近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した (2)

近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した  (2)
=最新更新版=   
  
  

前田 進  jcfkp201@ybb.ne.jp

筆者による歴史的評価はこの頁後半を参照。

  以下に地家康雅(じけやすまさ)氏から送られて来たこの件に関する05年最新更新版を紹介する:

大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について (つづき) 

地家康雅

(2005バージョンアップ 2005年6月26日作成)

                  (2)
急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。
*孝明天皇毒殺説が定説
南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍…。斜め下から上に向かって突き上げられた格好。その四0歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。
*陸仁追放すりかえの伝承 
大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。
*時期 大室寅之祐上京は、慶応3年3月から4月にかけて。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。
*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。
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大室家の人々の篤くべき証言 (内容が少々重複します) 
大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年94才、故あってずっと大室家で暮らしてきた方である。この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれるのだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解説する。
  実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐であって(地家家の壬申戸籍では寅吉)(大室家の壬申戸籍には寅吉の記載がない)、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅吉(寅之祐)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため3学年年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤俊輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌3年 3月下旬、寅之祐が「玉」として上洛した時、庄吉は満一四才であった。
  これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらをきり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助けよう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。
一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐が女性に化けて、芸者風に 装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷の大室家に帰ってきた。その中に後に東京明治天皇(大室寅之祐)の皇后になったはずの(奇兵隊)一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりであったという。(だから奇兵隊一条勝子とこのころ京都の准后御殿に避難したほんものの一条勝子とは別人) この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があったのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのため異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多くは二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。
一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々しく行列を組んで麻郷にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登る道案内をさせた。 
◆大室庄吉の子供たち
長男 儀作(明治19年11月23日生)
長女 モト(明治 4年 1月 8日生)次女 タカ(明治 8年11月24日生)
三女 ツネ(明治11年11月1日生)四女 ヨネ(明治14年10月24日生)
五女 ツユ(明治17年6月28日生)次男 音吉(明治22年 9月26日生)
一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王(一九三三年生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。
その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄(当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ-と見ていた宮様は、 突然、「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。
近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児(貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」と平身低頭した。なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳にはいかん」という結論になって、この話を断わることにした。だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のようなつらい思い出があったのである。
  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になっている。それも単なる戦死ではなくて、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。明治天皇=大室寅之祐説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限ればはでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。
鹿島本の引用要約
・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ
・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎→三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)→ 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」 → etc...
・明治天皇の変身ぶりについての謎→中山忠能日記→蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)→ etc...
・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)→長島銀蔵/「皇統正史」・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后? →原敬/「原敬日記」個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。
  1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎(226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)
その他情報
俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

