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 老舗出版社の誇りは、どこにいってしまったのか。そう言わざるを得ない事態だ。

 新潮社がおととい、月刊誌「新潮45」の休刊を決めた。事実上の廃刊である。

 LGBTの人を「『生産性』がない」と書いた自民党杉田水脈(みお)衆院議員の原稿を8月号に掲載し、批判を浴びると、今月18日発売の10月号で「そんなにおかしいか」と題する企画を組み、7人の論考を集めた。これにもLGBTの当事者や支援者のほか、作家や文化人、書店などから抗議の声があがり、21日付で佐藤隆信社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」との声明を出していた。

 休刊を伝える文書には「企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」「深い反省の思い」などの言葉が並ぶ。だが、そこに至った経緯はきわめて不透明だ。

 いったい、どの筆者の、どの表現に問題があったと考えているのか。この問いにも、同社は「外部の筆者だから特定は控えたい」と言うばかりだ。企画に関する編集部内での話し合い、原稿を受け取った編集者の認識、筆者とのやり取りの有無などは明らかにされず、再発防止の取り組みも見えない。

 これでは言論機関の責任放棄と言われても、やむを得ないだろう。10月号の企画の冒頭で「真っ当な議論」を呼びかけたにもかかわらず、一気に休刊に走って議論の可能性をみずから閉ざしてしまったこととあわせ、疑問は尽きない。

 出版不況のなか、「新潮45」の実売部数も最盛期の約5万7千部から約1万部に落ち込んでいた。近年、ネットでの過激な発言で知られる書き手を登場させるなどして、読者をつかもうとしたものの、歯止めはかからなかった。そんな悪循環が、結果として出版文化への信頼を傷つけてしまったのか。

 雑誌ジャーナリズムは、タブーに切り込む力や、発想の柔軟性、多様な企画力などで、大きな足跡を残してきた。しかしそれが、少数者や弱者へのバッシングに向かい、人権を傷つける道具になってしまったら、人々の信頼を失い、表現・言論の自由の危機を招く。

 ヘイトスピーチに代表される、事実を踏まえず極端に流れる言説が後を絶たないいま、社会全体で、言論の公共性とは何か、メディアが果たすべき役割とは何かを問い直したい。

 そのためにも、新潮社は今回の問題について検証し、その結果を社会に示す責任がある。

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