多胡氏家訓
『命は軽く 名は重い』
多胡 辰敬(たこ ときたか、明応6年(1497年) - 永禄5年(1562年))は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。経久、晴久、義久の代まで仕えた父は石見国余勢城主多胡忠重もしくは多胡久秀。姉妹は尼子国久の正室として嫁いだ。弟に多胡正国、子に多胡重盛と湯永綱の妻(亀井茲矩の母)となった娘がいる。また、国久の三男尼子敬久の与力であったと思われる。
尼子晴久に仕えて天文9年(1540年)、吉田郡山城攻めに従軍したが毛利元就らによって撃退された。 天文12年(1543年)には、鰐淵寺造営を行い、鰐淵寺領の掟を定め、晴久の命を伝えている。この後石見銀山を守る位置になった刺鹿城主(島根県大田市久手町刺鹿)となった。天文23年(1554年)の元旦に月山富田城内で連歌師宗養を招いた際に歌を読んだ事が『多胡文書』に伝わっている。
永禄元年(1558年)、元就は川本温湯城の小笠原長雄を攻撃した。この事態を打開するために晴久は辰敬らを含めた援軍を派遣したが、温湯城は降伏し長雄は毛利氏に仕えた。
軍事にも政治にも通じ、教養豊かであった辰敬は、諸芸十七箇条からなる『多胡家家訓』を記しており、自身もその家訓を一生に渡って実践し続けている。
その言葉通り永禄5年(1562年)、辰敬の居城の石見国刺鹿城に毛利氏が侵攻し、奮戦するも落城し自刃した
多胡氏は大江氏の後裔といい、上野国多胡に住んで多胡氏を称したことに始まる。 文永年中(1264~74)に出雲郷地頭となって下向したことが出雲多胡氏の発祥と伝えらていれる。一方、多胡氏はもともと京極氏の被官で、越前守俊英が応仁の乱の功によって石見国中野の地を与えられた。
画像は、多胡氏のおさめた石見銀山の遠景です。
俊英は余勢城を築くと出雲に土着した。その後、京極氏に代わって尼子氏が台頭してくるとそのの旗下に入って奉行人となったとする説もある。
また、多胡氏はバクチ打ちの家系であったというものもある。 すなわち、足利義満に仕え「多胡バクチ」といわれるほどバクチの名人であった多胡小次郎重俊の子孫で重行、高重と続いたが、俊英はバクチを止め京極氏に出仕して応仁の乱で活躍、邑智郡中野四千貫の領地を与えられ余勢城を築いたというものである。四千貫の領地を与えられたというのは、にわかには信じられないが、バクチ打ちの子孫とは面白い話ではある。
文武の名将、辰敬
永正五年(1508)多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となって 工事にあたった。この工事は大工事であったようで、着工後十二年を経過した永正十六年三月にいたって上棟式を行ったことが知られる。
多胡氏で最も有名なのが辰敬で、父は俊英の子という久秀、いやさきの忠重ともいい判然としない。おそらく、久秀と忠重は同一人物だったのではなかろうか。辰敬尼子晴久に仕え、天文九年(1540)の毛利元就の居城郡山城攻めに従軍した。同十二年には、鰐淵寺造営に就いて 僧中が評定の上に造営の事僧中が無断に離山すること、山林の伐採を禁ずるとの晴久の掟を命じ、さらに、鰐淵寺領の掟を定め、寺領の陣夫、寺領百姓は下地を他所の人に売らない、寺領の百姓は武家奉公を禁ずる等の晴久の命を伝えている。この後、石見銀山の防衛拠点でもあった刺賀岩山城主に任ぜられた。
天文二十三年(1554)元日、富田城内で連歌師宗養を招いて尼子主従が連歌会を催したときに、辰敬は「ゆくと来と契や花に深見草」を詠じたことが「多胡文書」に伝わる。
