『日本国紀』読書ノート(55) | こはにわ歴史堂のブログ

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55】秀吉が死ななくても、朝鮮出兵は失敗していた。

 

実は、朝鮮出兵に関する百田氏の説明の一部に私も賛同しています。

例えば、

 

「…露梁海戦で朝鮮軍が使ったとされる亀甲船に関しては、完全なフィクションであり、復元図なども後世の作り物である。」(P157)

 

という部分です。

現在復元されているような「亀甲船」およびそれを縦横無尽に活用して李舜臣が日本の水軍を苦しめた、ということはおそらく虚構です。

復元図は18世紀のもので、「李舜臣」英雄伝が、かなり広がっていた時代のもの。

18世紀、日本の戦国時代の英雄伝説がかなりもてはやされてさまざまな虚構が設定された経緯と似ています。

ただ、「完全なフィクション」ではなく「誇張」です。

14世紀以降、倭寇ならびに日本の水軍の戦い方に、朝鮮はずいぶんと苦しめられてきました。その戦い方は、「切り込み」という白兵戦術です。

接舷して戦闘員を敵船に乗り込ませる、というもの。

蒙古襲来のときに、松浦党が元・高麗軍をこの方法でかなり苦しめました。

また、ちょっとしたことなのですが、日本の船底はV字型で、船足が速いだけでなく、安定度が高く、たくさんの人間が乗れます。

朝鮮のそれはU字型で喫水が低く、あまりたくさんの人が乗れないものでした。切り込み式で、船上を「陸上戦」にしてしまう日本式はかなりの戦果をあげ、朝鮮出兵に関しても日本側が制海権を維持できた背景にはこの戦術がありました。

敵の船に接舷し、そのまま武装した兵士を乗り込ませる、という戦術を阻止するために、板などで船を囲い、格子や穴、隙間から槍をたくさん突き出して接舷を阻止する、という切り込み乗船を阻止する工夫をしていたことは確かです。(14世紀の記述・李舜臣および李舜臣の甥の記したものにも出てきます。)

この工夫が「誇張」されて「亀甲船」なるものが18世紀にイメージされました。

 

朝鮮側は、日本の水軍をおそれて以後、水軍との直接対決を回避するようになります。

 

(李舜臣が戦果をあげたといえるのは)開戦初期に護衛のない輸送船団を襲ったと時だけで、日本軍が護衛船をつけるようになってからは、ほとんど手出しができなかった」(P157)

 

これも少し誤解がある不正確な説明です。

正確には「護衛船」がついていない時をねらって(李舜臣だけとは限らない)輸送船を襲撃しました。

問題は輸送船になぜ護衛船がついていない時があったのか。

一つは補給に無理が生じていたこと、もう一つは護衛に回す水軍の手配が行き届かないときがあった、ということです。

実はこのことに、日本軍側の問題点がありました。

 

日本の遠征軍は、総大将が一応設定されていましたが、基本的に諸侯の連合軍です。

各軍は、かなりの戦闘能力は高く、局所的な戦闘ではほとんど無敵でした。

しかし、実はこれは「軍役」であり、各将の自己負担だったのです。

参加大名の地元では、税の徴収や夫役の負担で農民たちもかなり疲弊していて、領地の内治にすぐれていた加藤清正もかなり苦労しています。

「戦争」は経済・政治・外交の総力戦です。表面的な戦闘の勝利で全体を説明するのは誤りです。

釜山浦への補給はたしかに万全で、備蓄もゆとりがあったことがわかりますが、問題はそこから前線への補給でした。

ネット上での説明では補給や制海権が十分であった、と説明されていますが、一部誤りで不正確です。それは名護屋から釜山浦までのことで、問題は「そこから先」でした。

幹から枝へ、枝から小枝へ、小枝から末端の葉までにいくまでにその補給は滞り、末端には届かず、前線はかなり悲惨な状況になります

冬の備えの手薄さ(朝鮮半島の冬の寒さを大名たちは甘くみていました)・食糧不足から兵たちはかなり苦労していました。

平壌からの撤退の際、兵は雪を口にふくんで飢えをしのぎ、凍結した大河を草履履きでいくつも渡らなくてはならず、凍傷で足の指を失い、栄養不足から鳥目になる者もたくさん出ました。

 

文禄の役では、「わずか二十一日で首都の漢城を陥落させた」(P156)にもかかわらず、「明が参戦したことや、慣れない異国での長期戦ということもあって、戦線は膠着状態になった」わけで、「日本軍に厭戦気分が蔓延して」と百田氏も説明されています。

にもかかわらず、慶長の役では、「緒戦の漆川梁海戦で朝鮮水軍をほぼ全滅させた日本軍は、その後も数に優る明・朝鮮の連合軍を各所で打ち破った」と説明され、「もしそのまま攻め込んでいたら、明を窮地に追い込んだ可能性は高い。」とおっしゃっています。

むしろ、文禄の役と同じことになってしまう可能性のほうが高いのではないでしょうか。

緒戦には勝利するが、持続できない背景を無視された推測です。

 

蔚山城籠城のときにも興味深い記録があります。

飢餓状態の城内に「米商人」があらわれ、五升金十枚、という途方もない金額で売りつけた、というのです。さらには「水商人」なるものがあらわれ、一杯銀十五匁という高額で売りに来ています。

ほんとうに補給が十全ならばこんな逸話は残りません。

 

「秀吉が病死したことによって、本国で『臣政権』(ママ・「豊臣政権」の誤記?)を支えていた大名たちの間で対立が起こり、もはや対外戦争を続行する状況ではなくなった。」(P157)

「…秀吉が死なず、日本軍が撤退していなければ、東アジアの歴史は大いに違ったものになっていたかもしれない。」(P159)

 

とありますが、あたかも秀吉が死なず、大名たちの対立が無ければ勝っていたかのような誤解を与えかねない説明です。

文禄の役ですでに大名たちの対立が表面化していました。慶長の役のときに対立が初めて起こったのではありません。

第一次世界大戦後、ヒトラーも、本当なら勝っていた、敗れたのはユダヤ人の陰謀である、と説明しましたが、「敗戦の理由を別に設けて、ほんとうは勝っていた」と説明する手法は「陰謀論」でよくみかけるものです。

 

引用されている『明史』の説明は、清の時代の編纂で、前王朝の「愚行」を強調し、現政権の正統性を説く記録の側面があります。苦戦や兵の苦労、大名たちの領地の疲弊などを示した日本側の一次史料を一つも引用しないで朝鮮出兵の全体を総括するのは一面的です。