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ドラゴンテイル 辺境行路 作者:猫弾正

序章

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手長02

 黒い眼帯をつけたのっぽは、旅人の小屋で厭な雰囲気を醸し出していた三人組の一人だった。

嫌な目付きをした小男も、先刻に小屋で見かけた顔のうちの一つで、行商人たちに近づいては盛んに話しかけていたのを覚えていた。

恐らくは旅人たちに入り混じりながら、適当な獲物を物色していたに違いない。


 いずれも薄汚い風体をしており、棍棒を片手に街道を塞ぐようにして立ちはだかっていた。

露骨に値踏みする目付きでじろじろ眺めてくるのが、半エルフにはたまらなく不快に感じられた。


 厳しい表情の女剣士は、西の方より歩み寄ってくるより一団の方が気に掛かるようで、剣の柄に手を掛けながら近づいてくる無法者の一群を睨みつけていた。


 ゆっくりと歩み寄ってくる赤銅の肌をした男と赤毛の女。胡麻塩頭の老人に二人組の乞食。

赤毛の女は両手に短剣を持ち、カチカチンと刃を打ち合わせる音を立てながら、獲物の恐怖を楽しむように厭な感じの笑みを浮かべている。

老人と乞食の一人が節くれだった杖。もう一人の乞食の得物は扱いやすい短い棍棒。

赤銅の肌の男が手に持っているのは、異様に長く太い棍棒で、普通の人間の片足ほどもあるだろう。

重いだけに取り扱いの難しそうな武器だ。

自由に振るうにはかなりの膂力と技量を必要とするだろうが、あんな棍棒で殴られたら屈強な大男でさえ一溜まりも在るまい。

 女剣士は無表情のまま、敵の大方の獲物と体格、年齢を素早く見て取り、素早い動作で剣を抜き放ちながら、此の世の終わりみたいに蒼ざめた顔で縮こまっているエルフ娘の傍らに立った。


 前から二人、後ろから五人。

七人の賊徒は、思い思いの武装を手に、じりじりと獲物との距離を詰めて来る。

「……挟まれた」

掠れた声で絞り出されたエルフ娘の呟きに、人族の娘は穏やかとさえ言える声で応じた。

「だが、まだ完全に周囲を取り囲まれた訳ではない。

 打って出るなら、今のうちだな」

女剣士の言葉に含まれた落ち着いた響きが、半エルフの娘にも冷静さを取り戻させた。



 前方と後方の街道を完全に塞いだ形になると、賊のうちから一人の男が前に進み出てきて自己紹介した。

「さて、お嬢さん方。俺の名はフィトー。人によっては手長のフィトーと呼ぶ者もいる」

一際長い棍棒を手にした筋骨逞しい男だ。赤銅の肌を持つこの男フィトーが賊徒の頭目なのだろう。

「お二人さんの新しい主人という事になる」

フィトーは顎を撫でながら、主が奴隷に決定を言い渡すように尊大な口調で宣告した。

「此れからお前さんらを新しい職場に案内してやるが……」

じろじろと二人の娘を見てから、にやりと笑みを浮かべた。

「自分からついてくるかね?

 大人しく武器を捨てれば、いい目を見せてやらん事もない。

 食事もそれなりのものを与えてやるし、お楽しみもあるだろう。俺は慈悲深い盗賊だからな」

最後に付け加えた言葉で、賊徒共がクスクスと笑った。

強弱のつけた喋り方が頭目の好みなのだろう。

優しげな口調から、一転、声の口調を荒げて、脅しつけるように言葉を続けた。

「だが、反抗的なじゃじゃ馬には鞭をくれてやらねばならん。

 新しい仕事を紹介してやる前に、好きなやり方を選ばせてやろう。

 お前さんらは優しく扱われるのが好きかね?

 それとも、鞭を喰らうまで己の立場を弁えない馬鹿な身の程知らずかね?