永禄元年(1558)五月、尼子晴久は毛利元就の包囲を受けた石見温湯城の小笠原長雄を援助するために大軍を派遣した。この軍に辰敬も参陣した。しかし、この援軍は成功せず、温湯城は毛利氏の攻撃によって長雄は降伏し、毛利家臣となった。
晴久に仕えて軍事、政治につとめた辰敬は学問、弓馬、算術など諸芸十七箇条からなる「多胡家家訓」を記したことも有名であり、彼自身その実践者として自らを厳しく律し続けた人物でもある。「多胡家家訓」は、手習学問以下容儀まで十七ケ条からなり、「人の用にたつ」ひとになれ、という実用主義で貫かれたものである。 このように辰敬は教養豊かな武将であり、尼子領の西の守りを担った。
永禄二年、福屋氏が毛利氏に反したことがきっかけとなって、余勢城は毛利軍の攻撃を受けるようになった。多胡勢は辰敬の弟正国の奮戦もあって、毛利勢を撃退した。永禄四年の戦いでは、毛利方に夜襲をかけ散々に討ち破った。余勢城の反撃に手を焼いた毛利の吉川元春は調略の手を伸ばし、正国の家臣別所小三郎を味方につけると総攻撃を行った。裏切り者が出てはさずがの多胡勢も叶わず、永禄五年、辰敬は奮戦のすえに城と運命をともにして果てた。
津和野藩家老として活躍
辰敬には一男一女があり、娘は湯永綱に嫁ぎ、新十郎を生んだ。新十郎はのちに亀井氏の亀井を継いで、のちに、津和野藩亀井氏の祖となった人物である。一方、多胡氏は重盛が継ぎ、亀井氏に仕え家老職を務めた。しかし、寛永十二年(1635)信濃守勘解由のときに、重臣官の反目騒動が起こり、一方の立役者であった勘解由は罪を得て 絶家となった。
重臣間の騒動に際して、事態の収拾につとめたのは、もう一つの多胡家の真清であった。真清は辰敬の孫新十郎の姉と小原豊前守との間に生まれた子供で母の実家多胡氏を名乗ったものである。真清は執政として騒動鎮定後、家臣団を再編して亀井家中の刷新を図るととともに検地の施行をみるなど藩政の基礎固めに尽くした。真清の跡は真益・真武・真蔭らの兄弟が相継ぎ、父の遺志である津和野藩政確立に尽力し、耕地の拡張、産業の開発に尽力した。以後、真蔭の子孫が多胡家を継ぎ、亀井家の家老として明治維新に至った。
名もなき武将が遺した教訓書
『多胡家家訓』(たこけかくん)は、戦国時代の尼子氏に仕えた武将・多胡辰敬が書き残した家訓。
手習学文・弓・算用・乗馬・医師・連歌・包丁・乱舞・蹴鞠・躾・細工・花・兵法・相撲・盤上の遊(囲碁・将棋)・鷹・容儀の諸芸17箇条からなり、「人の用にたつ」ひとになれ、という実用主義で貫かれたもので、辰敬自身もそれを実践した。「命は軽く、名は重い」で知られる
(参照:戦国の石見をさぐる)
http://ohnan.saloon.jp/takokekakun.htm
多胡家家訓
〈無学では恋文までも代筆させることになる〉
(一)第一に手習い(書道)と文章の道にはげむことである。物を書くことを「手半学」ともいう。学問の半分は、文章を書くことだという意味である。人と生まれて、文章がよく書けないということは、まことに浅はかなことだ。代筆をたのむのは、時と次第による。読み書きが堪能でなければ、他から大事な用件を手紙で申し入れてきても、代読をたのまなければならないから、秘密事が漏れてしまうことになる。人はだれでも、親子のほかは知られたくないことがあるものだ。読み書きが出来ないのは、両眼がないのと同じである。
文字の上手下手はともかく、文章の本末(基本)さえ知らず、仮名文まで人に頼んでおんなへ手紙をやるなどは、人の皮を着たる畜類というほかはない。手習いは、年老いてからなんとかしようと思っても、手足の骨や筋がこわばって、そのうえ雑用までが多くなり、一生覚えず仕舞いになってしまうものだ。それゆえに、一つでも年が若いうちに、夜を日になしても手習いや学問をしなさい。
