『日本国紀』読書ノート(64) | こはにわ歴史堂のブログ

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64】5代「綱吉像」は誇張と虚構で誤解されている。

 

徳川綱吉は、時代劇ドラマなどでずいぶんと誇張されてしまい、誤解されています。

 

実は、天災・疫病などが起こると「仁政」を敷く、というのは古来からあり、たとえば光明皇后による社会福祉も、当時の天然痘の流行の関係などから説明する場合もあります。

大きく取り上げられないだけで、「殺生」を禁ずるお触れ、というのは歴史上、度々出されていたようです。

人口が増え、都市に人口が集中し、中世とは比較にならないくらい大都市が形成されるようになると、「世論」というのも江戸時代に生まれるようになりました。

一連の「仁政」に関するお触れをまとめて「生類憐みの令」とくくって、批判してしまいますが、庶民に揶揄されたり、具体的な「迷惑」が発生してそれを皮肉ったりすることが中世に比べて表面化したのは、元禄文化の発達・町人の成長が背景にあったのです。

 

綱吉の「失政」を増幅した史料として二つのものがあげられます。

一つは新井白石による前政権批判の日記類です。

新井白石は、綱吉時代の政治をかなり嫌っていて、次の6代家宣の治世を持ち上げます。(後の8代将軍となる吉宗などは、そういう新井白石の姿勢を批判していました。)

その日記では、「生類憐みの令」がかなり庶民を苦しめていた、それを家宣さまが廃止された、家宣さま素晴らしい! みたいな感じに記されていて、これをもとに戦前の研究者たちは綱吉の政治をまとめてしまったので、戦前の教科書から戦後1980年代まで、「綱吉の治世」=「悪政」というイメージが定着しました。

 

さて、もう一つが『三王外記』というものです。

綱吉・家宣・家継の治世を記した「歴史書」、というように扱われていた時があったのですが、これ、実は当時の「ゴシップ集」なんです。誇張・虚構をとりまめとめた話がたくさん出ていて、現在ではここに記された記事だけで当時の説明をする近世史家はいません。

 

綱吉の母、桂昌院が隆光という僧から、「綱吉公は戌年生まれだからイヌを大切にすれば後継者が生まれます。」と言われて、綱吉に「イヌを大切にしなさい!」と告げたために生類憐みの令が出された、みたいな話を聞いたことありませんか?

あれ、『三王外記』だけにしかみられない話で、かんじんの隆光もそんなことをいっさい記録にも残していません。

それどころか、綱吉はイヌ好きじゃなかった、というのがわかりつつあります。

大奥の女性たちの中で「狆(ちん)」というイヌが愛好されてブームになっていたこともあり、それとどうやら混同されて庶民の間に広がったようです。(芸術家でもあった綱吉は、たくさんの絵画を残しています。しかし、イヌを描いた絵が一枚もないんですよね…)

 

コラムで紹介されている「能狂い」・「鶴字法度」に関しても、『三王外記』と同じような誇張がありました。

 

綱吉の長女鶴姫は、紀伊の徳川綱教と結婚します(1683)。ところがその後、綱吉の長男徳松が病死してしまいました(1685)

このため、鶴姫の夫綱教が次期将軍候補となり、鶴姫が次期「御台所」となるわけです。

当時、「避諱」という考え方があり、高貴な人の名前の一字を避けて使わない、という慣習がありました。そこで高貴な身分に格上げされた鶴姫にも「避諱」が適用されることになり、「鶴」という文字を避ける、ということになったのです。

娘を溺愛するあまり「鶴の字を使うな!」という話は、ちょっと割り引いて考えないといけません。

もし、ほんとに溺愛して「鶴」という字を使うな、となれば、生まれた時から、あるいは婚姻が決まった時からでもよかったはずです。

ちなみに、伊達政宗の名前の一字「宗」が「避諱」とされ、仙台藩で「宗」という字を避けられた、という話もあります。また、後に幕府が朝鮮に送った手紙の中に、朝鮮国王の「諱」が使用されていた、という抗議を受けたときに、新井白石が「そっちだって家光公の諱の一字『光』を使っているぞ」と言い返していたりします。

 

現代の価値観や感覚で、当時の人々の言動を評価してはいけない、ということを申しましたが、このあたりにそれがよく出ていると思います。

 

「綱吉の馬鹿げた法律は『生類憐みの令』だけではない。『鶴字法度』というものもある。綱吉は長女である鶴姫を溺愛するあまり、鶴姫が十一歳の時、庶民が『鶴』の字を使うことを禁止したのだ。…ここまでくると、完全なバカ殿である。」(P178)

「綱吉は自ら舞うだけでなく、側近や大名にも強制した。貞享三年(一六八六)に江戸城において能の大きな催しが行われたが、錚々たる大名が綱吉の命を受け、慌てて稽古に励んで能を舞っていたという。まるで落語の世界である。」(同上)

 

鶴の字の避諱も、貞享三年の能会も事実ですが、「落語の世界」ではなく「江戸のゴシップ記事」に記された「誇張の世界」であったことも忘れてはいけません。

 

綱吉については、朝日放送『コヤブ歴史堂』でも取り上げて、しかも「鶴字法度」のお話しもさせていただきました。

以前にまとめた話があるので以下に添付しておきます。よければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11753679423.html