ソ連対日参戦・スターリンの焦燥 |
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スターリンは、ポツダム会談の5ヶ月前に、ヤルタで当時のアメリカ大統領ルーズベルトと、ある密約をしていた。それは、ドイツが降伏した3ヶ月以内に、ソビエトは日本と戦争をする。その見返りとして、日本の持っていた満州その他、極東の領土や権益を得る約束がされていた。 従って、ドイツ降伏後、スターリンの関心は極東に移った。アメリカの新大統領トルーマンにヤルタの密約を確認し、対日参戦の見通しをつける、それがポツダムに望むスターリンのねらいだった。 7月16日、スターリンはポツダムに到着。早々に極東軍司令官に電話する。「作戦の開始を早めるわけにはいかないか」「軍の集結や装備の輸送がらみで無理です」。スターリンは、ドイツとの戦争が終わった直後から、対日戦のため、極東に着々と兵士を送り込んでいた。 あくる17日正午、スターリンはアメリカ代表団の宿舎をたずね、トルーマンとはじめて面会する。この時スターリンは、8月中旬までにソビエトが対日参戦することを伝える。あくる18日、返礼として、ソビエトの代表団宿舎をたずねてきたトルーマンに、日本から送られた極秘の親書の写しを手渡したのである。それは、日本が、ソビエトを通じて終戦を模索していることを示す、天皇からの書簡だった。そこには、天皇が、「これ以上の流血を避け、速やかな平和の回復を願っていること、しかし、アメリカ、イギリスが、無条件降伏にこだわっている限り、戦争の継続をせざるを得ないこと」などが書かれていた。 日本とソビエトは、当時、日ソ中立条約を結んでおり、条約は、翌年の4月まで有効だった。日本政府は、ソビエトの仲介を通じて、連合国との和平工作を進めようとしていたのである。 極秘情報を伝えた上でスターリンは、トルーマンにこう話している。「日本に対しては、提案の意図がわからないとコメントした上で、ごく一般的なはっきりしない回答を与えて、警戒心を鈍らせるのが良いと思うが、いかがでしょうか」と。 |
アメリカ駐在大使でポツダム会談に随行していたグロムイコは、その晩、スターリンが宿舎で話したことを、こう記している。「彼等は、初めから我々のことを頭に入れてなかった。ヤルタ会談のとき、原爆が実験段階にあることを、言ってくれてもよかった。彼等は、原爆を独占することで、自分たちの計画を押し付けようとしている。だが、そうはさせない」と。 この頃、モスクワの日本大使館は、東京からの指示に従い、和平工作を続けていた。7月25日、天皇の側近、近衛文麿の特使派遣について、再度、受け入れを要請している。モスクワの佐藤駐在大使は、その成否が日本の運命を決めると考えていた。しかし、ソビエト側は、この要請に何の回答もしなかった。 その頃、ポツダムでは、極東におけるそれぞれの国の、海軍や空軍の行動領域をどう設定するかが話し合われていた。その内容が、アメリカの外交記録に残っている。その時設定された軍事境界線は、朝鮮半島から日本海をとおり、宗谷海峡まで、線の北がソビエト、南がアメリカ。さらに境界線は、ベーリング海にも引かれている。しかし、千島列島のあるオホーツク海に関しては、米ソ共同の行動領域とする。この時ソビエトは、千島列島に進攻する際の根拠を、手に入れたのである。 その一方でソビエトは、日本との中立条約を破棄して参戦する大義名分を見つけようとしていた。26日の夜、スターリンは、思いがけない知らせを受ける。それは、アメリカがソビエトに事前に相談もなく発した、対日降伏勧告「ポツダム宣言」だった。参加しているのは、アメリカ、中国、イギリス。会議に参加していない中国が入っているのに、ソビエトには打診もなかった。しかも、スターリンがこの案を知ったのは、記者団に内容が知らされたあとのことだった。 外務大臣モロトフは驚き、宣言の公表を2~3日遅らせることができないかと、電話で打診する。その一方、スターリンとモロトフは、アメリカのポツダム宣言を基に、ソビエトを加えた独自の宣言案を作り始める。この時作られた草案が、今回、ロシア外務省の資料館で発見された。しかし、ソビエト版ポツダム宣言は、アメリカが宣言を発表したため、公にはされなかった。結局ソビエトは、対日参戦要請を受けることができず、ヤルタ密約の確認もできないまま、ポツダム会談を終えたのだった。 |
