夢を編む者
私、
橘ありすは少しだけ憂鬱でした。だって、イチゴの季節が過ぎてゆくから。
五月五日、日曜日、事務所前。
とても長かった大型連休も、もうすぐ終わります。アイドル少女・橘ありすが、小学生アイドル・橘ありすへと回帰するのです。……どういう意味ですか、私。
頭上のスッキリと晴れた青空には、楽しげに日差しを振りまく太陽が浮かんでいます。でも、彼が上機嫌になるほど私のイチゴは力尽きます。街でイチゴを見かける機会は減りましたし、イチゴフェアやイチゴビュッフェもほとんど終了してしまいました。連休に気を取られている間に、彼は私の幸せを奪ってゆきます。止める術はありません。いまいましいです……。
視線を下ろせば、事務所前の生け垣の前にあるプランターたちが目に入りました。そこに植えられた色とりどりのパンジーたちも、なんだか元気がありません。彼女たちにとってもこの太陽は、少し暑すぎるのかもしれません。
でも、過ごしやすい季節にはなります。それに、お仕事だって増えますし、悪いばかりではないはずです。きっとこれから、良いことも起きるはずです。
今日はレッスンがある、とだけ聞いてます。トレーニングウェアに着替えて、レッスンルームにやって来ました。
「おはようございま──あれ?」
そこにはトレーナーさんではなく、プロデューサーさんだけが居ました。他には誰も居ません。彼は壁いっぱいの鏡を独り占めしながら、そこに映る自身の顔を覗き込んでいました。
私はそんな呑気な彼に近付いて声をかけました。
「プロデューサーさん?」
「ん? おはようありす、今日もいい天気だな! 昼飯は旨かったか!?」
「き、急に大声で叫ばないでください!」
「でも、声を出すと元気になるよな。パーフェクト!」
相変わらず太陽よりも騒がしい人です。彼は良い人ですけど、時々元気過ぎます。
「ところで、今日は私以外に誰とレッスンをするのですか? それに、トレーナーさんは今どちらに?」
「あー。それも含めて、今日はいくつか報告がある! 順番に説明するぞ」
彼は私に向かって、誇らしげにVサインをしました。
なぜVサインなのでしょうか? よほど大きな報告があるのでしょうか? それとも、報告が二つあるという意味でしょうか? まだ分かりませんし、この人のことなので少し不安です。
私はあえて冷たい顔をして、彼に続きを促しました。
「まず第一! 七月中旬に開催するライブに、ありすも出演することが決定した! おめでとう!」
「あれ? 私、そんなオーディションなんて受けてましたか?」
「いや、これはうちの事務所が主催するライブの話だ。詳細は追々だが、都内のとある国立公園で開催する予定だ。オッケー?」
彼は格好つけながら親指を立てました。
事務所主催の七月中旬のライブ。楽しみですね。ただ、その程度でははしゃぎません。私は大人ですから。
「なんかリアクション薄いな。やっぱ、さっき大声出したのを怒ってるのか?」
「それはもう良いですから。それより、次の報告は?」
彼は元気よく「それだ!」と叫びながら、私を指差しました。
「次に第二! 今の所、ありすには何曲か歌ってもらう予定だ。で、その中の一曲ほどを、とある新人とのデュエットで歌ってもらうぞ!」
「し、新人さんとですか?」
「おう、新人アイドルちゃんだ! 最近スカウトされた子で、今日からはお前との合同レッスンも始まる! ……どうか、あいつと仲良くしてやってくれ」
これが、彼のVサインの理由だったようです。
確かに、少し驚きました。まだ顔も名前も知らない相手なのに、先にデュエットが決まっていたんですから。
その新人さんは一体どのような方でしょうか? 最近スカウトされて、数ヶ月後のライブ出演が既に決まっているほどです。それならきっと、凄い才能を持つ方なはずです。既に音楽関係で受賞歴があるとか? 逆に、ボーカルを鍛えるだけで十分なほどの、スポーツ特待生さんだったり?
私の期待は少しずつ膨らみますが、プロデューサーさんとの会話は膨らみません。
「で、ご説明の続きは?」
彼は首を傾げながら「ん?」とだけ言いました。
「……はあ。その新人さんの詳細は? まず、お名前は?」
「ユメミリアムだ」
「梅ミディアム?」
「ゆーめーみー、りーあーむー」
「ゆめみりあむ……」
「夢を見る、ひらがなでりあむ。で、
夢見りあむちゃんだ。よろしく頼むぞ!」
夢見りあむさん、ですか。私が言うのも変ですが、珍しい氏名です。本名と芸名のどちらでしょうか? 私が不勉強なだけで、事務所のモデル部門などで既にご活躍の方だったり──ではないですね。最近スカウトされた子だと言ってましたし。
では、次は何を質問しましょうか。
そんな私の思考を遮るように、後ろからノックの音が聞こえました。振り向くと、トレーナーさんがこのレッスンルームに入ってくるところでした。
「おはようございます。夢見さんをお連れしました」
彼女に手を引かれながら、一人の女性が入ってきました。この方が夢見さんのようです。
見た感じでは、彼女の身長は私より少し高い程度です。おそらく百五十センチほどでしょう。年齢は分かりませんが、手や指先は健康そうな色をしています。事務所の支給品らしきオレンジ色のジャージ姿。その上からでも分かる程の、とても主張の強い胸。
そして、髪がとてもピンク色です。ドが付くほどのピンクです。ステージ上でも非常に目立ちそうです。ますます、彼女の年齢が分からなくなりました。
彼女はずっと俯いていて表情が見えませんが、少しぎこちない歩き方と握りこぶしを見れば、彼女の緊張が十分に伝わってきます。
トレーナーさんが立ち止まり、続いて夢見さんも慌ただしく立ち止まりました。その時に、彼女のまだ綺麗なトレーニングシューズが良い音を鳴らしました。
そして、彼女は俯いたままゆっくり深呼吸をして、震える声で床に向かって叫びました。
「あ、あの、夢見りあむです! よよよ、よろしくおねがいします!」
彼女は更に深くお辞儀をしました。その時にふわりとなびいた彼女の髪をよく見ると、毛先に水色のインナーカラーが見えました。当たり前ですが、地毛ではなさそうですね。
とても異彩を放つその髪を、トレーナーさんが優しく撫でました。その手に吸い上げられるように、夢見さんの頭は持ち上がりました。そして、彼女は口を半開きにしながら室内をキョロキョロと見回しました。
「……えっ、二人だけ?」
「はい、私とプロデューサーさんだけですね」
「てか! あ、ありすちゃんじゃん!?」
彼女は「すごい!」と叫びながら、私を目掛けて突進してきました。私は身構える暇もなく、彼女にガッシリと抱きつかれてしまいました。
「ホンモノ、ホンモノのありすちゃん! 体めっちゃ細い! 髪の毛も長いしマジきれい! ホントに小学生? やばいな!?」
「ななな、なんですかあなたは、急に抱きつかないでください! 髪の毛をガシガシしないでください! というか胸デカっ! 苦しいです! 離れてください!」
私は呼吸困難になる前に、彼女の肩を掴んで力任せに引き剥がしました。はあ、苦しかったです……。
とても馴れ馴れしい方ですが、私は彼女と面識があったのでしょうか? これだけ印象的な外見なら忘れないと思いますが、記憶にありません。
私から引き剥がされた彼女は、どこか不安そうな表情で私を見ています。まつ毛が長くて、宝石のように綺麗なルビー色のその瞳は、少し潤んでいます。よく見たら、体も少し震えています。
息が苦しくて少し焦ってたとはいえ、キツく言い過ぎました。彼女の恐れが見て分かるほど、肩や胸がぷるぷると揺れて──いや本当、大きいですね。背は私とあまり変わらないのに、どうしても目が行ってしまうほどのボリュームです。
胸のサイズも、髪の色も、瞳の色も、色々と宇宙のような方ですね……。
そんな、まるで吸い込まれるような宇宙が叫びだしました。
「……また、きらわれた。うわーん! やむ! めっちゃやむ!」
夢見さんは自身の頭を両手で強く掻いた後、プロデューサーさんの方へ駆け出しました。そして、彼の目の前で顔を上げた彼女は甲高い声をあげ、踵を返して今度はトレーナーさんに飛びつきました。彼女はトレーナーさんに正面から顔を埋めながら、ピンク色の髪を震わせています。
彼女はとても慌ただしくて、見た目だけでなく内面までもがまるで宇宙のような印象です。私はそんな彼女に関して、少し気になる事がありました。
私が彼女に声を掛けると、彼女はゆっくりとこちらを向きました。その動きはとても弱々しくて、まるで飼い主に叱られて怯える飼い犬のような、不思議な愛らしさもありました。
「あの、夢見さん。おいくつですか?」
「……きゅうじゅうご」
「えっ? ……ああ、すみません。失礼ですが、夢見さんの年齢を教えていただけますか?」
「……じゅーく」
じゅーく。十九歳ですか。……十九歳ですか!?
このコズミックパワー全開の震える女性が、私よりもずっと年上ですか? こんな大人と子供と宇宙を合体させたような彼女と、これからライブに向けてレッスンをするのですか?
橘ありすは、また少しだけ憂鬱になりました。
速まる呼吸
夢見りあむ、十九歳。はじめましての彼女と私は、早速これから共にレッスンを受けます。今はその前段階のストレッチの最中です。
私はプロデューサーさんに背中を押してもらいながら開脚前屈をしています。私は呼吸を兼ねながら彼に質問をしていました。
「すう……つまり彼女は。すう……完全な新人ですか?」
「ああ、完全が何かはよく分からんが、確かにりあむは素人だな。ありす、色々と頼むぞ」
早くも先行きが不安です。せめて歌か運動のどちらかでもお得意なら嬉しいのですが。
「ういうい。ありす、次は左足の方に押すぞ」
すう……ふうう……。すう……ふうう……。ゆったりとした呼吸音が室内に響きます。息を吐くたびに体が伸ばされてゆく心地よさ。昔の私よりもうんと近い床を見るのは、成長を実感できるので好きです。
それにしても、プロデューサーさんに背中を押されるのは不思議な感覚です。彼は他に担当しているアイドルが何人も居るために忙しくて、レッスンに顔を出すのは珍しいからです。それに、彼が先程言った「色々と頼む」という言葉も気になります。七月中旬のライブ以外にも何か頼まれるのでしょうか?
ストレッチの姿勢を変える時に、夢見さんと目が合いました。彼女はトレーナーさんとペアを組んで開脚前屈をしています。初めの方こそ「痛い、やむ!」などと騒がしかった彼女ですが、今は落ち着いた様子です。
こうして静かにしていれば、十分に真面目なアイドルのたまごに見えます。言動や行動はそそっかしいですが、これからのレッスンなどに対する姿勢は期待できそうです。
でも、少し目つきが怖いです。私を観察するためなのか、前屈の姿勢で瞳を潤ませながら私を睨んでいます。あと、呼吸も大きくて、ちょっと怖いです。まるで私を狩ろうとする獣のようで、彼女のその外見も相まって静かでも少し騒がしいです。
ストレッチを終えて、本題のレッスンに移ります。
今日は夢見さんのための特別メニューを行うそうです。ビジュアル、ボーカル、ダンスなどのアイドルのライブに求められる要素を、現状の夢見さんがどの程度できるのかを確認します。彼女にとっては、少しハードなレッスンになるかもしれません。
夢見さんのビジュアルに関しては、未知数ですね。なにより凄いお胸ですから。
彼女が口を滑らせた数字を信じるなら、バストサイズ九十五ですよ。ジャージの上からでも分かるほどの大きさですし、おそらく事務所内でもトップクラスのサイズです。正直に言って羨ましいです。
さらに、およそ百五十センチという小柄さが、その胸を更に強調させています。髪色も含めて非常に特徴的な外見です。この希少価値の高さは、それだけでファン獲得に有利でしょう。磨けば光る存在かもしれません。
ボーカルに関しては、良くも悪くも普通の女性という印象です。下手ではありませんが、お腹から声が出ていません。呼吸も妙に浅いように感じます。とても一般人です。でも、声量に関しては、コツを覚えて体を鍛えれば改善するでしょう。時間は掛かりそうですが問題ないはずです。
ただ、体を鍛える、ですか……。
ダンスレッスンを終えたところで、今日の特別メニューは終了しました。夢見さんは最後までレッスンをやり遂げましたが、床にうつ伏せになっていて息も絶え絶えです。
「はぁー、もうむり! ひいい……」
彼女は顔だけをなんとか持ち上げながら、声をひねり出しています。
「しんじゃう、やむ……。ひゅうう。ありすちゃん、小学生なのに、しゅっごい……勝てない……」
そう言うと彼女は力尽きたように顔を下げました。その時に彼女の額が床とぶつかったみたいです。彼女は「ぐええ」と声を漏らしましたが、体は微動だにしませんでした。
今日のレッスンを見るに、彼女は根性がありそうですが想像以上に体力がないです。大人ならもう少し動けると思いましたが、普段は運動をしないのでしょうか?
