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アイヌ
《アイヌ語で人の意》北海道を中心に日本列島北部、樺太(からふと)(サハリン)・千島(クリル)列島などに居住する民族。伝統的に狩猟・漁労・採集を主とする自然と一体の生活様式をもち、吟誦形式の叙事詩ユーカラが伝わる。室町時代から和人との交渉が生じ、江戸時代には松前藩や商人などに従属を余儀なくされ、明治以後は、同化政策のもとで言語など固有の慣習や文化の多くが破壊され、人口も激減した。
[補説]平成9年(1997)北海道旧土人保護法を廃止してアイヌ文化振興法が成立。平成19年(2007)先住民族の権利に関する国際連合宣言を採択。平成20年(2008)6月、政府にアイヌの人々を先住民族として認めることを求めた国会決議が衆参両院で採択される。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
アイヌ
現在,主として北海道に居住する日本列島の先住民族。欧文表記はAinu。人口は北海道に2万数千人,道外に数千人といわれるが,正確な数は不明。〈アイヌ〉はアイヌ語で〈神に対する〉人間,人を意味し(ほかに夫・父などを指す場合もある),アイヌ人・アイヌ民族をいう場合にも用いる。アイヌは,北海道,千島列島,樺太(サハリン)を〈アイヌモシリ(アイヌの住む大地)〉として,固有の言語と文化を持ち,共通の経済生活を営み,独自の歴史を築いた集団であり,アイヌ民族に帰属することを自認する人々である。 アイヌの起源については様々な説がとなえられてきたが,現在,自然人類学の上からは,縄文時代に広く日本列島に生活していた人々のうち列島北方を居住地としたものが,弥生時代以降も著しい形質上の変化を被らずに中・近世にまで至り,アイヌ民族の主体をなしたという説が有力である。和人(シャモ)は華夷思想の影響をうけて近世末まで〈夷〉〈毛人〉〈蝦夷〉などと記し,〈えみし〉〈えびす〉〈えぞ〉などと呼んできたが,近世以前にこうしたことばで表現された人々がすべてアイヌであったわけではなく,その具体相についてはまだ明確にはなっていない。大和政権と〈蝦夷(えみし)〉の接触は,記録の上では7世紀中葉の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北方遠征が最初で,このことを記す《日本書紀》には,〈飽田(あきた)・渟代(ぬしろ)〉2郡の〈道奥(みちのく)の蝦夷〉,〈津軽郡の蝦夷〉,〈渡島(おしま)・胆振【さえ】(いぶりさえ)の蝦夷〉が登場する。この記事の〈蝦夷〉の理解には諸説あるが,〈渡島・胆振【さえ】の蝦夷〉は北海道南部に住むアイヌの祖先,〈津軽郡の蝦夷〉はこれと密接な交流のある人々とみる説が妥当であろう。〈道奥の蝦夷〉とアイヌとの関係については不分明である。阿倍比羅夫の遠征以後,律令国家は武装植民の形で蝦夷(地)経略を進め,華夷意識を伴う領土拡大政策は,その後も権力層に引き継がれていった。 縄文時代の終りごろまで日本列島はほぼ同様の歴史を刻んできたが,紀元前400年−前300年ごろから列島中央部(本州・四国・九州)に住む人々の多くが稲作を主軸とした農耕社会へ移行していったのに対し,列島北方地域では,狩猟・漁猟・採集を主とした文化が存続した。〈続縄文文化〉と呼ぶ。この文化は8世紀ころに〈擦文(さつもん)文化〉に移行,12世紀−13世紀まで続いた。〈擦文文化〉は北海道のほぼ全域に展開し,津軽半島や下北半島にも痕跡を残している。13世紀は〈擦文文化〉から〈アイヌ文化〉への移行期で,このころからアイヌ文化・民族の形成が始まり,14世紀以降本格的に展開していったと考えられている。15世紀中葉,津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東(安藤)氏が南部氏に追われて渡島半島に逃亡,侵入,アイヌの生産・生活の場であった主要河川の流域や海岸線に勢力を扶植していったため,アイヌと和人との対立抗争が繰り返され,ついに1456年−1458年のアイヌの蜂起となった(コシャマインの戦)。この戦は和人の勝利に終わり,戦功をあげた武田信広が蠣崎(かきざき)氏を継いで,〈道南十二館〉を核とした和人社会の覇権を握った。