【65】荻原重秀は、ケンイズを二百年以上も先取りしていた、とはやっぱり言えない。
まずは、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが…
「戦国時代から江戸時代初期までの日本は、世界有数の金銀銅の産出国だった。…しかし江戸初期に鉱山産出量のピークが過ぎ、収入が減った中期以降は財政が苦しくなった。」(P180)
「鉱山産出量のピークが過ぎ」とありますが、これは不正確です。ピークを過ぎたのは金と銀。
17世紀後半になると金銀の産出量はたしかに減少しましたが、かわって銅の産出量は増加しています。これが背景となり、銅は拡大する貨幣の需要に応じられるようになり、長崎貿易の最大輸出品になりました。
これは教科書にも明示されていて、大学入試の正誤問題でも狙われるポイントです。
「そこで幕府は元禄八年(一六九五)、貨幣の金銀含有量を減らす改鋳を行なった。」(P180)
と説明されていますが、貨幣の改鋳は「鉱山の産出量のピークが過ぎ」「収入が減った」ことを背景とはしていますが、最大の理由は「明暦の大火」後の江戸城及び市街地の再建費用、寺社造営費用が大きな支出となったことです。
さて、百田氏は「荻原重秀」の再評価を提唱されています。
実は、わたしも荻原重秀の再評価派なのですが…
「だが、この元禄の改鋳は見方を変えれば、江戸時代の日本が世界に先駆けて近代的な管理通貨制度を採用した画期的な出来事だったといえる(ただし完全ではない)。」
「この時、改鋳前の一両と改鋳後の一両としての価値は変わらず、むしろ市中に多くの貨幣が出回ったため、インフレにはなったものの景気はよくなった。これは現代の経済用語でいえば、『金融緩和政策』である。」(P180)
「貨幣改鋳による金融緩和政策で、元禄期に好景気をもたらしたのは、勘定奉行の荻原重秀である。」(P184)
と、説明されています。そしてさらに、重秀の言葉として、
「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代わるといえども、まさに行うべし。」
というものを紹介されています。
これ… 実は、誤解なんです。
経済学者の方や金融アナリストの方などが、これを荻原重秀の言葉と信じて飛びついてしまい、現代的に解釈して、「政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証される。したがって通貨が金や銀である必要はない(瓦礫でも代用できる)」という現代に通じる「固定信用貨幣論」を打ち立てた、と、説明しちゃったんですよ…
ネット上の説明も(Wikipediaなども)そう説明してしまっています。
この言葉、実は荻原重秀の言葉かどうかあやしいのです。
例の、ゴシップ書『三王外記』に記されたもので、貨幣の金銀含有率を下げて質の悪い貨幣を改鋳させた荻原重秀を皮肉った、というか、揶揄したというか… 例の「隆光がイヌを大切にしたら後継者が生まれます。」と言った話と同じように、『三王外記』の作者が類推して荻原重秀がこう言った、と記したものなのです。
貨幣の質を下げた下げた、とうるさいんじゃ! 貨幣なんて瓦礫でもええわ! と愚かにも言いました、という話になっているんです。
もし、仮に本当に荻原重秀が言ったとしても、意味は、書いてあるそのまま。
10年くらい前に一時、よく言われた(『勘定奉行荻原重秀の生涯』村井淳志・集英社新書)のですが、現在では荻原重秀の言葉では無いと考えられていて、荻原重秀の貨幣改鋳については、概ね出目稼ぎが目的で、物価高をもたらした、と理解されています。「教科書に書かれない」のは、ちゃんと理由があってのことです。
何度も申し上げますが、現在の価値観で、当時の人の言動を判断してはいけない、というのはまさにこのことです。
それから「目的」と「効果」を誤解してはいけません。
たとえば、「参勤交代で交通が発達した」と説明してもよいですが、「交通を発達させるために参勤交代を始めた」としたら誤りですよね?
荻原重秀は財政難にあたって「出目」(質を下げてできた金の差益)を稼ぐために実施しました。「金融緩和」が目的でも「ゆるやかなインフレを発生させて景気をよくする」のが目的でもありませんでした。
検地、佐渡金山の再生、東大寺大仏殿再建、代官の官僚化、という実績は高く評価できますが、経済政策については「ケインズより二百四十年も早く」マクロ経済を先取りしたとはいえません。