普遍的無意識と元型ということを説明するうえで、比較的解りやすいと思われる、グレートマザー(太母と訳すこともある)について、まず述べることにしよう。(中略)
次に示すのは、中学二年生男子の学校恐怖症児の見た夢である。P.69
〈夢〉自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いて行く。すると、大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、恐ろしくなって目が覚める。P.70
このような夢の場合、本人はこれについてまったく思いがけないものという以外に連想がない。これはこの夢の内容がこの少年の意識からはるかに遠い、深い層から浮かび上がってきたものと考えられる。このときは、夢分析の節に述べた拡充法が有効となってくる。p.70
この夢の渦はなにものも吸いこみ、呑みこんでしまう深淵としての意味が大きいが、このような深淵は地なる母の子宮としての意味をもっている。p.70
原始の時代において、とくに農耕民族にとっては、地面から生まれ出た植物が枯れて死にながら、春になると土から再生してくる事実は、まったく神秘以外のなにものでもなかったであろう。この驚きの感情は宗教的体験として、地なる母の神の信仰へと発展していったと思われる。p.70
地母神の生み出す力も強いが、呑みこむ力も強い。この少年は言うなれば、地母神の子宮である渦に足をとられているのだから、学校へ行けないのももっともなことと思われる。現在は学校恐怖症が増加すると共に、いろいろなタイプのものがあるようになったので、一概に言うことはできないが、その中核となるものとして、この例のようなのがあると考えられる。p.71
これはわが国の文化における母性の強調と相まって、母性の呑みこむ機能が非常に強くはたらき、かつ、この例の場合もそうであったが、その父親像がきわめて弱いために生じるものと思われる。p.71
先の例において、肉の渦の夢を見た少年が、登校できなくなっている状態を示した。そのときに、その少年と母親との関係がもちろん問題ではあるが、夢に示されているように、個人としての母親を超えて、「母なるもの」と呼ぶべきような普遍的な存在とのかかわりが重要となっていることに注目したい。p.72
われわれ人間は、その無意識の深層に、自分自身の母親の像を超えた、絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、母なるもののイメージをもっている。それらは外界に投影され、各民族がもっている神話の女神や、崇拝の対象となったいろいろな像として、われわれに受けつがれている。ユングはそれらが人類に共通のパターンをもつことに注目し、母なるものの元型が人間の無意識の深層に存在すると考えた。p.72
母なるものの特性のもっとも基本的なものは、その「包含する」はたらきである。それはなにものをも包みこみ、自らと一体となる。そこには分離、分割ということがない。生み出されたものは、死んでもそこに還り、また再生してくるのみで、そこには本質的に変化というものがない。このような基本的なグレートマザー像としては、図12に示したような姿がぴったりであろう。生み出すものとして、生殖に関係する部分は強調されるが、頭部や顔は軽視されてしまう。p.72
図12 ヴィレンドルフのヴィーナス

母なるものは、すべてを一体として包含することを基本にしているが、そこに、生み育てるということがはいってくると、自分と分離した子どもをー一体感を保持しているがー変化、発達せしめるというはたらきがはいってくる。つまり、人間の母性は、傷ついた人を癒すとか、ある人が仕事の成果をあげるための支えとして存在するとか、そこに、ものごとを変化せしめる力をもっているのである。p.73
次に中年の女性の夢を示す。
〈夢〉なだらかな坂を下りてゆくと白豚の群に出会った。老婆が一人その群の世話をしていた。手入れが非常によく行き届いていて、その豚もふさふさした毛が真っ白であった。私は何匹かさわってみた。一本も毛が抜け落ちることなく、さわってもさわっても手にないんもつかなかった。その群の横を通って、もう少し下に行くと、黒いそれこそ真っ黒な小さな動物たちに出会った。なんの動物かはっきりしないが、貝ともしじみともつかない格好でありながら、しかも、かなり恐ろしい動物たちであることがわかった。……この黒い動物も、あの老婆が世話をしているということがわかった。坂道の下はなだらかなポプラ並木の散歩道であった。多くの学生たちや、青年たちがベンチに腰かけたり、歩いたり、しゃべったりしていた。このような平和は、あの白豚と黒い動物たちの侵入で、ひとたまりもなく壊されるのだ、ということがその場の雰囲気でわかった。一人の青年が、「あの老婆が死んだら、どういうことになるのだろう。あんなに多くの動物の世話は誰もできやしないよ。そうすると、動物は皆汚れてしまって、くさくてやり切れなくなるぜ」と言った。本当にそうだな、あの老婆は後継ぎを作っておかなくては大変なことになる、と思ったー以下略ーp.73
