【56】朝鮮出兵は秀吉の東アジア政策の一つとして位置づけられている。
1960年代の教科書には秀吉の対外政策として「唐入り」、つまり明を征服するための「道案内」を朝鮮に要求したところ、拒絶されたので「朝鮮征伐」の軍を起こした、と説明されていました。現在ではこのような説明はほとんどしません。
サン=フェリペ号事件についても、「スペイン国王はキリスト教の宣教師を世界中に派遣し、その土地の民をキリスト教徒にして国を裏切らせてから、その国を武力征服する」(P154)ということを水先案内仁が告げたから、ということが紹介されていますがこれは俗説です。
背景にはイエズス会とフランシスコ会の対立があったと現在の教科書では説明しています。
「当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせ、中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきたことは事実である。」(P154)
これは、ネット上の説明などではよくみかける説明ですが、事実ではありません。もしそのような例があるならば、具体的にあげてほしいところです。
これは、中南米やフィリピンに適用されたエンコミエンダ制に関する誤解から生まれているものだと思います。
この制度は、征服者にその征服地域の住民を使役する権利を一定期間与えて、貢納を受け取ることを認めたもので、そのかわりにその住民を保護し、彼らをキリスト教に改宗することを義務付けたものです。
原住民はこの制度でスペイン王国の臣民とされましたから奴隷ではありません。
つまり、「征服」が先で「布教」が後です。
イエズス会は、この方式に疑問を持ち、ラス=カサスのように惨状をうったえて廃止をもとめるケースも見られ、やがてこの制度は衰退することになりました。
不思議な引用もみられます。
「陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって布教をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。」(P155)
「フィリピン臨時総督のドン=ロドリゴやフランシスコ会のルイス=ソテロらが、スペイン国王に送った上書に」記述がある、と説明されているのですが、これ、前に紹介されたヴァリニャーノの書簡と表現がかぶりますし、ドン=ロドリゴの書いたものなのか、ルイス=ソテロが書いたものかが曖昧なのが不思議です。
そこで考えられることが一つあるのですが…
二人がそろって日本に滞在している時が実はありました。
ソテロは、徳川家康の外交顧問として駿府城にいたことがあるのです。
そのとき、ロドリゴの船が千葉で遭難し、救助されているのですが、家康が船を用意してスペインに帰国させる段取りをしました。
そのとき、ロドリゴはソテロにスペイン国王に送る手紙と家康にみせる日本語で書かれた二通の手紙を用意させています。
そしてロドリゴは、スペイン王に送る手紙と家康にみせる写しの内容を違えて書くようにソテロに命じています。
このときの文書のことではないかな、と、思うのですが、これだと1609年の話です。
関ヶ原の戦いの後で、政権が家康にうつっている時期。しかもこのときはスペインには海外遠征をする力がない時期のものです。
「韓国の歴史書や日本の一部の歴史教科書には、李舜臣はこの海戦以外にもたびたび日本軍を打ち破ったと書かれているが…」(P157)
「日本の一部の歴史教科書」と言われていますが、具体的にどの教科書のことでしょうか。李舜臣の名前はもちろん出てきますが、実は朝鮮出兵の具体的な海戦の名前が紹介されている教科書は皆無です。
仕事がら、検定教科書は小・中・高、ほとんど所持していますが、「明の援軍、朝鮮水軍の活躍…」あるいは「明の援軍や朝鮮の李舜臣の活躍で…」とあるものは確かに見かけます。
しかし、李舜臣単独で説明されているものは皆無ですし、「漆川梁の海戦」「露梁海戦」などは一つも紹介されていません。
日本軍の進路を示した地図が紹介されているものもありますが、「碧蹄館」が書かれているくらいで、「碧蹄館の戦い」の名前すら出てきません。
中・高の入試問題作成のために複数の小・中の教科書をかれこれ20年以上見てきましたが、シェア10%をこえる教科書には具体的な海戦が書かれているものはありません
というのも、朝鮮出兵は、豊臣秀吉の東アジア・東南アジア外交政策の一つとしてとらえられていて、詳細に説明することが無いからです。
「16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が明の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢の中で、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくることを志し、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに服属と入貢を求めた。」とし、この一環として「秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対し入貢と明へ出兵するための先導を求めた。」(詳説日本史B・山川出版・P165)というように説明されています。
明の朝貢体制を打破して明に代わって日本が東アジアの中心となろうとした、という枠組みで説明します。
よって今では、「秀吉が明を征服しようとした動機は不明である」(P158)と説明し、「日本史の大きな謎である」というのは、やや時代遅れの解説となっています。