そんな彼女にプロデューサーさんが近付き、飲み物を手渡しました。
「りあむ! スカウトした頃と比べると、随分と成長したな! 取り敢えず水分だ、ほら」
「はあぃ……んぐ、んぐ、んゲホッ! ゴホッ!」
まだ息の荒い彼女は飲み物を飲みながら、むせ返ってしまいました。やはり落ち着きがありませんね……。私は近くに座り込んで、彼女が床にこぼした飲み物をタオルで拭き取りました。
それより、プロデューサーさんが聞き捨てならないことを言いました。
夢見さんはどうやら、今日が初レッスンではないみたいです。スカウトされたのが少し前らしいので当然といえば当然ですが、それでこの体力はかなり危険水域だと思います。
「プロデューサーさん。この人、ライブまでに間に合うのですか? かなりハードな練習が必要だと思いますが」
彼は少し考える様子を見せましたが、あっけらかんと笑いました。
「まあ、なんとかさせるさ! りあむ、体力づくり等に関して、今後も我々からトレーニング内容を提示する。その与えられた内容を、キチンと守るように」
「うわーん! ふぁい……やむ……」
夢見さんは力なく返事をすると、床の上で溶けたゾンビのようにウネウネとうごめきました。
「トレーナーさん。彼女は本当に大丈夫なのでしょうか?」
「それを何とかさせるのが、私達、トレーナーの役目ですから♪」
彼女はにこやかに、自身の胸に手をあてました。
この事務所の方々は信頼できます。プロデューサーさんやトレーナーさんが笑うのですから、きっと大丈夫だとは思います。
でも、肝心なのは本人の行いです。ほんの一曲や二曲を歌うだけだとしても、たった二ヶ月半という期間は短く思えます。それに彼女は、レッスン中に「もっと楽にアイドルなれると思ったのに!」と嘆いていました。そんな、アイドルを楽観視しているようにも見える彼女に対して、大人の方々は何を根拠にそう笑えるのでしょうか。私にはまだ、分かりません。
夢見さんの方を見ると、彼女はまだうつ伏せのまま、隙間風のような呼吸をしています。まるで赤ちゃんみたいで、少しだけ可愛いです。
……確かに、彼女は少しハードな今日の特別メニューを、嘆きながらも最後までこなしました。多少は見込みがあるのかも? た、多少ですけど、ええ。
私は彼女の手に触れながら話しかけました。
「えっと……頑張ってくださいね? 一応は、期待しておきます」
「えっ!? ありすちゃん、それ本当? ぼく、期待の新人!? チヤホヤされちゃう!?」
急に元気を取り戻した彼女は、私の手を振りほどきながら足元にすがりつきました。
「ぼく、マジメなりあむちゃんになります! だから見捨てないで、ありす様!」
「な、なんですか急に! ちゃんと、真面目に、練習、してください、ね!」
やはり不安です。彼女の代わりに私が頑張る必要があるのかも……。
夜が聴こえる
「──で、この廊下の突き当たりの右手側が、夢見さんのお部屋になります」
「ありがとありすちゃん! じゃあ行くよ!」
「待ってください、寮の案内はまだ終わっていませんよ」
私は遠ざかる夢見さんの腕を、ジャージの上から掴みました。それだけで、彼女は私の方にフラフラとよろけました。私に寄りかかるようにして止まった彼女は、私の顔を見ながらなぜか笑いました。少し引きつった笑顔ですが、嬉しそうにも見えます。
同日、夜、事務所近くの女子寮内。
私は夢見さんとの初めてのレッスンを終えて、今は彼女に女子寮の案内をしています。
彼女はこれまで実質一人暮らしだったそうですが、プロデューサーさんの勧めで今日から入寮するそうです。アイドルに専念するのならば、寮生活はなにかと便利でしょうね。
「ありすちゃん、案内してくれてありがと!」
「ですから、まだ終わっていませんよ」
初めての女子寮に感動しているのか、彼女は事ある毎に走り出そうとします。少し考え事をすると、彼女はどこかへ居なくなってしまいそうです。
本当はプロデューサーさんに彼女の案内をしてほしいです。でも、彼は男性です。ここは女子寮ですから、仕方ありません。でも、なぜ私が? 今日のレッスン中の彼の発言を思い出します。どうやら彼は、私に夢見さんの教育係のようなものをさせたかったのかもしれません。
確かに、私は子供じゃありません。新人アイドルのお手伝いだってやってみせます。でも、私も一応は小学生です。対して彼女は十九歳。立派な大人です。教育係やパートナーにしても、私よりもっと年上の、せめて彼女と同年代の方が良いでしょうに。
それに、彼女自身はどう思っているのでしょうか。いい大人が小学生に教わるのは、気分も良くないはずです。むしろ恥ずかしく感じるでしょう。実際に彼女の表情を見ても──あれ?
「夢見さん? ちゃんと付いてきてください!」
「ありすちゃん、アイドルめっちゃいるぞ! みんな天使オブ天使! ここ、天国だな?」
「女子寮ですね。そして、その扉の先が食堂で、上へと続く階段とエレベータはこちらです。どちらも現界と繋がっていますよ。ほら、こっちです」
私は先に階段を登って、踊り場の手前で振り向きました。
「ちょ、ちょっと待って! 置いてかないで!? やんじゃうよ!?」
彼女はまるでウサギさんのように、ひょこひょこと私を追ってきました。その動きにあわせて、彼女の綺麗な髪や胸も、ふわふわと機嫌よく振る舞っています。言動は少し物騒ですが、見た目は可愛らしいです。
正直に言えば、夢見さんの胸が羨ましいです。大きすぎるのも大変そうですが、ゆくゆくは私だって彼女の胸のように、大人の魅力が溢れるような女性になりたいですから。事実、彼女は階段を数段登るだけでも、胸から溢れんばかりの大人を解き放っています。彼女のビジュアルは侮れません。
ただ、あの身長に対してのあの胸は、少し大変そうですね。確かに男性は魅了されるでしょうが、変な方も寄ってきそうです。なりたいような、なりたくないような……?
「ありすちゃん。振り向いたままぼーっとして、どしたの?」
彼女の間の抜けた声が聞こえました。気付けば私は追い抜かれていて、踊り場の上から彼女に見下ろされていました。
「な、なんでもありませんよ。次へ向かいますから」
私はすぐに階段を登ろうとして、段差に足を引っ掛けてしまいました。慌てて手を出しますが間に合わず、私は顔を強打──してません。
「えへへ……。ありすちゃん、大丈夫?」
顔を上げると、彼女は踊り場から手を伸ばして、私を支えてくれていました。は、恥ずかしいところを見せてしまいました。
「あ、ありがとうございます……」
私は彼女の手を借りながら立ち上がりました。それを見た彼女は柔らかく微笑むと、鼻歌を歌いながら一人で先へと進んでいきました。
この女子寮の一番高い所へ辿り着きました。
「最後に、ここが屋上です。と言っても、見たままですけど」
奥の方に物干し竿が何本も掛けられているだけで、特に何もない広々とした空間です。視界を遮る物がなくて、夜空が綺麗に広がってます。月は見えず電灯も出入り口に一つだけで少し暗いですが、その分だけ星々も降り注いで見えます。初めてここに来ましたが、良い所ですね。
他のアイドルたちの情報では、この広い屋上では日中、寮生が自主トレをしたり遊んだりもしてるみたいです。さすがに夜間はしないでしょうが。
そんな情報を一通り伝えて、私の役目は終わりです。私はやっと、女子寮の案内から解放されます。この人が真っ直ぐ付いて来てくれていれば、もっと早く終わったのに。そう思って私は夢見さんの方を見ました。
口を開けたままの彼女は、美しい星空を見上げていました。
「この朔の闇に浮かぶ星々の中に、ぼくを見つけてくれる光はあるだろうか……」
「夢見さん、ちゃんと聞いていましたか?」
「えっ? うん、夜は暴れんなよ、だよね?」
彼女はピンク髪をふわりとさせながら、私に向かって笑顔を見せました。
レッスンの時もそうでしたが、夢見さんと一緒にいると、どうも私の調子が狂います。
彼女はそそっかしいので、全ての行動が気になってしまいます。目を離すとどこかへ行ってしまう気がして油断なりません。七月のライブでも少しだけとはいえ私のパートナーになるのですから、彼女にはもっとしっかりしてほしいです。
かと思えば彼女は、急に真面目になったり、大人の魅力を醸し出したりもします。今だって、天に吸い込まれそうな彼女の佇まいが、逆に気になります。その時々でギャップが大きすぎます。彼女は大人なのか子供なのか分かりません。
それに、私との距離感がおかしいというか、近すぎます。アイドル同士仲良くするのは問題ないですが、またあの胸にきつく抱きしめられるかと思うと、少し怖いような緊張するような気持ちです。
そんな私のやきもきなんてつゆ知らず、夢見さんは大きく両腕を広げながら星空を仰いでいました。
「アイドル生活二週間にして寮生活。ぼっち生活もつらいけど、今度は寮ぼっちで毎日レッスン漬け……。りあむちゃん、新展開だな?」
夜空に美しく包まれている彼女ですが、言葉遣いはふにゃふにゃとしています。
「……そういえば、夢見さん。これまでは自宅から通っていたんですよね? 学校からは遠くなったりしませんか?」
私の問いかけを聞いた彼女は、表情を見せずに私に対してすっと背を向けました。
興味本位でした。本来なら、他人のプライベートにはあまり踏み入るべきではないです。でも、つい彼女のことが気になってしまいました。今後のライブのためにも、彼女のことをもっと知りたい。そんな気持ちでした。
悪いことをしたかもしれません。あんな宇宙みたいな彼女にだって、当然悩みはあるはずです。アイドルになるのなら──いえ、女の子なら当然です。進路だって大変でしょうし、彼女も何かの覚悟をしてこの世界に飛び込んだはずです。
彼女の小さめの背中が、更に小さく感じます。……ごめんなさい。
少しの間、夢見さんは私に背を向けていましたが、いきなりこちらへ向き直りました。
「ありすちゃん、ありすちゃん! そういやぼくのこと、ずっと夢見さんって呼んでるな?」
「えっと、はい。芸歴はともかく、夢見さんの方がずっと年上ですから」
彼女は不満そうな顔をしながら、私の目の前まで駆け寄ってきました。
「ちゃんと! りあむちゃん、って呼べし!」
「えぇ……」
彼女の顔が目の前まで迫ってきました。ピンク色の髪の毛が私に少し触れて、シャンプーの良い香りが鼻をくすぐりました。彼女の必死そうなルビー色の瞳を見ていると、なぜか目を逸らしたくなります。
「えっと……夢見さん」
「り、あ、む、ちゃーーん!」
「よ、夜ですから静かにしてください。その、りあむ……さん」
「もう……それでいいし」
今度の彼女はふてくされながらも、くるくると回りながら私から遠ざかりました。そして、静かに鼻歌を歌いながら、ゆったりとしたリズムで体を左右に揺らしています。星降る夜に、聞き慣れない歌が響きます。
「えっと、夢見……りあむさんは、夜空がお好きなのですか?」
「……夜が、聴こえてくるんだ」
彼女はそう呟くと、私に背を向けながら片膝立ちをしました。そして、まるで王子様が愛の告白をするみたいに、遠くに輝く星空へと手を伸ばしながら語りかけました。
「お星様は、道を繋ぐ。夢へと繋ぐ。光に導かれし旅人が、必死できらめく場所。でも、届かない。地球からは、全ては見えない。だからこそ輝こうとする。光るまで、光り続ける。燃え尽きるまで、燃え続ける。そうすれば、いつかきっと、地球まで届く。そう信じて。だって、本当にお星様になれるなら、見捨てられたりなんて、しないはずだから……」
彼女はゆっくりと手を降ろして、星空を見続けています。
ポエムが趣味なのでしょうか? それを私に見せられても、反応に困ってしまいます。
会心の出来に気分が高揚したのか、彼女はすっと立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねました。下の階に迷惑なので止めてほしいです。やっぱり私、この人が少しだけ苦手です。
「あの、私、もう帰っても良いですか?」
「ありすちゃん!」
「な、なんですか?」
彼女は私に向かって気をつけをすると綺麗にお辞儀をしました。
「えっと……本日はありがとうございました。何もできない、いいとこなんて一つもないぼくだけど、めっちゃ頑張ります。どうか……きらいにならないでください……」
「え、ええ……。こちらこそ、よろしくお願いします……?」
彼女は表情も見せないままにくるりと方向転換をして、屋上の端まで駆けていきました。
すぐに遠くへ行ってしまった彼女は、屋上のフェンスに寄り掛かりました。彼女は綺麗なピンク色の髪をなびかせながら、キラキラと光り輝く星空を見上げました。なんだか、そのまま宇宙へと吸い込まれていきそうです。
彼女は夜を感じながら、また不思議なポエムでも考えているのでしょうか。
この
金網が
湿っていく
熱く
熱く
手で
溶ける
触れると
分かる すぐ
分かる
劇的な
握手は
悲劇的な
搾取に
今からはもう
分からない
だって
私は
触れられたから
多分これから
捻じ
曲げられる
その
湿る
手が
入り
込むと もう
夢を背負うワケ
五月十一日、土曜日、事務所内。
大型連休もすっかり過ぎ去って、夢見りあむさんと出会って一週間ほどが経ちました。学校に通う私にとって、休日のレッスンは重要です。少しでも時間を有効に使うためにも、少し早くレッスンルームにやって来ました。
「おはようございま──またプロデューサーさんですか」
「よーうありす! 今日はいつも以上に素晴らしく快晴だな!」
彼は今週もレッスンルームに居ました。珍しいです。
彼は両手を前に突き出して、元気よく手を振っています。彼は事あるごとに、こんな風にアイドルのような大げさな身振り手振りをします。ある種の職業病でしょうか?