この夢に現われた老婆は明らかにグレートマザーの属性を担っている。彼女は豚と、なにか恐ろしい貝のような動物を飼っている。この姿は、昔話や神話などに登場する魔法使いの老婆が、人間を動物に変えて飼っているのを連想させる。彼女の飼っている動物たちが平和な世界に侵入してくるとき、それはひとたまりもなく壊されるという。実際、このような深い層に貯留されている心的エネルギーが、そのまま自我に侵入してくると、その人は狂ってしまうより仕方のないことであろう。p.74
夢の中で、一人の青年が、老婆が死ぬと大変だといい、この夢を見た女性は「老婆の後継ぎを作っておかなくては」と思うところが興味深い。この老婆の育てている動物は、そのまま大挙して侵入してくるときは恐ろしいが、実は、この人のエネルギーの供給源でもあるのだ。老婆の死は水の枯れたダムと同様である。ここで、「後継ぎを作る」ことは、このような深い次元における母性性の改変を暗示している。われわれ人間の心の深層には、すべてこのような老婆が住んでいるのだが、その姿を見る人は少ない。この老婆の後継ぎを見いだす仕事がどれほど大変な仕事であるかは想像にかたくない。p.74
先の夢に現れた老婆は、白い豚と黒い動物を飼っており、そこに白と黒の対比が著しく示されている。グレートマザーの特性は、すべてを包みこむことにあるが、それは見方によって肯定的な面と否定的な面とをもっている。p.75
図13 母性の両面性

図13に示したように、包含するということから派生するものとしての、養い育てるという機能は、母性の肯定的な面を示している。(中略)すべてを包みこむ愛としての救いにまでつながっているものとしては、キリスト教におけるマリア、仏教における観音菩薩などの像をあげることができる。もっとも、マリアは母であると同時に処女であるし、観音菩薩もはっきりと女性であると言われているわけではない。これらの点については、あとで触れることにしよう。p.76
否定的なグレートマザーとしては、ギリシャ神話のヘカテのように、死の女神であらわされる。図15に示したインドの女神カーリーの姿は凄まじい。彼女の一本の手は剣を、二本目は切りおとした巨人の首をもち、三本目と四本目の手は彼女の崇拝者を励ましている。耳飾りは二つの死骸であり、首飾りは人間の頭蓋骨でできている。(中略)そして、彼女は突き倒した夫シヴァの上に立っているのである。p.76
母性の肯定的な面は、どうしても「公的」なものとして一般にほめたたえらえるので、昔話や伝説などが、それを補償する存在として、否定的なグレートマザー像を多く保存しているのは、むしろ当然のことである。ヨーロッパの昔話によく出てくる人喰い老婆や魔女、わが国の山姥などがそれである。p.76
ひとりの女神が否定、肯定の両面を兼ねそなえることもある。もっとも典型的なものとしては、仏教の鬼子母神をあげることができる。鬼子母神ははじめ、幼児をとって食べていたが、仏の教えを受けて、幼児の守り神である訶梨帝母(かりていも)となったのである。p.77
グレートマザーが両面性を有する事実は、子どもにとって母親というものが肯定、否定の両面をもつものとして体験されることを意味している。ここに母子関係のむずかしさがある。次に示すのは、三十歳代の男性の夢である。p.77
〈夢〉ある女のひとを沼か川のようなところから網でもって救いあげようとしていた。(中略)どうやら女の人はフカに呑みこまれてしまったらしいのだ。(中略)フカはずいぶん手強くて、下手をすれば私たちは逆に水にひきこまれるかもしれない。(中略)しかし、私たちはとうとう陸へひきあげることに成功する。するとフカがあくびをしたようである。のんびりと口をあける様子なのだ。(中略)その様子はいささか、かわいくさえあった。p.78
夢を見た男性は彼のアニマ像を救出しようとしている。このテーマは非常によく出現するテーマであるが、そこに現われた妨害者としてのフカは、明らかに否定的なグレートマザー像である。(中略)それにしても、やっとフカを陸へ引きあげたのちの結末は、いったいどういうことなのだろう。西洋人がその自我を確立してゆく過程には、母性との対決があり、内面的な母親殺しが行われる。しかし、この夢では、フカを殺して、呑みこまれた若い女性を救出するのではなく、フカがあくびをしたりして、にわかにのんびりムードに変わってゆく。すでに発表したので(『母性社会日本の病理』)、ここにふたたびあげることをしないが、母親殺しを避けての自立ー自立と言えるかどうかーを試みる傾向の夢は、どうも日本人に多いように思われる。日本人の心性を反映しているものであろう。p.78
母親殺しということは、もちろん個人の内面において行われるべきことである。しかし、内界のグレートマザー像は、大なり小なり現実の母親に投影されるので、母と子のあいだにはなんらかの摩擦が生じて当然である。この時期を乗り越えた母子は、投影にまどわされることなく、人間としてお互いに深い関係をもつことができる。p.79