◆長州大室家系譜?
Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。
A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの?(初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)
  やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(OOはここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)
  この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ)とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。
  先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。
私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)。
  追加((年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。)書きたいのは山々なんですが、私には読めません。
系譜の最後に、「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。
他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  
その他1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな
状況だった。
大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)
各藩の幕末の玉
尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。
水戸藩の「玉」は有栖川宮。
長州藩の「玉」は山階宮。
島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。
紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。
徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝
高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も麻郷に有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が今も残っている。
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調査結果
  寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐 近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。以上  
 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)
 光格天皇の息子孝明天皇か?慶子が流産した明治天皇1 替え玉京都明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )
三笠宮寛仁 桂宮は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)
(大室は南朝)
以上情報を整理すると松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。(大室ヒサ子さんは麻郷の大室家に高松宮が2回きたと証言)。橋本の家の系図誰か教えて 
  大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。既に卯太郎には本妻真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり)龍伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。
  話を整理してみる。(ややこしいので)
1、大室明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。
2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父大室明治天皇、母松下豊子。
(だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で「やすこ」という名前で生活していたのである。だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)山本静山尼の息子が千宗室。
3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。九条節子皇后と東久邇稔彦の間の子が三笠宮崇仁。で三笠宮崇仁の隠し子が三笠宮晴子さん。今現在も京都に在住。三笠宮崇仁の双子の妹は糸子とよばれていた。(京都で)
4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。
  高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮崇仁と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮崇仁がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことで、ようは血統が違うから。
  大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき、明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。
>>明治10年頃の宮中の勢力分布は岩倉派と大隈派とで熾烈な争いがあった。
  中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治を二分していたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎(実は岩倉具視の息子が堀川辰吉郎)は宮廷を追われてしまった。そう、堀川家とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。
>>だけど千種と千草が二人いたとはすぐには信じられないのであるが。
  このへんが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。
だから岩倉と堀川御所を追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。
一部紹介します2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復
活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月出産予定の雅子様懐妊、流産の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子とし、こっそり養子にしようとして失敗した…等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有って衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。
>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月出産予定の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ・スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表)と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!!
  橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。
>>大体、2000年8月の出産予定、御懐妊騒動って何だ?
>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)
◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?
熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。
  政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍)2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないからとも言える。
  さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽野綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ17年しか経っていないので権力はそれ程無い。浩宮も権力はそれ程持ってない。議員歴42年の橋龍こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。
 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子か?)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。
  三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室浩宮(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女(雅子様の妹か?)に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。
  で、浩宮の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。(このとき堤教授が解任された)北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。
  一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠しこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。浩宮は、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。
  佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝浩宮支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、橋本派以外女帝改正には消極的であると言う。2~3年後か?に最終決着が付く筈だ。
年次   事績
  天保8(1837)年9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。弘化4(1847)年9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。嘉永3(1850)年1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。
嘉永6(1853)年6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。
  安政5(1858)年 この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。万延元(1860)年3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)
  文久2(1862)年7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。
  文久3(1863)年4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放元治元(1864)年1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。
  慶応元(1865)年5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月頃、記念写真を全員で撮る?) 。
  慶応2(1866)年1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島曻説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。
  10月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。
  慶応3(1867)年1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助(寅之祐)を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』)。10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬と中岡慎太郎が、伊藤、山縣、井上馨等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。
  その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が寅之祐と名をかえ芸者連れて田布施町の麻郷に帰ってくる。通史にある王政復古の大号令(12月9日)とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)
慶応4(1868)年明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4
  千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕府軍の方にも錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。
  1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠
に御強壮(『木戸日記』)
  (慶応4(1868)年)大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデター計画したが失敗。

