『日本国紀』読書ノート(170) | こはにわ歴史堂のブログ

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170】戦争の目的が「共存共栄」ではなく「収奪」の説明になっている。

 

「日本軍がパレンバンの油田を占領したと聞いた東条英機首相は、『これで石油問題は解決した』と言ったが、彼も政府(そして軍)も、油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった。」(P389)

 

という説明を読んで、あれ?変なこと言うなぁ、と思いました。4ページほど前では、

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破せねばならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要があった。真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由である。」(P385P386)

 

と説明されています。

東条英機も、政府も、軍も、「油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった」のでしょうか。

気付いていたと思われたからこそ、百田氏は、インドネシアの石油を奪い、それを運ぶルートを確保するためにシンガポールのイギリス軍を撃破し、クラーク基地を無力化し、真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのだ、と説明されたのではなかったのでしょうか。

石油を奪い、それを運ぶルートを確保するためであると称して、ハワイ、マレーシア、フィリピンを攻撃したことを正当化する一方で、「油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった」と、いまさら東条や政府、軍を批判しても、それでは支離滅裂な説明になってしまいます。

 

結局は、単に輸送ルート確保に失敗し、輸送手段に対する考え方が甘かっただけで、石油の輸送ルートを確保するためにシンガポール、ハワイ、フィリピンを攻撃したわけではなかったことを証明したようなものです。

結局は機能しませんでした。

 

「…ところが、インドネシアからの石油などの物資を運ぶ輸送船が、アメリカの潜水艦によって次々と沈められるという事態となる。」(P390)

 

ということについて補足しておきますと、真珠湾攻撃の3時間後、アメリカ海軍は54隻の潜水艦を東南アジア方面に派遣し、すでに日本の補給線を叩く作戦を開始していました。1942年までで、日本は96万トンの船舶を喪失してしまいました。

ただ、海軍の駆逐艦が護衛についても、軍艦からの攻撃の防御にはなったかもしれませんが、日本の駆逐艦は哨戒能力が低く、おそらく喪失船舶数を上積みするだけの結果になったかもしれません。

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。」(P385P386)

「そして戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功した。」(P389)

「日本政府はインドネシアからの石油やボーキサイト(アルミニウムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から徴用することに決めた。」(P389P390)

 

という説明をみると、東南アジアへの進出は、日本の資源不足を補うために、これらの資源を収奪することが目的であることが明白です。

 

「『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった』と言う人がいるが、これは誤りである。」(P391)

 

と説明されていますが、無意識のうちに百田氏は、「東南アジア諸国への侵略戦争だった」と思われているのではないかとさえ思ってしまいます。

 

「『大東亜共栄圏』とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。」(P392)

 

と説明されているのに「石油を奪うため」「石油施設を奪うため」「インドネシアの石油やボーキサイトを日本に送り届ける」というように日本が資源を「収奪」することが目的であったことを連呼され、「経済的な共存共栄」を図る政策については何一つ触れられていません。

あたかも東南アジアを独立に導いたのは日本だと言わんばかりですが、「共に存して共に栄える」ための具体的な政策には何一つ言及されていません。

 

「この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に『日本はアジアを侵略した』というのは空虚である。」(P392)と説明されているのに、これでは、

「このような事実を踏まえず、短絡的に『日本はアジアを侵略していない』というのは空虚である。」と言い換えざるをえません。