〈夢〉私には赤ちゃん(女)があった。夜寝ようとして、今日一日中、赤ちゃんになにも食べさせていないし、おむつも変えていないことに気がついた。私は起きて、赤ちゃんにミルクを与えたがあまり飲まなかった。赤ちゃんは腹がへっているのに全然泣かず、こんなに世話をして来なかったのに生きつづけていることに、私は心をうたれた。p.80
この夢を見て、この女性は自分がまったくうち棄てておいた赤ちゃんの生命力の強さに感動する。彼女が世話をしなかった女の子は、彼女の未発達の母性性を示しているものではないだろうか。彼女は赤ちゃんにミルクを与えながら、夢の中で母の体験をしている。もっともそれはあまり上手ではなく、赤ちゃんは腹がへっているはずなのに、あまり飲まない。彼女はその後、これにつづく夢の中で、赤ちゃんに熱すぎるミルクを飲ませて失敗したりしながら、だんだんと母性を発展せしめてゆくのである。彼女の意識がいかに母性を否定しようとしても、それは生命を絶やすことなく、無意識の中に育ち、だんだんと実際に開花してくるのである。彼女はその後、結婚し、いまは二児の母として、仕事と家庭を両立せしめて生活している。p.80
先に示した例においては、母性を拒否していた女性が、その夢の中で、「うち棄てておいても生きのびてきた赤ちゃん」というイメージによって、その回復へと志向することを示した。死んでいるかとも思った赤ちゃんが生きていたことに、この女性は感動するのであるが、ここに示された心の動きを、もっと劇的に表わすならば、それは死と再生のプロセスということになるだろう。p.81
グレートマザー像として、地母神を最初にあげたが、それが崇拝の対象となるもっとも大きい要素は、それが持つ死と再生の秘密にあった。グレートマザーこそは、死と再生の密儀が行われる母胎なのである。そして、ある一人の女性が母性の体験をもつことの底には、この密儀が常に存在しているのである。p.81
ユングの高弟の一人ノイマンは、『グレートマザー』という大著の中で、女性の神秘が、初潮、出産、授乳を通じて体験されることを明らかにしている。その最初に存在する初潮ということは、まず自然に生じ、女性はそれを受け入れることによって体験される。それは、いつとなく、「やってくる」ものであって、自ら決意して行うものではない。p.81
著者は女性の患者さんに会うとき、初潮のときの体験について尋ねることがよくある。(中略)それらのエピソードは、彼女が、そして彼女を取りまく人たちが、いかに彼女の母性のあらわれを受けとめようとしたかを如実に示していて、実に多くのことを集約的に告げてくれるものである。
自然に生じたものをそのまま受けとめることは、本質において死の受容につながっており、それは次の出産、すなわち再生へと発展してゆくものなのである。このような偉大な受容性が母性の本質の中に存在している。p.82
人格の急激な変革はイメージの世界において、死と再生のプロセスとして把握されることが多い。心理療法を受けて人格の改変を遂げる人たちが、死と再生の体験をすることが多いのもこのためである。ときのそのプロセスは外在化され自殺の危険をさえ伴うことすらある。内面に経験される死が治療者に投影され、治療者の死を夢みる人もある。p.82
ある学校恐怖症の学生は、治療も集結に近いころ、治療者の死の夢を見た。夢の中で、彼はいつものように面接を受けに来たが、返事がないので裏庭にまわってみた。すると、裏庭には人が半円形に集まっており、その中心に治療者が横たわっていた。暗くてよく解らなかったが、あけはなたれた座敷にも人がおり、そこにも人が半円形に集まっていた。明と暗の円形の中心に横たわっている治療者の死の姿は、涅槃図を見るようであった。
明と暗の対比される円陣の中での治療者の死の姿は、きわめて象徴的である。(中略)この人の心の中で再生へと向かうなんらかの死の体験が生じたのであろうし、これはまた彼にとって治療者のイメージも変化し、彼がそこから別れてゆく決意をもちえたことも明らかにしているのであろう。治療の終結の近いことを、この夢は予告しているように思われる。p.82
死と再生のプロセスが、創造性ということにつながることも、すぐ了解できるであろう。それは新しいものを「生み出す」のである。ここで、(中略)退行と創造性の結びつきについて考えてみよう。フロイトが退行を病的とする考えの背後には、それが母親との近親相姦的な結合であるというイメージが存在している。ここで、ユングが強調するような創造的な退行を考えるとき、それは個人的な母との近親相姦としてではなく、普遍的な母なるものとの合体としてみられる。そのとき、それは再生へと志向する死の体験として了解されるのではないだろうか。
フロイトが個人的な親子関係を基にして、エディプス・コンプレックスを強調するのに対して、ユングが普遍的な母なるものの存在を主張し、フロイトから離別していった基に、このような考えの相違が存在しているのである。p.83