武田(蠣崎)氏(松前氏の祖)は道南支配の拠点として〈上ノ国〉に勝山(かつやま)館を築くとともに,1551年〈夷狄(いてき)の商舶往還の法度(はっと)〉を公布して,天ノ川〜知内(しりうち)川間の地を和人専用の地(和人地)とした。この法度は,一面ではアイヌとの講和的性格をもち,以後1世紀ほどは比較的良好な関係が維持された。この時期のアイヌの人々の様子は,フロイスやアンジェリス,ディオゴ・カルバリョら宣教師の報告からうかがうことができる。それらによれば,彼らは海洋・交易民であり,自分たちの産物(鮭・鰊などの干物,白鳥・鶴や鷹などの猛禽類,鯨やトドなど)のほか周辺諸民族との交易で得た産物を〈和人地〉や奥羽北部にもたらし,綿,米(酒米・麹米),酒などと交換していた。なお水田はなく,栽培穀物は稗(ひえ)が主であったようである。しかしこうした関係も内部には矛盾をはらんでおり,さらに松前藩の成立と同藩の商場(あきないば)知行制の展開のなかで,アイヌの人々に対する過酷な収奪や漁猟場の破壊が進み,1669年アイヌの近世期最大の蜂起〈シャクシャインの戦〉が起こる。鎮圧戦を進める中で松前藩は,アイヌに対し絶対服従を誓わせた七ヵ条の起請文(きしょうもん)を強要,以後松前藩のアイヌに対する政治的経済的支配は一段と強化され,元禄〜享保期(1688年−1736年)に場所請負制(ばしょうけおいせい)が成立すると,〈蝦夷地〉のアイヌの多くは交易相手から漁場の労務者へと変質を強制させられていった。松前藩と〈奥蝦夷地〉のアイヌとの間では,18世紀後半まで商場での交易関係が続いていたが,1780年代に商場を請け負っていた飛騨屋が漁場経営に切り替え,商場内のアイヌを酷使したため,1789年国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌが蜂起した(国後・目梨の戦)。しかしこの蜂起も幕府・松前藩によって鎮圧され,近世末には蝦夷地全域は事実上,幕府・松前藩の統治下に置かれることになり,古代以来,武装植民の形で進められてきた蝦夷地経略=領土化が完了した。 明治政府は1869年,南千島を含む〈蝦夷地〉を北海道と改称,アイヌの人々を一方的に〈日本人〉に編入,アイヌ固有の歴史・文化を否定する同化政策を強力に推し進めた。近世期までの領土化に加え,〈皇民化〉をはかったのである。しかもそれは和人と対等な〈皇民化〉ではなく,著しく差別的な政策であったことは,1875年アイヌの呼称を〈蝦夷人〉から〈旧土人〉と改称したことに端的に表現されている。この〈皇民化〉,同化政策のなかでアイヌの人々は自らの文化・母語の放棄を余儀なくされていった。明治政府は1899年,アイヌのさらなる同化と農耕・定住化をはかるため,〈保護〉を名目に〈北海道旧土人保護法〉を公布した。この法律制定は1879年の琉球占領(いわゆる琉球処分),1895年に開始された台湾統治(植民地化)といった明治政府の対外膨張政策,植民地政策(異民族管理)とも密接な関連をもっており,保護法の内容は1887年に米国で制定された〈一般土地割当法(通称ドーズ法)〉に範をとったのではないかという指摘がある。この法律は1937年,1946年,1947年に一部改正や条項の削除がなされたが,その制定経緯,歴史性,内容,差別的名称にもかかわらず1997年まで存続した(同年5月〈アイヌ文化振興法〉が成立,保護法は廃止)。近世以来の〈和人〉による支配,〈アイヌ政策〉,とりわけ明治政府の同化政策のなかで,土地を奪われ,民族固有の歴史や文化を否定され,母語さえも放棄せざるを得ない状況に追いやられたアイヌの人々は,ただこれを甘受していたわけではない。1920年代以降,差別的な制度の廃止,偏見の打破を目指した個人や組織の言論活動や運動が展開され,第2次大戦後,こうした動きは一層活発になった。1980年代以降は〈保護法〉撤廃,〈アイヌ文化振興法〉制定を目指した運動を核に,伝統的な文化の保存と復興,次代への継承,母語の復権など〈アイヌ民族〉の再構築への取組みが様々な場で意欲的に行われている。しかしアイヌの人々に対する差別や偏見,同化主義は今もなお〈和人〉社会に根強く存在しており,こうした意識の克服が〈和人〉社会に課せられている。
→関連項目アイヌ文学|蝦夷地|奥州藤原氏|蠣崎氏|金成マツ|皇民化政策|コタン|コロボックル|サハリン|山丹交易|先住民族|知里真志保|日本|場所請負|バチェラー|平取[町]|北海道|松浦武四郎 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
