【7】十七条憲法は「憲法」ではない。
歴史学は、史料を批判的に読みとるところから始まります。これは歴史学、なんて大げさに言わなくても、歴史を学ぶ者の姿勢としてのイロハのイです。
批判的、というのは、何もケチをつけるという意味ではありません。果たしてそれが事実かどうか、いったん疑ってかかってみる、ということから始まります。
さて、そのような史料の読み取りの姿勢の一つに、「裏返して」考える、というのがあります。
十七条憲法の場合ですと…
「和を以て貴しと為し…」とは、つまり、当時はまだ諸豪族の争いがみられた、ということを示している、と考えます。
わざわざ、和を大切にせよ、と命じている以上は、争いが多かったのだ、ということがわかりますよね。
「篤く三宝を敬へ」も、仏教がまだ浸透していなかったからこそ、「敬へ」としているわけです。
「当時の人々にとって宗教は、現代とは比べものにならないくらい重要なものだった」(P42)のではなく、少なくとも仏教はまだ重要視されていなかった、と考えます。
「詔を承りては必ず謹め」も、「大王」を中心とする中央集権法治国家にはまだ至っておらず、それを目指すがゆえに「詔」を重要視せよ、と説いていると考えるのです。
つまり、まだ天皇を中心とする政治体制は実現できていないことがわかる史料です。
後の条文も、「人として正しい行ないをすることの大切さ」を説くことに転用は可能ですが、あくまでも「役人の心得」であって一般大衆に向けた「人々が平和に暮らしていくための道徳規範が記されている」というのは言い過ぎです。
ここで、そんなふうに考えてしまうと、聖徳太子が目指した、画期的な、時代を先取りした「十七条憲法の凄さ」「先進性」が霞んでしまいます。
律令国家への過渡期、
分権国家から集権国家になるために、
冠位十二階で創出した「未来の官僚」の服務規程を作った、
と理解するべきだと思います。
まさに律令国家を準備する時期。これが当時のものであろうと、8世紀に焼き直しされたものであろうと、律令国家をめざす「何らかの先駆的試みがなされていた」ということが読み取れる史料だと解釈できます。
史料の裏返し…
「男女雇用機会均等法」、なんて早く廃止できる世の中にしないといけない、ということです。
千何百年後に、この法律が発見されると、この時代は、「男女の雇用の機会が均等じゃ無かったんだな」で、読み取られてしまいますから。