一言云っておくと、俺は無理強いは好かない。お嬢さん方が自分で決めるんだ」

賊徒はいずれも余裕のある表情をしていた。

もう既に、二人の娘とその財布を手中に収めたも同然と思い込んでいるのだろう。


 覚悟を決めたのか。

黄玉の瞳に底光りする硬質の光を宿らせて、女剣士が野生の狼のように獰猛な笑みを浮かべた。

まともに聞いていたら付き合いきれないほどの厚かましい言葉を無視して、しなやかな動きで身構える。

降伏する気はないようだ。

 女剣士の堂に入った構えを見て、痩せた老人が一瞬怯えた表情を浮かべたものの、数の優位を思い出したのか。直ぐに笑みを浮かべた。

「ほーい、黒髪のお嬢さんはやる気のようだぞ!」

胡麻塩頭の老人がおどけた叫び声を上げると、七名の悪漢共はげたげたと下卑た嘲笑を二人へと浴びせた。


 女剣士は烏の濡れ羽色の前髪を右手でかき上げ、ゴブリン共の演じる寸劇でも目にしたように、つまらなそうな表情になって賊徒共を眺めていた。

毅然とした態度は、まるで汚らわしい賊など、自分に指一本触れさせないと無言で主張しているようにも思える。

 まるで動揺した様子を見せない女剣士は半エルフには頼もしかったが、反対に盗賊の頭目にとっては気に入らない態度だったようでで、醜く表情を歪めると地面に唾を吐いた。

「息のいい獲物だ。どんな声で鳴くか今から楽しみだぜ」

手長のフィトーは鼻を鳴らして、手下の賊徒共に号令を下した。



「三人までなら切り抜けられるといったね」

半エルフが女剣士にだけ聞こえる程度の声で囁いた。

「ふふ……君が四人引き受けてくれるのかな?」

女剣士はからかうようにくつくつ笑った後、極度の緊張に引き締まったエルフ娘の表情を見て眉を顰めた。

「何を考えている?」

「さて、何人ついて来るかな。

 二、三人はひきつけられるといいんだけど」

呟くと、翠髪の娘はかもしかの如く駆け出した。



 引き絞られた弓から放たれた矢のように飛び出した半エルフは、村の方でもなく、宿屋の方でもなく、盗賊の囲みを抜けるようにして、真横にある小高い丘陵の連なる草原を突っ切ってひたすらに全速力で駆けていく。


