船着場05
軽やかな足取りでエルフ娘が近寄ってきた。
手に抱えた布の包みからは、肉の焼けた芳ばしい香りが立ち昇っている。
「待たせたかな」
「なに。こうして待つ時間も楽しいものだったよ」
緑髪の娘はふっと笑って布と葉っぱを広げると、香草焼きが湯気を立ち昇らせた。
自分で猟をしたり罠を仕掛けられる技を持つ者を別にすれば、旅の身空で、普通の庶民が肉を口にする機会は意外と少ない。
家鴨や鶏、豚を飼っている荘園で働くか、自然豊かな森や平原などに隣接する村へ滞在した時。あとは大きな町で祭りが行われた時くらいか。
そもそも家畜を潰すのは、そうした土地でも特別なお祝いの日くらいだから、裕福な旅人でもないと肉は中々に食べられない。
小屋で休んでいた旅人の幾人かは、露骨に羨ましそうな顔を浮かべてご馳走を眺めていた。
上手く焼き加減を調節したのだろう。
しっかり炙ったにも拘らず、肉の切れ目に挟み込んだ野草や香草は殆ど焦げていない。
刻んだ香草が表面に振り掛けられて、香りと味に深みを与えている。
唾を飲み込み、大き目の肉を手に取ると齧りついた。
噛むと口腔にじわっと暖かな脂の旨味が広がる。
黒髪の娘は思わず硬直した。目を見開いて絶句し、それからゆっくりと顔を綻ばせた。
「うむ。これは美味い」
岩塩もよく効いている。
肉に挟んだ香草は仄かな苦味があったが、其れがまた口の中で味わいを深めてくれた。
振りかけた香草の方は香り高く、淡白な肉の風味をより引き出してくれる。
「ああ、美味い。久しぶりの兎。此れでお酒と黒パンでもあればね」
エルフ娘が指をしゃぶりつつ、贅沢な事を云った時。
「黒パンは此処にありますぞ」
間髪おかず、唐突に横合いから話しかけてきたのは、行商人風の見知らぬ男だった。
先ほど、羨ましそうに兎を見ていた旅人の一人だ。
やや肥満した禿頭。質素な服装には僅かに旅塵の汚れもついているが、定期的に洗濯しているのか、気持ちのいい清潔感を保っている。
驚いているエルフ娘を尻目に、大きな顔に人懐っこそうな笑みを浮かべて、大きいが穏やかな声でお世辞から入ってきた。
「美味しそうですなぁ。
その肉をほんの一切れ頂ければ、お二方に黒パンを一つ、いや二つずつ差し上げましょう」
「いいだろう」
行商人の取り出したパンを見てエルフ娘が何事か云い掛けるが、口に出すよりも早く女剣士があっさりと了承してしまった。
「おおっ、ありがたい」
掌程の大きさの黒パンを押し付けると、串焼きを手にとって、
「食べ終わったら、串は返してね?」
「分かっておりますとも」
どこかむすっとした半エルフの言葉にも愛想よく頷くと、大きく肉に齧り付いた。
女剣士がエルフを見つめた。
「何を脹れている?」
「相当にお肉食べたがっていたから、少し粘ればパンを三つずつ貰えたかも知れない」
女剣士が天井を仰いで、可笑しそうにくつくつと笑った。
「細かいことなど気にするな。これでも飲んで機嫌を直せ」
口に運んでいた革袋を渡してきた。
「あ……これ。いいの?」
ワインだった。一般に大麦や雑穀を材料とするエールよりも高価である。
「遠慮するな」
エルフ娘はワインを口に含む。甘い。そして躰が芯から暖まるように感じられた。
喉を潤おしてから、大きく甘い息を洩らした。
「へへ、えへへへ」
「何だ、御主。笑い上戸か?」
「久しぶりにまともな食事ですよ。お肉なんて半年?一年だっけ?」
「私に聞かれても困る」
「美味い。こんなに美味い串焼きは初めてですぞ」
お世辞の心算か、商人がエルフを見て絶賛する。
食べるのが好きそうな見た目だから、本気かも知れない。
「木の実も程よく焼けて噛み応えがあり、柔らかな肉の味とよく合うな」
人族の剣士も賞賛し、緑髪のエルフ娘は満更でもない様子で照れたように笑った。
「ふふ……香草も木の実も、何でもいいと言う訳ではないんだよ」
小さい口で栗鼠のようにもきゅもきゅと肉を咀嚼し、ワインで流し込んでからエルフ娘は服の袖口で口を拭った。
「兎には兎、鳥には鳥。其々に合う木の実や野草、香草があるんだ」
「ほう?」
早くも肉を食べ終わった商人が、面白そうに耳を傾けていた。
無言だが肯いてる女剣士の反応もあり、話題に退屈してないと見てエルフ娘は言葉を続けた。
早くも酔いが程よく廻ったのか、頬を上気させて得々と講釈を始める。
「例えば豚なんかはハーブとしては肉を柔らかくし、躰を暖めてくれる効果の生姜がよく合うけど、鶏などは香りの高いタイムなどが風味を深めてくれる。今振りかけてある薄緑のそれね。