そんな三十路アイドルもどきさんを軽くあしらって、気になったことを尋ねます。
「普段ならレッスンルームにはあまり来ませんよね。何の用ですか?」
「いや、別にここに用はないぞ。何故かスタイリストさんに追い出されただけだ」
彼の話では、今のりあむさんはスタイリストさんと共に、衣装に関して打ち合わせ中だそうです。彼が追い出された理由は分かりませんが、てっきり暇を持て余して私たちの邪魔をしに来たのかと思いました。
「それくらい暇なら嬉しいんだがな。……いや、暇すぎるのも困るか」
彼は首を横に軽く振りながら「アハハ」と笑いました。
扉の開く音と共に、トレーナーさんがレッスンルームに入ってきました。
「あら橘さん、お早いですね。プロデューサーさんもお疲れ様です。」
「ええ、お疲れ様です。今回もよろしくお願いします。そいじゃ、ありす。レッスン頑張れよ!」
プロデューサーさんはそう言い残して、トレーナーさんと入れ替わるようにここを後にしました。
そういえば、今日のレッスンはりあむさんと共に行うはずです。でも、今の彼女はスタイリストさんと打ち合わせ中です。
「トレーナーさん。りあむさんは今日のレッスンをお休みするのですか?」
「いえ、後ほど合流します。それほど時間は掛からない、と聞いていますよ」
彼女はそう言うと、なぜか嬉しそうに「ふふっ」と笑いました。何かを思い出したのでしょうか?
ともかく、心配は要らないみたいです。予定時刻はもう少し先ですが、一足先にウォーミングアップを始めます。
レッスンが始まって少し経ってから、りあむさんが合流しました。打ち合わせ中になにか嬉しいことがあったのか、彼女は入室してきてすぐにハイタッチを要求してきました。無視してもうるさそうなので、私は軽く手を合わせました。
今日のレッスンは、ボーカルとダンスの基礎を中心とした内容です。彼女にとっても私にとっても、体力づくりはいつだって重要です。当然、それ相応にハードな内容です。
そして、私は驚かされました。彼女はヘロヘロになりながらも、二時間近くのレッスンを最後までやり遂げたのです。レッスン内容が切り替わる度に彼女は弱音を吐いていたので、てっきりすぐに挫折すると思っていました。
彼女はこの平日の間に、懸命に自主トレをこなしたのかもしれません。彼女を褒めるのは少し癪ですが、凄いと思います。
私はそんな彼女の方を見ました。彼女はうつ伏せになりながら手を上げて、私に助けを求めるように声を出しました。
「しんだ……りあむちゃんはしんだ……。げほっ……ぼくをすこれ……ごほっ……」
「疲れているのなら、無理して喋らないでください。まずは息を整えてください」
「あうあう……むり……」
彼女は自身の胸の下に手を滑り込ませて、ジャージの胸元を握りしめました。トレーナーさんは彼女のそばに寄り添いながら、彼女の背中を優しく撫でています。
早く良くなって欲しいので、こういう時は専門家に任せましょう。
レッスンを終えて一段落です。
りあむさんと私は、レッスンルームと同じ階にある休憩所に来ました。彼女もさすがに落ち着いたようで、バスタオルを頭から被りながら私の横に座って、幸せそうにスポーツドリンクを飲んでいます。
「りあむさん、今日はよく最後までやりきりましたね」
「だって! りあむちゃん今週もガッチガチに頑張ったし! 少しでも早くありすちゃんに追いつきたいし!」
「なるほど、意外です。その様子だと毎日休み無く練習して、がっ──」
学校、と言いかけて止めました。先週の夜の事が頭を過ったからです。彼女はどことなく、過去や素性を言いたくなさそうです。合っているかは分かりませんが。
「……いえ、頑張ってるな、と思いました」
「マジか? ぼく褒められたな!? すごい、人生逆転した!」
「それはないですね。まだ一ヶ月も経ってませんし、レッスン以外のアイドル活動もしていませんよ。気を抜かないでください」
「ううう……あきれないで……」
一時は興奮した彼女でしたが、その情緒は急転直下です。彼女はスポーツドリンクの容器を見つめながら、ひゅーひゅーと溜め息のようなものをついています。落差が大きすぎて調子を合わせにくいです。
でも、練習はキチンとこなしているようで安心しました。ろくに練習もせずに消えるかとも思っていましたが、杞憂だったみたいです。あのプロデューサーさんがスカウトしただけはある、のかもしれませんね。
考えてみれば、私はりあむさんについて詳しくありません。スカウトのことに関しても、プロデューサーさんがそう言っていた覚えがあるという程度です。
スポーツドリンクを飲み干した彼女に、私は問いかけました。
「りあむさんって、スカウトでしたよね? どんな気持ちでアイドルを決意したのですか?」
彼女は空の容器を両手で握ると、力強くこちらを向きました。
「えっとね! アイドルになったら、ワンチャンあると思って!」
「わ、わんちゃん、ですか……?」
「学校も続かない、人生詰んでる。そんな所に颯爽とPサマ登場! アイドルって、ぼくのようなやみちゃん達を救う天使たちじゃん? マジ尊い! そんな天使を生み出すのはPサマ。即ち、神! 神がぼくにくれた人生逆転のチャンス!」
彼女はバスタオルを落とす勢いで立ち上がって、こう続けました。
「アイドルになったら、連ドラとかお仕事とか、すぐ貰えると思ってた。けど、違ったな? でも、何もできないぼくなんかでも、絶対尊くなれるってPサマは言った! ぼくなんかを見捨てなかったPサマは、神オブ神! ぼくは絶対アイドルになる! よ!」
彼女は容器を握った手を突き上げました。そして、満足気に鼻歌を歌い始めました。
正直に言って、開いた口が塞がりませんでした。どこまで本気かは分かりませんが、かなり不純な動機に聞こえました。
確かにアイドルは、見る側もなる側も共に影響を与え合います。アイドルがファンを感動させて、アイドルもファンの言葉を受けながら成長します。人生も変わるかも知れません。
でも、特にアイドルになる側のそれは、たゆまぬ努力の上で成り立ちます。ただ口を開けるだけで食事が運ばれてくるような、人任せな人生逆転の場ではありません。
なのに、事務所に所属するだけでお仕事が舞い込むなんて、彼女は甘く考えていたように聞こえました。この人も、プロデューサーさんも、トレーナーさんも、一体何を考えてるのでしょうか……。
その選曲は……
「ありす、今日も良い天気だ。撮影日和だな」
「私のことはいいので、運転に集中してください」
五月十九日、日曜日、プロデューサーさんが運転する車の後部座席。
今日は都内で雑誌向けの野外撮影があって、今はその現場に向かっています。良い天気になって嬉しいです。
私はこの二週間で、りあむさんと共に何度かレッスンを受けました。彼女は文句こそ多いですが、レッスンは必ず最後までこなします。技術面はこれからですが、少しずつ体力をつけているみたいです。でも、彼女の動機は……。
「ありす、なんだか機嫌が悪いな。イチゴエネルギーとかが不足中か?」
「それは関係……なくはないですが。今は、真面目に運転しないプロデューサーさんを見過ごせないだけです」
運転中の彼は気のなさそうに「そうかそうか」と返事しました。運転中のせいか、彼は普段より少し大人しいです。
確かに、イチゴを食べる機会が減るのは悲しいです。でも、それで不機嫌になるほど、私は子供じゃありません。それに、今の私は不機嫌じゃありません。プロデューサーさんのくせに、なぜ理解してくれないのでしょう。
そんな分からず屋さんが、前を向いたまま質問してきました。
「なあ、ありす。これから誕生日の人って、ケーキのイチゴはどうするんだ?」
「急になんですか、どなたかが誕生日なのですか?」
「そうじゃないが、何となく気になってな」
プロデューサーさん、現代文明はとても偉大なのです。どうするも何も、この世からイチゴが消滅する事はありえません。一応、夏や秋に収穫されるイチゴもありますし、輸入品もあります。メインシーズンに収穫される自然なイチゴには少し劣りますが、輸入品だってそれなりに美味しいです。小売店などでイチゴを見かける機会は減りますが、ケーキ屋さんなどにはいつだって、赤い幸せが訪れています。イチゴフェアなどは無くなりますが、悲しくなんてないです。はい。
「ハハハ」
「な、なんですか、プロデューサーさん?」
「いやさ、沢山語ってるし、やっぱありすはイチゴに詳しいと思ってな」
「……まあ、褒めてくれたのであれば、嬉しいです」
なぜ笑われたのかが気になりますが、褒められることは嬉しいです。先程まで何かに対してイライラしてた気もしますが、それを忘れるくらいには気分が良くなりました。
信号機の赤いランプに従って、車がスッと停まりました。
プロデューサーさんは助手席にある自身のカバンを手探りながら、ニヤニヤとした表情でバックミラー越しに私の顔を見ています。
「黙って私を見て、何ですか?」
「イチゴの話をしてる時のありす、ニコニコと笑ってて可愛かったぞ!」
「なっ、何ですか急に! 変なこと言わないでください!」
「アハハ。そういう自然な笑顔が一番良い! 今日の撮影も頼むぞ! てことで、コレ」
彼は振り向くことなく、カバンから取り出した数枚の書類を渡してきました。
「どうも。今日の撮影の資料ですか?」
「んや、全然違うけど」
そ、そうですか。今の話の流れだったので、完全に撮影の資料だと思いました。なんですか、これ。
「ういうい、発車致しまーす」
「まーす。……あっ、もしかして七月のライブの資料ですか?」
「おう。本当は運転し始める前に渡すつもりだったが、忘れてた。そういう時に限って信号にひっかからないしさ。あるあるだよね~?」
あるあるかは知りませんけど。
プロデューサーさんは運転を続けながら、資料に関しての説明を始めました。
「ありすは来週に『インディゴ・ベル』のミニライブにゲスト出演するだろ? そこと同じ場所で、七月もライブさせて貰うことになった」
渡された資料にも目を通しましょう。
ライブが開催されるのは七月十四日の日曜日。りあむさんや私を含めて、四名でのライブを都内の国立公園にて行うようです。
その広い国立公園の園内には、季節の花を楽しめるエリアや綺麗な湖があったり、プールや沢山の遊び場などもあります。総合レジャー施設のような場所ですね。その園内に建てられるステージが、二ヶ月後の私たちの舞台になります。事務所が何度もお世話になっている会場の一つですし、彼の言った通り来週もお世話になります。
セットリストも見ましょう。りあむさんは、事務所定番のアンコール曲『お願い!シンデレラ』と私とのデュエットの二曲を歌うみたいです。私はソロ曲などに加えて──あれ?