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[論評]     前田 進

 上に紹介した新しい真相暴露の情報からして、天皇家の血統は北朝系も南朝系も途絶えていることが分る。北朝系の実体は足利系である。
 さらに、薩長は北朝系(公式発表)の孝明天皇を殺害したあと、南朝系と判断したものの実は海賊某の孫だった、勇壮・頑強で左利き、疱瘡でアバタ面、達筆だった大室寅之祐を、孝明天皇の殺害された(別の説:比叡山へ僧として追放された)息子で、女官らとの遊びに余念の無いひ弱で右利き、種痘で顔にあばたがなく字が下手だった「攘夷・佐幕=親徳川」の息子睦仁とすり替えた。そしてその大室寅之祐を明治天皇にでっち上げて絶対主義的天皇制の権力に就けた。だから現在の天皇家は南朝系の天皇家とも血統がなく、虚構の天皇家である。-まだ究明が続行されなければならないが、ひとまずそうした結論になる。
明治維新は、英国の経験に従って「大政奉還・薩長同盟」の戦略論者だったロスチャイルド支配下の英国フリーメーソン(下から3番目の第3階位)の商人(大手商社ジャーディン・マジソン社代表)、トーマス・グラバーが、英国大使パークスとの協働で坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、小松帯刀、五代才助らを指導、支援して実現した。
 グラバーの進言でパークスが指導して勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城が実現した。
 坂本龍馬の「船中八策」と「新政府綱領八策」、それに従った明治政府の「5ヶ条の誓文」はグラバーの指導の成果だった。明治政府は国辱を認めず、面子を重んじて控えめに、グラバーに勲二等旭日重光章を授与した。
 明治維新の5年前1863年にフリーメーソンのマークを冠して新築された長崎のグラバー邸には、彼ら明治維新の志士らの名を挙げて、グラバーが彼らを庇護して明治政府の実現に力を添えた、と明記してあり、邸内屋根裏の隠し部屋がやっと現代の1987年に発見された。(参考文献:鬼塚五十一「世紀末666の大陰謀」廣済堂1992)
  こうして、フリーメーソンの指導と援助で明治の絶対主義天皇制が成立した。
徳川慶喜は暗中模索状態で、王政復古を目指す薩長との妥協に走って、重職勝海舟のトロイの木馬的役割を許した。慶喜らは「大政奉還・慶喜首相」構想を提唱したが、英国フリーメーソンの指導と英軍艦の利用、銃砲支援を受けた薩長連合軍に力及ばず敗北した。慶喜はフランス・フリーメーソンの後押しで徐々に天皇制廃止・共和制樹立に目覚めたようで、維新後には、天皇を絶対君主とする明治憲法に対抗して共和制憲法草案を作成したが、後の祭りだった。
 その結果朝鮮植民地化、日本が宣戦布告なき卑劣な奇襲攻撃で始めた日清、日露戦争の勝利と、自由民権運動の弾圧、人民の搾取・収奪と暴虐支配で強行的な資本蓄積を実現して日本帝国主義が成立したが、日帝はやがて米英帝国主義と対立しながら中国侵略と太平洋戦争へと暴走して壊滅的敗北を喫した。
  太平洋戦争では「鬼畜米英撃滅!」が主要スローガンだったが、戦後は掌を翻すように、長期政権だった吉田茂が「日本はアメリカの妾だ」と言明して米国フリーメーソンに忠誠を誓った。戦前は日英同盟だったが、戦後は米日主従同盟になった。
  小泉もその路線を継続発展させて、米国フリーメーソンの代理人ブッシュらキリスト教原理主義のカルトでネオファシスト一派の「ネオコン」のグローバルな軍事戦略「先制核ハルマゲドン」* に日本を組み込んで、平和憲法改悪、米侵略戦争への加担路線で、売国・亡国の途へ進んでいる。
*http://tanakanews.com/e0721secondcoming.htm
  ブッシュら米国の日本乗っ取りを目指す「年次改革要望書」に従って、345兆円の郵貯・簡保の国民資金を日本長期信用銀行(現新生銀行)と同様に米金融資本に乗っ取らせる郵政改悪で、小泉はフリーメーソンへの忠実を実証した。これは、吉田、岸以上の祖国への巨大な裏切りになった。
  だから先般の総選挙で日本人の多数が自民・公明に衆議院の2/3以上の多数を与えたのは、愚昧な自殺行為だった。自民党は、公明党の小泉靖国参拝反対を憲法改悪の障害と見て、民主党との大連立目標を公表して、執拗に亡国路線を推進中だ。
  日本の支配勢力が今日、フリーメーソンの世界的な地球破壊・人類破滅の邪悪な犯罪路線に従っていることは、本質上明治維新以来変っていない。その抜本的一新が日本の活路の一つとなる。

初代天皇は亡国ユダヤ難民の侵略勢力リーダーだった
 12部族連合の古代イスラエルはBC928年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。そのあと、それぞれBC722年とBC586年にアッシリアと新バビロニア王国に攻められて滅亡した。そのスファラディー系ユダヤ12部族の第3部族第3支族の難民は、流浪の末2千数百年前に鹿児島南端大隈半島の大根占近くに上陸して日本を軍事侵略して、日向に本営を設けて北上、さらに東進して長髄彦指導下の五畿七道57ヵ国から成る古代日本国家「耶馬壹国」の大部分を占領支配した。
 その過程で天皇家の初代リーダーは、奈良の橿原で所謂大和政権を樹立した、このユダヤ人日本侵略勢力の族長で領袖だった。
  日本人は、侵略者を大王[おうきみ]、7世紀後半からは「天皇」の威圧的尊称で逆に崇敬させられて、支配され続けてきた。そうした国辱感と敵対意識が次第に薄くなった8世紀後半にやっと、占領支配者らは初代侵略軍リーダーを「神武天皇」と呼称した。彼らは侵略開始以来千数百年後の源頼朝時代にやっと、日本人が祖国防衛戦争を子々孫々代々続けた東北地方を征服、日本中を統一軍事支配できた。会津など東北地方の人民は、明治維新と2度抗戦して敗北したが、抵抗闘争の精神は脈々と受け継がれて生きている。
官製皇国史観は、日本侵略を「天孫降臨」神話のでっち上げで隠蔽した。「作る会」の歴史教科書も、その点でも売国的なものである。その点で実際上曲学阿権に陥った歴史学会と、戦前からの共産党や左翼各派も、侵略を架空神話説で実際上隠蔽してきた。それらの歴史観と歴史書は抜本的に訂正と書き直しが必要である。  
天皇家の血統はすでに途絶えているが、日本人は天皇制廃止によって初めて2千数百年の屈辱的な国辱から精神的・政治的に解放される。
参照:http://www.yu.to/tatsmaki/index0.html
  
