戦国女性の諸事情(4)行方不明の妻たち | こはにわ歴史堂のブログ

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戦国時代の妻には、“行方不明”者がけっこう多いんです。

たとえば、柴田勝家の“妻”。

 え? いやいや、柴田勝家の妻は「お市の方」でしょ?

というツッコミがすぐに入りそうです。

柴田勝家が織田信長の妹、お市を正室に迎えたのは彼が60歳のとき。
(大永二年生まれという説にのれば、という話ですが…)

それまでに、彼には“妻”がいなかったのか?

柴田勝家には、勝政・勝豊という二人の“子”がいますが、いずれも実子ではなく養子です。

前にも申しましたように、正室であっても男子がいない母は、この時代、けっこう行方不明になるんです。

いやいや、柴田勝家ほどの有名人に、もし“妻”がいたら、何か記録に残ったりしているはずだ。だからお市さんが妻になるまで、独身だった可能性もある、ということをおっしゃられる方もいますが、柴田家の「家政」そのものの記録がほとんど無いんです。

もともと、夫は軍事・政治、妻は家政・経済、という役割分担ができていたのが戦国時代より以前のことです。

家政そのものは、「奥向き」のことであって、あんまり“記録”としては残りません。

有名か無名かにかかわらず、「家」の内側の記録が残っているほうがむしろ稀なんです。
織田信長、豊臣秀吉、というレベルになって、ようやく物語などに取り上げられるものとして妻たちが登場しますが、それとて、「表向き」の政治・軍事の話をおもしろく脚色するために利用されていて、実像を正しくは伝えていません。

正室の北政所と、秀吉の愛人淀殿は対立していた。
関ヶ原の戦いで、北政所が家康に味方した。
東軍に秀吉の家臣の大名が多く参加した裏には北政所が動いていた。

などなど、これらは史実ではありません。(ほんとうにそうだった、と、思われている方がいまでもたくさんおられると思います。)

もし、秀吉が信長の家臣時代、上京するまでの間で戦死でもしていたら、秀吉の“妻”すら「行方不明」となっていたはずです。記録には残らない…

柴田勝家には妻がいた、しかし、後継ぎがいなかった、どこかで離縁されているか、病死していた、となってもおかしいことではなく、むしろそうであった可能性のほうがはるかに高い…

信長という“有名人”の周辺にいた大名であっても、その“妻”が「外交上」の「婚姻関係」として「表向き」に出て来た場合のみ、記録に残り、そうでない場合、記録が残っているほうが少ないのです。

たとえば、織田家の重臣、林秀貞。(この人は、かつて林通勝と呼ばれていましたが、現在では通勝という表記は誤りとなっています。有名人ですら名前も正しく伝わらない場合があるのが実際なんです。妻妾のことが詳細にわかるのはかなり珍しい。)

信長が発給してきた文書で、この人の連署がないものがほとんどないくらい、織田家の政治上、重要な役割をしている人ですが、“妻”のことは不明です。母すらわかっていません。

滝川一益の“妻”も不明です。

 柴田勝家・林秀貞・滝川一益

みな、妻が行方不明です。

いや、それを言うなら、織田信長すら、正室は“行方不明”。

 いやいやいや、濃姫さんでしょ! 斎藤道三の娘の!

という鋭いツッコミが入ってきますが、これとて先に示した「表向き」の外交上の婚姻関係で明らかになっているから記録に残っているだけで、実子の無い母、というのは、本来その存在は消えていくものでした。

実際、斎藤道三死後、織田信長上京後の、濃姫の動向は不明なことが多い…

そもそも、「濃姫」は名前ではありません。

「知っているよ、美濃からきた姫だから濃姫って呼ばれているだけで、ほんとは帰蝶なんでしょ?」

と、言われる方もおられるかもですが、これ、実は江戸時代に書かれた本に見られる記録で、実際の彼女の名前は「不明」なんです。

話をすっ飛ばしますが、あの、源頼朝の妻、「北条政子」すら、本名はわかっていません。

「政子」の名前は、頼朝の死後、高位についたときに父の名、時政の「政」の一字を受けて

 “政子”

とされたので、ドラマや小説のように頼朝が妻に「政子」と呼びかけたことなど絶対にありません。

秀吉の妻も、同じリクツで、彼女の名前は、「豊臣吉子」。秀吉の「吉」の一字を受けています。
でも、こんな名前で呼ぶ人、いませんでしょ。

とにかく、戦国女性の名前は“不明”なことが多い…

さて、話を「濃姫」さんにもどしますと…

当時の習慣から言うと、美濃の稲葉山城から来た嫁なので、「稲葉山殿」と呼ばれていた、と言いたいところですが、実は当時、稲葉山城は「稲葉山城」とは呼ばれていないんです。
「井口城」という名前でしたから、

 “井口殿”

と呼ばれていた可能性があります。

それから、濃姫というと、本能寺の変で信長と一緒に死去した、という“演出”がドラマや小説ではみられますが、近年の研究や最近発見の史料などから、江戸時代初期まで生存していた、という可能性が高くなっています。

男子を生んでいないので、途中で離縁されたか、別居されていたか、はたまた信長の数多い妻妾ならびにその子たちを「家政の長」としてとりまとめていたものの「奥向き」のことゆえ記録には残らなかったのか…

男子の無き母は、夫の死後は、「表向き」のところから離れて、ひっそりと暮らす…
こういうことも考えられていて、政治・外交の局外にいる… よって命を長らえる、ということもあります。(その点、北政所の秀吉死後の境遇に似いているかも。)

むろん“行方不明”であるということと、実在しない、という話は別ですし、だからその間、何の役割も果たしていなかった、というわけではありません。

目に見える歴史の背景には目に見えない歴史が並走しています。

たとえば、ピアノの名曲。
私たちが耳にするのは“右手”の世界のメロディーライン。

でも、“左手”の世界の伴奏が無ければ、その曲には奥行が感じられません。

あたかも通奏低音のように、ずっと淡々と続く(それだけ聞いたら何かわからない、何もかわらない)動きがあればこそ「一曲」が完成しています。

目に見えない、けれど何かあった、というのが戦国大名の妻たちともいえます。