授業でよく言うのですが…
「現代人の価値観で、昔の人の言動を評価してはいけないよ。」
と。
ちょうど蒙古襲来の話をしていて、
「武士たちが戦いでがんばっていたのに、朝廷は神仏にたよるばかりで祈禱して夷狄調伏を祈ってばかりだった、なんていう説明は、私が子どものときによく説明されていたもので、今はそんなことは言わない。」
と説明しました。
そもそも、この「朝廷無能武士有能論」は、1960年代の歴史教育でよく言われた説明です。
これは、明らかに戦前の「神風」思想にもとづく「朝廷有能武士無能論」の反動でしょう。
『八幡愚童訓』に見られるような、集団戦法に対して無謀な一騎打ちで挑む武士たちの姿などはこの考え方に立ったものです。
そして1980年代の学校教育では、この二つが混在し、「朝廷は神仏にたよるばかりで、一方、武士は武士で、愚かな一騎打ちで挑んだ。」という言説が、前時代のそれぞれの教師や小説家、ドラマなどによっておもしろおかしく説明されてしまいました。
戦前に右に振ったフリコが、戦後の教育で左に振り、また右に振って、また左に振る…
史実を抜きに、しだいに誇張や矮小化を繰り返し、得体の知れぬ蒙古襲来像でできあがってしまいました。
現在の歴史教育は、そういう「愚かな振幅」から離れて、史料に基づき、社会史の立場をふまえて説明しようという段階に来ているのです。
勉強不足の教師や作家によって、また「誤謬が再生産」されるのはどこかで断ち切らないといけません。
さて、授業では続けてこんな話をしました。
「君たち、受験勉強のとき、お父さんやお母さんが、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんが、神社やお寺で合格祈願してくれて、御守りもらって、ありがたい、とか思わなかった? がんばるぞ、て思わなかった? 現代人でもそうなのに、当時の人はどんなふうに考えたと思う?」
農村には鎮守の社があり、また寺院もありました。
農作業は、さまざまな神事を節目にして、村人たちの共同作業で進められています。
武士たちも、それぞれの氏神や持念仏の信仰を持ち、惣領は平時には、その祭祀をとりしきって一族の団結を深めていました。
武士の社会では、分割相続がおこなわれ、土地は一族に分けられます。しかし、血縁を重んじ、本家を中心にして一家・一門を形成します。本家の長が「惣領」で、戦時には惣領を指揮官として戦います。
一つ所に命を懸ける、のは、一家・一門。「一所懸命」は「一家一門一所懸命」なのです。
そして命に関わることですから、神や仏に命をゆだねる気持ちも強く、平時に先祖の供養、氏神の祭祀は大切にされ、その統轄も惣領がおこなったのです。
承久の乱のときは、後鳥羽上皇方には人が集まらず、鎌倉方にたくさんの兵が集まったように見えますが、「鎌倉が勝つなら鎌倉、上皇が勝つなら上皇」と、勝ち馬に乗ろうとしている御家人が多く(『承久記』)、迅速に動いて緒戦に勝利したことが幸いし、鎌倉方に兵が集まりました。上皇方が勝利する可能性も十分にあったんです。
武士たちはドライで、初期の鎌倉時代は、まだ双務的な契約関係にあったことがわかります。
しかし、蒙古襲来の時は、別でした。
朝廷が全国の寺社に加持祈祷・夷狄調伏の祈願を行うように発し、「国をあげて戦う」という空気が武士や農民などに広くゆきわたったのは、神事が農村生活と深いつながりができていて、武士の惣領制を支える精神的支柱に社寺があったからです。
とくに、弘安の役のときの速やかな大動員や、東方からのさらなる大規模な援軍の組織には、このような一助があったことも評価しなくてはならないと思います。
これらは、もちろん教科書には書かれていませんが、「教科書には書かれていない日本史」を標榜するならば、このような側面こそ語られるべきではなかったのでしょうか。