前節においては、グレートマザーを取りあげて、このようなイメージがいかに人類共通のこととして認められるかを明らかにした。あるいは、最後に述べたように、個人的な家族関係としての母子関係ということを超えて、普遍的な母なるものという考えを導入することによって、退行のもつ創造性ということが、より生き生きと説明しうるかを示した。このような考えを基にして、ユングの元型の概念が生じてくるのである。これはユング心理学の核心と言ってよいと思うが、それについてすこし説明してみよう。p.84
(略)ユングは精神分裂症者の幻覚や妄想を研究するうちに、それらが世界中の神話や昔話などと、共通のパターンや主題を有することに気がついた。それらのイメージはきわめて印象的で、人をひきつける力をもっている。たとえば、71ページに示した地母神の像は、現代人のわれわれの心を打つものがあり、実際、現代の芸術作品の中に、これら太古の像と似通ったものを見いだすのも珍しいことではない。p.84
原始心像という用語によって、これらのイメージをとらえ、研究してきたユングは、それらのイメージのもととなる型が無意識内に存在すると考え、それを元型と呼んだ。彼が元型という用語をはじめて用いたのは、1919年、「本能と無意識」という論文の中においてである。原始心像はすなわち元型的なイメージであり、そのようなイメージを通じて、人間の無意識内に存在するいろいろな元型を探ることが、彼の心理学における重要な課題となったのである。
p.85
(略)ユングは元型は人間が生得的に存在していると述べたので、後天的に獲得したイメージが遺伝されるのは不可能であるという非難を受けたのである。しかし、この点は元型そのものと元型的イメージを区別して考えることによって非難を免れることができると思われる。p.87
図16 元型と元型的心像

ユングはいろいろな元型の研究をしたが、すでに述べたグレートマザーがその一例であり、のちの述べるような「影」、「アニマ(アニムス)」、「自己」などが重要なものである。その他、木、火、水、などについても、その元型を考えだすことができるであろう。「始源児」、「老賢者」、「英雄」、「トリックスター」なども重要な元型であり、それらについてもあとで少し触れることになろう。p.87
元型は明確な概念規定によって把握できるものではなく、あくまで隠喩(メタフォル)によってのみ、その意味を知ることができるものである。われわれは元型そのものに接近することはできないので、そのまわりを巡回し、それを繰り返しつつその輪をだんだんと小さくしてゆき、自分の心の中にその中心点が浮かび上がってくるように努力するのである。p.88
元型的イメージは個人のコンプレックスによっても色づけされる。それは普遍的無意識の層から個人的無意識の層を経て自我に達するのだから、当然のことである。このことは、コンプレックスが元型的な心的内容の自我に対する直接的な侵入を防いでいるのだということもできる。つまり、コンプレックスの弱い人は、元型的なものの侵入を受ける危険が高いのである。p.88
元型は人類に共通なものと仮定されるが、それが元型的なイメージとして把握されるとき、その個人の意識のあり方、ひいては、その個人をとりまく地域的、時代的な文化の差によって影響を受けることは当然である。p.88
われわれとしては、元型的なイメージの中に、人類共通なものとしての元型を見いだす努力をすると同時に、文化の差によってそれのあらわれ方に微妙な差があることにも注目してゆきたいものである。p.89
ある時代、ある文化において、ある特定の元型がとくに強烈な力をもつ場合も考えられる。ある元型的なイメージがひとつの文化や社会を先導する象徴となり、その集団の成員エネルギーを結集せしめるときもある。p.89
神話や昔話には、世界中に共通するパターンが存在すると述べたが、やはり以上の点をからみ合って、国や地方による差が生じてくるようである。たとえば、小沢俊夫編『日本人と民話』には、いろいろと日本の民話の興味深い特徴が述べられている。
その中で、ソ連の学者チストフが日本の「浦島太郎」の物語を、自分の孫に話してやった体験を述べているところが面白い。チストフが竜宮城の美しさを描写したところを話しても、孫は全然興味を示さず、なにか別のことを期待している様子であった。そこで彼は孫になにを考えているのかを尋ねた。
「いつ、そいつと戦うの?」
というのが孫の答だった。彼は竜宮城にいる竜と主人公の浦島の戦いが始まるのを、いまかいまかと楽しみに待っていたのである。
英雄が竜を退治し、そこに捕らわれている乙女と結婚をする。このパターンは西洋の場合、よほどの小さい子どもの心にも定着しているのである。p.89
ともかく、このような昔話が存在していること自体、ソ連の子どもにとっては不思議で仕方ないことであるだろう。しかしながら、「浦島太郎」の物語を個々の要素に分解してゆくと、それはそれでまったく全世界に共通の、普遍的側面をもっていることも事実である。p.90
78ページに示した夢で、呑みこむ力の強いフカのイメージを、グレートマザーのイメージとしながらも、その結末の特異性を指摘したが、これは「浦島太郎」において、戦いが生じないことと軌を一にしている。わが国においては、グレートマザーの力はきわめて強く、それと対決し、あるいは殺すことは、ほとんど不可能に近いことなのであろう。p.90
