この世界に暴力が存在するかぎり、自由は暴力によってしか生まれない。
One if by land, and two if by sea
1775年4月18日の夜、Dr. Warrenが送り出した使者のシグナルがアメリカの自由社会を生みだすことになるが、この北米の抑圧者イギリスの正規軍と戦ったのは、手に手に武器をとった一般市民だった。
あるいは1789年5月5日に開かれた三部会の「議論」に失望したフランス市民の絶望がたどりついた結論は、2万人の正規兵に対して廃兵院を襲って32000挺のマスケット銃と20門の大砲を奪取することだった。
アジアに目を移してもよい。
1980年、長い間の臨戦体制に窒息した光州の大韓民国市民は自由を求めて起ち上がって全斗煥の韓国空挺部隊の一斉射撃に倒れるが、ユン・サンウォンを先頭に武器庫を襲って市街戦を展開する。
この光州事件が、いまの韓国の、アメリカの属国として最前線国家に留まって欲しいというアメリカ人たちの虫のいい要求に抗って、韓国のひとびとが自由を希求する原動力になっているのは言うまでもない。
階級社会がそのまま保存されたことを手がかりに見ていけば他国民にも理解しやすいとおもわれるが、市民によるクーデター(←革命とは異なる権力遷移)とでもいうべき奇妙な「革命」をなしとげたイギリス人を除いて、世界中の市民が自由を手にするために武器をとってたちあがって圧政者を倒してきのは周知の事実であるとおもいます。
第1次湾岸戦争に勝利したあと、ジョージ・W・ブッシュは「イラクは日本方式によって、我々の最も成功した占領政策である日本と同様に自由社会として発展するだろう」と高らかに、誇らしげに宣言した。
日本方式、というのは、つまり、自由を知らない国の国民に軍隊のちからで自由を教えてやる、ということです。
少し詳しくいえば、この「日本方式」という言葉には具体的には「ホワイトハウスは積極的に関与しない」という意味が含まれていて、政治の世界では、日本国内では、あくまで「軍隊」が占領政策として自由社会を教導する。
最近になってホワイトハウスがなにを言ったって在日米軍が従う様子もないのを見てびっくりしている人たちがいて、日米地位協定がクローズアップされているが、
「安保条約第6条に基づく日米間で締結された地位協定」というのは、字面ではたしかにそうだけれども、現実の運用では、米軍に米政府が口をだせない仕組みで、米軍最高司令官の大統領個人以外は、誰にも口をだせない仕組みが出来ている。
日本が、いわばおざなりな自由社会になってしまって、自由社会としてはまったく機能していないのは、ぶっくらこくほど低い投票率と、その投票の、選挙以外の方法(例:街頭デモ)は違法行為だと嘯く人間が多いのを見れば一目瞭然で、原因は一義的には日本人がもともと個人の自由よりも秩序を、個性の発現よりも集団としての斉一性を重んじる国民であることにとっているが、次におおきな理由は、アメリカの初めの目論見では将来においても日本を完全な独立国と認めるつもりはまったくなくて、周恩来とヘンリ・キッシンジャーの秘密会談で典型的に語られているとおり、一個の、アジア全体の共産主義勢力への威圧と日本人の好戦性への重しを兼ねた一石二鳥の巨大基地として、アメリカからいちいち兵器の部品や軍隊の食料を輸送するのは手間もコストもおおきいので、基地である日本自体に軽工業と農業を興してまかなわせようと考えた「日本基地化計画」にある。
見た目だけ辻褄があえばよかったので、日本人がほんとに自由な国民になるかどうかはどうでもよかった。
当時の軍人が述べているように「殺されずにすんだだけ、ありがたいと思え」ということでした。
文字通り、砂漠のまんなかで、そこだけ緑に包まれている「グリーンゾーン」に陣取ったバグダードのCPA(連合国暫定当局)は、アメリカ自慢の「日本方式」によってイラクを自由社会に変えようとして無惨に失敗する。
時間をかけてイラク人たちを現実に自由社会に導こうとしたジェイ・ガーナーは「日本を見ろ、一朝で全体主義者が自由主義に鞍替えしたではないか」というブッシュアドミニストレーションに押し切られて、クビになって、軍人としては優秀だったが政治家としてはどうにもならないくらい洞察を欠いていたダグラス・マッカサーの更にマヌケ版とでもいうべきポール・ブレマーがあとを襲います。
イラク人は、いうまでもなく、世界最古の文明を築いた民の末裔として高い誇りを持っていて、まるで豚に餌を投げ与えるようなアメリカ人たちの自由の投げ与えかたに激昂して、まったくコントロールが利かなくなる。
そんなものは、おまえたちに都合がいい自由であって、おれたちの自由ではない、という当然の理屈に従って、いちどはアメリカ万歳で沸き返ったイラク人たちは、あっというまにアメリカの敵になってしまう。
なぜ、アメリカ人ご自慢の「日本方式」は、うまくいかなかったのか。
そう考えていて、すぐにおもいつくのは、「日本方式」で、日本が自由社会になったって、ほんとうなの?という疑問であるとおもう。
前にも書いたが、むかしガールフレンドだった米軍将校のひとは、ヒマが出来ると、どこにいてもすぐに飛んできてくれた。
一緒に横須賀基地で映画を観て帰りにポパイでフライドチキンを食べるとか、多摩のリクリエーションセンターで、旧日本陸軍弾薬庫が点在する静まり返った深夜の森を散歩するのは楽しかったが、ところが、この人は成田からではなくて例えば調布からやってくる。
パスポートもなにも日本の官憲に見せないで入国するので、なるほど日本は国全体がアメリカの基地なのだと納得したものだった。
その頃はちょうど、目が慣れて、日本の奇妙な点について気が付きだしたころでもあって、日本では「非暴力絶対視」が信仰になっていて、だんだん調べてみると、どうやらこの信仰が、国ごと核爆弾といいたくなるような日本というチョー危ない、攻撃性に満ちた好戦的国家の牙を抜き去るためにアメリカ占領軍によって布教されたことがわかってきました。
「マハトマ」ガンジーはインド知識人たちには極めて評判の悪い国父で、無理矢理ひとことで言えば「必要悪」とされている人であるように見えます。
インド知識人たちの集会に顔をだしてみると、そこでは、ガンジーを手放しで称賛する人にはまずお目にかかれなくて、条件がふたつもみっつもついて、そこでようやく、「あれほどの欠点に満ちた人間だったが、あの時点では仕方がない必要悪だったろう」という人がいる程度で、ひどい人になると、いまのインドの未来への期待がまったく持てない政治的大混乱のおおもとはガンジーにある、とまで言う。
先々月にArundhati RoyがNZにやってきたときも、ガンジーが国父であったことを現在の不幸の根源であると述べて「自分達には将来があるだろうか」と泣きだしてしまう若い女の人までいて、インド知識人たちにとっては、ガンジーの辛抱強い非暴力運動によって達成されたことになっているインドの独立も、ちょっと香港人たちがイギリスの領土返還に対してもっているセンティメントに似て、Arundhati Royのいう「Britain’s final, parting kick to us」、パキスタンとインドの分離独立も含めて、暴力革命によった場合よりも、結局、インド人自体の死亡者は多かったではないか、と認識されている。
またあるいは、slackスペースで、ふらりと入ってきたjamesというひとが、
と述べている。
と、ここまで書いてきたら、悪い癖で飽きてきてしまったので、残りは「2」にまわそうとおもいます。
2が、あれば、だけど