「逃がすな!」

頭目の大音声の号令に、足に自信が在るだろう。

真っ先にアイパッチが走り出した。賊徒が数人。釣られたように追いかけ始める。



 目の前を数人の賊徒が走り抜けても動かず、じっとしていた女剣士が最後尾。動きの鈍い胡麻塩頭の老人に踊りかかったのはその時だった。

盗賊たちには、かつて餌食にした女たちと同じく、ただ脅えて竦んでいるようにも見えて油断していたかもしれない。

雷光のような突きをお見舞いする。

胸を刺された老人が、ぎゃっと怪鳥の如き叫びを上げ、きりきりと舞った末に地面へと倒れこむと、残った賊徒共の顔色が一斉に変わった。

「まず一人」

涼しげな表情で、女剣士は黄玉の瞳を細めて呟いた。

「このアマぁ」

喚きながら盗賊が跳びかかろうとするが、女剣士は囲まれぬよう、牽制の横薙ぎを放ちつつ軽やかにバックステップを踏んで、賊徒の間合いから距離を取っていた。

「さあ!掛ってくるがいい、悪漢共!」


 フィトーからすれば馬鹿馬鹿しい限りだったが、大勢に囲まれても恐れを見せない勇ましい女剣士を前に手下の何人かは動揺したようだ。

舌打ちしながら細かく采配を下す。

「追え!ジャール!エルフが欲しいんだろうが!逃がすな!」

「……お、おう!」

一端、立ち止まっていたアイパッチと目付きの悪い小男が、エルフ娘を追いかけて駆け出した。


「こんないい女が相手をしようというのに、目移りとはつれないな」

獲物の分際で舐めた言い分に、賊徒の頭目はすうっと灰色の目を細めて手下に告げた。

「殺すな。……少々痛めつけても構わんが生け捕りにしろ」


 乞食の一人と赤毛女が険悪な表情で女剣士を睨みつけながら挟み撃ちにしようと地面を蹴るが、女剣士は素早く足を動かして挟撃を許さない。

不用意に距離をつめれば鋭い一太刀をお見舞いして、数の不利をものともしない戦いぶりを発揮していた。


「じ、爺さん!」

乞食のもう一人は、慌てて老人に駆け寄って抱き起こすが既に事切れていた。

「……し、死んでる」

仲が良かったのだろうか。泣きそうになりながら表情を歪めて悲嘆に暮れた。

「畜生、なんてアマだ!」

他人に対しては残忍無惨な振舞いを平気で行う凶悪な賊が、身内の死に怒りを覚える身勝手さに、女剣士はくすりと笑った。


 老人を抱きかかえていた乞食が、怒りの叫び声を上げて杖を振り回し、突っ込んできた

横薙ぎに加えた一撃で振り下ろされた棍棒を反らすと、乞食は大きく体勢を崩したが、もう一人が背中に回り込もうとしているのを見て取った女剣士は追撃しない。

斜め横に飛び込んで、回り込もうとした乞食に鋭い一撃をお見舞いする。

慌てて棍棒を掲げた乞食に、牽制の一撃は木片を撒き散らしつつも防がれたが、相手が慌てて跳び退った為に、再び形成しかけた包囲陣の一角を崩してしまう。


「……は!」

 再び叫びながら突進してくる怒り狂った乞食へ牽制の突きを放ちつつ距離を取った。

別の乞食が棍棒を振りおろしてきた、だが、剣の間合いのほうが長く、早い。

余裕を持って躱しつつ、すれ違い様に腕を深々と切り裂いてやった。

悲鳴を上げて仰け反ったのを、しかし追撃する余裕はなかった。

短剣を両手に持った女が素早い動きで飛び掛ってくる。

上手く受け、返しに喉を切り裂こうと突きを放つが躱された。

首の皮一枚で逃げられて、舌打ちする。

賊にしておくには惜しいほどに俊敏な動きだった。

それとも日々の修練が足りなかったかな。


足元にも注意を払いつつ、包囲を受けないよう常に機敏に駆け続けながら小さく呟いた。

「さて、彼女が捕まるまでに何人減らせるか」




 目前の賊に勢いよく切り込みながら、横目で一瞬だけ頭目の位置を確認する。

手長のフィトーは猿山のボスよろしく、後方で偉そうにふんぞり返っていた。

賊はギリギリで剣を受けたものの、獲物の樫の杖はボロボロで今にも折れそうだった。

軽やかな動きで横合いから振るわれた短剣を躱すと、再び攻勢に廻って剣を振るう。

よろしい。あの長い棍棒はどうも厄介そうだからな。

残りの女と痩せ犬二匹は勝手に動いて、てんで連携がなっていない。

もし、連中が呼吸を合わせて攻めかかって来れば、さしもの女剣士も無傷ではすまなかっただろう。

それが現実には未だに手傷ひとつ負わずに、どちらかと言えば三人相手に押してさえいる。

にも拘らず、賊の頭目は御山の大将でも気取っているのか、参戦してこない。

口元に冷ややかな笑みを浮かべて、女剣士は賊の手下共を翻弄していく。


 今日此処で死ぬとしても、それもそれで悪くない。どのみち、人は何時かは死ぬ。

精々、出来る限り多くの賊徒を道連れにして、華々しく散ってやろう。

達観しているのか、自棄になったのか。

楽しげな笑みを浮かべて、女剣士は一心に体を動かし、剣を振るう。

命のやり取りは楽しい。

自分を殺そうとやっきになって喚き声を上げている賊徒の群れに対し、愛しさに近い感情さえ抱きながら、黒髪の剣士はくつくつと笑った。



 短剣の一撃を躱され、それどころか首を跳ね飛ばされかけた。

紙一重で躱したが、大量の嫌な冷や汗が赤毛のミューの背中を濡らしていた。

「……どうも嫌な感じがするよ。こいつは」

目の前の女は何時もの獲物と違うような気がする。

既にゴル爺さんが殺され、ベッラは腕に手傷を負っている。

若く俊敏で、しかも技に長けた剣士なのは間違いない。

不利な戦いを楽しんでさえいるように見えた。

相手が手練である事は確かなのに、フィトーは偉そうにふんぞり返っている。

