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ドラゴンテイル 辺境行路 作者:猫弾正

一章

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追跡 07

 丘陵を抜けてから渓谷へと降りて、二人の娘は人気の失せた廃村へと舞い戻った。

住人たちが去ってから、如何ほどの歳月が流れたのだろうか。

うらぶれた廃屋に踏み込んだ頃には、既に周囲は夕闇に包まれつつあった。

朽ち果てかけた粗末な農家は、所々で壁や屋根が崩れ掛けており、夜気の侵入を完全に遮る訳では無かったが、それでも露天での野営に比べれば随分とましだろう。

 床に転がる漆喰を踏みしめながら、幾らか気持ちに余裕の出た黒髪の娘はそんな感慨に耽っていた。

エリスが枯れ枝をへし折って、土間の真ん中で揺れる焚き火へと放り込む。

盛んに燃え盛る炎は、冷え切った躰をよく暖めてくれた。

廃屋の壁にしどけなく寄りかかりながら、エリスはそのまま焚き火を眺めていた。

「冷えてきた」

「……そうだね」

 炎を眺めている半エルフの人肌は、子猫のように体温が高かった。

人心地ついた女剣士が、体温の低下を防ごうと躰を寄り添わせているうち、つい心地よさの余りに抱き寄せてしまうと向こうからも懐っこく擦り寄ってきた。

どうやら遠慮は無用らしい。

「……ん、暖かいな」

 先程まで冷たかったとは思えない熱が伝わってきて、アリアの眠気を誘引する。

息を吹き返した人間というのは、体の動きが鈍くぎこちなかったり、或いは呼吸が苦しげであったりと、時に身体に不具合の見られる事もあった。

懸念してエリスを眺めるが、今のところは後遺症が残っている徴候は見えなかった。

森の子は、人の子と躰の作りが違うのかも知れぬ。

そう割り切ると、アリアは毛皮のマントに包まりながらうとうととまどろみ始める。

「来ないね」

エリスが呟いた。此方も眠たげに身体が揺れている。

「……別にいいさ。如何でもいい。君が無事ならそれで……」

少し嬉しそうな複雑な顔つきでエリスが曖昧な笑みを浮かべた。

「明朝、夜明けと共に発とう」

「……でも」

傷は大丈夫なのか、視線でアリアに問いかける。

「はっきり言ってよくないな。今もかなり痛んでる。泣きそうだよ」

くつくつと笑いながら、返答した。

「だが、此処で愚図愚図している訳にもいくまい」

 頷いたエルフの身体から伝わってくる体温が心地よかった。

身体の芯まで疲労しているのが幾らか癒される感じだった。

身体が暖まって来ると傷も痛み始めるが、眠気の方がなお強かった。

心地いい沈黙に浸りながら、しかし、傍らのエリスが憂鬱な顔をしているのに気づくと、眠たげな眼差しを向けて問いかけてみた。

「……どうした何を気にしている」

 強い隙間風が吹いた。焚き火が大きく揺れて、二人の娘の陰影が壁に蠢いた。

やや俯き加減に地面に目を伏せていたエリスが顔を上げる。

並外れて整っている美貌も、やはり憔悴は隠し切れずに疲労が色濃く滲み出ていた。

「……オーク。オークは追いかけてくるだろうか」

 ポツリと呟いたエルフ娘の肌が、炎を照り返して闇に白く浮かび上がっていた。

黒髪の娘は黄玉の瞳を細めると、視線を宙に彷徨わせた。

それが考え込む時の癖なのか、頤に指を当てながら脳裏の考えを説明し始める。

「村人の言が正しいと前提するなら、此処はオークにとっても不慣れな土地の筈だ。

 私の見たところ、オークの数は百から百五十。多くても二百は越えてない。

 しかも、多数の女子供を含んでいた」

エリスは小首を傾げながら、アリアの説明に形のいい尖った耳を傾けた。

「追撃に出せる数は、だから多くても二十から三十。

 我らが距離を稼げば、その分奴らは探索しなければならない領域も増える。

 見知らぬ丘陵。それも広大で起伏に富んだ地形で、たった二人を捕まえられるかな」