次に示すのは、中学二年生男子の学校恐怖症児の見た夢である。P.69
〈夢〉自分の背の高さよりも高いクローバーが茂っている中を歩いて行く。すると、大きい肉の渦があり、それに巻き込まれそうになり、恐ろしくなって目が覚める。P.70
このような夢の場合、本人はこれについてまったく思いがけないものという以外に連想がない。これはこの夢の内容がこの少年の意識からはるかに遠い、深い層から浮かび上がってきたものと考えられる。このときは、夢分析の節に述べた拡充法が有効となってくる。p.70
この夢の渦はなにものも吸いこみ、呑みこんでしまう深淵としての意味が大きいが、このような深淵は地なる母の子宮としての意味をもっている。p.70
原始の時代において、とくに農耕民族にとっては、地面から生まれ出た植物が枯れて死にながら、春になると土から再生してくる事実は、まったく神秘以外のなにものでもなかったであろう。この驚きの感情は宗教的体験として、地なる母の神の信仰へと発展していったと思われる。p.70
地母神の生み出す力も強いが、呑みこむ力も強い。この少年は言うなれば、地母神の子宮である渦に足をとられているのだから、学校へ行けないのももっともなことと思われる。現在は学校恐怖症が増加すると共に、いろいろなタイプのものがあるようになったので、一概に言うことはできないが、その中核となるものとして、この例のようなのがあると考えられる。p.71
これはわが国の文化における母性の強調と相まって、母性の呑みこむ機能が非常に強くはたらき、かつ、この例の場合もそうであったが、その父親像がきわめて弱いために生じるものと思われる。p.71
先の例において、肉の渦の夢を見た少年が、登校できなくなっている状態を示した。そのときに、その少年と母親との関係がもちろん問題ではあるが、夢に示されているように、個人としての母親を超えて、「母なるもの」と呼ぶべきような普遍的な存在とのかかわりが重要となっていることに注目したい。p.72
われわれ人間は、その無意識の深層に、自分自身の母親の像を超えた、絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、母なるもののイメージをもっている。それらは外界に投影され、各民族がもっている神話の女神や、崇拝の対象となったいろいろな像として、われわれに受けつがれている。ユングはそれらが人類に共通のパターンをもつことに注目し、母なるものの元型が人間の無意識の深層に存在すると考えた。p.72
母なるものの特性のもっとも基本的なものは、その「包含する」はたらきである。それはなにものをも包みこみ、自らと一体となる。そこには分離、分割ということがない。生み出されたものは、死んでもそこに還り、また再生してくるのみで、そこには本質的に変化というものがない。このような基本的なグレートマザー像としては、図12に示したような姿がぴったりであろう。生み出すものとして、生殖に関係する部分は強調されるが、頭部や顔は軽視されてしまう。p.72
図12 ヴィレンドルフのヴィーナス
母なるものは、すべてを一体として包含することを基本にしているが、そこに、生み育てるということがはいってくると、自分と分離した子どもをー一体感を保持しているがー変化、発達せしめるというはたらきがはいってくる。つまり、人間の母性は、傷ついた人を癒すとか、ある人が仕事の成果をあげるための支えとして存在するとか、そこに、ものごとを変化せしめる力をもっているのである。p.73
次に中年の女性の夢を示す。
〈夢〉なだらかな坂を下りてゆくと白豚の群に出会った。老婆が一人その群の世話をしていた。手入れが非常によく行き届いていて、その豚もふさふさした毛が真っ白であった。私は何匹かさわってみた。一本も毛が抜け落ちることなく、さわってもさわっても手にないんもつかなかった。その群の横を通って、もう少し下に行くと、黒いそれこそ真っ黒な小さな動物たちに出会った。なんの動物かはっきりしないが、貝ともしじみともつかない格好でありながら、しかも、かなり恐ろしい動物たちであることがわかった。……この黒い動物も、あの老婆が世話をしているということがわかった。坂道の下はなだらかなポプラ並木の散歩道であった。多くの学生たちや、青年たちがベンチに腰かけたり、歩いたり、しゃべったりしていた。このような平和は、あの白豚と黒い動物たちの侵入で、ひとたまりもなく壊されるのだ、ということがその場の雰囲気でわかった。一人の青年が、「あの老婆が死んだら、どういうことになるのだろう。あんなに多くの動物の世話は誰もできやしないよ。そうすると、動物は皆汚れてしまって、くさくてやり切れなくなるぜ」と言った。本当にそうだな、あの老婆は後継ぎを作っておかなくては大変なことになる、と思ったー以下略ーp.73
