結婚の追求と私的追求

能町みね子

第22回

サダハルアオキ

 雨宮さんが急に亡くなったとき、私は「結婚」計画のさなかでした。アキラと「結婚」を前提とした疑似カップルとなり、週一くらいで家に遊びにいきはじめたちょうどその頃でした。
 しかし、友人が亡くなるという非常事態に際して、アキラの顔は全く思い浮かびませんでした。
 すがりたいとか、しゃべりたいとか、思いつきもしませんでした。
 おそらくアキラもこのニュースは知っているはずでしたが、アキラからも私を思いやるような連絡は一切入りませんでした。
 これは私にとってとても理想的なことです。
 あからさまに依存したり慰め合ったりするような関係にはなりたくないと思っていたところに、見事なタイミングでいちばんの精神的危機が訪れたため、実践的に確かめた形となってしまいました。
 火葬から数日経ってやっとLINEを送り、ショックだしちょっとパニックになっているということはふんわりと伝えておきました。もちろん心配してほしいわけではなく、会ったときに暗かったり様子がおかしかったりする可能性がある、と念のため言っておきたかっただけです。

 私はだいたい毎週木曜日にアキラの家に行くようになりました。
 神楽坂界隈の喫茶店などで書きものの仕事をして、ほどほどのところで切り上げ、地下鉄に乗って、22時前くらいにアキラの家に到着。23時半までやっている銭湯に二人ででかけ、さっぱりして帰り、ちょっとしたごはんを作ってもらう。キッチンが1階、リビングが2階にあるおかしな構造の家なので、何か作るたびに狭い螺旋階段をのぼって2階に届けてもらわないといけません。時折私が下まで取りにいったり、逆に効率悪いからとアキラにそれを断られたり。
 アキラは料理がヘタだと言い張っていましたが、私という作る相手ができたせいか、どんどんいろいろなものに挑戦していきます。
 フライパンで作る鉄鍋風餃子は焼き加減もちょうどよく、パリパリ具合が実においしい。ある日は「専用鍋付きで具も調味料もついてるセットがあって、すごい安かったのよ」と言って、パエリアセットを買ってきて初めてパエリアを作り、せっかく鍋があるからとその後も何度か作って、すっかり得意料理となりました。どちらも、めんどくさがりの私は絶対に作らないものです。
 料理をしないぶん、私は気まぐれでたまに高級食材を持ち帰ります。あるときは旅行のおみやげとして、ツナ缶程度の大きさで一つ4千円もする礼文島のウニの缶詰を買って帰りました。アキラに食べてほしいというよりも、ほぼ自分が食べたいがために買ったもの。
 しかし、値が張って一人なら購入をためらうものも、誰か自分以外にも食べる人がいるという言い訳をすれば買うためのハードルがものすごく下がります。ウニ缶は猛烈においしいけれどとても濃厚で、2人で1缶食べきるのがたいへんなほどでした。存分に堪能。
 私たちの「結婚」は、まさにこういう「効率」のためのものです。
 誰かのために、一人じゃ作らない料理を作る、誰かのために一人じゃ買わない物を買う。
 晩ごはんが終わると、私は2階のこたつか3階のテーブルでうなりながら週刊連載のネタをひねり出し、文章を書き進めます。「今週は何のネタにするの?」なんて声をかけられるのも、一人の仕事場では起こりえないこと。
 そして、アキラが2階、私は3階に別れて寝る。
 翌朝は、「朝食はパン派」のアキラにしたがって、焼いてもらったパンや目玉焼きをいただきます。
 その後、私は午前のどうでもよいテレビを眺めてダラダラしてから自宅に戻るなり、仕事の現場に行くなりします。アキラも、洗濯をしたり、最近急に集めはじめた大量のバラの鉢に水をやりに屋上に行ったりと、忙しい。

