浅い眠りを覚ましたのは誰かの気配だった。ごく近くまで近付いていたその気配に今まで気付けなかった事にツアーは驚いたし、ここまでツアーに気付かせずに接近できる相手など世界中でもそう数はいない、誰が訪れてきたかの見当は付くというものだった。ゆっくりと目を開くと、悪戯が成功した子供の笑みを湛えてそこに立っていたのは推測通り、時折訪れてくれる懐かしい盟友だった。
「久方振りじゃの、ツアー」
前に会った時よりまた目元の皺が深くなっただろうか。十三英雄の一人、リグリット・ベルスー・カウラウの面を眺めそんな事をぼんやりとツアーは考える。
「なんじゃ、挨拶も忘れるとは儂の友は呆けが来てしまったのか?
「すまないねリグリット。懐かしい顔を見て感慨に浸っていたんだよ。よく来てくれたね、君は確か冒険者をしていたんだっけ? 今日は依頼か何かかい?」
「いや、冒険者はもう引退したんじゃよ。こんな年寄りをいつまでも働かせるものじゃないからの。儂の役目は泣き虫に譲ったよ」
リグリットが肩を竦めて苦笑しながら答え、その答えにツアーはしばし考え込み、やがて思い当たる事があったのか口を開いた。
「泣き虫……ああ、インベルンかい。彼女が冒険者をやるとは思っていなかったけど、一体どんな手を使って納得させたんだい?」
「はん、あの泣き虫が愚痴愚痴言っとるから、儂が勝ったら言う事を聞けといってな、ぼこってやったわい!」
呵呵と笑うリグリットを見やってツアーは目を細めた。
「あの娘に勝てる人間は君位だよ」
「なぁに、仲間達も協力してくれたしの。それにアンデッドを知るということはアンデッドを倒す術をも知るということ。地の力では勝てんとしても有利不利の関係があればそれも覆せるわい。それにあの泣き虫が強いといってもより強き者はおる、例えばお主。自らに縛りさえかけていなければお主はこの世界でも最強の存在なんじゃからな……」
笑いかけてくるだろうと思ったのにリグリットがやや目線を伏せ考え込んだのをツアーは不審に思った。そういえば今日来た用件をまだ聞いていない事を思い出す。
「それで、今日はどうしたんだい? 遊びに来てくれたのかい?」
「今日は伝言の使いっ走りじゃよ。全く、儂を使うとはあの泣き虫も偉くなったものじゃ。そう、お主に並ぶであろう存在についてな」
リグリットのその言葉にツアーの顔も引き締まる。最強の
「そろそろ、百年の揺り返しの時期だと思っていたけれども、インベルンが接触したのかい?」
「ご名答じゃ。あ奴め迂闊にも戦いを挑んであっさり敗北したそうじゃ。己の力を過信しすぎとるとは思っておったがまだ命があって本当に幸運じゃよ。その者の名はモモンガ、どこで情報を仕入れたのかお主の事を知っておって、己が世界に害を為す存在ではないと話を通しに来たいそうじゃ。あの泣き虫が紹介状を持たせるそうじゃから、来たら会ってやってほしいとの事じゃ」
「その話確かに承ったよ。しかし、まず私に話を通しに来るなんて今度の来訪者は随分変わり者のようだね」
「そうかね? お前さんは世界の守護者と言っても過言ではない存在、睨まれたくはないんじゃろ。インベルンの話では、モモンガなる者の目的は前の世界での自分の仲間を探す事と世界を旅して回る事だと言っておったそうじゃ」
「やっぱり変わり者じゃないか。そんな来訪者は初めてだよ」
「六大神然り八欲王然り十三英雄然り口だけの賢者然り、大いなる力を振るい世界に多大な影響を与えてきた存在じゃからな。しかし、少なくとも世界に害意がないという事は喜ばしいことではないかの?」
「それは、まだ分からないね。実際に会って話をしてみるまでは」
「リーダーのように善き者であればよいがの……」
そう呟きリグリットは遠くを見る眼をした。リーダーの死は彼女の心に消えない傷を刻んだ。その痛みは、二百年経った今も消えはしないのだろう。
「そうある事を願おう。今はそれしか我々にはできないのだからね」
ツアーもまた彼方を見通すように遠くを眺める。振るわれる方向によって世界に災厄を齎しかねない恐るべき力。今回も振るわれるのかはたまた。己が動かざるを得ないような事態にならない事をこの場から動けないツアーはただ願うしかなかった。