「プロデューサーさん。私って『Absolute NIne』も歌うのですか?」
「おう。セットリストを上に決められてから、俺の所の担当アイドルからメンバーを選んだ。悪いが、持ち歌以外にも少し歌ってもらうぞ。まあ、そうやって歌える曲を増やしていくのが上の狙いなんだが──」
彼はその後もぐちぐちと話し続けましたが、私はそれ以上に気になることがありました。
その『Absolute NIne』を、りあむさんと私のデュエットで歌うという点です。しかも、四人の中にはこの曲を持ち歌にしている方も居るのに、その方はなぜか歌わないのです。
私はその譜面も持ってますし、歌うこと自体は構いません。でも、この選曲は少し不可解です。
「どうしてこの曲のデュエットなんですか? せめてもう一人加えて、三人で歌うだとか」
「それは、俺がベストだと思ったからだ。まあ大丈夫さ、りあむにはありすが付いてるからな」
彼はそう断言しました。表情はよく見えませんが、声からは自信のようなものを感じました。彼のことですから考えがあるはずですが、でもどうして、りあむさんと二人で……?
彼女と私は違います
同日、お昼過ぎ、撮影現場。
今日のお仕事は、ファッション雑誌用の野外での写真撮影です。いわゆるローティーン向け雑誌の夏服コーデ特集で、他事務所のモデルさんやアイドルさんらとご一緒します。現場に居た撮影スタッフさんの指示に従って、さっそく衣装に着替えます。
ところで、私、ローティーンという表現が好きじゃないです。ローティーンは十代前半を指す和製英語のようですが、実際に『ティーン』になるのは十三歳からのはずです。正確に言えば、私はティーンじゃありません。
……そんな事を気にしていても仕方ないので、早く着替えて撮影現場に戻ります。
着替えを済ませて、プロデューサーさんの居る現場へと戻りました。既に撮影は始まっていたようで、彼はその様子を真剣に見つめていました。
「プロデューサーさん、戻りました」
「ん? おお、おかえり。衣装もありすも可愛いな」
「ど、どうも……」
車を降りて元気になっていた彼ですが、小声で私の衣装を褒めてくれました。
最初の私の衣装は、しぼりの位置が少し高い、青を基調としたワンピース。それに低めのミュールと、ゆるいおさげにストローハット。今着ると少し肌寒いですが、明るい気分になれる素敵な衣装です。あとは、淡い色の麦編みのバッグを手に持って、準備完了です。
「準備を終えた順に撮ってるらしい。彼女の撮影が終わったら、次はありすが呼ばれるだろうな」
「そうですか。情報ありがとうございます」
パシャリ、パシャリ。静けさの中、空間を切り取る音。独特の緊張感が撮影現場に漂っています。
今まさに写真を撮っているカメラマンさんは、私でも名前を知っているほどに有名な方です。白髪が少しだけ混じった短髪とたくましいお髭。彼の性格は詳しくありませんが、彼の良い評価はよく耳にします。それだけで少し、身構えてしまいます。
また、今撮影されている一人目のモデルさんも、雑誌などでよく見かける方ですね。彼女は確か私の二歳上で、中学生ながら既にモデル歴六年のプロです。入れ替わりの激しそうな業界で、年齢による成長や変化を迎えながらも需要に応え続ける。とても努力されている方でしょう。その凛とした佇まいやオーラが、現場の空気をより一層キリッとさせています。
周りを見ると、その雰囲気に飲まれたような他のモデルさんやアイドルさんが居ます。私は大丈夫ですが、この空気は慣れない人に辛いかもしれません。
でも、私は問題ありません。きっと大丈夫です。多分。
一人目の撮影があっという間に終わりました。カメラマンさんがモデルさんにねぎらいの言葉をかけています。
「次の衣装もよろしくねー。じゃあリューちゃん、次の子呼んできてー」
その言葉を受けて、リューちゃんと呼ばれた眼鏡姿の背の高い女性が、私を呼びに来ました。さあ、出番です。
「えー、橘ありすちゃん。多分はじめましてだね。じゃ、今日はよろしくねー」
「はい。よ、よろしくお願いします」
「んやー、いいよいいよ。固くならなくったってさ」
彼は私を気遣ってか、そんな事を言ってくれました。
私が改めて頭を下げた瞬間、パシャリと写真を撮られました。私はつい驚いてしまい、戸惑いながら顔を上げました。そして、その表情も逃さずに撮られてしまいました。
彼は親指を立てて、楽しげに喋りながら撮影を続けています。この静寂の中で、彼だけが陽気に振る舞っています。そのギャップがなんだか不気味です。この場の全てが、彼に吸い込まれてゆくみたいです。
す、スムーズに撮影を終えなければ……。
やはりプロである以上は、常に素晴らしく、最高の出来をお届けしなければいけません。そのための努力は惜しんではいけません。おそらく、彼もあのモデルさんも同様でしょう。その努力に恥じぬよう、完璧な表情を届けなければ。私はそのために呼ばれたのですから……。
そこでなぜか、私はりあむさんの顔が浮かびました。
彼女と私は違います。
彼女はあまりにも、アイドルを楽観視しているように思えます。彼女はプロデューサーさんの事を『Pサマ』と呼びますが、彼を神様かなにかと勘違いしているのでしょうか? あるいは、彼が全て解決してくれるとお思いなのでしょうか?
私たちは自ら輝くのです。人の心を動かせるだけの存在に、自らなる必要があります。プロデューサーさんやトレーナーさんの支えがあってこそですが、その力はあくまでも補助輪です。ただ受け取るだけなど、もってのほかです。
結局、ステージに立つのは私たちアイドルだけです。私たちは自らの手で、ファンの方々に希望や感動を届ける必要があります。だからこそ、私たちが本気で努力をして、自ら夢を勝ち取らなければなりません。
そのはずなのに、なにか根本的な勘違いをしているようで──。
「──すちゃーん。ありすちゃーん。顔が固くなってるよー? どしたのー?」
「え? す、すみません!」
気付けばカメラマンさんは、腕を組みながら私を見ていました。
「いいよいいよー。きっとお疲れねー? 撮影順、入れ替えとくからさー、リフレッシュしといでー」
「ご、ごめんなさい……」
「はい、謝らなーい。リューちゃん、次の子呼んできてー!」
失敗、してしまいました。
りあむさんのことで頭が一杯で、撮影に集中できていなかったみたいです。やってはならないことをしてしまいました……。
「では橘さん、しばしこちらでお休みください」
私はリューちゃんさんに促されるがまま、カメラの前から外れました。彼女の眼鏡越しに見える眼差しは少し冷たくて、私の心にグサリと刺さります。そして、すぐに彼女は別のアイドルさんを案内しに行きました。
次に案内された方はぎこちない様子でカメラの前に立ちました。きっと、私のせいです。私のせいで、他の方にまで悪い影響を与えてしまったのです……。
そんな情けない私の元に、プロデューサーさんが近付いてきました。
「すみません。皆さんにご迷惑をおかけしてしまいました……」
「いやいや、気にする程のことじゃないさ」
「でも──」
「でもじゃなーい!」
彼は私の言葉を遮りながら、私の頬をむにっとつまみました。その私の顔を見ながら彼は笑っています。
「この年頃の子の撮影なんて、いつもこんなもんよ」
「ほ、ほうなのれすか?」
「多分。よく知らないが」
私はおどける彼の手を払いのけました。また私を慰めようと、適当なことを言っているのでしょうか。
「ノットネガティーブ! しょうがないさ、成長期だし」
「そんな単純な──」
「単純なもんよ。成長期になると、体も心もでっかくなるからな。いつも通りに飯食ってるつもりでも、気付かないうちに栄養不足になるのさ。腹減ってるだけさ、満たせば治る」
そう言いながら、彼は料理をするようなジェスチャーを見せました。鍋を振るってみたり、その中をかき混ぜてみたり、何かを入れてみたり。
そして、彼は「思い出した」と言って、その手を止めました。
「撮影が成功したらさ、美味いクレープを奢ってやるよ」
「……それ、プロデューサーさんが食べたいだけでは?」
「お、ありすちゃんテレパシー! ってことでさ、俺は今、モーレツにクレープが食べたい。俺のためにも撮影を頑張ってきてよ。あとさ、この時期はもうイチゴクレープが無いかもしれないから、予め他に何食べたいか決めとけよ!」
満面の笑みで私に手を振るプロデューサーさん。振り向くと、リューちゃんさんが私を呼びに来ていました。
それにしても、いい歳になってクレープ一つではしゃぐなんて。見ていて恥ずかしいような、別の意味で羨ましいような。
私の出番が、再度やってきました。皆さんには何度もご迷惑をおかけできません。橘ありすよ、自然な表情です。今度こそ失敗しないよう、笑顔で、笑顔で……。
「ありすちゃーん?」
「は、はい!? なんでしょうか?」
私の目の前にいるカメラマンさんが、私に手を振りながら語りかけてきました。
「食べたいパフェは決まったかーい? 考えとこうねー。因みに、おじさんは大人だから、宇治抹茶パフェかなー」
「えっと、クレープですよ……」
彼は舌をペロッと出した後、何事もなかったようにカメラを構えました。どうやら、さっきの私たちの会話を聞いていたみたいです。恥ずかしいです。
普段からプロデューサーさんは、甘い物の話になると子供のようになります。私が次も失敗したら彼はまたうるさくなります。次はパフェだ、アイスクリームだ、と言い出すでしょう。なんなのでしょう、あの駄々っ子さんは。
きっと、クレープを買う時にもたついても色々と言ってきます。だから私に食べたいクレープを決めておけと……。
まず、スーパーなどはともかく、クレープ屋さんからイチゴが消えるはずがありません。あれほど完璧なフルーツを欠かすだなんて、プロとして失格です。少々仕入れ値が高くなるとはいえ、食べたい人が居るのです。わ、私以外にも。
……でも、そうですね。仮にです。仮にイチゴが無いとします。ありえませんが。では、例えばブルーベリーでしょうか。ベリーなので、五割はイチゴです。十分に良いフルーツです。
なにもフルーツに限る必要もありませんね。そういえば、上にケーキが乗ったクレープを見たことがあります。ちょっと食べにくそうで、少し子供っぽくも思えますが……。いえ、むしろ大人を演出するティラミスクレープなんてどうでしょう。良さそうですね。なら、きっとあります。
ティラミスのビターな口溶けと少しの粉っぽさを、クレープ内部の濃厚で甘いクリームが優しく包み込むのです。コクのあるクレープ生地が口の中をリセットしてくれて、ビターとスウィートのハーモニーを何度でも新鮮な気持ちで感じさせてくれるのです。なんですか、完璧じゃないですかこの組み合わせ。
きっとプロデューサーさんも、ビターなクレープを食べる大人な私を見れば、子供扱いなんてできません。間違いありません。
決まりました。イチゴがなければティラミスクレープです。次点でブルーベリーです。えへへ、これだけ完璧な計画を──。
「──すちゃん。ありすちゃーん!」
「あっ! す、すみません!」
「いやいや、凄く良い表情だったよ! 集中力も素晴らしい!」
……あれ? 気付けばカメラマンさんが笑顔で拍手をしてくれていました。プロデューサーさんもニヤニヤしながら親指を立てています。
「ポーズもね、ワクワクするような雰囲気が伝わってきて、とっても最高だったよ! 流石はありすちゃん。一発でビシっと、修正してきたね! 次の衣装も期待してるよ!」
「は、はあ。ありがとうございました」
何が起こったのか、私には分かりません。狐につままれたまま一礼をして、次の方と入れ替わりました。理解する間もなく、私はプロデューサーさんの目の前に立っていました。
「橘先生、流石で御座いますね~。ぐはっ、殴るなよ!」
パンチです。おそらくですが、撮影が上手くいったのは彼のおかげです。でも、何となく気に食わないので、軽くグーパンチです。
「プロデューサーさん、いいですか? ティラミスです。トッピングがティラミスの、ビターで大人で極上なものを食べたいです!」
「へ、なにが? ……あっ、ちょ、待って痛い痛い!」
その後も、場所や衣装を変えながら撮影が続きました。
最初の頃は撮影現場にも緊張感が漂っていましたが、気付けば和気あいあいとした雰囲気になってました。とても気さくだったカメラマンさんと、不本意ですがプロデューサーさんのおかげです。でも、撮影の最中にカメラマンさんから「そのままリューちゃんを笑わせてみてー」と言われた時は、かなり戸惑いました。なんですかあの女性は、あの眼鏡は鉄仮面なのですか。
色々とありましたが、最終的には無事に撮影が終わりました。私たち子供は気付かないうちに、周りの大人たちに助けられていたみたいです。
一つのものを完成させる。その難しさと奥深さを、改めて感じました。私もなにかの機会に、この経験を活かせるかも知れません。
夜がぼくに語りかけるんだ
同日、午後八時前、撮影帰りの夜。
プロデューサーさんのご厚意で、私の自宅まで送ってもらえることになりました。ありがたいです。クレープも美味しかったですし、言うことなしです。恩返しも込めて今後も頑張ります。
途中、彼の用事があるとのことで事務所に立ち寄りました。そして、彼に「小学生を一人にできない」と言われて、私も敷地内まで付いてきました。
昼間ほどではありませんが、この夜の時間帯でも事務所内ではレッスンなどが行われています。それにお仕事をなさっている方々も居ます。人の気配があるので、車内に一人で居るよりもずっと安全です。
通り過ぎる社員さんに軽く挨拶をしながら、私は事務所の一階にあるカフェスペースを目指しました。
事務所の壁を伝うように平らな石畳がのびていて、歩を進めるたびにコツコツと良い音が鳴ります。木や電灯を何本か通り過ぎて角を曲がると、目的のカフェスペースがあります。
そこには南向きのテラスがあって、そのテラス側と屋内側とのそれぞれに、テーブルと椅子が五組ずつあります。木の温もりを感じるような丸いテーブルと四脚ある木の椅子とのシンプルなセット。私はここのテラス席が好きで、ゆっくりしたい時によく訪れます。今夜もプロデューサーさんの用事が済むまで、そこで落ち着くことにしたのです。
夜のカフェスペースは普段とは違った面持ちで、近くに立つ電灯とほぼ真横から差し込む月の光が、カフェスペースのテラス席に差し込んでいました。
その柔らかく照らされた真ん中のテーブル席にぽつんと、りあむさんの背中が見えました。正確には、テラス席にポッカリと浮かぶ例のピンク色の髪が見えたのです。
私は彼女にゆっくりと近付きながら、そっと声をかけました。でも、返事はありませんでした。彼女はイヤホンで何かを聴きながら、何かの紙を見ていました。
彼女の肩を叩くと驚かしてしまいそうなので、テーブルに沿ってぐるりと回り込んでから「りあむさん?」と声を掛けました。
「……うっ? あ、ありすちゃん!」
「夜ですよ。大声を出さないでください」
私の忠告が聞こえていたのかいないのか、彼女は「えへへ」と笑いながら手を振りました。そして、彼女はその手でテーブルをぺちんぺちんと叩きました。
「な、なんですか?」
「お話タイムだよ! 座って!」
彼女はいそいそとイヤホンを取り外すと、まるで上機嫌な子犬のように体を揺らしました。構ってほしいのでしょうか?