この夢に現われた老婆は明らかにグレートマザーの属性を担っている。彼女は豚と、なにか恐ろしい貝のような動物を飼っている。この姿は、昔話や神話などに登場する魔法使いの老婆が、人間を動物に変えて飼っているのを連想させる。彼女の飼っている動物たちが平和な世界に侵入してくるとき、それはひとたまりもなく壊されるという。実際、このような深い層に貯留されている心的エネルギーが、そのまま自我に侵入してくると、その人は狂ってしまうより仕方のないことであろう。p.74
夢の中で、一人の青年が、老婆が死ぬと大変だといい、この夢を見た女性は「老婆の後継ぎを作っておかなくては」と思うところが興味深い。この老婆の育てている動物は、そのまま大挙して侵入してくるときは恐ろしいが、実は、この人のエネルギーの供給源でもあるのだ。老婆の死は水の枯れたダムと同様である。ここで、「後継ぎを作る」ことは、このような深い次元における母性性の改変を暗示している。われわれ人間の心の深層には、すべてこのような老婆が住んでいるのだが、その姿を見る人は少ない。この老婆の後継ぎを見いだす仕事がどれほど大変な仕事であるかは想像にかたくない。p.74
先の夢に現れた老婆は、白い豚と黒い動物を飼っており、そこに白と黒の対比が著しく示されている。グレートマザーの特性は、すべてを包みこむことにあるが、それは見方によって肯定的な面と否定的な面とをもっている。p.75
図13 母性の両面性
図13に示したように、包含するということから派生するものとしての、養い育てるという機能は、母性の肯定的な面を示している。(中略)すべてを包みこむ愛としての救いにまでつながっているものとしては、キリスト教におけるマリア、仏教における観音菩薩などの像をあげることができる。もっとも、マリアは母であると同時に処女であるし、観音菩薩もはっきりと女性であると言われているわけではない。これらの点については、あとで触れることにしよう。p.76
否定的なグレートマザーとしては、ギリシャ神話のヘカテのように、死の女神であらわされる。図15に示したインドの女神カーリーの姿は凄まじい。彼女の一本の手は剣を、二本目は切りおとした巨人の首をもち、三本目と四本目の手は彼女の崇拝者を励ましている。耳飾りは二つの死骸であり、首飾りは人間の頭蓋骨でできている。(中略)そして、彼女は突き倒した夫シヴァの上に立っているのである。p.76
母性の肯定的な面は、どうしても「公的」なものとして一般にほめたたえらえるので、昔話や伝説などが、それを補償する存在として、否定的なグレートマザー像を多く保存しているのは、むしろ当然のことである。ヨーロッパの昔話によく出てくる人喰い老婆や魔女、わが国の山姥などがそれである。p.76
ひとりの女神が否定、肯定の両面を兼ねそなえることもある。もっとも典型的なものとしては、仏教の鬼子母神をあげることができる。鬼子母神ははじめ、幼児をとって食べていたが、仏の教えを受けて、幼児の守り神である訶梨帝母(かりていも)となったのである。p.77
グレートマザーが両面性を有する事実は、子どもにとって母親というものが肯定、否定の両面をもつものとして体験されることを意味している。ここに母子関係のむずかしさがある。次に示すのは、三十歳代の男性の夢である。p.77
〈夢〉ある女のひとを沼か川のようなところから網でもって救いあげようとしていた。(中略)どうやら女の人はフカに呑みこまれてしまったらしいのだ。(中略)フカはずいぶん手強くて、下手をすれば私たちは逆に水にひきこまれるかもしれない。(中略)しかし、私たちはとうとう陸へひきあげることに成功する。するとフカがあくびをしたようである。のんびりと口をあける様子なのだ。(中略)その様子はいささか、かわいくさえあった。p.78
夢を見た男性は彼のアニマ像を救出しようとしている。このテーマは非常によく出現するテーマであるが、そこに現われた妨害者としてのフカは、明らかに否定的なグレートマザー像である。(中略)それにしても、やっとフカを陸へ引きあげたのちの結末は、いったいどういうことなのだろう。西洋人がその自我を確立してゆく過程には、母性との対決があり、内面的な母親殺しが行われる。しかし、この夢では、フカを殺して、呑みこまれた若い女性を救出するのではなく、フカがあくびをしたりして、にわかにのんびりムードに変わってゆく。すでに発表したので(『母性社会日本の病理』)、ここにふたたびあげることをしないが、母親殺しを避けての自立ー自立と言えるかどうかーを試みる傾向の夢は、どうも日本人に多いように思われる。日本人の心性を反映しているものであろう。p.78
母親殺しということは、もちろん個人の内面において行われるべきことである。しかし、内界のグレートマザー像は、大なり小なり現実の母親に投影されるので、母と子のあいだにはなんらかの摩擦が生じて当然である。この時期を乗り越えた母子は、投影にまどわされることなく、人間としてお互いに深い関係をもつことができる。p.79
〈夢〉私には赤ちゃん(女)があった。夜寝ようとして、今日一日中、赤ちゃんになにも食べさせていないし、おむつも変えていないことに気がついた。私は起きて、赤ちゃんにミルクを与えたがあまり飲まなかった。赤ちゃんは腹がへっているのに全然泣かず、こんなに世話をして来なかったのに生きつづけていることに、私は心をうたれた。p.80
