田沼意次の政治を後に百田氏は絶賛されていますが…

 

「悪化していた幕府の財政を立て直すため、それまでの米中心の経済から、商業振興策へと転換を図った。」(P206)

「積極的に商業振興策をとったことで、幕府の財政は大いに改善され、社会の景気も良くなった。町人や役人の生活も、それまでの米を中心としたものから金銭中心となり、近代的な経済社会へと急速に近づいた。」(P207)

 

しかし、この商業の発達は、農村から流入した「安価な労働力」と貧しい農民の労働を利用した富農の商品作物栽培によって支えられていたのです。

人口の8割以上が農民で、その生活によって2割に満たない武士・町人の生活が米から金銭中心に変わっても「近代的な経済社会へと急速に近づいた」とはとても言えない状態でした。