 12月3日はアキラの誕生日なので、バースデーケーキを買ってアキラ邸に向かいました。小さめのホールケーキサイズの、サダハルアオキで買った四角い黄色いチーズケーキ。プレートには、シャイニーゲイに抗うアキラに当てつけて「アキラ・シャイニー」と書いてもらう。アキラは特に決まったパジャマを持っておらず、Tシャツや甚平などで寝ているので、誕生日プレゼントとしては暖かい部屋着をあげようと思いました。ちょっと前にフライングタイガーで見かけた虎柄のつなぎのパジャマが話の種としてもおもしろそう。夫婦(仮)のお揃いのものとして2着買いました。
 直方体のケーキのキレイなカットを眺めながら、ずいぶん前、バレンタインの日に相磯さんに手作りチョコレートを贈ったことを思い出す。ケーキ屋さんのケーキのほうがおいしいに決まってるんだよね。心からそう思います。
 アキラの家の2階のこたつできちんとケーキにろうそくを立て、電気を消して。つなぎのパジャマを着てもらって。二人でのしっかりした誕生日パーティです。
 これはそもそも「擬似」である。「結婚」はもちろんのこと、おつきあいや半同棲、神田川よろしくカップルみたいに銭湯に行くこと、すべて「擬似」のはずだ。しかし、毎週同じ部屋でダラダラとスマホを見ながら過ごしていること、そして誕生日プレゼント、誕生日パーティ、もうここまで経験すると、「擬似」の意味が分からなくなってくる。アキラも一連の誕生日行事に腰が引けることもなく、それなりに楽しそうに受け入れている。
 こんな生活を知人に報告すると、やはりというか意外にもというか、「恋愛(というかセックス)に発展するんじゃないの?」などと言われることが時々ありました。
 もちろん、そんなことが起こるわけもない。半同棲生活となってからは、私はアキラを話題にするときにあえて面白がって「夫(仮)」という呼び方をするようになったものの、夫(仮)であろうと老けデブ専のゲイである。彼も私も、お互いを全く性的対象と見ていない。
 私の究極の理想は、「恋愛のない、幸せな結婚生活」を築いた上で、あわよくば別の人とも薄くて先のない恋愛っぽい関係を持ち、私の少女漫画止まりの心を満たす、ということです。だから、実態はともかく、形としては「不倫」が最終目標。
 夫(仮)はちょくちょくハッテン場に行っているようなので、ある面ではその目標を果たしている。うらやましい限りです。

