北の村 03
戦場を検分し終わったアリアは、暫しの間、顎に指を当てながら厳しい表情で考え込んでいた。
短い付き合いでも誇り高さは見て取れたから、してやられたという想いに耐えているのだろうとエリスは推測する。
岩に腰掛けながら、話し掛けるでもなく連れが答えを出すのを待ち続けた。
漸くに自分がペテン師に出し抜かれたのだという事実を咀嚼し終わったのだろう。
少し浮かない表情の人族の娘は、やがて顔を上げて口元に苦い笑みを浮かべながら、
「……腑に落ちぬな。奴はあの時、殺そうと思えば容易に私たちを殺せたものを」
赤毛のホビットは、信じられないような剣技と速さの持ち主であった。
恐らくは、アリアをも上回る手練に相違なかった。
エリスは少し考えてから、
「賊の一味ではなく、連中と顔見知り程度だったのかも知れない」
「仇を取ろうとは思わないが、助けられるから助けていったと?」
アリアの問いかけにエリスは曖昧に頷いた。
想像だけなら幾らでも出来るのだから、明確な答えなど出る筈もない。
何とはなしに浮かない顔を見合わせてから、二人は南へ向かって歩きだした。
幾分か緩やかな歩調ではあったのは、脳裏に考えを纏める時間が欲しかった為かも知れない。
アリアが口を開いたのは、歩き始めて暫らくしてからの事だった。
「……やられたな。賊を皆殺しにした心算がむざむざと逃がしていたか」
ホビットではなく、盗賊について考えていたらしい。
黒髪の女剣士は秀麗な容貌につまらなそうな表情を浮かべると、咄と小さく舌打ちした。
「復讐をたくらむかも知れないと?」
「あの手の悪党に限って、毒蛇のように執念深いものだ」
俯いて呟いた危惧を肯定されて、エリスも渋い薬草茶を一気飲みしたように苦い表情を浮かべた。
「……他に仲間がいるかな?」
半エルフの娘は地面に視線を彷徨わせながら、呟くような口調で話し続ける。
「分からん。だが、他に賊がいれば、我ら……主に私の姿形も伝わったであろう。
つまらぬ事になったものよ。だが、復讐の標的になるとしたら私の方だな」
アリアは、意味ありげにエリスの蒼い瞳と視線を合わせた。
「……一緒に行くよ。ティレーまではね」
あっさり答えると、エリスはやや強張ってた表情に笑みを浮かべる。
「それに多分、他に仲間はいない。いても極僅かだと思う」
論拠はあるのか疑問に思ったアリアが微かに眉を顰めると、無言の問い掛けを読み取ってエリスが目元で笑った。
「……根拠というほどでもないけど、十人以上の賊がいたらもっと派手に活動しただろうし、
なれ多少の噂くらいにはなっている筈だと思う。違うかな?」
「ふむ、なるほど……まあ、いい。
盗賊共とて、此方がとっとと地元を離れてしまえば仕返ししたくても出来まい」
少なくとも一人は無力化してるし、もう一人も、命が助かるか如何かも危うい手負いの筈。
余り心配する事でもないと告げてから割り切った。
「出てきたらその時はその時だ」
覚悟を決めて言葉にすれば、エリスもその言葉に頷き、気持ちも楽になると、後は黙々と街道を目指した。
道すがら黒髪の女剣士は鼻歌を奏で、翠髪のエルフの娘は、時折、立ち止まっては冬に実がなる種のベリーやコケモモなどを採取する。
そんな訳で二人が丘陵を抜けた頃には、太陽はかなり中天に迫りつつあった。
街道に出るとアリアは初冬の青空を見上げて、まぶしそうに蒼い目を細めた。
長雨が終わったからか。先日までは分厚い雲の狭間で弱々しい光を放っていた太陽は、打って変わって初冬にしてはかなり強い日差しを地上へと投げかけていた。
道端の葦やすすきを揺らして吹き抜ける風も心なしか暖かく、穏やかである。
今朝は泥濘んでいた街道も、乾燥して大分、歩きやすくなっていた。
長靴も毛皮のマントも持たない旅人になると、天候の具合で道行きを大きく左右されやすい。
此のままの陽気が続いてくれれば文句はないのだがと、エリスが小さい声で愚痴った。
「渡し場に行って艀を見てこよう。あと何か腹に入れようよ。
腹が空いてると碌な考えが浮かばないし、ついでに水浴びもしたい」
エリスが足元に着いた泥を棍棒で払い落としながら、アリアに提案する。
