『日本国紀』読書ノート(30) | こはにわ歴史堂のブログ

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30】政治体制が変わって社会変革がもたらされたのではない。

 

「鎌倉幕府は、日本史上に現れた初めての武家政権であったが、その政権は御家人たちによるものである。」(P95)

 

一般的には、百田氏もP89で指摘されているように、武家で「日本史上初めて権力を握った」のは平氏、として説明されています。「初めての本格的な武家政権」と説明されていたなら矛盾を読者に与えなかったと思います。

 

 P92では、鎌倉幕府成立の年代の諸説を紹介されています。

ただ、中学生の使う教科書では、壇ノ浦の戦いと同じ年で、国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭が設置された年である1185年を鎌倉幕府の成立としています。

以下は誤りの指摘ではないのですが、この守護と地頭、というのが鎌倉幕府の支配のキモで、「その政権は御家人たちによるものである。」と説明されているように、御家人と将軍との主従関係は、守護や地頭に任命される、というところにも大きな意味がありました。

とくに承久の乱後、幕府が「実質的に全国を支配した」のは、六波羅探題の設置に加え、上皇側の武士の所領や貴族の荘園を没収して、新たに「地頭」(新補地頭)を配置していったからです。

その後、地頭が下地中分・地頭請を通じて貴族の荘園に侵出していく、というところこそが「武家社会」への移行と繋がるところでもあるので、鎌倉時代の説明に「守護」・「地頭」の説明がほぼゼロというのはちょっと問題があるように思います。

 

それから「惣領制」の話もまったく出てきません。

鎌倉幕府の政治や軍事は惣領制によって支えられています。この説明がなければ、後の幕府の滅亡や室町時代へと続く武家社会の説明ができないはずです。

通史は、ある意味、次の時代のネタフリの連続です。ここでこの説明をしておくから、次の事件や社会の変化の説明に繋がる、というようになるもの。

「惣領制」に触れていないのは、鎌倉時代の武士の説明の半分ができていないのと同じように思います。

 

総じて、社会・経済史の視点があまりみられず、通史としての薄っぺらさの原因はこのようなところにもあるように感じました。

 

さて、「商業の発達」(P97)というところですが、

 

「政治体制が大きく変わったことにより、社会全体に変革が為されたのである。」

 

と、あります。

これは明らかに逆です。

「社会全体が大きく変わったことにより、政治体制が変革された」のです。

 

荘園が発達し、地方豪族や有力農民が台頭する中で武士が力をつけ、その力をも取り込みながら荘園公領制に変化し、院政期の社会が成立しました。院政期の新たな荘園の成立、貴族の権力闘争などは、開発領主として勢力を拡大してきた武士たち抜きでは実現しませんでした。そういった武士たちと荘園・公領との新しい関係を築くには、既存の体制では不可能になりつつあったのです。武家政権の誕生は、こうした社会の変化に対応するために生まれました。

 

P97の「商業の発達」の説明では、商業の発達が先に説明されて、「変化はそれだけではない」として農業生産の説明が続きます。

商業の発達と農業の発達は別々に起こった変化ではありません。

商業の発達は、農業生産の拡大が背景にあるからです。

二毛作・牛馬耕の開始、肥料の使用、荏胡麻などの商品作物の栽培によって農業生産が拡大し、その余剰生産物が荘園・公領の要地や寺社の門前で売買されて定期市が生まれました。こうして商業が発達していくのです。

手工業の職人もこの時代は農村内に住んでいます。

 

ちなみにこのような「変化」は、蒙古襲来の前後にみられましたが、とくに蒙古襲来後の社会変化と深くつながっています。

幕府の滅亡の重要な要因となっていくので、「商業の発達」の説明は「文永の役・弘安の役」の説明の後にされたほうがよかったのではないでしょうか。(多くの教科書はみな蒙古襲来の説明後に社会の変化を説明しています。)