エ・アセナルに着いたのは昼頃、勿論お約束通りモモンガは検問に引っ掛かったがイビルアイのくれた紹介状とクレマンティーヌのフォローのお陰で無事門を通る事ができた。
通りには人間だけでなく亜人の姿もちらほら見えた。
「亜人と人間ってあんまり仲良くないイメージだったけど、ここは平和だな」
「基本的には仲は良くないですね、人間に興味がなかったり比較的好意的な種族もいますけど、大体が捕食者と餌の関係ですから。評議国に行くと亜人の方が圧倒的に多くなりますから亜人と人間が入り混じってるのはこの街の特色かもしれませんね」
「捕食者と餌……俺達っていうか二人は評議国行って大丈夫なの?」
「評議国では数は少ないですが人間もちゃんと暮らしてますし権利が保証されてます。いきなり取って食われたりはしませんよ。まあそうでなくてもそこらの亜人なんてスッと行ってドスッで終わりですが」
クレマンティーヌが不穏な事をまた言うが、まあ襲い掛かられたとしたら降りかかる火の粉は払うべきだろう。許容範囲内の発言だ。
宿で部屋をとり少し遅めの昼食にする。この世界の宿は基本的に食事付きなので楽だなぁとモモンガは思うのだが、二人に言わせると味の当たり外れが大きすぎて博打の要素がかなり強いらしい。今日の宿の食事は可もなく不可もなくといった具合のようだった。
「普通に食えりゃ文句はねえな。今日は当たりだ」
「確かに。外れ引いたら目も当てられないもんねぇ」
まず当たり外れがある事自体がモモンガにとっては羨ましいのだが、それは言わないでおく。二人がお腹一杯美味しい食事ができればそれでいいじゃないか、そう考えて必死に涙を(出ないが)飲みながら耐え忍ぶ。
昼食は何かのシチューと黒パンに蒸したじゃがいもだった。じゃがいもってどんな味がするんだろうなぁ、シチューって美味しいのかなぁ、どうも二人の食事中は食べているものへの興味がモモンガの頭の中を占めてしまっていけない。
「国境は何か検問とかあるの?」
「いえ、砦とかは特にはない筈ですよ」
「そっか、ちょっと安心……最終的に通れるとはいっても毎回引っ掛かっちゃうからなぁ」
「その見た目だとちょっと……せめてマスクを何とかできればとは思いますが……」
「それがさぁ、アイテムボックス整理して探したんだけど他のマスクは全部本拠地に置いてきちゃったみたいなんだよね……一生これで通すしかないみたい」
「そりゃ御愁傷様なこった」
「マジックアイテムのマスクとかないかなぁ、もうちょっと不審者じゃないデザインのやつ」
「市場では見た事ねえな」
「だよね……マスクを魔化してどうするんだよって感じだし……」
ほう、と思わずモモンガは溜息を漏らしてしまう。まさかこの嫉妬マスクと一生付き合っていく事になるとは。正確に言えば嫉妬マスクは年度違いの他のバージョンをいくつか持っているのだが、色違いなだけで基本的なデザインは同じな為何の解決にもならない。
「蒼の薔薇の
「マジックアイテム製作か……結構な金額がかかりそうだけど検問で引っ掛かる率を下げると思えば……」
「いやどんなデザインでも仮面被ってる時点で止められると思うぞ……アダマンタイト級冒険者みたいな有名人ならともかく」
「だめかー」
万策尽きてモモンガはテーブルに突っ伏した。検問問題はこの先もどうやら逃れられないらしい。アンデッドの身体は便利な事も多いが不便や制約も多い。その問題を考えると冒険者になって名声を得るというのはどこでも通じる冒険者プレートという身分証を得られるし悪い手ではないのだが、モンスターの退治屋みたいな夢のない仕事だと知った時にその選択肢はモモンガの中から消えてしまった。モモンガは冒険はしたいしその過程で強力なモンスターと戦うならいいのだが、モンスター退治を繰り返すだけのような仕事にはあまり興味が湧かない。
「さて、ご飯も食べましたし私は情報収集に行ってきますがモモンガさん達はどうしますか?」
「俺達はいつも通りマジックアイテムでも見に行こうかな」
「俺も強制的に数に入ってんのかよ……まあいいけどよ」
「何だよーブレインだって好きだろーマジックアイテム見るのー!」
「はいはい、嫌いじゃねえから付き合ってやるよ」
肩を竦めてブレインが息をつく。しかしマジックアイテム屋巡りは楽しくはあるが実りは少ない。モモンガが欲しいと思えるようなアイテムがどうにもこうにも置いていないのだ。