 アリアの自信有りげな言葉の内容には説得力が在るように思え、傍らのエリスは頷いた。

少し考えてから、黒髪の女剣士は言葉を続けた。

「昔、敵味方が千人単位の大きな会戦に参加したことがある。

 攻め込んできた高地地方の軍勢を地元の貴族豪族の連合が迎え撃ったのだがね」

何を言い出すのだろうと、怪訝そうな顔でエリスはアリアをじっと見つめた。

「戦自体は味方の勝利に終わったのだが、敵の王は逃げ出した。

 千人からの戦士や農民が勝手知ったる地元で、土地に不慣れな他所者を追い掛け回したにも拘らず、たった数人を取り逃がしてしまった」

皮肉げな口調で苦々しく告げると、アリアは一転して微笑を浮かべた。

「まあ、斯様に追跡とは難しいものなのだ。

 まして、十かそこらのオークが、不案内な土地で我らを追跡できよう筈が無い。

 じきに日も暮れる。明るいうちに来なかったのだ。まず逃げ切れよう」

「……なるほどね」

アリアが得々と結論を告げると、不安を感じていたエリスもしきりに感心して頷いた。

「それと日が沈んだら火を消した方がいい。目印にして近づいてくるやも知れぬ」

女剣士の指摘に少し考え込んでから、エルフ娘は首を振って反論した。

「大丈夫だと思うよ。幸いにも、辺りは起伏に富んで捻じ曲がった地形をしている。

少し離れれば、建物の中で焚く火は丘陵が遮ってまず目に付かないしね」

「夜中に奇襲は難しかろうが、用心するに越した事はないぞ」

アリアは懸念を吐露するが、エリスは涼しい顔で首を横に振った。

「貴女は出血で身体が冷えてる。朝まで身体は暖めておくべきだ。

 火は絶やさない方がよいと思う」

「……だがな」

唐突にアリアがくしゃみをした。ハンケチで鼻水を拭くと頷いた。

「……確かに今のうちに躰を暖めておかないと不味いか」

少し震えている女剣士の背中や腕をエルフ娘は手を伸ばして擦ってやった。

「……他には、話しておく事は無いかな」

「逸れた場合は、竜の誉れ亭で合流。互いに何日か泊まれるだけの金はあるだろう」

言われてエリスは片目を瞑った。少し嫌そうに顔を顰め、悪い未来を予想する。

「最悪、竜の誉れ亭がオークに焼かれていた場合は」

エリスの質問に意表を突かれたようにアリアはちょっと眼を見開いて、其れから目を閉じて優しく笑う。

「そこまで考え……いや、そうだね。その時は、別々にティレーに向かおう。

 私は西門近くの跳ね兎亭という旅籠に泊まる予定だ。ティレーで冬を過ごすなら、会いに来てくれ」

「うん。西門の跳ね兎ね」

 物の見方や思考回路に似通ったものがあるからだろう。会話は打てば響いた。

エリスは皮紙を取り出すと、炭で左を向いた矢印と城門、そして跳ねてる兎の絵を書き付けた。

「寧ろ、恐いのはオーク共が地元の丘陵の民を雇うことだが、ああしたはぐれ連中は大概、余所者を嫌っている。

 今までに繋がりもないなら、雇われるのも考えがたいな」

経験に裏打ちされた自信と共に断言してから、女剣士は欠伸を噛み殺しつつ横に転がった。

「まず逃げ切ることを考えよう。だが、日のあるうちに追いつかれなかったのだ。

 出てしまえば、もう大丈夫だと思うぞ」

「分かった……おやすみ」

 エリスも全く不安が解消されて微笑みを浮かべ、床に敷いた薄い毛布の上に横になった。

揺れる炎の傍らでアリアがなおも寒さに震えていると、寒さを防ぐ為か。エルフの娘が毛皮のマントへと潜り込んで抱きついてきた。

黒髪の女剣士は苦笑するとそのまま目を閉じて、やがて廃屋に二人分の穏やかな寝息が流れ始めた。



 黄金と紫が入り混じった冬空に、黄昏を照り返した細長い真紅の雲が浮かんでいた。

幼馴染の青年の傍に跪きながら、赤毛のジナは空を見上げながら語りかけた。

「あんたは、まだ生きてるんだから……

 ミナや無駄にしない為にも、自棄になってはいけないよ」

 低く擦れた囁きは重苦しい響きで、或いは、自分に言って聞かせる為の言葉でも在ったかも知れない。

農夫の青年は、本来の自分を取り戻したのだろう。

