恩田の「恩」の謎
恩田という地名は本当に恩田なのだろうか?
恩田恩田と散々書いておきながら、ときどき疑問に思うことがあります。
でも今、恩田は恩田と呼ばれているし、地名にも駅名にもバス停にも間違いなく恩田と書かれているのだから、恩田は恩田なのだろう。そんなふうに考えて今までその疑問を置き去りにしてきました。
今回はその疑問を書いてみます。ただし疑問のまま解決はしていません。
恩田は昔、武蔵国都筑郡の恩田村でした。それは新編武蔵風土記稿にも載っていますし、武蔵国の全域を描いた古地図にもちゃんと描かれています。
▲武蔵国全図 安政3年(1856年)
ほら、ちゃんと。
都筑郡の端、長津田と奈良の間に。
あれ?忍田??
「忍」みたいなのは「恩」の異体字だろうか?
同じ地図の他の場所を見てみます。
まずは石田三成の水攻めに持ちこたえたことで有名な忍城です。小説や映画にもなりました。
「忍」です。近くに下忍村もあります。恩田の忍田(?)の「忍」と同じ字じゃないですか。
では恩田の他に「恩」の字を使うことが知られている地名がどう書かれているか見てみます。
例えば東京都八王子市にある恩方(旧上恩方村・下恩方村)です。
上忍田・下忍田。恩田と同様に「恩」が「忍」の字になっています。また「方」が「田」になっていますがそれは気にしないことにします。
そして実は埼玉県にもある恩田エリア、埼玉県熊谷市の恩田(旧上恩田村・中恩田村・下恩田村)です。
これは「恩」が「思」になっていました。でもこれは許容範囲にも思えます。
さてはこの地図を描いた人は「恩」という字を知らないのでは・・・。ちなみに描いた人は橋本玉蘭(歌川貞秀)という浮世絵師です。
最後に埼玉県岩槻市の慈恩寺(旧慈恩寺村・表慈恩寺村・裏慈恩寺村)です。
ちゃんと「恩」の字知ってるじゃないですか。
拡大して並べてみました。
つまりこの地図で都筑郡の「恩田村」は意図的に「忍田村」と書かれていると考えられるのです。
実はこの地図だけではありません。恩田にある石碑石仏のいくつかにも、似たような文字が刻まれています。
▲三皇社の庚申塔 宝暦9年(1759年)
▲薬師堂の庚申塔 寛政10年(1798年)
▲苗万坂の庚申塔 明和5年(1768年)
これらはいずれも「忍」のような字で刻まれています。そしていずれも1700年代後半の上恩田地域にある庚申塔でした。これが偶然なのか意図的なのかは分かりませんが、偶然にしては揃いすぎている気がするミステリーです。
余談ですが他にこんな字もありました。
▲庚申谷の庚申塔 万延元年(1860年)
これも上恩田地域にある庚申塔です。
というように、古地図にも石仏にも「恩」を「忍」の(ような)字で記載している例があるのです。
「恩田」を「忍田」と呼んでいた時期があったのか、昔はそういう異体字があったのか、ギャル文字のようにデフォルメすることが流行った時期があったのか、などいろいろ考えてしまいます。
石仏の表記内容の分析や、活字化された文献ではなく原本の表記の確認、古い漢字の勉強など、かなり深いところまで調査をしないとこの謎は解けそうにありません。しかしいずれ解いてみたい謎ではあります。
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