「そうだな。腹も減ったし、モアレ……だったか。北の村の位置も聞けるならそれに越した事はない」
川辺の小村落に近づいていくと、半エルフのエリスは兎のように尖った耳を小さく痙攣させた。
「川の流れの音が、昨日に比べて大分小さくて穏やかになっている」
「そうか?」
「うん、昨日はもうここら辺から川音がしていたからね」
寂れた村に入ってすぐに、人族のアリアも河の流れが大分穏やかになっている事に気が付いた。
確かに昨日は強く轟いていた川音が殆ど聞こえてこない。
渡し場の半ば朽ち果てかけたような木造の小屋へ入っていくと、鶏がらのように痩せた老婆に話しかける。
「んにゃ、明日には艀は出るよ」
歯の無い口元をもごもとさせながら背の丸い老婆が長身の女剣士を見上げた。
「今日出しても別にいいんだけどね。まだちょっと水の流れが強いからね。
念のためだよ。でも、明日の朝には出せるね」
「ほう。朗報だな」
「ああ」
嬉しそうに微笑んだエリスの横顔には確かに他者の目を惹きつける華があって、同性のアリアですら一瞬、見惚れたほどだった。
「……なるほどね。一人旅だと厄介ごとに巻き込まれる訳だ」
「何か云った?」
怪訝そうな半エルフの声に応えずに黒髪の女剣士が明後日の方向を向くと、婆さんと目があった。
「そうだ、婆さん。モアレ村の場所を知ってるか?」
渡し場の老婆は落ち窪んだ目を瞬かせて、首を傾げた。
「……モアレ?知らないねえ。
南に半日歩くとソーンって村があるが、そっちではねえのか?」
「……ふむ?」
「知らないのか。他の人にも聞いてみよう」
外に出ると次いで村人の二、三人にそれとなく聞いて回ったが、皆、愛想よく対応する者の誰もモアレの名を知らない様子で、エリスは少し途方に暮れ始めていた。
「……行商人たちなら知ってるかな?」
旅人の小屋へ入るが、すぐに首を振って出てくる。
「……参ったな」
「知らんのでは仕方あるまいよ」
肩を落とすエリスにアリアは慰めの言葉を掛ける。
「此処では布は買えんのか?」
「小さい村だし、他人に売れるだけの布はないって」
そう云ったエリスは手に何か抱えていた。
村人から場所を尋ねるついで、蕎麦粉で出来た薄焼きのパンを購ったそうだ。
「蕎麦パンは好きではないんだがな。折角、金が在るなら黒パンを買えばいいのに」
「まあ、待ってよ」
折角買って来た食べ物に文句を付けるアリアにも朗らかに対応しながら、エリスは器用な手先で蕎麦粉のパンにベリーやコケモモ、爽やかな香草や甘蔓を挟んで見たこともない料理を作り、怪訝そうな旅の連れに差し出した。
「まあ、食べてみてよ。いらないなら、私が二つ食べるから」
蕎麦粉パンは彩りは鮮やかで、見た目にも美味しそうだった。
受け取って一口齧る。口の中に甘味が溢れた。
パンの味が強くない分、香草の爽やかな味と果実の味がそのままに舌先に広がった。
「……悪くない」
まじまじと見つめる。見たこともない料理だった。
「良かった。気に入ってくれた」
軽い昼食としては悪くない。
如何やらエリスは食事を考えたり、工夫を凝らす事が好きな性質らしい。
「本来は小麦の薄焼きパンに蜂蜜や糖で甘くした生クリームで味付けするらしいけどね。
暖かくて果物の多い南方で工夫された料理なんだって、本に書いてあった」
「字を読めるのか?」
少しだけ驚いたアリアが上擦った声を出した。
「え、うん。基礎の単語と料理関係の言葉を幾つかね。書けないけど」
「いや、読めるだけで凄いぞ」
アリアの珍しい賞賛に、エリスは照れながらも笑って嗜めた。
「大袈裟だよ、もう」
反応からすると、アリアはそれほど読み書きが出来ないのかも知れない。
軽い昼食を終えると、川辺の草叢で口を濯いだ。
小枝を器用に使って歯ブラシを終えると、エルフの娘は服を脱ぎ始めた。
嬉しそうに川の浅い所に入っていくと、鼻歌を歌いながら水を浴び始める。
またすぐ汚れるだろうに、全裸になって足や躰を洗っている。
黒髪の女剣士は口を指で濯ぎ、顔だけ洗うと草原に寝転がった。
「ねえ、水浴びしなよ」
「やだよ。水が冷たい。今は冬だ」