兎は肉自体が淡白な味わいなので、意外と甘い果実をソースにして掛けたものも美味しいですよ」
商人が生唾を飲み込んだのか。喉を大きくごくりと鳴らした。
女剣士が指についた脂を舌で舐め取りながら、エルフを見つめた。
「ふむ、話だけでも、とても美味しそうだ。何時かは食べてみたいな」
その後は、三人で各地の街道の様子や天候、作物の出来を話題にしたり、時折、旅籠の飯の不味さについて愚痴ったりしながら食事を楽しんだ。
名前を知らない商人は、中々に話し上手で聞き上手でもあったから、不快な相手ではなかったし、エルフ娘や女剣士とも結構、気があったのか。色々と話は弾んだ。
その見窄らしい三人組は、近づくのを躊躇わせる陰気な雰囲気を醸し出していた。
先ほどから顔を寄せ合い、なにやら奇怪な響きの言葉で何事かを囁きあってる。
近くにいる者がたまさか不快な響きの相談を聞き取っても、彼らの言葉は意味不明な単語の羅列でしかなく、意味を汲み取る事は出来なかった。
「『黒蜜蜂』は『蜜』をたんまり持ってるようだな」
「だが、『蜂』は鋭そうな『針』を持ってるぞ。ジャール?」
歯擦音の多い聞き取りづらい囁き声に応えたのは、鉄の錆びたような擦れ声だった。
「飾りだろ。けけけ」
ジャールと呼ばれたアイパッチの痩せた男が、残された左目に貪欲な光を宿してにやついた。
「あの『針』が飾りかどうか試してみるか?」
「いや、いいあれ自体はいい『針』だ。高く売れるぜ」
羽振りの良さそうな『獲物』たちの様子を、小屋の隅から剣呑な眼差しで窺い続ける。
「『頂く』のかい?フィトー」
「聞くまでもないだろ?ミュー」
短い赤毛をした若い女は、精悍な顔立ちだけは中々に整っていたが、頬に残る大きな切り傷と滲み出る卑しげな雰囲気が彼女の生まれ持った容貌を損なっている。
「余ってる所から足りない所へ廻してもらうんだ。罰は当たるまいよ」
鉄を軋ませたような擦れ声のフィトーは長身だった。
北国のヴェルニアには珍しい赤銅色に焼けた肌。隆々とした二の腕は、太く逞しい。
『獲物』を見定めている五つの瞳は濁ったまま。
『兄弟』や『姉妹』だけが使う独特の言葉は、隠語や暗喩が入り混じり、本来の意味とは懸け離れた単語が多用されている為、仮に周囲の者に聞きとがめられたとしても、外国人の言葉のように意味の分からない会話でしかない。
「それにしても、いい『肉付き』をしてる。『毛』もまるで鴉のような見事な闇色だ。高く『売れる』ぜ」
独自の符丁を織り交ぜ、淡々と呟く低い擦れた声からは感情の揺れは窺えない。
近くにいる行商人などが偶々耳にしたとしても、精々家畜の品定めをしているとしか思わないだろう。
「いい体つきは当然さね。あの服見なよ。餓鬼の頃から餓えたことなんてないのさ。しししっ」
二人の獲物は肉と黒パンに舌鼓を打ちながら、優雅に皮袋からワインを楽しんでいた。
食事を楽しむその姿が、己以外の全てに憎悪を抱いた歪んだ性根の連中には、また腹立たしく思える。
「……豪勢な飯だ。ご相伴に預かりたいものだな」
「この前の荘園で『頂いた』豚は、年寄りの上に臭くて固くて喰えたものじゃなかったな」
「まともな肉なんて何ヶ月も喰ってないよ」
「残しておけよ、そうすれば少しは扱いを優しくしてやる。よぉし、よしよし」
残した肉を皮に包むのを見て、ジャールが餓えた小声で呟く。
「俺は『緑兎』の方を『貰う』ぞ。
顔は汚いが『長耳』は久しぶりだぜ。例え、それが『合いの子』でもな」
痩せたのっぽのアイパッチが興奮した様子で卑しげな笑みを浮かべてると、赤毛の女がまるで気の毒と思ってない口調で囁いた。
「にしても少し可哀想だね。いかにも初心って感じだよ」
ニヤついてるアイパッチに、フィトーが錆びた掠れ声で告げる。
「『雪』が『純白』なら高く売れる。『踏む』前に確かめて『誰も歩いた事』がなかったらもう片方で我慢しろよ」
ジャールは太い腕をした頭目の言葉に目を剥いて何か言いかけたが、仲間二人の冷たい目つきに気づくと、不満げに口元を歪めながらも不承不承頷いた。
「……分かったよ、フィトー」
苛立ちの込められたアイパッチの言葉に残った二人が頷いた。
ミューが囁いた。無情な瞳。平坦な声で、口元だけが冷たく笑っている。
「『豚』は如何する?『銅』の『餌』をたっぷり腹に『貯めて』そうだよ?」
「村人の見てる『家畜小屋』には手を出さない方がいいだろう。
まずは『蜂』と『兎』から頂く。『豚』はそれからだ」
『獲物』を品定めしながらフィトーは、硝子玉のような濁った瞳に油膜のように澱んだ欲望の光を宿らせ、厚い唇を歪めて獰猛な笑みを浮かべた。