アイヌ
イタリア、デルタ社の筆記具の商品名。「インディジナスピープル コレクション」シリーズ。2005年発売。ロシア、北海道のアイヌ族をイメージ。万年筆とボールペンがある。 出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
アイヌ【Ainu】
アイヌをどう定義するか,とりわけ現代のアイヌをどう認識し,どう定義するか,という問題は,彼らを取り巻く歴史的環境とその中での彼らの自己認識のあり方や,〈民族〉の定義の問題とも深く関わっているだけに,その定義のしかたは,時代とともに大きく揺れ動いてきた。1960年代ころまでのアイヌの現状に対する研究者を含めた大方の認識の特徴は,彼らを和人とは異なる固有の文化を有した一つの民族とはみないで,彼らは,いずれ和人に同化される,との認識を前提にして,〈アイヌ系住民〉〈アイヌ系日本人〉と称したところにある。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
アイヌ
〔アイヌ語。人・男・父の意〕
主に北海道に居住している先住民族。かつてはサハリン(樺太)・千島列島・東北地方にも居住。集落はコタンと呼ばれ、狩猟・漁労・採集を基本とする生活を営んでいたが、幕藩体制下での松前藩を中心とした支配・搾取、明治政府の同化政策の下で伝来の生活形態や伝統文化は根底的に破壊された。口承文芸としてはユーカラなどが口承された。
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
アイヌ
〘名〙 (aynu 「人」の意) 昔、北海道・樺太(サハリン)・千島列島(
クリール)・
カムチャツカ半島・本州の北端部に広く先住していた民族。現在は主として樺太・北海道に居住する。人種の系統は諸説があり、明らかでない。古くはコタンと呼ばれる集落を作り、狩猟や漁を基本とする生活を営んでいた。近世以降は松前藩の支配と
搾取を受け、明治以降は政府の同化政策によって
混血がすすみ、固有の風俗・習慣や伝統の文化の多くが失われ、人口も激減した。
アイノ。
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世界大百科事典内のアイヌの言及
【蝦夷】より
…ただしその呼称・内容は,時代・地域によって大きく異なり,その性格を一義的に規定することを困難にしている。また,アイヌとどうかかわるかもむずかしい問題である。このことばは,もともと政治的・文化的に〈中央〉を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民),その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)をさす中華観念にもとづいているから,人種的観念であるアイヌか日本人かという議論の立てかたとは一致しないところがある。…
【蝦夷地】より
…蝦夷の居住地,のちアイヌの居住地を指す。蝦夷観念の変化に伴い蝦夷地の地域概念にも変化がみられた。…
【蝦夷地交易】より
…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…
【国後・目梨の戦】より
…アイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力闘争。近世には〈寛政蝦夷乱〉〈国後騒動〉〈寛政元年蝦夷騒擾〉などと称されたが,近代以降は〈寛政元年の蝦夷騒乱〉〈寛政の乱〉〈国後・目梨の乱〉〈クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起〉などとも称される。…
【熊祭】より
…熊の生息する北方ユーラシア,北アメリカ北部の森林地帯の狩猟民が熊を殺すときには,(1)熊の殺害,(2)肉の消費,(3)霊の送り(=甦り(よみがえり))という3場面で構成され,各場面が各種の呪言・禁忌を伴う一連の儀礼よりなる祭事を行っていた。所によってはいずれかの場面がとくに強調されることもあるが,このような〈熊の殺害をめぐる儀礼複合〉を総称して〈熊祭〉と呼ぶ(祭り的色彩の強いアイヌ,ニブヒ,ツングース,オビ・ウゴル,ラップの事例を熊祭と呼び,そのほかは熊崇拝=儀礼として区別する立場もある)。熊祭の汎北半球的分布(ツンドラ帯は除く)についてはアメリカの人類学者ハロウェルAlfred I.Hallowellの博士論文(1926)でつとに明らかにされており,各地の事例の間に驚くべき類似性のあることが注目された。…