冬の肌寒い日に水浴びしようなどと誘われても、気は進まない。
「今日はいい天気だよ。
川の流れも穏やかで水は綺麗だし、日差しも暖かい」
エリスは執拗に水浴びに誘ってくる。
「次に水浴びできる機会が、何時巡って来るか分からない。洗うだけでもしておきなよ」
「昨日、宿で拭いたではないか?」
アリアは面倒くさそうに拒否するが、エリスは中々諦めない。
「年頃の娘がそんなんじゃ駄目だって。ほら」
アリアは僅かに首を傾げていたが、突然に頷いた。
「思い出したぞ!君のその口の聞き方。国元の婆やに似ているのだ」
懐かしむようにしみじみとした口調で呟かれて、まだ若い半エルフの娘はぎょっとする。
「えっ、誰ですって?」
「国元の婆やだ。よく考えれば年を聞いてなかったしな。つい同じ位の年齢だと思ってしまった。
年長者の言葉には従うべきだな」
「なに、その言い方。わたしはまだ数えで十八歳だよ!」
「うむ、気持ちは分かる。若い娘と一緒になって、ついはしゃいでしまったのだな。
だがエリスよ。もう正体は割れてしまったのだから無理はするな。
昔から年寄りに冷や水は毒だというからな」
エリスが完全に膨れてそっぽを向いたので、アリアは笑いながら服を脱ぎ始めた。
周囲を見回したアリアは、背の高い草に囲まれた場所を嫌って見通しのいい場所で水を浴びようとする。
「誰かに見られるよ」
「……接近を察知できないではないか」
エリスは眉を顰めて、疑問を口にした。
「村人に襲われるとでも思ってるの?」
「村人とは限らないがな」
「此処は街道筋の村だよ。巣食っていた盗賊も退治したじゃない。心配しすぎだよ」
心配性を窘めると、最終的にはアリアもエリスの意見に同意して、水浴びをし始めた。
常に剣と短剣をすぐ手の届く場所に置いているのには気づいたが、半エルフの娘も何も云わなかった。
軽く胸の上を手で擦りながら、アリアが溜息を洩らした。
「北の村の位置が分からんではな」
「モアレという名前だったと思うが、聞き間違えたかな」
エリスは聞いた名前の正しさにやや自信が無くなってきているようだ。
首を傾げたアリアが、少し考えてから言葉を紡いだ。
「……意外と遠いのかも知れん。大抵の村人は、自分の住む村から、一日で往復できる距離より先の土地については何も知らないものだ」
「小屋に行商人たちがいれば、聞けたんだけど……」
「いなかったのか?」
エリスは力なく頷いた。村人の話では、今朝方、連れ立って南へと向かってしまったらしい。
何時までも待っている訳にも行かなかったのだろう。
旅人の小屋には、「太った怠け者のドウォーフが鼾を立てて寝ているだけだった。あとウッドインプ」だけだったそうだ。
アリアは、引き締まった均整の取れた肢体を惜しげもなく晒していた。
エリスは、水辺の岩に腰掛けながら黒髪の女剣士の体つきを観察する。
引き締まった筋肉の上にうっすらと脂肪がついた身体には、数多の傷が刻まれていた。
数箇所の切り傷や刺し傷が右腕から左腕、脇腹や胸の上、太股にもあった。
どれほどの戦いを経てきたのだろうか。
「旅籠に戻ったら、親父か娘に場所を聞いてみようと思うんだ」
半エルフの娘の言葉に、それとなく岸を警戒している黒髪の女剣士が気もそぞろに頷いた。
年齢のことでからかわれ、まだ留飲の下がらないエリスは、不意に悪戯っぽくにやりと笑った。
水を両手にいっぱい掬い上げて、アリアの注意が自分から逸れた瞬間に投げつけた。
飛び散った水飛沫が瑞々しい肌に弾いて散った。
平凡な村人の地理観も、人々の衛生概念も、中世や古代に近い世界ではあんなものでしょう
中世欧州では、大抵の人々は自分の住処から一日以上の距離の場所に出かけずに生涯を終えます
江戸時代など、庶民まで伊勢参りなど観光できるほどに治安が良くて庶民が豊か(富の再配分率と税率)、社会基盤が整っていたのは多分、近世でも日本だけでした
ついでに作中のクレープの情報伝達
発祥地は温暖な南方の土地 もともとは民間で蕎麦粉を使用する料理
⇒宮廷料理として採用時に小麦粉の生地に変化
⇒料理書や伝聞で北方に伝わる
⇒小麦粉がないので蕎麦粉で代用 奇しくも原型に近づく