私はプロデューサーさんを待つ間、りあむさんのお相手をすることにしました。私は彼女の向かい側のイスに座りました。木の滑らかさが心地良いです。
「ねえねえ、ぼく、何してたと思う?」
相変わらず、彼女は唐突に質問してきました。その両手には先程も見た紙があって、テーブルの上には空の紙コップやお菓子の空き袋に、可愛らしい筆箱や星柄のボールペンがありました。
「……えっと、お勉強ですか?」
「だいたい正解! えっとね、歌!」
彼女は手に持っていた紙を勢いよく私に突き出しました。これは──譜面ですね。
「ぼく、七月にライブに出るんだって! 凄いでしょ!」
彼女はルビー色の瞳を爛々と輝かせています。よく見れば充血もしています。
私は一先ず、彼女が持つそれを受け取りました。やはり、今日の車内で読んだ資料に書かれていた、彼女が歌う予定の二曲の譜面でした。その譜面のあちこちには、既に色々とメモが書き込まれていました。……彼女はライブの情報をいつ聞いて、この譜面をいつ受け取ったのでしょうか?
私は彼女にいくつかの質問をしました。彼女は少し俯いて、星柄のボールペンを弄りながら答えてくれました。
彼女は今日の昼頃からレッスンを受けて、その際にライブのお話を聞いて譜面を頂いたそうです。そして、レッスン後はお菓子を食べながら、ずっとここに居たそうです。共に頂いた音源を聴きながら譜面とにらめっこしていたのでしょう。
ですが、今はもう午後八時頃です。いったい彼女は、何時間ここに居たのでしょうか? とてもお疲れのはずですし、いくらお菓子を食べていたとはいえ……。
「あれ? そういえばりあむさん、寮の晩ご飯は?」
彼女はしばらくポカンとしていましたが、それに気付いたのか「あっ」と声を漏らしながら頭を抱えました。彼女の綺麗なピンク色の髪がくしゃくしゃとかき乱されています。
少し可哀想ですが、食事を忘れるほどの集中力は凄いと思います。志望動機のことがあるのでその意欲がどこまで続くか不安ですが、彼女は努力家かもしれません。だって、今日貰ったばかりのこのツヤツヤでツルツルした譜面が、こんなになるまで書き込んで──待ってください、それはおかしいです。
「これ、ちゃんとコピーしましたか?」
「コピーって、印刷ってこと? してないけど?」
彼女は頭を抱えたまま、不思議そうに首を傾げました。やはりそうですか、彼女は貰った譜面に直接書き込んでいますね。このままでは、何も書かれていない譜面が必要になった時に困ります。私が明日、コピーを用意してあげなくちゃ。
私はりあむさんに譜面を返しました。それを受け取った彼女は、少し口をとがらせながらそれをバッグの中へしまいました。そして、バッグを机の上に置いたまま立ち上がると、近くの電灯へと吸い寄せられるように歩いていきました。色々なことがショックだったのでしょうか?
彼女は電灯に近付いて東の方を見ました。そして、その姿を見て私はぎょっとしました。私は譜面や彼女の顔ばかり見ていて気付いてませんでしたが、彼女の服装は、なんともこう、凄かったです。
彼女はガイコツでした。白地で半袖のダボダボとしたTシャツの前面に、人体模型のような背骨や肋骨や骨盤などが描かれていました。そして、胸元にはピンク色でハート型の毛玉ちゃんが居ました。その毛玉ちゃんには目玉も付いてました。少し怖いです。
私の視線に気付いた彼女は、自慢するかのようにその服の裾をピンと伸ばしました。そして、電灯の光をスポットライトにしながら、その場でくるくると回りました。その動きや手付きなどは美しかったですが、如何せん真っ白くてガイコツです。おまけに頭がドピンクです。確かに可愛いですが、おばけみたいで不気味です。
彼女は右手をこちらへ突き出して、満足そうに決めポーズをしました。
「どうよ、今の動きはガチモデルだな? これもレッスンのたまもの!」
モデルらしかったかは分かりませんが、彼女のウキウキとした様子が伝わりました。
「……良いとは思いますが、その格好では風邪をひくかもしれません。アイドルなのですから、体調管理には気をつけてくださいね?」
「ありすちゃんマジメだな? もっと優しい言葉をくれよーう」
彼女は突き出していた右手を力無く下ろしました。よく見れば、その右手の小指には、センターストーンがお薬のカプセル型になったピンキーリングが付けられていました。ブレスレットやチョーカーなどのアクセサリーも沢山付けていますし、両耳にはカプセル型のモチーフの耳飾りも付けていました。カプセル型、流行っているのでしょうか?
よく見ればりあむさんが手招きをしていました。私は彼女のバッグや筆箱などを持って、彼女の元へ向かいました。
「はい、どうぞ。貴重品はキチンと管理してくださいね?」
「おお、ありがとー! ほらほらありすちゃん、あれ!」
バッグを片手で受け取った彼女は、もう片方の手で東の方の空を指差しました。
月でした。少し低い位置にある、とても明るいまん丸のお月さまでした。とても、綺麗でした。彼女はその満月を指差しながら語りだしました。
「今日は満月! しかも、ありすちゃんと出会ってちょうど半月の記念日! 新月が引き合わせた素敵なこの出会いは、星の瞬きを吸い込み束ねながら、満月の絆となって今まさに成就すゆッ! 的な?」
そして、彼女は私に向かって笑顔を見せました。その素敵な表情は、月明かりも相まってとても輝いていました。彼女には夜が似合っていますね。でも、先程のポエムでは満月の絆と言いましたが、満月だと明日から欠けてしまいます。野暮かも知れませんが、それで大丈夫でしょうか?
それにしても、もう半月ですか。
最近は普段よりも時の流れを早く感じます。彼女がステージに立つまであと二ヶ月ほどしかありません。このままで果たして間に合うのでしょうか? そして、仮に間に合ったとして、その後はどうするのでしょうか?
今後二ヶ月間の彼女は、ライブへ向けたレッスンに追われるでしょう。それ以外のお仕事やオーディションを受ける余裕はないかもしれません。アイドルは歌が歌えるというだけでは難しい世界です。ましてや彼女はまだ新人です。まともに認知もされていません。いくら事務所がお仕事を用意してくれても、すぐに限界が来ます。まずはオーディションの──。
「──の、あの!」
「は、はい。なんですか?」
「ありすちゃん、もしかして怒ってる……?」
彼女は私の腕にそっと触れながら、じっと私を見つめていました。その瞳はうるうると潤んでいて、唇は少し噛み締められていました。
どうしよう。なんだか怯えられているようにも見えます。私は彼女に背を向けてじっくり考えました。彼女を元気づけたり、あるいは仲良くなるために。プロデューサーさんによろしく頼まれたので、仕方なくです。はい。
……そうだ、良いことを思い出しました!
パンッ!!
つい、手を叩いてしまいました。夜だから静かにしろと言ったのに、勢いに任せて大きな音を鳴らしてしまいました。反省です。いえ、そんなことより。
「そうですよ、りあむさん。今度一緒に……って、あれ?」
振り向くとそこには、小さくうずくまるりあむさんが居ました。少し震えています。彼女が持っていたバッグは地に落ちて、その中からは筆箱やボールペンが飛び出していました。
その直後、遠くの方からプロデューサーさんの声が聞こえてきました。そういえば彼の存在を忘れてました。
「ありす、遅れてすまない。で、こっちはりあむか。どうしたんだ?」
私は彼に、大きな音を立てて彼女を驚かせてしまったことなどを説明しました。それを聞いた彼は手をあごに当てながら少し考え込みました。
私はりあむさんの隣にしゃがみ込んで、彼女に謝りました。でも、彼女から返事がありません。寒そうな震え方をしています。こういう時はどうしたら……。
その時、プロデューサーさんが「任せておけ」とだけ言って、手で払い除けるような合図を私にしました。彼女は自分に任せろ、という意味だと思います。彼がそう言うのなら、りあむさんは任せます。
私は先に、彼の車の方へと向かいました。
コツコツと音を立てる石畳。空に光るは静かな満月。
なんだか、星空が肌寒く感じられます。
貴方がそこに
居る
でも あなたではない
きっと
置いてこられた
みゃあみゃあと
鳴く
声は
遠く
二人きりの
世界 なのに
増える
キーキーと わらわらと
くるしい くるしい
私はだあれ
もう
目があかないの
きゅーってしまる すべてが
共に立つもの
「すまんな、ありす。月曜日だってのに付き合わせて」
「問題ありませんよ。元々用事がありましたし、りあむさんの衣装は私だって気になりますから」
五月二十日、月曜日、事務所内の衣装室。
私はりあむさんのために学校帰りに事務所に寄りました。といっても、たまたま事務所に戻る途中だったプロデューサーさんの車に乗せてもらったので、不便はありませんでした。
りあむさんは現在、この衣装室の奥にある更衣室にて、彼女専用のステージ衣装に着替えています。スタイリストさんと共に入室した時の彼女は少し緊張した面持ちでしたが、今は奥から彼女の嬉しそうな声が聞こえます。内容は分かりませんが、よほど興奮しているみたいです。
彼女と出会って二週間ほど。彼女はまだまだ不十分です。だからこそ、私も少しは協力したいと思います。何をすべきかはまだ分かりませんが、彼女の頑張りに応えたいです。
ライブを欠席されても皆さんに迷惑が掛かりますし、あくまで共に立つものとしての協力です。
「ところでプロデューサーさん。もう衣装が完成してるのですか? 早すぎませんか?」
「まあ、所属からもう一ヶ月だし、スタイリストさんも凄い。あと、他衣装のリメイクってのもあるな。ちなみに、水色のドレスをナース服にしたような感じだ!」
なるほど、あまり想像がつきません。昨夜のガイコツTシャツのイメージが残っているので、余計に思い浮かびません。おばけさんが医療従事者に転職したのでしょうか?
