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【社説】

敬老の日に考える 「物語」を召しあがれ

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 「バーは人なり」-。亡くなったバー評論家、成田一徹さんが遺(のこ)した名言です。マスターの人生をたっぷり注いだカクテルを、ごゆるりと召しあがれ。 

 カクテルを飲みたくなりました。「YUKIGUNI」(渡辺智史監督)というドキュメンタリー映画を見たからです。

 “主演”は井山計一さん=写真、いでは堂提供。御年九十三歳。山形県酒田市で、バー「ケルン」を営む国内最高齢バーテンダー。長身痩躯(そうく)。カウンター越しの立ち姿が美しい、世界に知られたカクテル「雪国」の生みの親-。

◆93歳のバーテンダー

 「雪国」の誕生秘話をベースに、井山さんの思い出と日常、そしてマスターを取り巻く人々の言葉を注いでシェークした、まさにカクテルのような映画です。

 井山さんは酒田の生まれ。

 戦後、仙台や福島のキャバレーで、バーテンダーの修業を積んだあと、一九五五年に故郷へ戻り、三年前に亡くなった妻のキミ子さんと、自分の店を持ちました。

 五九年、寿屋(現サントリー)主催の全日本ホーム・カクテル・コンクールでグランプリを受賞したのが「雪国」です。

 材料は、ウオッカ、ホワイトキュラソー、ライムジュースの三種類。手近にあったものばかり。シェークしてグラスに注ぎ、緑色のミントチェリーを沈めて出来上がり。発表当時は珍しかったグラスの縁に砂糖を飾るスノースタイルも「雪国」の魅力です。

 カクテルグラスの外側だけをレモンで湿らせて、ミキサーでさらさらに砕いた上白糖を、内側に落ちないように丁寧にまぶします。東北の粉雪のイメージです。

◆時間と空間の創造主

 バー「ケルン」の営業は、夜七時から十時半までの一日三時間半。開店と同時にカウンター席が埋まります。週末、東京から新幹線で通ってくるという常連客も少なくない。いちげんさんも含めて八割が、まず「雪国」を注文します。

 ところがそんなお客さんたちのお目当ては、「雪国」だけでもないようです。

 マスターとの対話を楽しみながら、お互いがつくり出す濃密な時間と空間に身を浸し、癒やされるためにやって来る-。まさしく「バーは人なり」です。

 井山さんにとっても、お客さんとのこまやかなコミュニケーションが、あの華麗な手つきの原動力になっています。

 映画「YUKIGUNI」をつくった渡辺監督は、酒田の隣、山形県鶴岡市の在住です。

 客として「ケルン」へ通い、井山さんを知るにつけ、「シニアの生き方とか働き方が問われる時代、この人の存在は、何か大切なメッセージになるはずだ」と考えるようになりました。

 もちろんバーやカクテルに関するうんちくも、ふんだんにちりばめられた映画です。しかし監督は「常に自ら喜びを見いだしていく井山さんの姿を見て、見た人に、創造的、能動的な老いも“あり”だと感じてもらいたい」と願いつつ、二年にわたって井山さんの日常を追いました。

 <「老い」とは経験を積み重ねた「成熟」であり、かつては老人は経験知の持ち主として尊敬の対象であったはずだが、生産性、能率性ばかりが追い求められる現代社会においては「老い」や「成熟」はその価値を失ってしまっているのだ>

 元東北芸術工科大学准教授(民俗学)の介護士、六車(むぐるま)由実さんが「YUKIGUNI」のパンフレットに寄せたメッセージ。井山マスターは<老いることの希望>を体現しているのだと。

◆未来を担う次世代に

 思えば誰もが、人生のマスター、主人公ではないでしょうか。一編の映画になるような、世界に一つしかない「物語」を持っているはずです。

 だからおじいさん、おばあさん、未来を担う若い世代に「物語」をしてほしい。

 例えば政治家が、戦争や暮らしの“リアル(現実感)”を失いつつあるような今、経験知ほど味わい深いものはない。

 戦争のこと、平和のこと、初恋の人のこと。仕事のこと、道に迷ったときのこと…。

 喜怒哀楽をシェークして、涙と笑いをまぶしたような「人生」というカクテルを、今宵(こよい)、さあ一杯。

 

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