南の砂漠の都市、エリュエンティウには八欲王が残したという(この世界では)規格外のマジックアイテムが多数あるというが、それならば是非見てみたいと思う。ユグドラシルポーションもできれば補充したいし、クレマンティーヌとブレインの武装もユグドラシル製にできれば尚良い。エリュエンティウの上に浮かぶ浮遊城というのは恐らくギルド拠点と思われるので維持費もかかるだろう、死蔵しているユグドラシル金貨で取引できたりしたら最高だ。
とりあえず食器を片付け三人とも席を立ち宿を後にする。クレマンティーヌは一人別の方角へ向かい、モモンガとブレインは街の中心部へ向けて歩き出した。道すがらにマジックアイテムを取り扱う店の場所を
リ・エスティーゼ王からの下賜金があったお陰で軍資金はあるのでいいものがあれば買えそうなのだが、果たしてモモンガが欲しいと思えるものがあるのかは謎だった。とりあえず一店舗目の入り口を潜ると、この世界の店がどこもそうであるように中は薄暗く少し埃っぽい。奥のカウンターの中にいる店主がちらりとこちらを見た。
〈
「ちなみに刀……はねぇよな」
「さすがに刀はここまでは流れてこないねぇ、南の方で全部捌けちゃうよ。お兄さんの腰のものも業物みたいだけど、それ以上のものとなると中々ないだろ」
「まあな。でもこれを微妙って言う奴がいてな、誰とは言わねえけど」
「ははは、そいつぁ凄いな。柄とか鞘の造りだけで分かるがそんじょそこらの刀とは違う一品だろうになあ」
さすがマジックアイテム屋の店主をやっているだけあって鑑定眼は確からしい。そうだ、モモンガの基準がユグドラシルのアイテムを基準にしているのがこの世界ではおかしいのだ、それは認めざるを得ない。でも仕方ないだろ、ユグドラシル基準からしたらブレインの刀はかなり微妙なんだから、とも思うが。エリュエンティウにユグドラシル産の刀があったらブレインにギャフンと言わせてやると心に決める。武人建御雷さんの斬神刀皇とか見せたらどんな顔をしただろうと思うとちょっと見せてやりたくなった。あれは確かナザリック第五階層の守護者コキュートスに持たせていた。何度も思った事だがナザリックがあればなぁと毎度のように思う。
そのまま夕方まで五六件の店を周り宿に戻る頃合いになる。この街には魔化された殴打武器はなかった。いっその事マジックアイテムについてはエリュエンティウで色々見るまで保留にした方がいいかもしれないとぼんやりと思う。
「なぁ」
「ん、何?」
声を掛けてきたのにブレインは続きの言葉を口にしようとせずゆっくりと歩を進めた。夕焼け空の雲は桃色に染まっている。ガアガアと太い声で鳴きながら鳥の群れが街の外へと飛び去っていく。
「これから先、お前はどうすんだ」
「どうって、今まで通りさ。情報収集しながら、色んな所を回るつもり」
「もし、仲間が見つかったら、どうする?」
「……どうするんだろうね。見つかってみないと分からない。相手の気持ちだってあるし」
そのモモンガの答えを聞くとブレインはちらりとモモンガを見やり微妙そうに唇を歪めた。
「俺には全然遠慮がねえのに仲間にはえらい遠慮してんだな」
「どうしてだろうね。自分でも理由はよく分からないんだけど……俺ずっと遠慮してて、それは嫌われたくなかったからだった。でもそれは、本当に言いたい事をちゃんと伝えられないのは間違ってたのかもしれないって思って、それでブレインには遠慮してない」
「多少はしてくれてもいいんだぜ……何事も程々が一番だろ。ま、今更遠慮されても困るだけだから今のままでいいけどな」
「アインズ・ウール・ゴウンの皆には、今でも真っ先に嫌われたくないって思っちゃうんだ。刷り込みみたいな感じなのかなぁ。人生で初めて、友達で仲間だって思える人達だったから」
「仲間……か。そんな奴ぁいなかったな俺は」
そこで言葉を切ったブレインをモモンガはちらりと横目で見た。ブレインは前を向いて夕陽を睨め付けていた。ただひたすらに真っ直ぐな視線だった。
「俺には剣しかなかった。他には何にもありゃしない、たったそれだけだ。俺の前に立つ奴は誰もが敵だった。ダチは多少はいたが、根無し草の俺じゃたまに顔を合わせて酒を飲む程度の付き合いだ。傭兵団だって強い奴と戦えて金払いが良いから居ただけで、どうなろうと知った事じゃないと思ってたし事実そうだった。誰と居たってずっと俺は一人だった、そう思うよ」
