『日本国紀』読書ノート(54) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。


テーマ:

54】スペインは日本の武力をおそれて侵攻しなかったわけではない。

 

スペインとポルトガル、と説明されていますが1580年にスペインはポルトガルを併合し、両国は合同することになりました。フェリペ2世のときです。

スペインが「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたのはこの時以降になります。

ところが最盛期とはそこから後は衰えていく、という意味でもあります。

1581年、ネーデルラント北部諸州が、スペインの支配から独立する運動を展開し始めました。

正直、ここからスペインは対外政策に力を入れられなくなっていきます。

イギリスがオランダ独立を支援し始め、スペインはイギリスとも対立を深めました。

1588年、といえば、日本では秀吉が刀狩令を出した年ですが、この年、スペインはイギリスとの戦いで無敵艦隊を撃破されてしまいました。

1590年代には財政破綻に陥りはじめ、新税も導入し、貴族たちへの課税も行われて王政に対する不満も高まっていました。サン=フェリペ号事件が起こった1596年の段階では、ペストの流行も始まり、現在でいう「デフォルト」に近い状態に陥りました。スペインはアジアに軍を派遣する余裕などはありません。

16世紀前半、ラテンアメリカに進出し、アステカ王国・インカ帝国を滅ぼして植民地を拡大していたスペインとは状況がまったく異なっています。(ちなみにアステカ王国もインカ帝国も武力を有していなかったわけではありません。コルテスは最終的に5万の兵力を投入しなければなりませんでした。)

 

「日本がそういう運命を辿らなかったのは、ひとえに武力を有していたからだ。」(P154)

 

と説明されていますが、日本に「軍事力」があったから植民地にならなかったというのは大きな誤解で、当時の外交・国際環境を無視した説明です。

そもそも東南アジア・東アジアとラテンアメリカでは、スペインは政策を使い分けていました。ラテンアメリカ・東南アジアは原料供給地として植民地化し、中国・日本は市場(マーケット)としていました。

人口も多くて「経済力」が高く、購買力のある日本を植民地にはしません。