少し後に、奥の更衣室からスタイリストさんと共にりあむさんが出てきました。なので、私はすかさず耳を塞ぎました。
「ど、どう……?」
「ビューリホー! ワンダホー! 流石は俺が見込んだメロメロりあむちゃんだっ!!」
「え、えへへ……」
私の予想通り、プロデューサーさんは大声を上げました。特に今回は普段以上の声量でした。耳を塞いだままでも何を言ったのかが大体分かりました。りあむさんの発言は私の想像ですが。
私は様子を確認しながら防御姿勢を解除しました。りあむさんは私の様子を不思議そうに見ていました。そして、彼女はスカートの裾を握りながら、心配そうに衣装について尋ねました。
彼女の衣装は確かに、水色のドレスでナース服でした。
パニエでふくらんだ淡い水色のワンピース。白のエプロンとナースキャップを付けていて、それらの所々にピンク色の縁取りがあります。その縁取りにはなぜかファスナーも使われています。全体としてはとても可愛らしい印象の衣装でした。
「りあむさん、その場で回ってくれますか?」
彼女は遠慮がちに「うん」と言いながら、その場でくるりと回りました。昨夜の星空のステージとは違って、少し恥じらいを見せた乙女な動きでした。
「……はい、可愛いと思いますよ」
「ほ、ほんと? みんなもチヤホヤしてくれる!?」
彼女の後ろ姿も確認しました。その腰元には天使の翼のような飾りがありました。
そして、胸元などに付いた、ハートに星が二つ付いたような柄が印象的です。ボリュームのあるスカートと同様で、彼女の大きな胸を目立たなくさせるためのデザインかもしれませんね。彼女の髪色に合わせた水、白、ピンクの三色の色使いも、よく考えられていると思います。
彼女の尖った外見を活かしつつもマイルドに表現して、彼女を小さくて愛くるしいナースの妖精さんに変身させています。翼もあるので天使さんかもしれませんね。ピンク色のチョーカーなども──。
「あ、ありすちゃん?」
「は、はい!」
「ぼく見ながらめっちゃうなってたけど、もしかして怒ってる……?」
彼女を見ると、今にも泣き出しそうな表情をしていました。そして、脇を締めて両手を胸の上に置き、人差し指を突き合わせていました。む、胸が大きい……。
どうやら私は、彼女をまじまじと見すぎていたみたいです。昨夜の彼女の私服と違って、とても愛くるしい衣装だったので……。
昨夜のことを考えているうちに、私は本来の用事を思い出しました。
私はバッグからあるものを取り出して、りあむさんに手渡しました。彼女は首を傾げながらそれを受け取りました。
「なんだこれ? ……あ、譜面!」
私は昨夜彼女に言ったように、彼女のために譜面のコピーを用意しました。今日はこれを渡たかったのです。無記入の譜面は練習においてやはり必要です。初ライブを控えた彼女には毎日が重要なので、早急に用意すべきという判断でした。
「各二部ずつ用意しました。それぞれ一部には何も書き込まずに、必ず大切に取り扱ってくださいね」
私は少し心配だったので、わざと口に出して説明しました。彼女は受け取った譜面と私とを交互に見ています。
「え、えっと、いくら払えば良いんだ?」
「それはプレゼントします。コピー代は構いませんよ」
「プレゼント……! ありすちゃん、ありがとう!」
想像していた以上に喜ばれました。それだけ彼女はライブに意欲的なのかもしれません。嬉しいですね。まだ衣装を着ているタイミングで手渡したのは間が悪かったかもしれませんが、これでミッション・コンプリートです。
そんな時、プロデューサーさんが手をポンと叩きました。
「そうだ、良いことを思い出した。お前たち二人に、会わせたい人達が居るんだ」
私たちがプロデューサーさんに連れられたのは、とあるレッスンルームの前でした。きっと、彼が会わせたい人たちがここに居るのでしょう。時刻を考えれば、そろそろレッスンが終わるはずです。
プロデューサーさんが先に一人で入室しました。私はレッスンルームの前の廊下で、りあむさんと二人きりになりました。
彼女は時折つま先立ちをしながら、扉の方をじっと見つめています。「ふう」と溜め息をついたり、バッグだけをゆらゆらと揺らしたりもしています。彼女は気もそぞろといった様子です。
「誰に会うのか、不安だったりしますか?」
「……いや、何もないし」
笛吹けども踊らず、です。
しばらくして、レッスンルームの扉が開いてトレーナーさんが出てきました。彼女は私たちに「お疲れ様です」と挨拶をすると、そのままどこかへ去りました。
そして、中に居るプロデューサーさんに「入っていいぞ」と促されました。りあむさんは動く様子がないので、私からお先に入室します。
室内に入ると、プロデューサーさんの隣に
木場真奈美さんと
相葉夕美さんのお二人が居ました。私が挨拶をすると、お二人も笑顔で手を振ってくれました。お二人は練習着を着ていて、タオルや飲み物を手にしています。彼女らに近付くと制汗剤の香りがほのかにしました。
彼女たちは七月のライブに共に参加する、もう二人のアイドルたちです。
真奈美さんは、切れ長で濃いグリーンの綺麗な瞳を持つ、いわゆる何でもこなせる王子様的なアイドルです。顔もスタイルも歌声も全てが美しくて、その茶色のショートヘアをかきあげるだけで男女問わず沢山のファンが魅了されてしまいます。
夕美さんは、ガーデニングが趣味の明るいフラワーアイドルで、世界中のお花の美しさと愛おしさを凝縮させた妖精さんのような方です。フリートークがお得意で、ラジオのパーソナリティも務めています。
少ししてから、りあむさんがそろりそろりと入室してきました。それに気付いた夕美さんが、いち早く彼女に声をかけました。
「あっ、あなたが例の新人アイドルさんですね? はじめましてっ♪」
「……へ、シオン様? 本物のシオン様だ!」
りあむさんは夕美さんを見て非常に驚いています。同じく私も驚いています。誰ですかシオン様って。
「おや、どうやら君は、私たちのドラマのファンのようだね」
「ヤナギ様も居る!? なにこれ、天国!?」
今度は真奈美さんの事をヤナギ様と呼びました。りあむさんはお二人のそばに駆け寄って、お二人の顔を交互に何度も見ています。なんだか、私だけが蚊帳の外です。
彼女は私の方に振り向いて、こう尋ねました。
「あれ、ありすちゃん知らないの? 『ハニーズ・ラブ』って連ドラ!」
連続ドラマ、『ハニーズ・ラブ』。私の記憶では、ニ年ほど前に放送されて話題になったTVドラマだったと思います。
真奈美さんと夕美さんがダブル主演を務めたラブストーリーで、当時十六歳だった夕美さんが真奈美さんとの同性愛を演じたことで、色んな意味で反響があったとか……? 私は観ていないので、内容は詳しく分かりません。勉強不足です。
「ふふっ。ありすちゃん、気にしなくても良いよっ♪」
「実は同性愛は主題じゃないんだが、そこまで知って貰えているなんて、嬉しいよ」
夕美さんは柔らかく笑いながら、そして真奈美さんは美しく、そう言ってくれました。このお二人の魅力が、ドラマの人気の理由かもしれませんね。
りあむさんはその『ハニーズ・ラブ』の大ファンのようなので、内容について詳しく聞きた──って、あれ?
「ううぅ……。シオン様が……ぐすん……生きてりゅ……マジ尊み溢れてる……」
ご、号泣してました。彼女は夕美さんの目の前でひざまずいて両手を組んでいました。まるで崇拝者です。どうやら彼女はかなり熱狂的なファンのようですね。ますますその内容が気になってきましたが、それどころではなさそうですね……。
私たちが居るこのレッスンルームは、これから一時間ほど予定が入ってないみたいです。プロデューサーさんは「次が来るまで自由に使っていい」と言って退出しました。今の室内には、床に座っている私たち四人だけです。
「まさかぼくなんかが……シオン様やヤナギ様と共演できるなんて……!」
りあむさんは未だに夢見心地です。夕美さんがシオン様で、真奈美さんがヤナギ様でしたか。話がややこしくなるので、りあむさんにはお二人のことを普通に呼んでもらうように頼みました。
「……ところで、りあむさん。お二人との共演がそれほど嬉しいのですか?」
「当然! あのドラマはぼくの救世主だし!」
TVドラマって人の命まで救えるんですね……。変な意味ではなく、素直に凄いなと思いました。
でも、それほど好きなお相手との共演を、なぜ彼女は知らなかったのでしょうか。この間受け取ったライブの資料にも書かれていたはずなのですが。
そんな私の呟きを聞いた彼女は、目を丸くさせながらバッグの中をゴソゴソと探し始めました。そして、彼女はそこから資料らしきものを取り出しました。
「あれ、ほんとだ。書いてあったか……」
「それだけ重要な事を、どうして見落としたのですか?」
「まあまあ、ありすちゃん。あんまり怒っちゃダメだよ? きっとりあむさんは、忙しくて見落としただけだよ。ねっ?」
怒ったつもりはありませんでしたが、夕美さんにたしなめられました。私、そんなに怒っているように見えるのでしょうか……?
りあむさんは資料を片手に首を傾げています。そして、彼女は眉間にシワを寄せながら髪をボサボサとかいています。折角の綺麗なピンク色の髪なのに、彼女はその扱いが雑に見えます。勿体無いです。
急に真奈美さんが「フフッ」と笑いました。彼女は切れ長の瞳を更に細めて、なぜか楽しげな表情をしています。なぜ笑われてしまったのでしょうか?
「いや、ありすとりあむは、仲が良さそうだなと思ってね」
彼女は人差し指を立てながらそんなことを言いました。今の私たちのどこに、そんな仲良しな様子があったのかが分かりません。
「そんなありすに、りあむに関するクイズを出してやろう」
「あっ、りあむさんクイズだねっ! パチパチ~♪」
どうしてこうなったのでしょう。真奈美さんや夕美さんは楽しそうにしていますが、当のりあむさんは「おぉー?」と困惑した声を出しています。
真奈美さんは自身のスマホを取り出すと、早速出題をしました。
「では第一問。夢見りあむの誕生日は?」
「はいはい! ぼくは九月十二日生まれだよ!」
「ふふっ、正解ですね。さすがはりあむさんっ♪」
りあむさんは自分の誕生日を答えて元気にガッツポーズをしました。お二人から褒められて嬉しそうにもしています。なんですか、これは。そもそも私に出題されたのでは?
