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ドラゴンテイル 辺境行路 作者:猫弾正

序章

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夜明け

 目覚めは心地いいものではなかった。

外は薄暗い。雨音からすると小糠雨が降り注いでいるようだ。

鼻腔を奇妙な匂いが刺激して、意識が強制的に覚醒へと向かう。


 親父がだみ声を張り上げていた。

「ミヴ貨幣二枚かクルブ貨たったの一枚で、バウム親父特製の粥が喰えるぞ!!

さあ、並んだ!並んだ!」

親父の隣では、昨日の夜は見かけなかった痩せた少女が、暖炉にくべられた土鍋から手際よく粥をよそっていた。


「さあ、旦那方。バウム親父特製の粥ですぜ。舌鼓を打つ事間違いなしだ。

竜の誉れ亭に泊まっておきながら、こいつを食い損ねたら一生の悔いだよ!」

こんな古びた旅籠に、よくもまあ大層な名前をつけたものだと感心しながら、欠伸を噛み殺しつつ起き上がる。



 簡易寝台に眠った連中は、どうやら朝飯付きらしい。

横に肥えた親父が、獰猛な丸顔に似合わぬ笑顔を浮かべて愛想を振りまいている。

親父の傍らでは、下働きの少女が二十日鼠のようにちょこまかと動き回り、希望する客に粥を配っていた。



昨夜の女剣士も、金を払う事なく粥を受け取っていた。

一旦は簡易寝台の料金を払っておきながら、思い直して床に寝たのか。

だとしても不思議でもない。

朝の光の下で見れば、蚤か虱でも湧いていそうな不潔な寝台だ。

床に眠った方が幾分ましというものだろう。


 客達はいずれも顔を顰めたり、渋い表情をしながら湯気を立てる木皿の粥を不味そうに掻きこんでいた。

僅かに野菜の混じった粥は、如何見ても美味そうには見えない。



 意識せずに胃の腑が鳴った。

親父の粥は形容しがたい匂いを漂わせているが、体は食べ物と判断したようだ。


 腹も減っていたし、雨天の野外に食べ物を探しに行くのも億劫。

手持ちの保存食も減らしたくなかったので、少女にミヴと呼ばれる鉛の小銭を二枚渡して粥を頼んだ。


 茶色の粥は雑穀をとろとろになるまで煮込んだものだった。

干からびた蕪の切れ端が混じった粥は温かいものの、しかし、お世辞にも美味いとは云えないものだった。

古い雑穀が混ざっているのか、時折、やたらと固い粒が歯に当たる。

女剣士は一口食べて、食が進まない様子でハンケチーフで口を拭った。

「……まるで豚の餌だ」

腹立たしげな彼女の罵倒は、幸いにも宿屋の主人の耳には届かなかったようだ。


「口に合わないかい?剣士様」

微妙にからかいを孕んでの問いかけを、彼女は吐き捨てるように肯定した。

「こんな酷い代物をよく美味そうに食えるものだな」



 腰につけた袋から若葉を二、三枚取り出し、

「ん、これを入れてみなよ」

女剣士は胡散臭そうに、差し出された葉っぱを眺めている。


「まあ、騙されたと思ってさ。試してみなよ。

どうせそのままじゃ、残すか捨てるかするんだろう?それなら、さ」


「……ふむ」

勧めてくる半エルフの旅人が自身でも同じものを食べているのを確認してから、女剣士は香草を受け取った。

相手がゴブリンやオークなら受け取らないが、曲がりなりにもエルフだ。

不思議と嘘つきや乱暴者が少ない種族だとは知っている。

「砕いてかき混ぜてみなよ」


「……ん、驚いた」

多少、苦味があるものの、香草の濃い味が粥を引き立てるし、粥自体も随分とまろやかになっていた。

湯気を立てる程の暖かさもあって、確かに食べられる食事になっていた。

「ちょっとの工夫で豚の餌でも結構食えるようになるものだろ?」

「ふむ。礼を云うぞ」

半エルフの娘の穏やかな笑みにうなずいて、しばらくは互いに無言で粥を啜る。



 食べ終わった木皿は、走り回っている下働きの少女が回収していく。

暖炉の近くに固まっていた薄汚い男女は投げて返していた。

食器の乱暴な扱いに痩せた少女は不満そうに頬を膨らませたが、陰惨な顔つきの三人組に抗議はせず、背丈の半分くらいに積みあがった木皿の塔を器用に抱えて、宿の裏手へと消えていった。

宿の親父は下働きの少女に仕事を任せたまま、自分は椅子に座って行商の老いたゴブリンと何か会話している。



 食後は暇なので世間話に興じた。

「剣士さまは、さ。巡礼かね?」

剣士は寛いだ様子で壁に寄り掛かっている。優雅な物腰は満腹になって御満悦な猫を思わせた。

昨日は分からなかったが、マントは灰色狼ではなく僅かに黒い。恐らく、より希少な黒狼の毛皮。

仕立ての丁寧な目の細かい布地に見事な赤染めの胴衣と青い糸の刺繍が為された黄麻の上着の二枚を重ねている。

股引も毛皮や革を使った丈夫な代物で、価値を値踏みしようにも見当がつかない。

いずれにしても相当に裕福な素性なのは間違いない。

「ま、そんなところだ。御主は?」

考え過ぎかも知れないが、何一つ詮索を許さずに切り替えしてきた。

「ティレーの町までね」


西にある大きな町の名前に、女剣士からは微かに苦笑の気配が伝わってきた。


「気の毒だが、しばらく西には行けんぞ。数日前から上流で雨が降っているとかで川が増水しているからな」

剣士の言葉に思わず舌打ちしそうになる。

「……なんてこった。ついてない」

安宿とはいえ、宿賃が重なると貧しい旅人には馬鹿にならない出費だ。

天候を司る女神イースを口の中で罵りながら、街道沿いのよさげな廃屋でも探して潜り込もうかと思案を巡らせる。

「私も昨日の昼頃から此処で足止めさ……そろそろ上流の雨も上がる筈だが」

女剣士の言葉には、予想というより多分にそうあって欲しいという希望的観測が含まれているのだろう。

上がる筈というより、上がってもらわねば困ると云ってるように聞こえた。



 老いたゴブリンが、数枚の錫や鉛の小銭と引き換えに宿屋の親父に枯れ草を渡した。

受け取った草をパイプに詰めると、親父は味わうようにゆっくりと吸った。

老ゴブリンもパイプを取り出し、併せるように煙を吐き始めた。

湿った空気が扉から吹き付けて、安物のパイプ草に特有の嫌な匂いと混ざり合う。


 窓からは暗鬱な灰色の雨雲が地平線の彼方まで広がっている様子が伺えた。

小糠雨の降り止む様子は、見えなかった。



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