『日本国紀』読書ノート(68) | こはにわ歴史堂のブログ

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68】江戸時代の農民は土地の「所有者」ではない。

 

「日本にはヨーロッパや中国で見られたような農奴は存在せず、また世界でも非常に珍しいことだが、古くから農民が土地を所有していた。諸外国では土地は封建領主のものであった。」(P199)

 

おそらく「農奴」という語句に「奴」という文字が入っているため、「農奴」という意味を誤解されているのかもしれません。

実は、日本の江戸時代の農民は、権利・義務の面からみればヨーロッパの「農奴」とあまり変わりません。

 

ヨーロッパでは、封建領主の持つ荘園は保有地と直営地に分けられます。

保有地、というのは農民に貸与された土地で、農民はそこに住みそこを耕し、生産物の一部を地代として納めました。これが「貢納」です。

直営地、というのは領主の土地で、農民はそこで労働して農作物を生産しました。そこで生産された農産物はすべて領主に納めました。つまりは、「働く」ということが税で、これが「賦役」です。ここから転じて封建領主は、領地内で農民を自由に使役できる、という特権が一般化します。

農民のうち、貢納と賦役の二つの義務を持ち、結果その土地からの自由な移動が認められていない状態の農民を「農奴」と表現します。

江戸時代の農民も年貢を課せられただけでなく、助郷役など労役も賦課されていました。旅行なども制限を受けて、移動の自由はありません。形式的には農奴とよく似ています。

ヨーロッパでは西欧の場合、直営地はすべて保有地になりますから、賦役から解放された分、中世後期には江戸の農民よりも独立性は高くなります。

 

ところで、日本の農民の歴史なのですが…

ちょっと雑ですが、できるだけ短く説明しちゃいますと。

 

もともとは日本の土地は「公地公民」で、農民は「口分田」を与えられ、そこ耕作しますが、その土地は死ねば返還しなくてはなりませんでした。これを「班田収授」といいます。そして農民は、税として「租庸調」を納めていました。

 

やがて10世紀になると班田収授が行われなくなり、口分田は返還しなくてもよくなってしまいました。

こうして農民は、その土地を世襲できる耕作者となりました。ここから農民は「()()」と呼ばれるようになります。

そしてその土地は、田堵の世襲した土地には違いありませんが、あくまでも「公領」。口分田とは呼ばれず「名田」と呼ばれるようになります。彼らは、税も今まで通り納めました。「租」は「官物(かんもつ)」と呼ばれる税となります。

今までは、戸籍を用いて「人」に税がかけられていましたが、班田収授が無くなりましたから、ここからは「土地」に課税されたのと同じになります。

死んでも返さなくてもよい口分田が「名田」で、それを耕して税(「官物」)を納める農民が「田堵」です。しかし、あくまでも土地は「公領」でした。

一方で、「荘園」にも農民はいました。基本的に構造は同じで、荘園領主から土地を預かって耕し、年貢を領主に納めるわけです。やはりここでも農民は土地の所有者ではなく耕作者です。

平清盛も源頼朝もこれら荘園・公領に家人を送り込みます。これが地頭。やがて国司や荘園領主に代わって税を取り立てて、国司や領主に納める徴税請負人となっていきます(地頭請)。が、その税の一部をピンはねするような者も出てきました。こうして領主は土地を二つに分けて、一方の地頭の支配を認めます。これが「下地中分」。

でも、「上」が変わっても農民は変わりません。土地を耕し、やっぱり年貢を納める…

つまり、農民は土地所有者ではなく、耕作者なのです。

 

そもそも、「太閤検地」の説明で、

 

「特に、課税対象者を、土地の所有者ではなく、耕作者にした点は出色だ。これによって長らく存在していた土地の中間搾取者が一掃され、同時に奈良時代から続いていた荘園制度がなくなり…」(P152)

 

と百田氏はハッキリおっしゃっています。

百田氏の頭の中では、いつから農民は耕作者で無くなり土地所有者になったのでしょうか。

 

農民が土地所有者となるのは、1873年の「地租改正」からです。

年貢を納めていた者に地券を発行して土地所有者とし、納税者としました。これにより、武士が年貢を受け取る「知行権」が否定されて封建制度が実質的に崩壊することになります。

ところが、土地所有の大転換となった「地租改正」の説明は、

 

「地租改正によって、江戸時代には禁じられていた田畑を売買することが許され(田畑永代売買禁止令解除)、また土地に税金が課せられることになった(地租改正条例)。」(P293)

 

というたったの二行で終わっています。P291P294の「驚異の近代化」の様々なものは、「地租改正」によって集められた税によって実現したのに、地租改正の中身も不明ですし、明治の近代化の原動力となった税の大変化が何もわかりません。

なにより、これで確立されることによる「寄生地主制」がさまざまな社会の弊害をもたらして後の日本史に大きな影響を与えるネタフリになるのに、これでは何も説明していないのと同じです。

 

ところで、「日本が世界でも珍しく農民が土地を所有していた」、という考え方はどこから生まれたのでしょうか。

これ、実は、小説や随筆の中で司馬遼太郎が述べていることの誤解なんですよね。

 

「武士という存在は不思議で、彼らは土地の所有者ではなく、その点、ヨーロッパの領主とは異なる。」

 

という言い方で、「知行権」を説明しているところがあります。

武士は、土地の支配権とそこに属する農民の支配権を持っているわけで(知行権)、農民や土地を私有財産のように扱うヨーロッパの領主とは違いますが、だからといって農民が土地の所有者であったとはいえません。

つまり、「武士が土地所有者ではない」と言えなくはないですが、だからといって「農民が土地所有者である」とも言えないのです。

 

変な話ですが…

現在の土地の権利関係・土地所有関係で説明するならば、江戸時代の土地は「だれのものでもなかった」となっちゃいます。

前から言いますように、ここでも「現代の価値観で当時のコト・モノを考えてはいけない」ということが言えるかもしれません。

 

以下は蛇足ながら…

 

家屋敷のある下の土地には、近世の場合、土地の所有権が認められていたようです。上の建物は火事などですぐに消滅するので家屋の所有概念は江戸時代には生まれにくかったようです。

その土地の「権利」を誰かに売る場合、町役人が相互に確認して書類がつくられました。これが、

 

「沽券」

 

です。買い取ったり担保としたりする場合、沽券が作成されて土地の値打ちが明らかにされました。ですから一度も売買されていない土地には「沽券」は存在しないので、現在のような権利書とも少し違いますね。

いうまでもなく、自分の土地の価値・値打ちの証明書みたいなもんですから、後に、

 

「沽券にかかわる」

 

という慣用表現が生まれました。