女だと思って、舐めてやがるのかい。

苛立たしげに視線を送るが、乱暴な頭目に何か言い出す勇気はなかった。

一党に加わってから、フィトーが頭に血が昇ると何をするか分からない所をさんざ見てきたからだ。


 フィトーの機嫌を損ねるのは不味い。頭は悪くないが短気で暴君だ。

こっちは三人だ。こいつだって何時までも動き回れる訳じゃない。疲れてくる筈だ。

ジャール達だって、エルフ娘をとっ捕まえれば戻ってくるだろう。

だが、それでも一抹の不安は隠せない。

女剣士は動きやすい長靴を履いてるし、こっちはサンダルで雨で出来た泥濘に足を取られる。

どうしても動き回るには不利だし、回り込むには余計に動かないとならない。

おまけに長剣の間合いは長く、しかも女の一撃は重さには欠けるが充分に速くて鋭かった。

急所でも刺されたら、爺さんのようにあっさりとやられかねない。

実際、短時間の鍔迫り合いで幾度もひやりとさせられた。

よく引き締まった体躯は鍛錬の賜物だろう。若いから体力もあるに違いない。


 今までの獲物に剣士がいなかった訳でもない。にも拘らず、こんなに苦戦した事はない。

よく考えれば、剣士って言っても強そうな奴は見逃してきて、何時も口だけの弱そうな連中を襲ってきた。

畜生、奪った剣を売り払わずにロレンソやベッラに持たせておけば、こんな梃子摺ることもなかったんだ。


 女剣士がベッラの肩に一撃をお見舞いした。血飛沫が舞って乞食が悲鳴を上げる。

好機と見て反対から近寄ったロレンソが鼻に強烈な頭突きを喰らい、絶叫して仰け反った。

「腰抜けどもが、死ぬ気で掛って来い! さもないと地獄行きだぞ!」

女剣士の挑発に苛立ちを覚えながら、赤毛の女賊は舌打ちした。

こいつは強い。下手すりゃ三人掛りでも負ける。早くジャール達が帰ってくればいいのに。




 エルフの娘は、枯れ草と青草のまだらに入り混じった草原を必死に駆け続けていた。

足元に蹴飛ばされた季節外れの花が、花弁を撒き散らして散っていく。

意外にもアイパッチは足が速かった。もう一人はそれほどでもないのが救いか。

半エルフは足の速さにそれほどの自信が在る訳でもないが、死力を振り絞っていた。

だが、長身の賊徒は明らかに彼女の上手をいっていた。

獲物を嗅ぎ付けた猟犬のように素早く、泥濘を軽々と越えて、逃げるエルフ娘に迫ってくる。

真っ直ぐに走っては、直ぐに追いつかれてしまうだろう。

まるで逃げる兎と追う猟犬のように、両者はジグザグに走っては、追いかけっこを続けていた。

勢いよく迫ってくる腕。その度に、心臓が破裂しそうに高鳴った。

延ばされる手を必死に掻い潜って逃れ続けるうち、やがてわざとだと気づいた。

アイパッチは狩りを楽しんでいた。

捕まえられそうなところでエルフ娘が辛くも身をかわし続けるたび、追っ手の賊は下卑た笑みを浮かべるのだ。


 エルフ娘の体力が尽きるのを待っているのか、必死さを楽しんでいるのか。

いずれにしても悪趣味な奴だった。


 片目の賊が獲物を追いかける事、追い詰めることを楽しんでいるのは明白だったから、舌打ちしそうになって、ならばそれでいいと思い直した。

出来る限り長く、逃げ続けよう。



 二手に別れるのが、二人が共に生き残る最良にして唯一の選択肢。

あの時はそう思えた。

仮にエルフ娘が女剣士と一緒に賊を相手に戦っても、足手纏いにしかならない。

いてもいなくても同じだ。故に一緒に戦うという選択肢はない。

対して半エルフが逃げ出せば、賊の一人か二人は追って来るに違いない。

黒髪の剣士の自信が本物なら、人数が減った分、戦って生き残る目も増えた筈だ。

一方、半エルフにとっても、女剣士が大半の賊を相手にしてくれるから、後は追ってきた賊から逃げ切れば助かる事が出来る。


 だが女剣士から見れば、半エルフが自分だけ置いて逃げたように思えたかもしれない。

好きになりかけていただけに、嫌われたかも知れないのは残念だ。

だが、今は考えても仕方ないことでもある。



間違えたか。

湧きあがる不安を押し殺して半エルフはひたすらに足を動かす。

二人追って来たからと言っても、街道には五人も残っている。

女剣士は、勝てるかどうかは分からないが五人なら何とか凌げると云っていた。

自信も在るようだった。

二人を遠くに引き離しておけば、きっと宿屋までは逃げ切れるだろう。

……本当に?

分からない。

宿屋まで逃げ込めれば、助かるだろうか?

旅籠の客には、傭兵や武装したドウォーフもいた。

賊が旅籠まで乗込むとも思えないが、かといって客が女剣士を守って無法者と戦うか?

それも分からない。

面子にかけて好き勝手させないような気もするし、関り合いにならないような気もする。

賊徒なんかに勝手に振舞わせては、増長して次に自分の財産や女が狙われたら困る筈。

でも、他者の災厄なら笑って見物しそうな気もする。



 答えの出ない疑問がただひたすらと頭の中をぐるぐると廻り続ける。

息が苦しい。呼吸が乱れる。目の前が白くなってきた。

緑の草原と赤い丘陵、潅木の風景が、視界の中で悪夢の世界のように歪んで揺れている。

顔に雨が当たり続けて、呼吸が出来ない。息を吸おうと半エルフは大きく喘いだ。


 何故、こんな事になったのだろう。

賊が七人というのは多すぎる。

村に網を張って、定期的に獲物を狩っていたのだろう。

旅人が大勢、犠牲になったに違いない。

だけど、それだけの旅人や行商人が姿を消せば、噂くらい流れないか?

