『日本国紀』読書ノート(61) | こはにわ歴史堂のブログ

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61】「鎖国」をしないで海外進出していたら「徳川の平和」などなかった。

 

「一国平和主義」というおもしろい術語が用いられ、「…二百年以上も続いたのは地理的条件に恵まれていたからに他ならない。」と説明されています。

むろん、「地理的条件」は重要ですが、逆に「開国」を求められている条件もまた「地理的条件」にあったことも確かです。

つまり、時代によって「地理的条件」の意味が変わってくるからです。

当時の世界情勢によって、日本の地理的条件は変わっていきました。

 

刀狩令が出された1588年は、前にも説明したようにスペインがイギリスの無敵艦隊に敗れた年です。

以来、「スペイン・ポルトガルによる大航海時代」は終わりに近づき、かわってオランダ・イギリスが台頭していきます。

イギリスは1600年に東インド会社を、オランダはその二年後に東インド会社を設立し、対外貿易を進めるようになりました。

リーフデ号が日本に漂着したのが1600年で、オランダ人のヤン=ヨーステンとイギリス人のウィリアム=アダムズがこれを契機に徳川家康の外交顧問になります。

イギリス・オランダに有利な(ポルトガル・スペインに不利な)「偏った世界情勢」だったとしても、ポルトガルに対する糸割符制度の導入などは、国際経済の動向にマッチしていました。また、後にスペイン船の来航を禁止(1624)しえたのは、「スペインの力が失われている」という国際情勢があったからです。

 

この間、オランダはインドネシアのバタヴィアを根拠地としてポルトガル商人を排除します。(このことも後に1639年にポルトガル船来航禁止が可能になる背景でした。)

やがて東南アジアの交易をめぐりイギリスと対立するようになり、アンボイナ事件を契機に(1623)、イギリスはインド経営に、オランダは東南アジア貿易に力を注ぐように(あたかも役割分担をするように)なります。

オランダは、東南アジアは植民地として「原料供給地」に、日本・中国は「市場」とした経済ネットワークを組みます。「鎖国」はオランダから見れば、日本との「独占貿易」です。

実際、日本の伊万里焼を東インド会社が独占的に購入して、「景徳鎮焼き」のコピー商品としてヨーロッパに流通させました。

こういう国際環境・国際経済を背景とした地理的条件が「鎖国」を成功させて利益をあげています。

 

百田氏にならって「起こりえなかったことを論ずる」(P172)タブーを破って説明するなら、コラム(P172P173)に記されているように、江戸幕府が日本人の海外進出を認めたり、積極的に勧めていたりしたならば、オランダの経済ネットワークへの挑戦となり、「大東亜文化圏」のようなものが生まれるどころか、オランダやイギリスとの貿易戦争が展開され、「二百年以上」続いた「徳川の平和」などありえなかった、という「可能性」もあったでしょう。

 

「鎖国」の評価は、実は振り子のように変化しています。

「四つの口」による貿易が確立されていて「鎖国」ではなかった、という考え方に振ったり、いや、やっぱり「鎖国は鎖国であった」と揺り戻しが起こったりしています。

 

ただ、はっきりしていることは、かつての説明のように、「鎖国によって近代化が遅れた」という視点ではなく、「鎖国をしていたから近代化が可能であった」という考え方に現在は立っている、ということです。

 

19世紀半ば、イギリスは自由貿易帝国主義、という段階にありました。

世界をイギリスにとって都合のよい地域に分類します。「原料供給地」として植民地支配とするか、「商品売買できる市場」とするか。その国・地域によって、「手法」を変える、というものです。

 

鎖国とは究極の「保護貿易」です。一例をあげると、日本は、鎖国前は「生糸」の輸入国でしたが、開国後は「生糸」の輸出国になっています。

安価な労働力を背景とした品質のよい商品が日本には有り、欧米は「市場」としての価値を日本に見い出しました。

P164で述べられている「貨幣経済が発達し」「豊かになった庶民による文化が花開いた」のは「鎖国」による保護貿易期間があったからで、それがゆえに、開国してからも世界に通用する(国際競争力の高い「生糸」「茶」などの)輸出商品を生産できたのです。

 

国際環境にうまく適合し、国際経済のネットワークの中に組み込まれたならば、軍事力による海外進出を図らなくても独立を維持して繁栄できることを江戸時代は証明しています。

また、同じように幕末・開国期の国際環境・国際経済ネットワークも、(偶然ながら)日本の近代化に有利に働きました。その話はまた後ほど。

(もし、機会があれば、拙著『超軽っ幕末史』の第1章をお読みください。)

http://www.achibook.co.jp/books/1161/