憑き物が落ちたかのように穏やかな顔つきで頷いた。

性根はけして悪い人間ではないと、同じ村で育った赤毛の村娘はそう思っている。


 周囲には、夕闇が迫りつつあった。

北風が木々や繁みの間を吹きぬけていくと、周囲から葉擦れの音が鳴り響いてくる。

二人の潜む窪みは出っ張りが北風を遮ってくれるが、流れ込む冷気ばかりはどうしようもない。

何時までも此処にいる訳にもいかないかった。

夜になる前に手近な廃屋にでも潜り込むべきだろう。

怒らせてしまった二人の旅人の傍らに行くのは、闊達な赤毛のジナにしても気が重かった。

何とか、自分達だけで丘陵を抜ける算段を立てたほうがいいかも知れない。

 オークに乱暴された体は今も節々が痛むが、いい加減に動かなければならない。

赤毛の村娘が溜息を洩らしつつ立ち上がろうとした時、奇妙な物音が耳に飛び込んできて、思わずうなじを総毛立たせた。

「しっ、誰か近づいてきている」

ハッとして躰を伏せながら驚いている青年の耳元で低く囁き、声を立てさせないように注意を促した。

なにやら複数の人間の話している声が近づいてきていた。

「間違いねえ足跡が続いているぜ」

一つは野太い粗野な男のがらがら声。旅人たちではあるまい。

丘陵民だろうか。或いはオークか。

二人の村人の顔が緊張に強張った。

怒りと恐怖に身悶えする青年の上。覆いかぶさった村娘の額に汗が吹き出た。



 オーク四名と黒エルフ一名、フードを目深に被った正体不明が一名よりなる追跡者の一行は、小高い丘陵の空き地にて手がかりと思しき痕跡を見出して、足を止めた。

追跡者たちは後方を進む本隊より分離しての少人数での先行であったから、勢い行動も慎重なものとなっていた。

 主に丘陵地帯の住民との余計な摩擦を避ける為である。

潅木と繁みが疎らな丘陵は、所々の岩陰と起伏によって見通しはさして良くない。

まして時刻は夕方。

太陽が遥かな西方山脈の黒い稜線に沈み込むまで、それほどの間は無いだろう。

 冬の薄暗い光の中、褐色の肌に灰色の髪をした黒エルフの女が何かを探すように蜥蜴の如く地面の上を這って動き回り、時にしゃがみ込んではじっと薄暗い土を凝視している。

「どうした?何か見つかったか?」

痺れを切らしたのか。黒い肌に革鎧を纏ったオークがやや性急な口調で問いかける。

「血の跡が無いのが気になるが……」

褐色の肌を持つ女エルフは、独り言のように呟いて首を振りつつ立ち上がった。

「……此処で何かがあったのは確かだ。複数の足跡が混じりあっているからな」

「逃げ出した村人が丘陵民に襲われたか?」

 戸惑った様子の別のオークが目を細めると、首を傾げつつなんとも付かない呻き声を上げる。

寒さに耐えるようにマントを首筋にまで上げて、

「……さて。足跡から見る限り、襲撃者も受けた側も少人数なのは違いないが……村人同士の仲間割れって線も在るけど、少し考えにくいな」

「何故だ」

黒エルフの娘は、拾い上げた眼球を訊ねたオークに見せた。

「落ちてた。喧嘩にしては残酷だろ?」


 一行のうちで、フードを被った何者かは、背を曲げて地面すれすれで鼻を蠢かせていた。

その様子は、猟犬が獲物を追い詰める際に、匂いを鼻に覚えこませようとするのにも似ていた。

「となると、片方は多分丘陵民だな。放っておいた方がいい」

黒オークが告げた時、地面の匂いを嗅いでいたフードの正体不明が立ち上がる。

フードを首の後ろに脱ぐと、黒檀のような見事な黒い肌が露わとなる。

此方も黒エルフ。細い葦のようなひょろりとした肢体が印象的な痩せた女であった。

長い白髪を背中に垂らして編みこんでおり、細い切れ長の瞳に喜悦を浮かべて微笑んでいる。

「一組はこの先に向かっている。多分、若い女が二人」

「……分かるか?」

「足跡から歩き方が。歩き方から骨格が割り出せる。女だ」

痩せた黒エルフは目を細めて、うっとりと鼻を蠢かしていた。

「間違いなく二人とも美人ね。いい匂いも残ってる」

「匂い?匂いが分かる?