学問のない人は、理非(正と悪)さえわきまえがたし。理非を知らないで物をいえば、相手は何事も納得しない。それは、犬が吠えているようなものである。しかし、その犬さえ番犬の用をたすのだから、学問のない人間は犬より劣るといわれても仕方ない。また、学問がないうえに欲が深い人間は、手のつけようがないものだ。だから、ときには欲をはなれて、公界(世間)の人のいうことをよく聞くことは、耳学問というものである。「一字千金」という言葉を忘れないようにしなさい。
○筆法はまことを知りて物を書け、文字ばかり並べても仕方なし。
○手習いを忘れずすれば何とてか、年月をへて無駄になるまじ。
(二)第二に弓道である。武士と称して「弓取り」ともいうぐらいである。敵や悪魔を降伏させるには、第一の武器は弓である。
合戦には、剛勇とか、すぐれた武士を養成しようと思えば、まず弓術をしっかりと訓練することである。
人の上に立つ者は、このほかは人に笑われぬ程度にたしなめばよい。
〈金にも生命がある〉
(三)第三は算用(計算・勘定)を学ぶことである。
算用といえば、天地が創造され、ひらけはじめてから一年を十二ヶ月に定め、一月を三十日に定め、一日を二十四時間に定めたのも、算用から割り出したものである。領国を治め、郡町村を統括し、田畑を耕作させるなども、皆算用が基本になるものだ。商人が取引きによって利益をうみ出す計算はいうまでもない。
奉行職芸も、その根本は算用である。算用を知らなくては、人件費を割り出すことすら出来ない。人間の生死の輪廻、すなわちこの世が車輪の回転のように、生きかわり死にかわるという原理も、算用を学ばなければ理解するのは不可能だから、やたらに深欲をかいたり、自分の命の限界もしらずに、心迷ってばかりいて一生うだつがあがらないことになる。
算用を知れば道理を知り、道理を知れば迷いなしというわけである。算用を知るということについて、よい例の実話がある。ある夜、ひとりの下男が、町を歩いているときに、道を横切っている小流れを飛び渡って、その拍子に持っていた鳥目(金)十銭を溝の中に落としてしまった。これに気づいた下男は、あわてて溝の中を手さぐったが、夜のことなので見つけることが出来なかった。
丁度、そこへ通りかかったのが、供の者をつれた鎌倉の奉行青砥左衛門尉藤綱である。下男から事情をきいた藤綱は、さっそく松明を買わせて手ごとに持たせ、その銭をさがさせたが、どうしても見つからない。
「よし、このうえは、上と下の溝をかいほして、探し出せ」藤綱はさらにこう命令した。
供の者たちは、いいつけどおりに溝を堰止めて流れを干し、泥とゴミの中を手さぐって、ようやくのことに銭を見つけ出すことが出来た。このとき供の者たちは、「十銭を探し出すために、大勢の手間をかけたうえに、松明代百文もかけたのはなぜでございます。ソロバン勘定にあわないではありませんか」と首をひねった。
すると藤綱は「いや、そうではない。この下男が溝に落とした十銭は、今夜さがし出さなかったら、永久に泥の中に埋まってしまうだろう。十銭はわずかな金であるけれども、十人の手にわたせば百文となり、百人の手にわたせば壱貫文となる。この計算をもってすれば、末世末代には莫大な金額となる。今夜の松明代、人夫代はそれぞれ生きた金だ。落とした金を泥に埋めてしまうことは、死に金ということになる」と一同のものに説き聞かせたという。
これは太平記にのっている話の又聞きであるが、何事も世の中のためになろうとすることは、大きな負担や苦労がかかるものである。しかし、用にたてずに腐り果たしてしまうことは、国土の大きな損である。田畑にしても、一鍬一鍬を大事にして、米一粒でも、汗の結晶だと思うことである。
〈算用の徳にあずかるべし〉