 週に約一回の訪問日以外は、もちろん今までどおり、一人暮らしの部屋にいます。
 最初に加寿子荘に住んだときは風呂ナシの部屋で家賃が4万円だったけれど、じわじわと仕事が増え、収入も上がりました。仕事場兼自宅として借りているこの神楽坂のマンションの家賃は18万円もします。私の感覚では、この規模は十分に大金持ちです。持て余すほどの巨万の富です。あの頃からは想像もつきません。
 それなのに、暖房がエアコンしかないこの部屋は、いくら設定温度を高めにしても寒い。冬のあいだ、ずっと酷寒です。
 思えば私は一人暮らし開始以来、冬あたたかい部屋に一度も住んだことがありません。
 きっと暖かくする手段はいくらでもあるんです。別の暖房を買い足すなり、部屋着を工夫するなり、温かいものを飲むなり。
 しかし、私は一人暮らしの自分にそんなことをしてやるつもりがまるでない。料理を全くしないから冷蔵庫にはほとんど食材もないし、お茶一杯すら入れる気にならない。
 そうして体の芯から冷え切った状態で、しんとした自宅で夜中に仕事をしていると、まだあの日から間もないし、すぐ雨宮さんのことも頭に浮かび、具体性のないふつふつとした怒りや消化できないビニールのような虚しさが胃の底でうごめき出す。頭の働きが暗い方へ暗い方へ進み、ギアが膠着しかける。
 このあいだ私は、タイトルの奇抜さもあってヒットしている小説「夫のちんぽが入らない」を手に取りました。
 私たちと内情がまるで違うとしても、大枠としては「さまざまな問題をかかえる夫婦の話」ということで、もしかしたら何か近い部分があるのかもしれない、と興味が湧いたのです。ところが、これもよくなかった。
 読んだ・観たことで心の根深い部分が悪い方向に刺戟され、人生観を揺るがされるショックを受け、この世から消え失せたいという気持ちを倍加させるような作品を、私は「逆ツボにハマる作品」と呼んでいます。これはまさに逆ツボの類でした。
 高校生くらいの頃から、生に執着しない気持ちがうっすらと心の底に澱んでいます。積極的・具体的に死のうとしたことがあるわけではなく、正確に言えばいつでも「明日事故に遭って死んでも未練はない」というくらいの感覚です。たとえば3日後に楽しみなことがあるからそこまでは生きよう、なんて思うこともなく、どんなに楽しみなことが控えていても、明日うっかり死んじゃったらそれはそれでいいや。という、茫洋とした諦めです。
 この思いはどんなときも揺らぎませんでした。こうして大した希望を持たずに生きていることは、世間との折り合いについて悲観的に考え、すぐ絶望してしまう私を守る一つの方法でした。
 ずっと消えないこの感覚について、私はそれをコンプレックスとも、克服すべき問題とも思っていませんでした。むしろ、積極的に死のうとしたことがないだけ私は十分に幸せな部類ではないかと思っていました。特に最近は半同棲生活のせいか、自分の不幸さをわざわざ多めに数えて絶望に浸る回数は明らかに減り、「いつ死んでもいいや」という感覚さえ忘れそうなくらいで、自分はかなり幸せなほうではないかとすら思えていました。
 しかし、「夫のちんぽが入らない」は、視野の狭い主人公が、自らの主観的な不幸にどっぷりと浸かってその感覚を疑いもしていないように見えました。彼女の感情は極端に平凡か、感情描写が極端に省略されており、何らかの珍奇な感覚や性指向によって悩む様子は見られません。彼女が深いコンプレックスを持っているのは確かでしょうが、男が女である主人公を愛してくるという「常識的恋愛」に対しては違和感のかけらもなく、セックスという行為それ自体についても何らかの疑問を抱く様子もなく、私には世間を支配する圧倒的多数の「常識側」に完全に与した状態で物語が展開しているように見えました。夫とのセックスは確かに物理的な理由でうまくいかないようだけれど、ほかの男性とのセックスについてはすんなりと遂行しており、その背景にある心理の説明も私にとっては不十分でした。
 つまり、彼女は世間の「当然」や「常識」と折り合いをつけるための「擬似」を知りもしないように見えました。
 やはり私のやっていることは擬似なのだ、と改めて鮮烈に自覚する。
 私は寝ても起きてもずっと擬似をやっている気がする。本物の「当然」や「常識」に、私はどうやっても一生手が届くことはない。
 こういった逆ツボの作品は、明るく楽しい顔ではなく、精一杯悲しそうな顔をしてやってきます。そして、私の前で、らくらくと常識的な生き方をしてきたうえでの悩みをたくさん開示し「私はこんなに不幸なんですよ」と主張してくるのですが、私にはそれが、もっと手前の部分でさんざん躓いている私をせせら笑っているように聞こえてしまうのです。私は本を読み終え、そのまま空中に一瞬の血の霧として消えたくなりました。
 誰かと暮らしていれば、こんなことを考えてしまう夜中の隙間を物理的に埋めることができる。
 有益なる「無駄な会話」や、眼前を横切る他人の物理的動きによって、消えてしまいたい気持ちに浸かってぬかるむ時間が強制的に平らかにされ、ぺっとりとした日常生活が展開される。
 そのための「結婚」なのです。
 アキラも一人の夜に「みね子がいたら目の前のサンマ焼く気になるのに」などとツイートしていて、無益にダラダラしている様子がネット越しに分かります。求めるものがおおむね一致している。これですよ、このための同居。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。