 野外でどうして分かるものか。室内でも無いのに」

自分たちの技を印象付ける為のハッタリと受け取ったオークの一匹が、歯を剥き出して嘲笑していると痩せた黒エルフはずいっと顔を近づけた。

「あんたが昼に喰ったのは焼いた肉とベリー。それにエールも呑んだ。今朝は塩漬け肉の燻製のスープだ」

 驚愕して表情を凍りつかせたオークを放置して、鼻をすんすんと鳴らして痩せた黒エルフは猟犬のように周囲を歩き回っている。

「空気が動いているよ。人の気配の残滓が感じられる。つい先程までいたね」

空気中の匂いを嗅ぎ終わると、再びフードを目深に被りながら囁くように告げる。

「疑う訳ではないが、何故分かる?」

「臭いが死んでない。歩き回ったように拡がっている。

 時間が経つともう少し沈んでいるからねえ」


 それほど鼻の効かない黒オークのガーズ・ローには、嘘か真か見当も付かぬ。

ただ頷いて言葉を頭の片隅に入れておく。

「売り込む為の当てずっぽうと思ったかい?」

フードの下で痩せた黒エルフがくもぐった笑い声を洩らした。

「少しな。今はもう疑ってない」

外気の冷えが強まってきていた。正直に告げてから、黒いオークはマントをかき寄せた。

「となると外れか。追ってるのは男だ」

ガーズ・ローがつまらぬといった様子で舌打ちすると、灰色の髪の黒エルフ娘が俯いて考え込む。

「ヴィアの鼻は頼りになる。女だとしたらエルフの娘と女剣士の方か。

 丘陵民に襲われ、反撃して追い払った?」

「……多分そんなところだろう」

重々しく頷いたガーズ・ローを灰色髪の黒エルフ娘がじっと見つめてから囁きかけた。

「……大分、差を詰めたと思うけどね。幾ら手練でも疲れてるだろうね」

「今のうちに場所だけでも突き止めておいて、夜襲を掛けるか?」

此処で別のオークが口を挟んだ。

「おい、ガーズさん。狙いは族長をやった村の男だろうよ。女共の首を獲ってもよ。

 お偉方の覚えはよくならねえ。手柄にはならんぜ」

三人目のオークも顔を見合わせてから頷いて賛意を示した。

「確かに一文にもならん相手をやり合ってよ、手負いを出してもつまらねえよ」

「何を言ってやがる。剣士は仲間たちの仇だぜ。ぶっ殺してやるよ」

槍を背負ったオークだけが文句を付けるが、周囲のオークたちは乗り気ではない様子だ。


 オークたちが騒々しく騒ぎ立てているのを眺めていた二人の黒エルフだが、灰色の髪をした娘が突然に尖った耳を動かすと、鋭い眼で繁みの方角へと素早く振り返った。

「今、何か聞こえなかったか?」


 見つかっていない。見つからない。

今までそう思い、やり過ごそうと身を縮めて、そっと息を潜めていた赤毛のジナは、黒エルフの言葉に動揺して僅かに身動ぎした。

下に組み敷く形となった青年は、観念しているのか。或いは成り行きに任せたのか。

手を組み、目を閉じたまま殆ど身動きせずにじっと下生えに伏せていた。

「……臭いな。匂う。洗ってない雑巾みたいな匂いがするぞ」

フードの黒エルフが発した擦れた囁き声に全身からじわっと汗が出る。

オークから奪い返した衣類を着ていたのが原因だろうか。

恐らく違う。

陵辱を受けた際に肌にこびりついた体液も乾燥して、あからさまな異臭を放っている。

己の心臓の鼓動が耳のうちで大きく響いて、酷く耳障りに思えた。


「……止まれ。静かに」

灰色髪の黒エルフ娘は、手を上げて一行を制止すると聞こえる程度に囁き続けた。

「気配がある。近くにいる」

「……丘陵民か?」

ガーズ・ローの言葉に、一行は周囲を見回しながら、警戒した顔つきになると、武器を引き抜きながら、自然と互いを背中合わせにして奇襲に備える構えを取った。