(三)いまの世の中は、食べ物にしてもお代わりをしておきながら、惜し気もなく残して捨ててしまったり、酒にしても、飲んだふりをして畳のふちへ捨て、何杯飲んだなどと自慢顔をしたりするが、いずれも国土という観点からすれば、無駄な出費というものである。それは丁度、子供が物を一口たべては捨ててしまうようなものだ。
領土の主、一家の主人ともなると、末座の人に馳走を食わせようとして、相手の好き嫌いもかまわず進めたりするが、これも無駄というものである。物知り顔をして、やたらに食べ物を器へよそりわけ、膳に並べどころがないほどに振る舞うから、酒までももてあまし、畳のあいだへ捨てるような結果になってしまうものである。
何事も、知ったかぶりをしないことである。衣装、武具馬具などを持つことも、中間や下男をかかえることも、分相応にすることだ。いうなれば、収入にあわせることである。また、武芸、学問は十のものを十一たしなむのはよいが、家の調度品などの場合は、十ほしいと思っても九ツか八ツにしておくことである。とはいえ、十のものを五ツ六ツにするのはあまりにケチ臭いし、これを四ツ五ツにするのは阿呆にひとしい。倹約にも、やはり限界がある。
阿呆とは、知行(現代的にいえば月給)よりも働きのないことをいう。生活を豊かにしようとして、知行より仕事をなまけ、自分の心を偽ることだ。自分にも、主君に対しても恥じない勤務をすることが算用の徳というものである。といって、そのために地位にめぐまれたからといって、華美な生活をしてはならない。財や物がありあまったら、社会的なことに使うべきだ。
人生の楽しさということには、心安らかという意味がある。だれにでも十分に気を配り、仁義をほどこすことをいうのである。身分不相応に豊かな生活をすれば、天罰があると思いなさい。仏神のお加護によって生きる身が、神仏を信仰しなければ罰があたるのは当然なことだ。
〈打折・外折の原理をわきまえよ〉
(三)冬は寒く、夏は熱いのは天地自然のさだめである。人間もこの世に生をうけて、しだいに老人になるさだめにある。こうしたことも、算用のうちにはいるものだ。
田一反(991.7平方メートル)というのは、三百六十歩のことをいう。これは一年を三百六十日の計算であらわしたものである。そして、田一町(99.18アール)の近江縄というのは、七十五尋(一尋は1.818メートル)四方である。これを京都では七十八尋に計算している。
また、屋敷などの面積にしても、一町を間であらわす場合、京都では六十間四方をいい、近江縄では五十七間四尺五寸四方をいう。京都と近江でこのように違うのは、内折・外折の計り方によるものである。打折は柱の内隅から内隅まで、外折は柱の外隅から外隅までを計るからだ。おなじ一反、一町でも所によってこのように差があるのを上手に利用することが算用というものである。
例えば金銭の両替にしても、京都で「三分引き」というのは、十三貫で十貫受けとることであるが、無算用の人は、十貫わたして七貫受けとってすましている。内折・外折の原理、すまり算用を知らないからだ。
したがって升を作るにしても、内折と外折では容積に差ができる。年貢米をとり立てるときは内折升、これを売る場合は外折升を使えば、大量にあつかううちには利得はたいへんなものになるわけである。
○算用にすぐれたりとも人中に、算用だての物語りすな。
○算用にはずるる事はよもあらじ、拍子の数や歌の文字数。
○我が年の算用をして物をいえ、年によりたる身持ち振舞い。
*「いくら算用にくわしくても、人中で算用をしてはいけない」というところが、多胡辰敬の算用ともいえる。武士があまりソロバン高いことは、当時は恥とされていたからである。