「まあ良いじゃないか。続いて第二問。解答者はありすだけだ。では、夢見りあむの趣味は?」
「え、えっと、なんでしょうね……少し待ってください」
当ててみせます。頑張りますよ。
お二人に会ってあれほど感動したのですから、おそらくTVドラマはお好きでしょう。それに、彼女は夜がお好きなようです。夜空を見上げながらよくポエムを口にします。
「えっと、ドラマとポエム、ですか?」
「フフ、素晴らしい回答だ。ほぼ正解と言っていい。正解は『夜中の意味深ポエム、現場参戦』だそうだ」
「だいぶ違いませんか?」
現場参戦とはおそらく、アイドルのライブなどを会場まで観に行くことでしょう。そんな表現を聞いたことがあります。夜中の意味深ポエムは、なんでしょうね。ただのポエムとどう違うのでしょうか。
「そういえば、真奈美さんはどうして、そんなことまでご存知なのですか?」
「フッフッフッ……。私は何でもできる、罪な女だからさ……」
彼女は髪をかきあげながらそう言いました。そんな彼女の横に座っていた夕美さんが口を開きました。
「あのね、最近りあむさんのプロフィールが公開されたんだよっ」
「おっと、バレてしまったか」
真奈美さんはウインクをしながら持っていたスマホの画面を見せてきました。なるほど、確かに色々と公開されています。スリーサイズが『でっかい』や『たぶんふつう』になっていたり、出身地が『やさしい世界』になっていたり、とてもイロモノなプロフィールです。
「ぼくも知らなかったんだけど!? なに、こないだのアンケート公開されちゃうの!?」
りあむさんは分かりやすいほどに頭を抱えています。何も言うまい、という感じですね。
真奈美さんと夕美さんはそんなりあむさんの左右に座り直しました。
「りあむ、これで君も、歴としたアイドルということだ」
「楽しみですね、りあむさんっ♪」
お二人ともまるで我が子を愛でるかのように、りあむさんの頭を優しく撫でています。彼女の笛のように甲高い声が室内に響きました。
少し落ち着きを取り戻したりあむさんから、とある動画を見せてもらいました。真奈美さんと夕美さんが出演したという、例のドラマのエンディングの映像でした。星降る夜と光り輝く町並みとを背景に、陽気なジャズのような曲調の歌をお二人が歌っていました。特に、格好良さと少しの哀愁を見せている真奈美さんが、とても素敵でした。
そして、その後のりあむさんと私は、お二人から軽くレッスンを受けました。といっても、私は制服のままですし、数十分後には次の利用者が来ます。振り付けの細かな仕草などを確認してもらった程度です。それでも、りあむさんは普段の更に何倍もの元気の良さと真剣さで、レッスンに取り組んでいました。短い時間でしたがとても有意義な経験になりました。
りあむさんは大の字で仰向けになりながら、体も顔も全てを脱力させています。その横に夕美さんが座っています。
「ありすちゃん、りあむさん、お疲れ様ですっ♪」
「えへ、えへへ……ぼく、しあわせ……」
りあむさんは緩みきった顔のままです。疲れた時とはまた違ったとろけ方をしています。そんな和やかな空間を切り取るように、不意に「パシャリ」と音がしました。
「ふふっ、りあむさんのベストショット、頂きましたっ♪」
いつのまにかスマホを構えていた夕美さんが、りあむさんの写真を撮ったみたいです。床の上でとろけていた彼女も、さすがに声を上げながら体を起こしました。
真奈美さんは夕美さんに後ろから抱きつきながらスマホを覗き込みました。彼女はそれを見ながら「良い表情じゃないか」と微笑んでいます。お二人に弄ばれているりあむさんは、何度も「なんなの!?」と叫びながら、わたわたと手を振り回しています。
夕美さんは視線をスマホの画面からりあむさんへと向けました。彼女はまたニッコリと笑いました。
「ごめんなさいねっ。じゃあお詫びに、今度はみんなで撮りましょう♪」
彼女はりあむさんのすぐ近くに座り直すと、お互いのほっぺたを引っ付けました。それを受けて、りあむさんは耳まで真っ赤になりました。二つの意味で、おしに弱いですね。
「ほらほら、ありす。私たちも一緒に写ろうか」
私は抵抗する間もなく真奈美さんに肩を掴まれて、りあむさんの後ろに連れられました。いえ、元々抵抗する気はありませんが、あれよあれよとことが進んでいて驚きます。
「じゃあ皆さん。撮りますねっ♪」
夕美さんがそう言った直後には、既に写真を撮られていました、お二人とも全てのテンポが速すぎます。そう思っている間に続けざまにシャッター音が響きました。
りあむさんは後ろから見ていても分かるほどに緊張した様子です。今にも逃げ出そうとした瞬間、彼女は真奈美さんに肩を掴まれてしまいました。
真奈美さんは「次は私の番だ」とだけ言うと、いつの間にか用意していたスマホを構え──既に写真を撮られていました。私たちはされるがままで、感想が全然追いつきません。
お二人は気の済むまで集合写真を撮ると、わなわなと震えるりあむさんを引っ張り上げました。そして、次はお二人のためだけのりあむさんワンマンショーが開催されました。お二人とも、りあむさんのことをよほど気に入ったようです。
りあむさんはまるでお人形さんのように、ポーズを指示されてはひたすらに写真を撮られています。彼女の顔は真っ赤で瞳も薄っすら濡れていますが、お二人のために頑張って笑顔を作っています。視線も定まっていなくて、完全に勢いに飲まれた様子です。
そんな様子を見ていると、なんだかこちらまで楽しくなります。私は「ふふっ」と声を漏らしてしまって、口を覆いました。……なぜ私は、笑ったことを恥ずかしく思ってしまったのでしょうか。
藍の鈴の音が響く
五月二十五日、土曜日、後部座席。
清々しいさつき……青空が窓の外に広がっています。プロデューサーさんの運転する車の後部座席には、りあむさんと私の二人が座っています。
「今日はりあむさんも一緒なのですね」
「うん! Pサマがね、今日のミニライブは絶対! 見とけ! と!」
「そうですか。勉強熱心なのは良いことだと思います」
「うぅ……かぁー!」
いたいいたい、痛いです。そんなに叩かないでください。嬉しいのは伝わりましたが、どうしてそんなに上機嫌なのでしょうか?
「だってだって! 『インディゴ・ベル』だよ!」
それから彼女は、そのアイドルについて嬉々として語ってくれました。彼女は現場参戦が趣味と言うだけあって、様々なアイドルのことがお好きなようです。
「アイドルはみんな好きだよ! 中でも『インディゴ・ベル』は尊さハイボルテージでマジでモンゴリアンチョップ!」
そして更に上昇する彼女のボルテージ。言葉の意味は分かりませんが、気持ちは何となく伝わりました。でも、車内ではあまり暴れないでほしいです。
「でもでも、ありすちゃんだって、そんなおめかししてさー! 楽しみだったんでしょ!? 可愛い!」
私の今日の服装のことを褒められてしまいました。でも、私は浮かれているからこの格好をしているわけではありません。
今日は都内のとある国立公園──私たちが七月にライブを開催する場所ですね──にて、『インディゴ・ベル』のミニライブ&ミニトークショーが開催されます。プロデューサーさんはそこへ向けて車を運転してくれています。
『インディゴ・ベル』は
高森藍子さんと
道明寺歌鈴さんのお二人のユニットで、それぞれの名前から藍と鈴を取って英語に訳したのが、ユニット名の由来らしいです。
藍子さんは、軽くウェーブの掛かった栗色のポニーテールが印象的な、いわゆる森ガール的な女性です。とっても『ゆるふわ』な方で、一緒に居る方をまったりとさせてしまう独特の雰囲気を持つアイドルです。
歌鈴さんは、神社がご実家の巫女さんレディーで、自他ともに認めるドジっ子です。事あるごとに転んだりしながら、そのショートヘアを揺らしています。
共に高校生のお二人は、観る者を癒やすような心地よさもあって、事務所内でも人気の高いアイドルユニットの一組です。もっとも、私たちの事務所は人気の高いユニットばかりですけど。
今日の私は、そんな彼女たちのステージにゲスト出演するのです。短い時間のトークだけですが共演が楽しみです。私は窓の外の青空を見ながら、ステージの上で何をお話しようかを考えていました。
そこでふと、車内が妙に静かだということに気付きました。横を見ると、つい先程まで騒がしかったはずのりあむさんが、静かに瞳を閉じていました。彼女は両手を胸の中にしまいこんで車のドアにもたれ掛かっています。姿勢が悪いせいなのか、寝息のようなものが少し不規則です。
「……きっと疲れているのだろう。今は休ませてやれ」
プロデューサーさんは静かにそう言いました。彼の表情はよく見えません。
私はこの状況をすんなりと受け入れる彼に少し驚かされました。彼女が急に騒ごうが静かになろうが、彼はどんなときでも彼女を篤く信頼しているように思えます。上手く表現できませんが、そこの不思議さに私は驚いたのだと思います。
私は彼に「過保護すぎませんか?」と質問しました。そして、私は思いついたままに自分の考えを話しました。
プロデューサーさんはりあむさんを守り過ぎといいますか、とても甘いです。
確かに彼女は頑張っています。この前の真奈美さんや夕美さんとの出会いから、彼女は更に真摯にレッスンに取り組んでいるみたいです。でも、プロデューサーさんは彼女を少しのことですぐ褒めたり、大きな声で可愛いと言ったり、甘やかし過ぎにも思えます。
たった二ヶ月や三ヶ月のレッスンで二曲ライブで歌えというのも少し酷かもしれません。だって、彼女はアイドルとしての経験も、歌や踊りの基礎の基礎も、何もない状態からのスタートですから。ただ、そのライブも結局は事務所に用意してもらったステージです。そして、彼女はそれまでの間にレッスン以外の、例えば営業やオーディションの予定はないらしいです。
彼女を悪くいうわけではありませんが、他に何も経験せずにライブだけ享受しようというのは、少しズルいと感じます。それが事務所の方針なら仕方ないですが、このままでは彼女の未来が見えません。ただ一度だけライブを経験して、その後は鳴かず飛ばずになる可能性もあります。
彼女のためにも、もっとじっくりと時間を掛けて成長させてから、彼女をお披露目するべきだと考えます! だって、私も彼女が立派なアイドルにな──。
「──ありす、声が大きくなってるぞ」
「……あっ」
私は慌ててりあむさんの方を見ました。彼女は瞳を閉じたまま、ゆっくりと落ち着いた呼吸をしていました。今の彼女はちゃんと眠っていると思いますが、少しうるさくし過ぎたかもしれません。
「……すみませんでした、りあむさん」
私は小声で謝ってから、窓の外を見ました。過ぎ去ってゆく景色は、なんだかカラカラとしています。
目的地である国立公園に到着しました。
梅雨を目前に控えた五月下旬。その先に控える夏を待ち望むような園内の新緑たちと、爽やかな風。そして、芳しきソースの香り……。暴力的な香りのせいで、急に情緒がなくなりました。
広い公園の中にある、草原っぱらのようなエリア。そこにはライブステージと様々な屋台が組まれていました。屋台では美味しそうなお食事も売られているようですが、焼きそばの香りしか分かりません。なんだか、一足早い夏祭りといった雰囲気ですね。
そんな賑やかな会場の雰囲気とは裏腹に、私の隣のりあむさんは重々しく「はあ、やむ……」と声を漏らしています。プロデューサーさんから渡されたらしいツバの広い帽子を被っているせいで、彼女の顔色は余計に暗く見えます。
「何なん……せっかく屋台とかあるのに……行きたいよう……めっちゃやむ……」
どうやら彼女は、プロデューサーさんから釘を差されたみたいです。禁欲を強いられた彼女はいじけた子供のように、私の袖を掴みながら狭い歩幅で付いてきています。これではどちらが年上か分かりません。
それに、彼女は咳と溜め息が混ざったようなものをついています。車内ではしゃぎ過ぎて体調を崩したのでしょうか? それとも、空腹のせいでしょうか? 私もソースの香りのせいでお腹が空きました。
そんなりあむさんを慰めるように、プロデューサーさんがスマホを取り出して彼女に見せました。彼はなんだか得意げな表情をしています。
「ふっふっふー! りあむ、この写真に見覚えはないかーい?」
「……あっ、こないだ撮ったやつ! あれ、でもこれ……?」
私も立ち止まって覗き見ました。彼がりあむさんに見せたのは夕美さんのSNSのアカウントでした。彼女は以前に真奈美さんたちと共に四人で撮った集合写真を、SNSに投稿していたみたいです。
この集合写真、撮る気満々だった夕美さんたちはともかく、不意を突かれていた私たちの表情が少し固いです。りあむさんに至っては呆けたように口が半開きです。要改善ですね。
この投稿に対して夕美さんのファンの方々から様々なコメントが届いています。よく見れば、その中にはりあむさんや私に対するコメントまでありました。
「いいか、りあむ。お前にも、既にファンが居るんだ」
プロデューサーさんのその言葉を聞いたりあむさんは、腑抜けた声を出しました。
私も少し驚きました。彼女に興味を示す方は確かに居ますが、彼女はまだ対外的な露出がほぼありません。彼女の情報といえば、最近公開されたプロフィールと、この集合写真くらいです。……それでも、見てくれている優しい方は居るのですね。
プロデューサーさんはスマホを仕舞いながら話し始めました。
「人は何処からでも、どんな切っ掛けからでも、それを好きになれる。愛したい、認めたい、護りたい。そう思った瞬間からファンなんだ。お前ならよく分かるはずだ。りあむ、さっきのコメントにあった通り、既にお前に注目し始めたファンが居る。お前を愛する者が既に居る。だから、お前はもう、その人にとってのアイドルなんだ」
彼の熱いお言葉を聞いて、りあむさんはとても感動した様子を見せています。
「ぼくが、アイドル……目立ってる!?」
「でも、りあむさん。アイドルでしたら、行き過ぎた行動は謹んでくださいね。プロとして、当然です」
「……うん!」
彼女は頷くと、私の袖からゆっくりと手を放しました。袖には彼女の手形が残っていましたが、それはゆっくりと解けて、次第に元通りになりました。
間もなくミニライブが開幕します。私たちは観客の集団の端の方に座りました。
「はむあむ、これ、おいひいな」
「食べながら喋らないでくださいね、新人アイドルさん」
「んぐ、んぐ」
りあむさんは鼻歌を歌いながら、呑気に焼きそばを食べています。普段通りの彼女に戻ったみたいです。やはりお腹が空いていたのでしょうか?