【コーカソイド大人種】より
…この東方にはインド・アフガン人種がいる。アイヌも波状毛,多毛などコーカソイド的特徴を示すが,モンゴロイド的な特徴も多く,分類が困難である。【寺田 和夫】。…
【コシャマインの戦】より
…室町中期,北海道渡島(おしま)半島を舞台にしたアイヌ民族の蜂起。1456年(康正2)春,箱館近郊志濃里(しのり)(現,函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し,翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。…
【指紋】より
…日本内での地方差があるが,整然とした形では認めにくく,かつ,そう著しいものではない。ただしアイヌは弓状紋3%・蹄状紋65~70%・渦状紋25~30%程度の白人的な出現率を示す。 先天性異常では,一見して異常と考えられる紋理の出現や,紋理の形態は異常とはいえないが,正常群との間に統計的に頻度の差がみられ,隆線の形成不全ないし形成異常が認められる。…
【住居】より
…インドにおいて,住居から都市までその建設の指針とされてきたシルパシャーストラ(《マーナサーラ》)や中国の風水説では,住居をミクロコスモスと考え,人体とも対応する宇宙(マクロコスモス)を反映するしかけとして説いている。無文字社会においても,バリ島やアイヌの住居に見るように,海と山,天と地,あるいは川上と川下といった方向軸に沿った民俗方位が発達し,住居はそこで世界の中心として位置づけられ,コスモス・イメージ(宇宙像)を演出する場となる。 こうして住居は,その本質において儀礼の場となる。…
【太陽】より
… 太陽崇拝は,採集狩猟民の世界にも見られることもある。北海道のアイヌは日食や月食のときに,大地を踏みとどろかせ喚声をあげて光の神の危急を救おうとした。しかしアイヌはふつう太陽神や月神に木幣(ヌサ)をあげることはほとんどない。…
【知里真志保】より
…アイヌ民族出身の言語学者,民俗学者。アイヌの叙事詩ユーカラの伝承者として有名な金成(かんなり)マツをおばとし,《アイヌ神謡集》(1923)の知里幸恵(ゆきえ)を姉として,現在の北海道登別市に生まれた。…
【箱館奉行】より
…最初の奉行は戸川安諭(やすのぶ),羽太正養(はぶとまさやす)。 幕府は,蝦夷地支配の眼目をアイヌの〈懐柔・撫育〉にありとして,アイヌ交易の是正,風俗の同化,さらには教化を目的とした蝦夷三官寺(国泰寺,等澍院,善光寺)の建立などの政策を断行したが,蝦夷地支配の本来的な目的は,ロシアの南下に対する対応と蝦夷地収益の2点にあり,アイヌに対する政策も親露化の防止という観念から行われたものであった。また,蝦夷地の警備は弘前,盛岡2藩に命じ,非常時には秋田,庄内,仙台,会津諸藩にも出兵を命じた。…
【場所請負】より
…18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。 近世初頭,松前藩は渡島(おしま)半島南部の和人地を直轄するとともに,それ以外の北海道の海岸部を,アイヌの各部族の支配領域に対応させて〈場所〉という領域に区分し,場所のアイヌとの交易独占権を上級家臣に知行として分与した。これは松前藩自体が江戸幕府から与えられた蝦夷地交易独占権を,家臣に分与した商場(あきないば)知行制とみられる。…
【ヘナウケの戦】より
…1643年(寛永20),西蝦夷地セタナイ(現,北海道瀬棚郡)―シマコマキ(島牧郡)地域のアイヌ民族が反松前藩の行動に立ちあがった,近世におけるアイヌ民族の最初の戦い。ヘナウケはアイヌの首長名。…
【和人地】より
…松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。…
※「アイヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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