いや、旅人が行き倒れるなんてよくある事だ。

私たちは、何も知らずに蜘蛛の巣に飛び込んでしまった蝶なのだ。

打開案を思いつこうと必死に考える。

日が沈むまで捕まらなければ、闇夜に乗じて逃げ切れる筈だ。

落日まで後どの位、掛かる?


 初冬の大気の彼方で、西日は既に翳り始めていた。

地平線の彼方の空は茜色と紫の入り混じった美しい黄昏の極彩色が染め上げつつあったが、黄金の太陽は、なお西方山脈の波打つ稜線のかなり上で揺れていた。

夜の帳が空に舞い降りるまでには、まだ幾ばくかの時間が必要に思えた。


 丘陵の頂に差し掛かっていた時だ。

走りながら、色々と考えていた責か。エルフ娘は泥濘に足を取られそうになった。

「……ふあ!」

疲労によるものか、気が散ったのか、いずれにしても一瞬、集中力を欠いたのは事実だった。

飛び越えようとして、勢いをつけ過ぎ、足を踏み外した。

そのまま丘陵の傾斜を勢いよくごろごろと転がり落ちていく。

斜面の裾まで転がり落ちると、ふっと躰が浮かんでから地面に強く叩きつけられた。

マントから服まで泥だらけになり、呻きながらも立ち上がろうとしてもがいている。


「……逃げないと」

よろめきながらも躰を起こすと、エルフ娘の腰骨が火傷を負ったように激しく痛んだ。

冷たい雨に濡れた躰に、腰から痺れるような嫌な熱さが広がった。

よりによってベルトに挟んだ自分の棍棒で手酷く打ちつけたらしい。

涙目で立ち上がる。小雨に咥えて、涙が滲んで目の前がよく見えない。

一端止まってしまうと、それだけで躰が休息を取りたがっているのが分かった。

弱い吐き気が胸を圧迫して、大きく息を吸い、必死に乱れた呼吸を整えようとする。


 アイパッチの調子っぱずれな笑い声が近づいてきた。

逃げられない。走れない。戦わないと。

雨に濡れた迷子の子猫のように、半エルフは震えている。

棍棒を握ろうとするが、触れた途端に腰に酷い痛みが走って小さく悲鳴を上げた。

膝を折り曲げてしまい、蹲るような体勢になって呻き、喘いでいた。



 それでも無理をして引き抜いた途端に、力強い腕で手首を掴まれた。

「さあ、お嬢ちゃん。追いかけっこはおしまいだぜ」

後ろで響いた声の調子で、アイパッチがにやけているのが見ずとも分かった。

「……ひっ!」

腕が廻って、後ろから胸を抱きかかえられる。

それだけで、あっさりと棍棒を取り落としてしまった。


いやだ、奴隷は……

かつて見た奴隷市の競り台に半裸で佇む娘たちの姿が脳裏をよぎって、エルフ娘は顔を青ざめさせた。

神様。森の神様イーシス様。助けてください。これからは真剣にお祈りしますから。

子供の時分以来、何年も真剣に祈ったことのない森の精霊神に祈りを捧げつつ、必死でもがいた。

喘いで、取り落とした棍棒を必死に手を延ばすが、反対側の地面へと体へと投げつけられる。

背中が地面に当たって、息が詰まった。直ぐにアイパッチが真上から伸し掛かってきた。

「……いやだぁ!はなせ、お前なんかに!」

「へっへっへ。大人しくしな。ウサギちゃん」

腕を押さえつけながら、躰を押し付けてくる。

「んんん、いい匂いだねぇ」

風呂にも碌に入ってないのか。押し付けられたアイパッチの垢じみた不潔な顔は饐えた悪臭を放っており、間近で臭気を吸い込んだだけでエルフの娘は胃が痙攣するほどの強烈な吐き気を催した。


 アイパッチは膝で蹴ってくるエルフ娘の足の間を割ると、強引に躰を押し入ってくる。

半ば恐慌状態に陥ったエルフ娘は悲痛な叫びを上げながら、力なくもがき、圧し掛かってくる胸を拳で叩いたが、抵抗は残忍な片眼の盗賊の嗜虐心を刺激して喜ばせるだけだった。



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