「残り香ではないのか?よしんば潜んでいるとしても村人とも思えん」

囁きあいながら一行は短い槍や剣を構え、フードの黒エルフは背中から弓を構えると、何時でも撃てるよう矢を番えた。

「……さて」

灰色髪の黒エルフ娘は、唇を舌で湿らせてると、優美な曲線を描いた二本の短刀を引き抜いた。


 赤毛の村娘は項垂れた姿勢のまま、歪な石像の様に固まっていた。

次から次と吹き出してくる冷たい汗が、頬や胸の谷間を流れ落ちていく。

顎の先から滴り落ちた水滴が掌に落ちて初めて、自分が汗をかいていたことに気づかされる。

震える掌でそっと頬を拭った。

掌も濡れているから余り意味がないが、そんな仕草で幾らか気持ちは落ち着いた。

オーク達の言葉が絶えていた。それがまた恐ろしい。

逃げるべきか。だが、逃げる気配がしたら彼らは直ぐに追ってくるだろう。

オーク達がすぐに踏み込んでこないのは、此方を人数の丘陵の民ではないかと警戒しているからに過ぎない。

祈るような気持ちで赤毛のジナは震えながら、繁みの反対にある窪みに潜み続けるしか出来なかった。


 概してエルフ族は、人族やオーク族に比べればかなり優れた聴力を持っている。

黒エルフのうちでは特に秀でている訳ではないにしても、追跡者たちの鋭い聴力は確かに聞き分けていた。

張り詰めた空気の中、繁みで微かな物音がした。

何かが動いたと察知して、フードの黒エルフは当たると確信して矢を放った。悲鳴が上がった。


 黒い影がそろそろと繁みを出た瞬間、躰に衝撃が走った。

目の前に黒い影が迫ったと思ったら、矢が突き刺さっていた。

鋭い鏃は肉を切り裂き、神経を傷つけ、骨を砕き、臓腑を貫いて、躰の反対側まで達した。

痛みと衝撃で標的の肉体に致命傷を与えた。

飛び出しかけた悲鳴を、村娘は口を抑えて必死に押し殺した。

「……当たりか」

黒オークのガーズ・ローが訊ねる。

「いいや。外れ」

灰色の髪を持つ黒エルフの娘は近寄って地に横たわり痙攣する標的を片手で拾い上げる。

「穴兎だ」

フードの痩せた女エルフが、弓を片手に舌打ちした。

オーク達も武器を下ろして、苦笑を浮かべ、顔を見合わせた。

「なんでえ、脅かしやがって」

「……人の気配を感じたと思ったけどな。私の勘も鈍ったか」

空気が弛緩した。

兎を手にしたまま、黒エルフの娘は肩を竦めて、追跡隊のリーダーに訊ねた。

「如何する?足跡は少ない。跡は辿れるけどもうじき日が暮れるよ」

「先行しすぎたな。見知らぬ土地で深追いは避けるべきだろう。

 何が起きるかも分からん。一旦、戻って隊と合流しよう」

ガーズ・ローの言葉に部下達は頷き、一行は来た道を引き返していった。


 物音がしなくなって、どれ程、時間が経っただろうか。

オークたちが遠ざかっても、赤毛の村娘はまだ暫らく動けなかった。

村で目にしたオーク達の狡猾な『狩猟』のやり方は、それほどに強く脳裏に焼きついていた。

 やがて殆ど日が暮れて、黄昏の僅かな残滓がほの暗く差し込み、周囲の殆どが闇に包まれた頃。

確かに立ち去ったと確信してから、彼女は青年の手を引いて立ち上がり、転がるように旅人達のいる谷を目指して急勾配を駆け降りていった。


 二百歩も離れた距離から、近づいてくるのが感じ取れていた。

入り口から人影が転がり込んできた瞬間、アリアは枕元に置いていた短剣を投げ放った。

人影の耳を掠めて、壁に短剣が突き刺さった。

「ああ、外したか。投擲用ではないしな」

ぶつぶつ言いながら据わった目付きで跳ね起きると、長剣を抜き放って硬直している闖入者の喉元に素早く突きつけた。

「ひあッ!」