人はパンのみに生きる者にあらずというのは、確かに真理である。人類にとって、精神的な、宗教的な欲求ははなはだ強い。だが、人はパンなくしては生きられぬことも事実である。多胡辰敬は、いわば当時の経世家であった。
〈養生こそこの世の宝なり〉
(四)第四馬乗りの事。昔は自分から乗馬をもつ者はいなかった。ほとんどの武士は、朝廷から賜ったものだけが乗ったものである。それゆえ、馬乗りとはいわなく、馬人といったものである。昔にくらべると、最近は馬をもつ者が多くなったが、それでも、普段の日に馬に乗って往来を出歩くものは少ない。
だから乗馬の心得については、馬の性質を理解せよ、馬上での礼儀をわきまえよ、とだけ書きしるしておく。
○荒馬や曲乗りするは無用なり、手綱さばきは馬の心で。
○息遣い、口の中からアブミまで、拍子をとるこそ大事なりけれ。
○見栄えのため馬持ちするはなるまじや、我れと心に入れて飼うべし。
(五)第五は医師。医者といっても、上中下がある。その調子しだいでよく効いたり、効かなかったりする。十七日分が百疋(一疋は十文)の薬を医者からもらったからといって、もっと高価な薬をと請求する必要はない。薬に身分の上下はないからだ。薬代は医者の手間賃に心がくわわったものだと思えばよい。
また、一般には禁物とされているものを好んで食っても、自分の身体に毒でなければ、養生のために毎日食べなさい。昔から「万応一心」という言葉がある。才能が衆にすぐれていて、大地主となり、大金持になったところで、体が病弱では宝のもち腐れというものである。だから、養生にまさる宝はない。
医者にかかるときは、心がけのよい医者にかかりなさい。といっても、すぐには間にあわないことがあるから、普段の心がけとしては、自家用の薬を一品でもいいからつねに用意しておくことだ。家族が重宝するし、使用人がたくさんいるときは、主人の人徳としても大いに感謝されるものである。
○医師とは薬師のおこなうわざなれば、慈悲をなしつつ人に施せ。
○寒熱や生死の脈をとる知らで、医書ありとても薬あたえな。
○脈とりて上手なりとも欲ふかき、人の薬は効くまじきなり。
*算用を重んじる辰敬だけあって、医者にかかるにしても、薬を飲むにしても、なかなかソロバン高い。調薬代は医者の手間と心をあわせた代金だ、という見解などいかにも辰敬らしい。医師会の役員諸先生に、是非読んでもらいたい一節である。
柳樽に、「人の命を医者の手習い」というのがあるが、辰敬は「欲ふかき医者の薬は効くまじきなり」と予言している。痛快なまでの皮肉屋である。
〈料理は心のもてなしである〉
(六)第六に連歌。「歌道は諸道を知り、諸道は一道を知る」という言葉がある。そのいわれは、天地がひらけ始めてから、極楽浄土のことから神仏の由来まで、ありとあらゆることが歌道にふくまれているからだ。したがって、深くきわめることは出来なくても、熱心にはげむことが大事である。
年老いてからは、孤独の慰めに、旅をせぬ名所旧跡を想像し、心の迷いを払う。ありがたいたしなみである。
○連歌座に幾人たらば何句ぞと、おのが順位をすぐに教えよ。
○わが連歌貴人の連歌連歌師や、稚児の連歌も座敷さだまる。(連歌の会へのぞんだ場合、身のほどさえわきまえていれば、席順はおのずと定まるものである)
○初心にて句数だてこそ無用なれ、眠るな座敷、立つな、語るな。
(七)第七に包丁なり。料理調菜といっても、もとは包丁一本である。隣家、友人があれば、かならず来客があるものだ。客がくれば、相手相応のもてなしをする。だから一家の主人は料理張菜の心得がなければいけない。これを心得ていないと、不必要な料理材料を余分に買いこんだり、入用の品を買い忘れたりして、無駄な出費をしがちである。