しかし、8月6日、アメリカによって、広島に原爆が投下される。この日、8月6日のスターリンの記録がすっぽり抜けている。広島に原爆が投下された今、日本は降伏するのではないかとの思いが、スターリンを悩ましていたに違いない。 8月7日、スターリンのもとに、思わぬ知らせが舞い込んできた。日本の佐藤大使が、モロトフに面会を申し込んできたのである。日本は、原爆を投下された後も、ソビエトの調停に希望をつなぎ、まだ降伏の意思のないことが確認された。ここで、スターリンは、対日参戦の指令書に署名する。8月11日に予定していた作戦開始を、9日に変更すると記されていた。 スターリンには、更なるハードルがあった。中国との交渉である。実は、ヤルタの密約に際し、アメリカは、ソビエトが参戦する前に、中国との合意を得るようにと、注文をつけていた。ソビエトが、参戦の見返りとして手に入れる権益の中には、外モンゴルの独立や、満州の鉄道、大連や旅順の港の租借など、中国の主権にかかわるものが含まれていた。会見記録によれば、権益の内容をめぐって、モスクワにきていた中国の宋首相は、スターリンに一歩も譲らず交渉は難航する。 スターリン「我々は、一刻も早く、港がほしい。大連を軍港として、30年は租借したい。日本は降伏するかもしれないが、また、すぐ復興してくるからな」。 宋「満州の主権は、中国に属するのだから、大連は、あくまで中国が管理する。そして、軍港ではなく、自由港としたい」。中国が、ソビエトに対し、あくまで強気の姿勢を崩さない背景には、アメリカの圧力があった。トルーマン政権の中心人物バーンズ国務長官は、ソビエトの要求には譲らないようにと、あらかじめ宋に釘をさしていたのである。 この時、対日参戦は、あと2日にせまっていた。 |
「日本は、連合国によるポツダム宣言を拒否した。それゆえ、日本がソビエトに求めていた和平調停は、根拠を失った。また、連合国は、ソビエト政府に対し、日本に対する戦争に参加するように提案した。ソビエト政府は、連合国に対する義務に従い、この提案を受け入れてポツダム宣言に参加する」と。 佐藤大使は「私は、この3年間、日ソ中立条約を厳守し、日ソ間の平和を維持するために、懸命の努力を払ってきました。今、ソビエト政府の宣言を聞いて、この上ない遺憾の意をあらわさざるを得ません」。この時、ソビエトは、ソビエトを頼りに和平条約を求めてきた日本を、ついに突き放した。ポツダム宣言に一方的に加入することで、日ソの中立条約を破棄して、参戦することを正当化したのである。鉄の男スターリンが、土壇場で見せたしたたかさだった。 佐藤大使とモロトフ会談から1時間後、8月9日未明、ソビエト極東軍は、国境を越え万週の日本軍への攻撃を開始する。その10時間後、第2の原爆が長崎に投下される。ソビエト参戦と2発の原爆、日本政府はついに降伏に傾く。 8月14日、日本はポツダム宣言を受諾、これを受けて、アメリカは停戦命令を出す。しかし、ソビエトは、その後も攻撃の手を緩めず、南樺太、千島での進攻を開始する。この時点では、ヤルタの密約で約束された領土は、まだソビエトの支配下になかったからである。スターリンは、さらにトルーマンに要求を突きつける。「北海道の北半分にソビエト軍が入り、日本軍の降伏を受けることにしたい」と。この時、釧路と留萌を結ぶ線による、北海道の分割が提案されていた。スターリンは、戦後の日本占領に加わろうとしていたのである。しかし、トルーマンは、「日本の本土はすべてアメリカの占領下に置く」と、このスターリンの要求を拒否する。 8月22日、ソビエトは、北海道占領計画を撤回、その一方で、部隊を国後、択捉、歯舞、色丹など北方領土へ転戦させ、全千島を占領する。 ソビエトは、その後、日本兵のシベリアへの移送を開始する。これは、ポツダム宣言第9条「兵士は、速やかに祖国に帰還させる」という条項に、明らかに違反する行為だった。抑留された日本兵は、60万人におよび、寒の地での厳しい労働の末、6万人以上が死亡したと言われる。 9月2日、日本は、降伏文書に正式に調印する。この同じ日、スターリンは、戦勝演説を行っている。「1904年のロシアの敗北は、国民の心につらい思い出を残した。わが国民は、日本が打ち破られて汚名を注ぐ日が来ることを、信じてきた。我々は、この日が来るのを40年間待った。ついにその日がきた。今日、日本は、降伏文書に署名した」と。 ポツダム宣言から除外され、その後、参戦にこぎつけるまで、焦燥の日々を過ごしたスターリン、最後は、力で極東の領土を手中に収めたのである。 トルーマンとスターリン、この2人の不信に端を発した米ソの対立は、世界を本格的冷戦の時代に突入させていく。 終戦直後に、ソビエトが占領した北方領土、日本が、固有の領土と主張する国後、択捉、歯舞、色丹の島々は、戦後度重なる交渉を重ねた今も占領され、住民は、ふるさとを奪われたままである。この問題のために、日ソ間には、未だに平和条約も結ばれていない。 |
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