強調する。東北日本人、とくに明治維新での会津藩の2度目の英雄的な抵抗戦争、戊辰戦争、北海道の函館五稜郭での戦いと玉砕などは、世界支配を目指したフリーメーソンの手先たる長州・薩摩の官軍による侵略に対する日本人民の輝かしい不滅の祖国防衛戦争だった。新撰組の闘いも、本人らには自覚と認識がなかったが、改めて高く再評価する必要がある。
 戦前は世界支配の総本山である英国フリーメーソンとの裕仁の日英同盟、第2次大戦後は、米国フリーメーソンの日本占領と属国支配が続いている。
 第2次大戦ではカトリック信者でヨゼフと名乗っていた吉田茂が、対米英開戦を決定した所謂「御前会議」の内容と決定を細大漏らさず米フリーメーソンの在京代表-米国大使に通報していた日本人最高機密のスパイ名「ヨハンセン」だった。裕仁は、吉田にそれを指示した売国容疑が濃厚だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上下:成甲書房、下pp402~403)。裕仁が戦後戦犯訴追をトルーマン米大統領の命令で免れ、吉田茂がマッカーサーのひいきで首相になったのは、それゆえだった疑いがある。
          
宇宙管理界の1981年決定で天皇家は民間人化する運命にある。
皇室典範会議の05.11.24の報告書が「女性・女系天皇容認、第1子優先」と発表したのは、それへの大きな歩みにもなりうる。しかし同報告の背景には、ブッシュとブレアらを代理人とし、小泉を通ずる米英のフリーメーソンの指導があるだろう。女性・女系天皇の場合、英国などEU諸国王室から婿取りさせて天皇家を乗っ取るメーソンの計画もありうる。
  地家やすまさ氏の証言によれば、サッポロビール常務の橋本卯太郎と、前記海賊の孫大室寅之祐=明治天皇の弟庄吉の娘で卯太郎家へ女中に入った大室ヨネとの間に出来た息子だった、橋本龍伍(吉田内閣閣僚になった)の長男が橋本龍太郎元首相で、彼の第二夫人の娘和子の娘が、皇太子浩宮と雅子の内密の養子にされた天皇位継承順位2位の愛子である。
  英国的な女王制にせよ、小泉がすでに事実上実証したアメリカ的な大統領制にせよ、いずれもフリーメーソンの金権支配体制である。そうした金権奴隷支配体制を廃絶する唯一の二者択一は、宇宙・地球管理界の指導下でのあらゆる生活分野での無償奉仕の社会への移行である。
 天皇は、第二次大戦後今日に至るまで続いている反動と革新の激しい対立の結果、実際には国民統合の象徴ではない。現行憲法第1条も自民党改憲案第1条も虚偽、虚構である。地家やすまさ氏の証言によれば、昭和天皇裕仁は大室寅之祐の息子、大正天皇は庶民のリベラリスト大隈重信の息子だった。南朝とも北朝とも関係ない部落民出身で長州によって明治天皇とすり替えられた大室寅之祐の息子だった昭和天皇は、日本最大の超金融独占資本家の寄生的な変種だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」成甲書房06.7.20,上pp207~224)。
もう1つの情報もある:
http://alternativereport.seesaa.net/article/44522478.html

 今の天皇家は全員カトリック信者で、心はアメリカ人だと米国では見られている。
 これらの現実を直視して、そこから出発しなければならない。
日本人が目指すべき途は、世界最初のエコロジスト安藤昌益が提起したように、縄文時代の原始共同体を螺旋状に上昇発展させて、フリーメーソンの世界支配の最後の砦-あらゆる悪事の社会・経済的土台たる貨幣制度を廃止して、宇宙の掟に従った地球、人間、動植物、人間同士の共生を可能にする万事無償奉仕の21世紀新人類社会へグローバルに移行する途である。

 まず自民党改憲案をまかり通してはならない。そして天皇制廃止を目指し、「人の上に人を創らず、人の下に人を創らず」の、真の万民平等、真の自由をもたらす万事無償奉仕の21世紀新地球社会の創造を目指すべきである。

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