また、調理の心得があると、多い材料は多いなり、少ないものには少ないなりに形よく盛りつけることが出来るから、無駄がなくなる。土地柄、お国柄によって賞翫用(目を楽しませる)の料理がある。
乾鮭(ほした鮭)などは、京都では珍味だと喜ばれるが、地方によっては飾り物にすぎないシキタリがある。
お菜(おかず)とか汁(吸)物は、すべて御飯の副食物である。いって見れば、御飯が主人で、お菜はお共というわけだ。それを知らないで、御飯の炊き方に心をこめないのは間違いである。どんなにそこの家に利口な者がいても、主人が馬鹿では笑われる。それよりも、家の者は少々脳タリンでも主人が利口ならその一家は評判がよい。これと同じで、お菜は少々まずくても、御飯は真っ白にふっくらと炊きなさい。
料理には鷹、白鳥、鯉、鱸、蚫など、そのほか山河海の珍味がたくさんあるけれども、生煮えだったり、冬なのに冷たいまま出したりしては、誰も箸をつけないだろう。客へのもてなしというものは、珍味やぜいたくな料理をならべることだけではない。日常の心がけが大切で、いつも干物などを用意しておくことだ。たとえ海や湖を領地にもっていて、鮮魚には不自由しなくても、時によっては蔵の中から、魚の塩漬けなどを取り出して、不意の来客をもてなすことも、相手に喜ばれる秘訣である。要するに、普段のちょっとした心がけが、御馳走の心得というものである。
○包丁は貴人の数奇にあるものぞ、俄にならぬ稽古なりけり。
○料理とは食うものごとの塩梅を、その客人によりてすること。
○雑掌の中に一二(上下のこと)のあるなれば、よく食う物の味ぞ肝要(大切)。
*包丁は貴人の数奇とは、料理は貴人の風流心とおなじで、むずかしいものという意味。食うものごとの塩梅とは、客の好み、すなわち口にあわす意味。雑掌とは、臨時に任命されて、宴会の料理をまかされた役人のこと。
〈花も実もあるのが人の一生〉
(八)第八に舞いの事。一に謡、二に笛、三に小鼓、四に太鼓、六に仕方である。謡は道具いらず。次は太鼓。太鼓はぎょうさんなので、正式な座敷ではハヤシにはつかわない。しかし、大名などの集会には、威勢がよいので喜ばれる。仕方は、表情的な所作をまじえるので、子供が多いときはよいが、そのほかの席では猿楽めいていて、あまりかんばしくない。
武士のたしなみとして、舞いは春の花のようなものである。万木千草にも、花の咲かないものは数少ない。人もまた同じである。舞いを習うことては、人生に花を添えるものである。
(九)深山木その梢とも見えざりし、さくらは花にあらわれにけり、とは源頼政の歌である。どこの馬の骨かもわからない男でも、能のたしなみなどあれば、人にちやほやされるものだ。これは芸の徳というものである。とはいえ、花ばかりで、実のならないものは物の用に立つことはない。実らぬということは、一家の繁栄をわすれて、舞いや遊芸にばかり心を入れることではない。花も実もあるということは、若いときには花の芸を身につけ、年をとるにしたがって、一家の繁栄を心がけるということである。
舞いで身を立てようとする人は、生まれの貴賤をとわず、猿楽の芸道をきわめることである。しかし、武士の子弟に生まれながら、猿楽師を志すのは嘆かわしいかぎりである。
花も咲かず、実もならないということでは、毳(むくげ)に柔らかさがなく、茨木にトゲがないようなものである。くれぐれも、人の一生には花と実があることを忘れてはならない。
○音曲や笛も鼓も習うべし、猿楽ほどは無用なり。
○音声も座敷によりて入るなれば、自由に声を使うべきなり。
○程拍子調子のなせるわざなれば、聞きつくろいて唄うなりけり。
〈賞翫も人によるなり〉
※これより別項として、歌訓ともいうべき手法をとっている。
(九)第九に鞠。