この夢を見て、この女性は自分がまったくうち棄てておいた赤ちゃんの生命力の強さに感動する。彼女が世話をしなかった女の子は、彼女の未発達の母性性を示しているものではないだろうか。彼女は赤ちゃんにミルクを与えながら、夢の中で母の体験をしている。もっともそれはあまり上手ではなく、赤ちゃんは腹がへっているはずなのに、あまり飲まない。彼女はその後、これにつづく夢の中で、赤ちゃんに熱すぎるミルクを飲ませて失敗したりしながら、だんだんと母性を発展せしめてゆくのである。彼女の意識がいかに母性を否定しようとしても、それは生命を絶やすことなく、無意識の中に育ち、だんだんと実際に開花してくるのである。彼女はその後、結婚し、いまは二児の母として、仕事と家庭を両立せしめて生活している。p.80
先に示した例においては、母性を拒否していた女性が、その夢の中で、「うち棄てておいても生きのびてきた赤ちゃん」というイメージによって、その回復へと志向することを示した。死んでいるかとも思った赤ちゃんが生きていたことに、この女性は感動するのであるが、ここに示された心の動きを、もっと劇的に表わすならば、それは死と再生のプロセスということになるだろう。p.81
グレートマザー像として、地母神を最初にあげたが、それが崇拝の対象となるもっとも大きい要素は、それが持つ死と再生の秘密にあった。グレートマザーこそは、死と再生の密儀が行われる母胎なのである。そして、ある一人の女性が母性の体験をもつことの底には、この密儀が常に存在しているのである。p.81
ユングの高弟の一人ノイマンは、『グレートマザー』という大著の中で、女性の神秘が、初潮、出産、授乳を通じて体験されることを明らかにしている。その最初に存在する初潮ということは、まず自然に生じ、女性はそれを受け入れることによって体験される。それは、いつとなく、「やってくる」ものであって、自ら決意して行うものではない。p.81
著者は女性の患者さんに会うとき、初潮のときの体験について尋ねることがよくある。(中略)それらのエピソードは、彼女が、そして彼女を取りまく人たちが、いかに彼女の母性のあらわれを受けとめようとしたかを如実に示していて、実に多くのことを集約的に告げてくれるものである。
自然に生じたものをそのまま受けとめることは、本質において死の受容につながっており、それは次の出産、すなわち再生へと発展してゆくものなのである。このような偉大な受容性が母性の本質の中に存在している。p.82
人格の急激な変革はイメージの世界において、死と再生のプロセスとして把握されることが多い。心理療法を受けて人格の改変を遂げる人たちが、死と再生の体験をすることが多いのもこのためである。ときのそのプロセスは外在化され自殺の危険をさえ伴うことすらある。内面に経験される死が治療者に投影され、治療者の死を夢みる人もある。p.82
ある学校恐怖症の学生は、治療も集結に近いころ、治療者の死の夢を見た。夢の中で、彼はいつものように面接を受けに来たが、返事がないので裏庭にまわってみた。すると、裏庭には人が半円形に集まっており、その中心に治療者が横たわっていた。暗くてよく解らなかったが、あけはなたれた座敷にも人がおり、そこにも人が半円形に集まっていた。明と暗の円形の中心に横たわっている治療者の死の姿は、涅槃図を見るようであった。
明と暗の対比される円陣の中での治療者の死の姿は、きわめて象徴的である。(中略)この人の心の中で再生へと向かうなんらかの死の体験が生じたのであろうし、これはまた彼にとって治療者のイメージも変化し、彼がそこから別れてゆく決意をもちえたことも明らかにしているのであろう。治療の終結の近いことを、この夢は予告しているように思われる。p.82
死と再生のプロセスが、創造性ということにつながることも、すぐ了解できるであろう。それは新しいものを「生み出す」のである。ここで、(中略)退行と創造性の結びつきについて考えてみよう。フロイトが退行を病的とする考えの背後には、それが母親との近親相姦的な結合であるというイメージが存在している。ここで、ユングが強調するような創造的な退行を考えるとき、それは個人的な母との近親相姦としてではなく、普遍的な母なるものとの合体としてみられる。そのとき、それは再生へと志向する死の体験として了解されるのではないだろうか。
フロイトが個人的な親子関係を基にして、エディプス・コンプレックスを強調するのに対して、ユングが普遍的な母なるものの存在を主張し、フロイトから離別していった基に、このような考えの相違が存在しているのである。p.83
前節においては、グレートマザーを取りあげて、このようなイメージがいかに人類共通のこととして認められるかを明らかにした。あるいは、最後に述べたように、個人的な家族関係としての母子関係ということを超えて、普遍的な母なるものという考えを導入することによって、退行のもつ創造性ということが、より生き生きと説明しうるかを示した。このような考えを基にして、ユングの元型の概念が生じてくるのである。これはユング心理学の核心と言ってよいと思うが、それについてすこし説明してみよう。p.84
