インドネシアのハビビ元大統領が八十三歳で死去した。独裁者スハルト氏(故人)の後任。“亜流”とも評されたが、総選挙の自由化や東ティモール独立容認など実は民主化への功績は大きかった。
ハビビ氏は、ドイツへの留学歴もある工学博士。航空エンジニアから一九七〇年代に政界に転じてインドネシアの工業化を推進し、軍人出身スハルト氏の開発独裁を技術者として支えて副大統領にまで取り立てられた。
半面、国軍による反体制派や東ティモール住民への人権侵害などのブレーキ役にはなれなかった。三十二年間君臨したスハルト氏は九八年に失脚。ハビビ氏は憲法規定で副大統領から大統領に昇格し、世論は「側近が継いだだけ」とみた。
首都ジャカルタなどでは、スハルト氏の辞任後も「反独裁」のデモや暴動で多数が死傷。学生らはハビビ氏の退陣を求め続けた。選挙を経ない大統領就任が「民主的でない」との印象を与えていた。
とはいえ、ハビビ政権は、スハルト時代に封印されていた「報道の自由」「結社の自由」を保障した。九九年には「自由に結党された政党による総選挙」を実施。国内マスコミは政府の監視なしで選挙を伝えた。さらに、長期独裁を防ぐため大統領任期を「二期十年まで」に制限する道筋も示した。これらの改革は二十年後の今も続き、インドネシア民主化の礎になったと言えるだろう。
こうした矢継ぎ早の民主化政策にもかかわらず、ハビビ政権は不人気だった。なぜか。独裁と貧困に疲弊していた国民は、百数十億ドルともいわれたスハルト氏と一族の不正蓄財に、より強い関心を払っていた。しかし、ハビビ氏はこの追及が甘く、スハルト氏の「子飼い」「コピー」という評価を拭い切れなかった。自分を高位に引き上げたスハルト氏への遠慮や忖度(そんたく)があったのだろうか。
ハビビ氏の在任は歴代大統領で最短の一年五カ月。九九年十月、国民協議会(国権の最高機関)で不信任を突き付けられ退陣した。同じ日の国民協で、自ら容認した東ティモールの独立や大統領任期の短縮が正式に決まったのは、皮肉でもあった。
当時のインドネシア大使川上隆朗氏は著書で「厳しかった政治、経済、社会環境を考えれば、ハビビ氏は最大限のことをやったと評価してもいいのではないか」と述べている。インドネシア民主化への“捨て石”になったともいわれるハビビ氏を温かく見送りたい。
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