ブレインの独白を、モモンガは意外な思いで聞いていた。孤独、気さくで面倒見のいいブレインに対してそんなイメージはまるでなかった。そして恐らくそれをブレインは大して苦には感じていなかったのだろう。剣しか見えていない、今の真っ直ぐな視線のようにただそれだけを見つめていたから。
「この前ガゼフの奴に己の信念の為に剣を振るえなんて言われたが、元からそんなもん俺にはありゃしなかった。それしか能がねえから剣を振ってただけだ」
「……でも、好きなんだろ?」
「ああ、そうだな。俺ぁどうしようもなく剣の道ってやつに魅入られちまってるんだ。この道を極められるなら自分の何を犠牲にしたっていい、今だってそう思ってる。いや……違うな」
そこで言葉を切ってブレインは、恥ずかしいから一度しか言わねえぞ、と前置きをした。
「今は俺は何かの為に、お前が
苦笑しながらまるで独り言のようにブレインはそう言葉を紡いだ。ブレインの言いたい事は十分に伝わってきたけれども、それに答える言葉をモモンガは探し出せなかった。剣の他には何もいらなかったひたすらにストイックで孤独だったこの男が、今は変わったのだという告白。それに答えるべき言葉をモモンガは未だ持てない。これだけの思いにどうすれば応えられるというだろう。答えなど分かりきっているのにそれを口にすることができない。モモンガにとっては決して安易に口にすることができない言葉だし、適当に口に出してしまうのはブレインの思いを侮辱する事になるような気もしていた。
「だから、お前さんの仲間が見つかるまでは面倒見てやるよ、仕方ねえからな。ただ、その先の事は……お前が決めろ」
どうしてお前の事なのに俺が決めるんだ、そう問いかけるのは簡単だったろう。だけれどもモモンガはその質問も口にできなかった。決めるのはきっと自分でなければならないのだと、そう思わされてしまったから。
事情を知らないながらもモモンガの迷いをブレインは感じ取っているのではないか、そんな確信めいた予感が過ぎる。もし全てを話したならば、ブレインはどんな反応を返すのだろう。馬鹿な奴だと笑うだろうか、愚かな奴だと嘲るだろうか、それとも。それはきっと、話してみなければ分からない事だ。
モモンガは迷って心を定められないでいる。ただひたすら仲間を待ち続ける墓守を続けるのか、それとも違う道を見つけ出すのか、それを今選べないでいる。自分からは何もせずに置いていかれた事を寂しがり恨みにすら思ってしまうそんな事はやめにして前に進みたい、心からそう思っているのに、その筈なのにアインズ・ウール・ゴウンのあの時間は自分にとって総てなのだと胸の奥が叫ぶ。
本当は選ぶようなことでもないんだろうな、前に進んだとしたってアインズ・ウール・ゴウンで過ごした時間が消えてなくなってしまうわけではないのだから。理屈はちゃんと分かっている、後は決断するだけだ。
たっちさんが熱く語っていた昔の特撮の名台詞の中に「男の仕事の八割は決断だ、そこから先はおまけみたいなもんだ」というものがあったのをモモンガは思い出した。その台詞が登場する話を見せられて感動ポイントを熱く語られたのをよく覚えている。聞いた時はピンと来なかったのに、今ならその言葉の重みがモモンガにも分かる。決断というものが、こんなにも難しく重いものなのだという事をモモンガは今まで知らなかった。虐げられ耐え忍び流され生きる生き方の中には、心を定め人生の方向を決めるような本当の決断をする場面などなかったのだから。本当の意味で自分で決断した事など今まできっとモモンガにはなかった、決断する位なら沈黙を選んでしまっていた。沈黙して耐えた方が楽だったから、面倒がなかったから。
「お前は今まで一つでも自分で何かを決めて何かをした事があるか?」
同じく思い出したのはたっちさんに見せられた特撮映画の中にあった台詞だ。さっきの台詞と合わせて熱く語られたからよく覚えている。
人生に於いて選択した事のない人などいないだろう。小さな選択は日常の中に常に無数にある。だけどきっとこの台詞はそんな小さな選択の話をしているのではない。確固たる自分の意志を持ち流されずに何事かを決断したかを問うているのだろう。
