徳川綱吉。5代将軍です。この人もコヤブ歴史堂の第一回で取り上げた人物でした。
この人も、もともとは将軍になる予定ではなかった人物です。父は徳川家光で、兄の家綱が4代将軍となりました。
ところが家綱に子がないままに40歳で死去、次兄もすでに死去していたこともあり、綱吉が将軍になりました。
将軍の嫡子は、時期将軍のための「作法」を子どものときから仕込まれ、いわゆる帝王学をたたきこまれます。
ところが、そういうこと無しに(父、家光は儒学を綱吉には勉強させましたが)将軍となってしまったものですから、譜代大名や、幕府の老中などから、ちょっぴり侮りを受けていたようなのです。
いや、そのことは綱吉さんの「被害妄想」だったのかもしれませんが、結果として、家康以来の譜代の臣よりも、側用人など自らの側近を信頼してしまうことになった、ともいえなくもありません。
さて、綱吉の政治、と言えば、たいていの方が
生類あわれみの令
というのを思い出し、犬などの動物を過剰に保護した、というイメージを持たれているかもしれません。
最近は、「悪政」の代表としてとらえられている綱吉の政治は、「いやいや、なかなか立派な政治家だった」と再評価されるようになりました。
殺伐とした戦国時代の気風が強く残っていた時代で、武士たちもまだ、安易に人を殺す、ということもしていたようなのです。
辻斬り、というのをご存知ですか?
3代家光のころまでは、江戸の町でもけっこう頻繁におこっていたようで、あの水戸黄門さまも、若い頃に身分の低い男を刀の試し切りと称して、「辻斬り」まがいのことをおこなっていたようなんです。
綱吉はそういう時代の空気を一掃した政治家であった、という評価です。
服忌令、といって、身内が死んだときは仕事を休んでもよい、という後の日本ではごくあたりまえの習慣も綱吉の時代から始まりました。
生類あわれみの令も、都市では混乱を招きましたが、農村部では、「狩猟を禁止する」という名目で、農村に残っていた鉄砲という武器の回収に成功しています。新・刀狩令だ、と、いう考え方もできます。
犬を食べる、という習慣もこのころの日本にはまだありましたが、綱吉の時代以降、ペット、つまり愛玩動物を大切にする、という「文化」も広がります。
ゆえに、綱吉の政治は悪くはなかったのだっ
というのが昨今の歴史学の中では唱えられるようになりました。個人的には、やはり綱吉の政治は変だった、やっぱり生類あわれみの令は、どんなリクツをつけても、「悪法」と言ってもいいんじゃないの? と、思ってしまうのですが…
ただ、綱吉の時代は、現代に通じる日本人の独特の性質があらわれた時代でもある、と、思っているんです。
将軍さまが動物を大切にせよ、と、おっしゃっているぞっ
と、なったとたん、部下にそれらが伝達されて法制化していくうちに、ついつい大げさに、言うてもいないことが拡大解釈されたりしてどんどん進んでいった…
自分の娘、鶴姫を愛するあまり、庶民は「鶴」という名前を使うなっ と、発令した「鶴字法度」なども、将軍さまが娘を溺愛している様をみた側近たちが「うえさまのお気持ち」をくみとって、こんなことしたらどうでしょう、と、なってできた法令かもしれないのです。
この点、番組では、見事にコヤブさんがその感じを読みとってくださってうま~く、おもしろくたとえ話をしてくださいました。
もし、ビデオなどに録画されている方がおられたなら、是非、もう一度見直してみてください。
上のえら~いお方がこうおっしゃったぞ。
上のえら~いお方は、おそらくこう思われているに違いない。
べつに言われてはいないけれど、こうしておいたほうがいいかなぁ~
いや、それはやってはいけないやろ
お互い顔を見合わせて、読まなくてもよい空気を読んで、誰もダメだと言っていないことも気が付いたらダメになっている…
世の中の「悪法」、「悪習」というのは、誰か支配者がそうしたものではなく、支配者に阿(おもね)った者によって作られたり助長されたりしたものである、というような気がします。
徳川綱吉さんは、そんな日本の独特な文化がつくられた時代を代表している人物なのかもしれません。
うま~く悪役にされやすい状況に身を置いてしまった、という感じです。