見ると、小さく悲鳴を漏らした侵入者は赤毛のジナであった。

「……なんだ、見た顔だと思ったら貴様か」

言うと、顔を真っ青にしてへたり込んでいる村娘を放置し、目を擦りつつ起き上がったエルフ娘の処へと踵を返して戻っていく。

 再び床に寝転ぶと、狼の毛皮のマントを身体に掛けながら半エルフを抱きしめる。

毛皮の中で、エリスはアリアの形のいい胸に顔を埋めてきた。

「……あったかい。柔らかい」

呟いているエリスの頭を撫でながら、可愛いので抱きしめてみる。

「お、お邪魔したみたいで……」

赤毛娘が気まずそうにおずおずと呟いているので、

「今さら踏み込んできて一体、何のつもりだ?」

「オー、オークが近くに来てたんです。姿を見かけました」

聞き捨てならない報告を耳にして、さすがに寝ている訳にはいかなくなった。

黒髪の女剣士は鋭い視線を赤毛のジナに向けると、

「何時?何処で?」

「丘陵の頂で!ひ、日暮れの前」

「つけられてないか?」

言ってから質問の無意味さにアリアは舌打ちした。赤毛の娘は息を切らしている。

此処まで走ってきた。足跡は地面にくっきりと刻まれているだろうか?

「……オーク達は引き返していきました」

「日暮れだったからか。分かった」

生欠伸をしていたエリスが、微かに不安そうな表情を浮かべて唇を舐める。

「夜のうちに逃げる?」

 エリスの問いかけに、アリアは首を傾げて考え込んだ。

その表情は静かで、見る者にも内心を窺わせない。

「眠気と疲労を押してか?方角も分からないのに、見知らぬ丘陵を突っ切るのか」

 距離を稼ぐだけなら無理ではないが、難題ではある。

一方で、オーク達にとっても丘陵地帯は見知らぬ土地だ。

夜の間に探索の手を伸ばすとは考えがたいが、兎に角、念の為に離れるべきかも知れぬ。

星明りを頼りにしても距離を稼ぐべきか。

黙考の末、首を振って結論を出した。

「いや、今は休もう。体力が回復しないと話にならない」

出血で身体の回復力も低下しているのを感じ取っていた。

一方で、夜を徹してオーク達が迫ってきたら、その時も一巻のお終いである。

逃げ切れるかどうかは分からないが、運を天に任せるしかない時もある。


 二人の娘が毛皮の中で抱き合ってぬくぬくしていると、赤毛の村娘は困ったような顔をしてから、小さくなった炎に薪を放り込みつつ訊ねてきた。

「二人は知り合って長いの?」

「……三日」

「三日だな」

冗談だと捉えたらしい。

肩を落として溜息を洩らしながら、入り口のほうにちらちらと視線を送る。

扉の外に気配が感じられる。独眼となった青年だろう。

恐らく、入りづらくて扉の外に佇んでいるのだ。

そういえば、眼を抉ったな。寝込みを教われないようにしよう。

用心を肝に銘じながら、アリアは問い返してみた。

「何故、そんなことを聞く?」

「……いあ。十と七年かな。村で暮らしてきた。

 それが随分と簡単に壊れるものだと思って」

弁解しながら、生娘でも無いのに頬を紅潮させて村娘は手を振った。

「御免なさい。ああっ、もう。二人の邪魔する気じゃなかったの」

アリアは何か誤解されてるような気もしたが、エリスが腕を廻して抱きついてくるので気にしない事にした。

そのまま躰を擦り付けて体温を貰う。

くすぐったそうに悶えるエルフの肌はとても心地よかった。

互いに洩らしたと息が至近で混ざり合うと、その気のない筈のアリアまで変な気持ちになりそうだ。

「明朝、夜明けと共に出立する。

 一緒に来るならな、貴様らもそれまで身体を休めておけ。お休み」



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