痛むだろう、苦しむだろう、悲しむ事もあるかもしれない。それでも人は選ぶ。選んだ答えこそが己の人生の道筋を描いていくのだから。「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」という言葉を教えてくれたのはやまいこさんだったろうか。確か昔の文学者の言葉だと言っていた。敵をひたすらぶん殴って道を作りながら言っていたので台無しだったが。
仲間達との思い出も言葉も、今もこうしてモモンガの胸に生きている。決して消えたりはしない。モモンガという人格を形作る上で重要な要素だ。教えられた言葉の意味が会えなくなってからこうして分かるなんて皮肉だけれども、あのまま理解できないまま惰性で日々を過ごしていたよりもずっといい。
生きているのだ、胸の中に、決して消えたりはしない、あの日々の煌めきが色褪せることはない。会いたいと思う気持ちも会えなくて寂しいという気持ちも消えないけれども、その実感が湧き上がってくるとまるでアインズ・ウール・ゴウンの皆に会いたい時にいつでも会えるようなそんな心持ちになった。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」これはタブラさんだったろうか、死獣天朱雀さんだったかもしれない。こうして痛みを経た上で人に教えられる事でしか愚かな
後は踏み出す勇気と切っ掛けだけ。それだけが必要だった。それさえあれば、臆病者の鈴木悟でも一歩前に踏み出せるかもしれない。そんな気がした。
宿でクレマンティーヌと合流して夕食がてら報告を聞くが、やはり大した情報はなかったらしい。この辺りで強者といえば最近この辺りに留まって依頼をこなしているアダマンタイト級冒険者・朱の雫の面々になるようだ。
夕食は豆のスープに黒パンそれから肉と野菜を炒めたものだ。宿の食事でおかずが付く事はあまりないので、この宿の食事はなかなか豪華なようだ。
留まって情報収集しても実りはなさそうなので明日発つ事に決めて部屋に戻る。因みに部屋をとる前にクレマンティーヌに部屋を分けることをやんわりと提案してみたのだが断固として拒否された。何故だ。
「明日には評議国に入りますね。モモンガさんと出会ってまだ一ヶ月ちょっと位ですけど、長かったような短かったような不思議な時間の経ち方です」
「なんだその永遠の別れみたいな言い方……俺達の旅はこれからもまだまだ続くんだぞ?」
変にしみじみと呟いたクレマンティーヌにそう声をかけると、クレマンティーヌは嬉しそうににっこりと笑った。
「ありがとうございます、これからも頑張って役に立ちますね」
「……クレマンティーヌ、その、別にそんな気負わなくてもいいよ。役に立つから一緒にいるわけじゃないんだからさ」
「何でですか? 私はモモンガさんの協力者です、役に立たなきゃ協力者とは言えないじゃないですか」
心底不思議そうな顔をしてクレマンティーヌがそう尋ねてくるので、返す言葉をモモンガは見付けられなかった。クレマンティーヌの言っている事は正しい、何も変な所はない。だけど、だけど違うのだ。
タオルを手にしたブレインが体を拭いてくると小さい声で言い置いて部屋を出ていった。二人で話せ、ということだろう。腹を括るしかないようだった。意を決してモモンガは口を開いた。
「違うよクレマンティーヌ、協力っていうのは、複数で何かを成し遂げるって事なんだ。だから、成し遂げようと頑張れば結果として貢献するかもしれないけど、そういう風に役に立つとか立たないとか考えなくたっていいんだ」
「……ちょっとよく分からないですね。役に立つ方が良くないですか?」
「良いとか悪いとかじゃないんだよ。そんなメリットデメリットでお前と一緒にいるわけじゃないんだ」
「……そうなんですか? モモンガさんは最初に私が仕える事による利益を聞かれましたよね? その上で私が役に立つと判断されたから仕えさせていただけたのではないんですか?」
そういえば聞いた、確かに聞いた。ブレインの時も聞いた。デメリットの方が上回るなら関係を持ちたくないというのは確かにモモンガの本音だ。だけど今は、クレマンティーヌの存在はもう利益不利益だけではなくなっているという事をどうやって伝えればいいのだろう、それがモモンガには分からなかった。
