【57】戦国時代、男女の生々しいドラマは渦巻いていない。
歴史物語や小説では、「正室」おねと「側室」淀殿の話は、「女の戦い」としておもしろおかしく描かれるところです。
現在の男女夫婦の関係から、中世の、しかも武家の女性の話を捉えたり類推したりしてはいけません。
私が授業で何度も強調するのが「現在の価値観で、当時の人々の言動を判断してはいけない」ということです。
「戦国の世にはこうした男と女の生々しいドラマもまた渦巻いていた。」(P162)
と、ありますが実際のところ、どうだったのでしょう。
福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房)
桑田忠親『豊臣秀吉研究』(角川書店)『淀君』(吉川弘文館)
小和田哲男『北政所と淀殿』(吉川弘文館)
などがおもしろい視点を示してくれています。
現在では、おおむね「北政所」と「淀殿」は対立関係にはなく、協調的に豊臣家の存続を図ろうとしていたことがわかっています。
気が強く、わがままな「淀殿」のイメージは、一次史料では確認できませんし、「北政所」が関ヶ原の戦いで、小早川秀秋、福島正則や加藤清正に徳川家康の味方につくように示唆したことは、みな小説やドラマの演出です。
上記著作の、福田氏と小和田氏の説明の相違点は、「正室二人説」の時間的差異です。
淀殿・北政所が二人の正室であった、と、するか、最初は側室であったが、秀頼を産んで以後、「正室」となったとするか、の違いです。
太田牛一は、織豊政権期の一次史料を多く残している人物の一人ですが、その『太閤さま軍記のうち』では、淀殿を「北政所」と表記しています。
また、脇田晴子氏は、「日本中世史・女性史より」(『歴史評論』四四一号)でおもしろい指摘をされています。
『新猿楽記』にみえる「都合のよい三人の妻像」を示しているのですが、
①正妻 子を産む母-「産む性」
②次妻 家政能力 -「副家長としての性」
③三妻 若さと美貌-「遊ぶ性」
として、室町時代の武家では「正妻」は「産む性」としての役割が条件となっている、というのです。
これを豊臣秀吉の「妻たち」に比定していくと、家政を担当していたのは「おね」であって、むしろ彼女の立場は「次妻」で、秀頼を産んだ「淀殿」こそが「正妻」に該当する、というわけです。
淀殿は、あるいは③の立場であったが、子を産んだことで①に格上げされた…
子どものいないおねは、②と①を兼務していたが、秀頼が産まれたために①ではなくなったものの、子どもがいなかった間、長く豊臣家の正室としての役割を果たし、朝廷にも認められていた存在(官位を得ていた)であったこともあり、秀吉は、武家の伝統をある意味無視し、むしろおねを「正妻」として扱っていた、と、考える、という視点です。
(「二人正室」体制、というのは奇異なことではなく、豊臣秀吉の甥の秀次も「正室」は二人いました。)
「秀吉の死後、女同士の間にも熾烈な戦いがあった。ねね(その頃は北政所と呼ばれていた)は豊臣家の多くの家臣から慕われ、豊臣政権において大きな政治力を持っていたが、茶々との関係は良くなかったといわれている。」(P162)
というのは、あくまでもドラマや小説(司馬遼太郎『関ヶ原』にみられるような)の「設定」です。
「茶々が産んだ二人の子供の父親は豊臣家の家臣、大野治長という説もあれば(当時から茶々との密通の噂があっった)、石田三成や無名の陰陽師という説もあれば、実際のところは不明である。」(P161)
これを「説」として紹介するのは誤りです。
しかも、幕末にまとめられた『武功夜話』などに記された「噂話」のレベルで、「実際のところ不明」などと説明されてしまっては誤解が広がるばかりです。(そもそも江戸時代の「この手の話」は豊臣家および石田三成らを貶めるものが多い)こんな考え方は90年代には既に否定されています。
そもそも秀吉が「有名な大名」となってからの正室と側室に子どもがいなかっただけで、「当時の人々」は武家の家内の事情、「それまでの秀吉」など知りません。
墨俣攻めのころにおねとの間に子ができたものの中絶をしている(あるいは流産か)こともわかるようになり、長浜城主時代、側室に子が産まれていることもその子の墓や書状の発見で明らかになっています。
当時の「世間の人」が知らなかっただけで、「それまでどんな女性も妊娠させることができなかった」(P161)と当時の庶民と同じ視点で淀殿に「疑惑の目」を向けて断定するのはどうかと思います。
「豊臣恩顧の武将の多くが西軍につかなかったのは、ねねが茶々を嫌っていたからともいう。ねねは豊臣家の滅亡後、徳川家に厚遇された。」(同上)
という説明も、小説やドラマではよく言われるところです。
徳川家に「厚遇」された、ということに関しては従来、徳川家康によるものと考えられていましたが、実質は、2代将軍秀忠ではなかったか、と考えられています。
(子どものころ、秀忠は人質としておねのもとで養育されています。)
また、ドラマや小説では、1598年に秀吉が没してからおねが落飾した(出家した)ものとして描いていますが、1602年の段階でもまだ「北政所」と呼称されていて、高台院という院号が勅賜されているのが1603年であったことがわかっています。関ヶ原の戦いの後のことです。(高台寺の開山は1606年)
「豊臣恩顧の武将の多くが西軍につかなかった」理由を、北政所の指図であるかのような説明は、実は小説やドラマが創り出したフィクションです。
たとえば、小早川秀秋の「裏切り」について。
秀秋が関ヶ原の戦いの直前に北政所を訪れて「東軍に味方しなさい」と北政所に示唆された場面がよくありますが、事実に反します。史料に何も無いだけでなく、それよりも以前に小早川秀秋が早々に東軍に味方をすることを表明した史料が存在しています。(家老稲葉正成の家譜)
むしろ、西軍のほうが小早川秀秋の東軍からの「寝返り」を画策し、関ヶ原の戦い当日まで工作していたことがわかっています。
黒田長政と浅野幸長の二人が小早川秀秋を書状で説得しているのですが、その中で「自分たちは政所さまのために家康に味方している」という内容を記していて、これが小早川秀秋が北政所に説得された、という後の「設定」を生んだ可能性があります。
そもそも…
現在の研究では、秀頼と淀殿は石田三成ら「西軍」を支持していたのか?
ということも提示されています。
徳川家康は、会津上杉攻めの三日前、西の丸に秀頼の訪問を受け、黄金二万両と米二万石を下賜されています。
つまり会津上杉攻めは、あくまでも豊臣家公式の戦いで、言わば「石田三成のクーデター」が起こったので、家康が軍を引き返して「反乱軍」を討伐した、と関ヶ原の戦いを説明できてしまいます。
関ヶ原の戦いの翌年の年始には家康は秀頼に家臣として挨拶に向かっていますし、翌二月には関ヶ原の軍功をねぎらうために家康・秀忠の二人が秀頼の饗応を受けています。
関ヶ原の戦い、およびそこでの淀殿、北政所のあり方は、従来説明されていたところから大きく転換し始めています。
残念ながら、「戦国の世には、こうした男女の生々しいドラマ」は渦巻いていなかったようです。
以下は蛇足ながら…
ちなみに、「女の戦い」の逸話として、醍醐の花見の「坏争い」がありますが、以前にその話をおもしろくまとめたので、添付しておきます。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11937238855.html
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11937875403.html