(略)ユングは精神分裂症者の幻覚や妄想を研究するうちに、それらが世界中の神話や昔話などと、共通のパターンや主題を有することに気がついた。それらのイメージはきわめて印象的で、人をひきつける力をもっている。たとえば、71ページに示した地母神の像は、現代人のわれわれの心を打つものがあり、実際、現代の芸術作品の中に、これら太古の像と似通ったものを見いだすのも珍しいことではない。p.84
原始心像という用語によって、これらのイメージをとらえ、研究してきたユングは、それらのイメージのもととなる型が無意識内に存在すると考え、それを元型と呼んだ。彼が元型という用語をはじめて用いたのは、1919年、「本能と無意識」という論文の中においてである。原始心像はすなわち元型的なイメージであり、そのようなイメージを通じて、人間の無意識内に存在するいろいろな元型を探ることが、彼の心理学における重要な課題となったのである。
p.85
(略)ユングは元型は人間が生得的に存在していると述べたので、後天的に獲得したイメージが遺伝されるのは不可能であるという非難を受けたのである。しかし、この点は元型そのものと元型的イメージを区別して考えることによって非難を免れることができると思われる。p.87
図16 元型と元型的心像
ユングはいろいろな元型の研究をしたが、すでに述べたグレートマザーがその一例であり、のちの述べるような「影」、「アニマ(アニムス)」、「自己」などが重要なものである。その他、木、火、水、などについても、その元型を考えだすことができるであろう。「始源児」、「老賢者」、「英雄」、「トリックスター」なども重要な元型であり、それらについてもあとで少し触れることになろう。p.87
元型は明確な概念規定によって把握できるものではなく、あくまで隠喩(メタフォル)によってのみ、その意味を知ることができるものである。われわれは元型そのものに接近することはできないので、そのまわりを巡回し、それを繰り返しつつその輪をだんだんと小さくしてゆき、自分の心の中にその中心点が浮かび上がってくるように努力するのである。p.88
元型的イメージは個人のコンプレックスによっても色づけされる。それは普遍的無意識の層から個人的無意識の層を経て自我に達するのだから、当然のことである。このことは、コンプレックスが元型的な心的内容の自我に対する直接的な侵入を防いでいるのだということもできる。つまり、コンプレックスの弱い人は、元型的なものの侵入を受ける危険が高いのである。p.88
元型は人類に共通なものと仮定されるが、それが元型的なイメージとして把握されるとき、その個人の意識のあり方、ひいては、その個人をとりまく地域的、時代的な文化の差によって影響を受けることは当然である。p.88
われわれとしては、元型的なイメージの中に、人類共通なものとしての元型を見いだす努力をすると同時に、文化の差によってそれのあらわれ方に微妙な差があることにも注目してゆきたいものである。p.89
ある時代、ある文化において、ある特定の元型がとくに強烈な力をもつ場合も考えられる。ある元型的なイメージがひとつの文化や社会を先導する象徴となり、その集団の成員エネルギーを結集せしめるときもある。p.89
神話や昔話には、世界中に共通するパターンが存在すると述べたが、やはり以上の点をからみ合って、国や地方による差が生じてくるようである。たとえば、小沢俊夫編『日本人と民話』には、いろいろと日本の民話の興味深い特徴が述べられている。
その中で、ソ連の学者チストフが日本の「浦島太郎」の物語を、自分の孫に話してやった体験を述べているところが面白い。チストフが竜宮城の美しさを描写したところを話しても、孫は全然興味を示さず、なにか別のことを期待している様子であった。そこで彼は孫になにを考えているのかを尋ねた。
「いつ、そいつと戦うの?」
というのが孫の答だった。彼は竜宮城にいる竜と主人公の浦島の戦いが始まるのを、いまかいまかと楽しみに待っていたのである。
英雄が竜を退治し、そこに捕らわれている乙女と結婚をする。このパターンは西洋の場合、よほどの小さい子どもの心にも定着しているのである。p.89
ともかく、このような昔話が存在していること自体、ソ連の子どもにとっては不思議で仕方ないことであるだろう。しかしながら、「浦島太郎」の物語を個々の要素に分解してゆくと、それはそれでまったく全世界に共通の、普遍的側面をもっていることも事実である。p.90
78ページに示した夢で、呑みこむ力の強いフカのイメージを、グレートマザーのイメージとしながらも、その結末の特異性を指摘したが、これは「浦島太郎」において、戦いが生じないことと軌を一にしている。わが国においては、グレートマザーの力はきわめて強く、それと対決し、あるいは殺すことは、ほとんど不可能に近いことなのであろう。p.90
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