「聞いたな。確かに聞いた。お前の言う通り、お前がいてくれた方が利益があると思って協力者になった。そこまでは正しいよ。だけど、いつまでもそのままじゃないだろ? ずっと一緒にいて、仲良くなったって思ってたのは俺だけだったのか?」
「モモンガさんと仲良く、というのは、私には恐れ多い事です。出来るだけ気楽に接するようにというご希望通りにしてはいますけれども、私はお仕えするという気持ちを忘れた事はないです」
不思議そうな顔をしてクレマンティーヌはそう答え、その内容に後頭部を鈍器で殴られたような強いショックをモモンガは受けた。全てが演技だった、という事ではないだろう。だが、クレマンティーヌは演じてはいたのだ。クレマンティーヌは出会った時から今までずっと従者で、もう従者ではなくなっていると思っていたのはモモンガの方だけだったのだ。
ふらりと、一歩後退る。強いショックによる動揺は即座に沈静化され、不安定な気持ちがじわじわと心を揺さぶる。何か言わなければと気ばかりが焦り、思考が空回りして口にする言葉が何も浮かばない。
「俺と……一緒にいるのが楽しいって……あれも、演技?」
「それは本当の気持ちです。モモンガさんのお役に立てるのは本当に嬉しくて楽しい事なので」
「違うだろ! そんなの違う!」
「モモンガさん……?」
思わずモモンガは声を荒げていた。クレマンティーヌは訝しげな顔できょとんとモモンガを見つめている。悔しい、悲しい、こんなにも噛み合っていない事が。でもそれはきっときちんと伝えるのをモモンガが怠ったからなのだ。伝えなければ分からないという当たり前の事は、教えられた筈だった。伝えようとした筈だった。でも足りなかった。クレマンティーヌの心を動かすには全然足りなくて。
「すみません、あの、何か気に障るような事を言ってしまったでしょうか、何が違うのか、私には分からないのですが……」
「違うんだクレマンティーヌ、そんなの違う……確かに俺は、お前に感謝してるよ。お前は精一杯役に立ってくれてるよ。でも、そうじゃないんだ。お前は、俺の役に立てるのが嬉しいのか? 俺と一緒にいるのが楽しいんじゃなくて?」
「その二つの、どこが違うのでしょうか……」
「違うよ、全然違う……なあクレマンティーヌ、役に立つ立たない関係なく一緒にいて楽しい人はいるんだ。お前にはそういう人はいなかったのか?」
「……一人だけ、いました。でも、私は役に立てなかった。だからあの
クレマンティーヌは目を伏せそう答えた。それに対して返す言葉などモモンガにある筈がなかった。たった一人だけの恐らくは友達が死んだのを、クレマンティーヌは自分が役に立たなかったせいだと思っている。出来損ないの方のクインティア、という言葉を思い出す。役に立てなかったという劣等感を抱え、自分を出来損ないだと思い込んで生きてきたのだきっと、クレマンティーヌは。そこにモモンガが利益と不利益の話をしたものだから、モモンガの利益になれば喜んでもらえると思ったクレマンティーヌは役に立つことをこんなにも喜びとしているのだろう。役に立てるなら出来損ないではないという証明になるから。役に立てるなら守れるから。
そんな事は知らなかった、言い訳をしようとすればできないわけではない。だけどしたくなかった。言い訳が一体何になるというだろう、結果は変わらない。そもそも知ろうともしなかったモモンガに全ての責任がある。それに、ここから目を背けて逃げてはいけないような気がしていた。ここで手繰り寄せなければ踏み出す勇気をこれから先も臆病者の鈴木悟は持てないのではないか、そんな予感があった。
「さっきも言ったけど、お前が役に立ってくれてる事にはすごく感謝してるよ。だけどそれとは別に、俺はお前と仲良くなれたと思ってた。それが俺の勘違いだったって事は分かった。でも俺の気持ちをちゃんと知ってほしい。俺は今はお前が役に立つ立たないに関わらず一緒にいたいと思ってるしお前にもそう思ってほしい。お前が俺に仕えてるなんて、そんなの嫌だ。そもそもそれが嫌で協力者って体にしたのに、お前はずっと仕えてるつもりだったのか?」