○かかりある庭に出入りし見習いて、おのがわざも磨くなるべし。 (かかりある庭とは、蹴鞠の庭に立てる樹木のこと。方形に設け、東北隅にサクラ、東南隅にヤナギ、西北隅にマツを植えるのが古式であった。蹴鞠は、当時の上流社会では社会的な遊びとされていた)
○蹴る人はいうに及ばず見物を、する人までも躾あるなり。
○鞠けるは祈祷とぞいう、辛気積気の楽なりけり。(辛気積気は、いまでいうノイローゼ。蹴鞠はノイローゼに効果があるといったもの)
(十)第十に躾。
○大名も武士も侍官中間も、躾はときによるとこそきけ。
○賞翫も人によるなり上中下知らで、慇勤するは不躾。 (躾とは、礼儀作法、身だしなみのことである。賞翫も人によるなりは、例えば、相手の持物をほめる場合、その品のいいわるいも知らず、やたらにほめるのはかえって不躾だということ)
(十一)第十一に細工。
○四方なる座敷にありて寄退きも、細工心のいらぬことなし。 (客になった場合、部屋の東西南北いずれに坐っても、立居振舞いいは作法があり、それには細工心が必要でという意味)
○細工とは、こまかにたくむ文字なれば心からこそ上手下手あれ。
○弓法のうえに細工は大事なり、寸もちがうぞ番匠のかね。(番匠のかねとは、大工の曲尺のこと。その一尺は、鯨尺では八寸にあたり、二寸の違いがある)
(十二)第十二に花。
○池の坊御前の花をさすなれば、一瓶なりとこれや学ばん。(御前とは、朝廷とか将軍のこと。池の坊は尊い方の部屋へ花をいける師匠だから一瓶くらいは覚えておきなさいということ)
○随に花たつる文阿弥、当世の人の心にかなうなりけん。(随は自由自在。文阿弥は室町時代の華道家で、瓶花の名人といわれた。文阿弥の自由自在な花の活け方は、当世の人にはうけるにちがいないという意味)
○四季の花数をあたまにさすなれば、客人座敷立物による。(立物とは、威厳をつけるための兜の前立、後立、または的のことをいう。しかし、ここでは屏風のことをいったものであろう)
〈利形とはまず用心を忘れぬこと〉
(十三)第十三に兵法。
○利形とは、まず第一に用心を忘れぬことよ、女なりとも。 (利形とは敵の意表をついて勝つ戦法。また、新兵器をもいう。利方とも書く)
○腕つよき敵の力をそのままに、取りてとるまで利形なりけり。
(十四)第十四に相撲。
○小相撲は若侍のうちなれば、常に身さばき手を習うべし。
○背高く年若きとて我が心、許さば(油断)負けんもの相撲なり。
○何よりも習いのあるは相撲なり、力頼むなかねてたしなめ。
(十五)第十五に盤の上の遊び。
○碁将棋はやがて勝負のあるものぞ、利巧ぶるな腹を立てるな。
○碁将棋のそばにて助言する者は、貴人か稚児かさては馬鹿者。(原文では馬鹿者のことを田蔵田といっている)
○客人のためか、昼寝をせんよりか、用を書きつつ碁将棋なせそ。
(十六)第十六の鷹。
○出雲衆の知らぬ道なり、ハシタカの据様礼(あつかい方)は習いてもよし。 (ハシタカは箸鷹のこと。鷹狩りに用いる小型の鷹、雄をコノリ、雌をハイタカという)
○連歌師の知らでやあらん鷹の道、前句につくるならいなりせば。 (連歌をつくるとき、鷹を詠むのは前句にかぎられているという意味)
○山鷹狩り蜂鷹は狩りは冬なれど、継尾白尾の鷹は春なり。 (小鷹は小型の鷹。蜂鷹はハシタカの当て字ならん。継尾白尾は、こおのとりの羽でつぎ尾をした鷹のこと)
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著者 : 幡谷哲太郎
発売日: 2015年6月1日
出版社: セルバ出版 価格 : 1,600円+税
URL : http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063