「お役に立つという形で仕える事はできると思いましたから、仕えているつもりでした。モモンガさんは、どうしてそんなに仕えられる事を嫌がられるんですか?」
「俺はそんな立派な人間……じゃないな、そんなに立派なアンデッドじゃない。人に仕えられるのに相応しい奴じゃないんだ。仕えてくれる人も欲しくない。俺が欲しいのは、そんなものじゃない……」
「それではモモンガさんの望むものというのは、どういうものなのでしょうか?」
困惑し戸惑った声のクレマンティーヌの問いかけに、モモンガは返す言葉を失った。
言うなら今しかないというのに、まだ口にできない。
夕方の決意が何だったのかというほど恐ろしくなってしまって、ない筈の喉が震えて詰まったような気がした。まだ心の準備が足りなかったというのだろうか、まだ勇気が足りないというのだろうか、今言わなければいつ言うというのだろう。
「俺、は……」
「私はモモンガさんは、お仲間の皆さんを求められているのだと思っていましたが、違うのでしょうか?」
「……それは、その通りだよ。でもアインズ・ウール・ゴウンの皆とお前は別なんだ、違うんだ」
「お仲間の皆さんを探すために、私の知識や力を利用しているのではないのですか?」
「利用なんて言うな!」
思わずモモンガは怒鳴り声を上げていた。クレマンティーヌがひゅっと息を呑む。
「どうして……どうして分かってくれないんだ、どうして…………俺はもう、お前の事そんな風に考えてないのに……利用なんて、したくない……そんなの嫌だ」
「モモンガさん……?」
戸惑った表情のクレマンティーヌが見上げてくるが、これ以上何をどう説明していいのかまるで分からなかった。どこまでも食い違い噛み合わない。それもこれも、鈴木悟が臆病者のまま足踏みしているからだ。クレマンティーヌのせいではないのは確かだ。
己への苛立ちは即座に沈静化されじりじりと胸を灼く。困り果てた様子のクレマンティーヌを置いてモモンガは部屋を出てそのまま外に行き、人気の絶えた夜道で〈
どこまでもどこまでも、高く高く昇っていく。そんな事をしても問題から離れられるわけではないし、苛立ちも消えはしないのに。雲の上まで出ると大きな月の光は煌々と辺りを照らし眩しいほどだった。この美しい世界で生きていくのだと決めたんじゃないか、それなのに俺は、最初の一歩も踏み出せない。己の意気地のなさにほとほと嫌気が差した。
雲の上では轟々と強い風が渦巻いている。それ位うるさい方が今は良かった。どうすれば、どこから、一歩を踏み出す勇気を絞り出せるのだろう。そんな勇気を出すことから今まで逃げ続けてきたモモンガには見当も付かない。強風にローブをたなびかせながらあと少しだけの勇気が欲しいのだとそれだけをモモンガはひたすら願い続けた。
受け取った
「彼の方はお迎えする事に方針が定まった。王国民を守る今までの行動から、人類に対し庇護の感情を抱かれている可能性が高いだろうという判断だ。ただ一点、問題がある」
第一席次の視線がちらりと動き、すぐに
「裏切り者の疾風走破が行動を共にしている可能性があるとのことだ。恐らくは本性を隠し騙して利用しているのではないかというのが上層部の見解だ。異論のある者は?」
第一席次の言葉に、二人は何も答えなかった。その様子を見て、第一席次は一つ息をつき言葉を続ける。
「個人的には他の可能性も考えるべきだとは思うが……どちらにしろ疾風走破は国の宝を奪い巫女姫を発狂させた大罪人、彼の方を騙しているにせよそうでないにせよ始末を付ける必要はある。騙しているなら本性を暴けば事は済むだろうから楽でいいのだがな。上層部の命は裏切り者には死を、だ」
第一席次の言葉に二人が頷く。迷いはないようだ、ちらと目線をやって様子を確認し第一席次はそう判断した。もっとも、ここで迷うような者ならば人類の守護者たる漆黒聖典の隊員に選ばれはしないのだが。
「風花の調査では、彼の方は評議国を目指している様子。なるべく急いで追うぞ、もうすぐ追いつける筈だからな」
「はっ」
「了解です」
返事を聞くと第一席次は手にしていた
この接触は人類の存亡に大きく関わる一大事だ、万一にも失敗は許されない。拭いきれぬ不安をどこかで覚えながらも、それを振り払うように第一席次は走り続けた。