「……んぐ、はー! で、ありすちゃんは唐揚げだけで良いの? 焼きそばは要らない? お好み焼きもあるよ?」
「おい待てよりあむ、それ俺のだぞ」
彼女はプロデューサーさんと戯れ合うようにお好み焼きを取り合っています。まるで兄妹喧嘩ですね。
でも、私は焼きそばやお好み焼きを選びません。少し子供っぽいという理由もありますが、一番の天敵は青のりです。私もこれからステージに登るのですから、青のりは危険です。屋台の店員さんに青のり無しをわざわざ頼むのも迷惑でしょうし、仕方ありません。残念ではないです。唐揚げだって美味しいです。
そうこうしている内に、藍子さんと歌鈴さんのお二人がステージに登りました。いよいよ開演です。
藍色の鐘──お二人の名前を考えれば、藍の鈴でしょうか? そんなお二人の凛とした歌声が、園内や客席をまとめて包みます。しっとりと、でもしっかりと、この広場の新緑たちを揺らしています。人の心を動かすのは力強さだけじゃない。そう感じさせるような、私たちの心をつかんで離さない歌声です。
そして、その歌声が聴きながらだと、目に映る全ての景色も更に美しく感じられます。優しい風が命の香りを運んでくれます。その風を受けてそよぐ植物たちも、更に輝いています。まるで、辺り一帯が一つのオーケストラになったようです。目で、耳で、肌で、心で、私たちを抱きしめてくれています。さすがのお二人です。
そう遠くないうちに、私たち四人もここで歌うのです。今まで以上に頑張らなくちゃ……。
「あー、本当メンタル特効薬……。アイドルやっぱしゅごい……」
りあむさんの方を見ると、彼女は両手を合わせながらステージを拝んでいました。少し涙ぐんでいて、合わせた両手にも少し力が入っています。
膝下を見ると、焼きそばやお好み焼きの空きトレーが重なっていました。美食を平らげて感謝を捧げる女性にも見えます。珍妙な光景です。……プロデューサーさん、お好み焼きを奪われたんですね。
さて、それでは私もそろそろ……。
「あれ、ありすちゃんどこ行くの? まだ一曲目が終わったばっかじゃん?」
立ち上がった私を見上げながら、彼女は不思議そうにそんなことを言いました。まさに、ぽかんとした表情です。
「言ってませんでしたっけ。私もこれからステージに登りますよ」
「……は、そなの?」
彼女はあんぐりと口を開けています。てっきり、彼女に伝えてあると思っていましたが、どうやらプロデューサーさんも私も言い忘れていたみたいです。
彼は頬をぽりぽりと掻きながら、彼女に説明し始めました。
「ありすはな、ステージの合間にあるミニトークにゲスト出演するために来たんだ。ということで、ありす、頑張ってきてねー」
「逆に、なんでプロデューサーさんは来られないのですか?」
「まあ、ほら。りあむにステージを観せるには俺も残らないとな。それに俺、向こうに居るはずのプロデューサー、苦手だしさ」
だから会いたくないと。なんですかこの社会人は……。
でも、りあむさんにはステージを観て勉強してほしいですし、かといってアイドルを一人にはできません。考えてみれば当然ですね。
彼女は少し心配そうな表情で私を見上げてました。
「ありすちゃん……本当に行っちゃうの?」
「ええ、すみません。それでは、くれぐれも彼女をよろしくお願いしますよ、同僚さんに挨拶もろくにできないダメプロデューサーさん」
「ええ、お任せください。ご忠告痛み入ります、常にご聡明な橘先生」
私はプロデューサーさんに軽くあっかんべをしてから、ステージ裏に向かいました。何だかんだで、今日もいつもどおりです。
全てはあなた次第
「ありすちゃん! なんかめっちゃすごかったな! やばい!」
「語彙が貧相になってますよ」
「だって! もう! マジで凄かったもん! あそこまで尊さ全開のエモパワーは──げほっ、げほっ」
「はいはい、まずは水でも飲んで落ち着いてください」
『インディゴ・ベル』のお二人のステージは先程、無事に全てを終えました。
私は中盤のミニトークにのみゲスト出演しました。役目を終えてステージを下りた時には、ステージ裏にりあむさんとプロデューサーさんが居ました。それからは彼女と共に、用意されていたモニターからステージ上の様子を観戦していました。
彼女は結果的に、今回のステージを表と裏、観客と演者の両方の視点から体感しました。これは今後もなかなかできない経験でしょうし、彼女にとって良い糧になるはずです。
「あっ、歌鈴ちゃん帰ってきたよ!」
りあむさんが指差した方を見ると、ちょうど歌鈴さんがステージ上からこちらに帰ってくるところでした。彼女は数段しかないステージの階段を慎重に、恐る恐る降りています。
彼女が無事に降りきったタイミングで声をかけました。
「歌鈴さん、お疲れ様でした」
「歌鈴ちゃーん! お疲れ様ー!」
「ふぇっ!? ひゃっ!?」
彼女は驚いてしまったのか、不思議な動きをしながら何もない所で転んでしまいました。彼女のいつもどおりのドジ──と言うには少し可哀想ですね。私たちが声をかけたせいですので。
でも、彼女はすぐに落ち着きを取り戻して、立ち上がって丁寧にお辞儀を返してくれました。りあむさんもそれにつられるように、深々とお辞儀をしました。……妙に他人行儀です。
「お二人とも、同じ女子寮暮らしですよね? 歌鈴さんも彼女とは初対面ではないのでは?」
「そ、そうだけど……。でも、りあむさんは見かけたことがあるだけで、実際に話したことは……」
「ぼくも……女子とか苦手だし……」
お二人はそう言いながら、鏡合わせのように共に俯きました。女子であるりあむさんが女子を苦手というのは、なんだか不思議な理由ですね。
そんな怯え合うお二人の元へ、ステージ上から帰ってきた藍子さんが近付いてきました。彼女はポニーテールをふわりと揺らしながら「お疲れ様です」と挨拶してくれました。そして、りあむさんの目の前まで駆け寄るとその手をゆっくりと取りました。
「夕美さんの写真に写ってらした方ですよね? えっと、夢見りあむさん。はじめまして、高森藍子です♪」
彼女はまるで握手会の時のように愛らしく、体を傾けて自己紹介をしました。
りあむさんは突然の事態に興奮したようです。その場でぴょんぴょんと飛び跳ねたり、握られたその手を振り回そうとして自制したり、とにかく慌ただしいです。その姿がよほど面白かったのか、歌鈴さんは吹き出すように笑いました。次第にりあむさんも落ち着いて、照れ隠しをするように不器用にはにかみました。
『インディゴ・ベル』のお二人が居ると、どんな場でもすぐに和やかになります。今日もそのお二人のお力が発揮されたみたいですね。
ステージを終えた後のお二人は、衣装を着替えるために控え室に向かいました。その頃にプロデューサーさんがどこかからか戻ってきました。
「今まで居なかったんですね。どこに居たんですか?」
「ああ、向こうのプロデューサーと、ちょっとな」
彼は後ろを振り向きながら、少し遠くに居る男性を指し示しました。
あの方は藍子さんたちのプロデューサーさんです。ステージに登る前に、彼とは少しだけ会話をしました。彼は少しお年を召した方で、眼鏡を掛けていました。白髪混じりの短髪と綺麗なあご髭。そして、お年の割に体つきが良くて背筋がピンとしていました。
「まあ、先輩と後輩のただの世間話よ。で、そっちはどうだった?」
私たちはプロデューサーさんに先程のやり取りと共に、藍子さんから提案されたとあることを伝えました。
「そうか、四人で園内を散策したいのか。画になるなあ! よし、あまり遅くても困るが、行ってきて良いぞ!」
「ほんとか!? Pサマやっぱ神だな?」
りあむさんは嬉しそうにプロデューサーさんとハイタッチをしました。飛び上がる彼女を見たプロデューサーさんは、ニヤニヤと笑いながら徐々に手を高くしています。彼のいたずらに対して、懸命に何度もジャンプして応えるりあむさん。ある意味、微笑ましい光景です。
「ありすちゃん、りあむさん、お待たせしました~」
私服に着替えた藍子さんと歌鈴さんが控え室から帰ってきました。
私たちはプロデューサーさんから、一時間ほどの時間をいただきました。これからこの国立公園の中を四人で散策します。
今の私たちが居るこのエリアには自然が多く、新鮮で心地の良い植物の香りが漂っています。なによりソースの香りがしません。素晴らしいです。そんな新緑の瑞々しさを堪能しながら、あてもなくブラブラとしています。
最初は先程のステージの話題で盛り上がっていましたが、自然とりあむさんに関する話題──特に寮内での様子についての内容になりました。
「りあむさん、アイドルに囲まれる生活はいかがですか?」
「あぁー……女子が一杯で怖いな? アイドルだとみんな尊いけど、いざ近付いたら、なんか怖い。いや、優しいけどな? でも正直、ほとんど誰とも話してないよう……」
彼女は他の方にも馴れ馴れしく接していると思いましたが、寮では大人しく生活しているみたいです。むしろ暗い人みたいになっていますね。
一方、歌鈴さんも歌鈴さんで彼女のことを少し恐れていたみたいです。
「だ、だって、髪の毛の色が凄いですし。お食事中もなんだか目付きがギギーって鋭くって、話しかけづらくて……」
お二人とも話しかける切っ掛けがなかったみたいです。でも、実際にお話をしているお二人は和気あいあいとしてましたし、案外すぐに仲良くなれるかもしれませんね。
「……あれ? もしかしてりあむさん、これまで寮内で独りぼっちだったんですか?」
「そんなこと言うなし! りあむちゃんがやんじゃうよ!? いいの!?」
彼女は力強く病むと宣言しました。口調と内容が噛み合っていなくて、感情がなんだかあやふやですね。
そんなりあむさんに対して藍子さんがそっと「大丈夫ですよ」と言いました。彼女は立ち止まると、りあむさんの手をゆっくりと包み込みました。
「りあむさんはこれからですよ。だって、あなたは可能性の塊ですから♪ 愛ですよ。愛があなたを染め上げます♪」
「愛染め……?」
「はい、愛です。美しく咲くにも、可憐に装うにも、なにかを目指すにも、愛が大事だと思います。あなたの持つ愛情がアイドルとして輝かせます。全てはあなた次第、です♪」
「ぼく次第……」
藍子さんはりあむさんの手を取ったまま、じっと彼女の瞳を見つめています。
「りあむさん、今度のライブ、楽しみにしていますね♪」
藍子さんの決め台詞を受けたりあむさんは、体を縮めながら小さい声で「うん」と言いました。あ、耳が赤いです。
「ふふっ、無理しない程度に頑張ってくださいね」
藍子さんは柔らかい表情を更に柔らかくして、ゆったりと空を見上げました。夏が近付くのを予感させるような、きれいな水色。そして、所々に浮かぶ白い雲と澄んだ空気。空が明るく輝いているみたいです。
お次は小川と木々の美しい場所までやって来ました。水のせせらぎの音とともに、遠くから小鳥の声が聴こえてきました。
ホッキョッ、ホキョキョキョッ。ホッキョッ、ホキョキョキョッ。
「おぉー。ほーほけきょ?」
「ウグイス……ではないと思いますが」
ホッキョッ、ホキョキョキョッ。
「あの声はホトトギスですよっ」
答えてくれたのは歌鈴さんでした。さすがは巫女さん──は関係あるのでしょうか?
またホトトギスの声が聴こえてきました。
ホッキョッ、ホキョキョキョッ。
「特許、許可局。みたいな鳴き声ですね」
「たしかに、ほーほけきょではないな? 藍子ちゃんはどう聴こ……あれ?」
振り向いても藍子さんは居ませんでした。周囲を見回すと、少し遠くの方で身を屈めた彼女が居ました。彼女はカメラを構えながら、遠くの木へ向けてじりじりと歩を進めていました。普段のゆるふわ具合とは打って変わって、あっという間の臨戦態勢です。
彼女がにじり寄る木の上には、小さいですが何かが居ます。りあむさんはそれを指差しながら「カッコウじゃん!?」と叫びました。それを歌鈴さんが制しています。
「りあむさん、あれがさっき鳴いてたホトトギスさんだと思いますよっ!」
遠いのでハッキリとは見えませんが、木の上に居るそれは頭や羽などは黒っぽくて、お腹はしましま模様に見えます。
「歌鈴さん。カッコウとホトトギスの姿って、どうやって見分けるんですか?」
「はわっ!? な、鳴き声は全然違うけど、見た目はちょっとわかりましぇん! あぅ……」
りあむさんは腕組みをしながら少し考えています。
「なきごえ……。じゃあカッコウの鳴き声ってどんなだ?」
「カッコウですよ」
「カッコウですねっ」
「かっこう……かっこう……? かーっこう……かっこう?」
彼女はすぐにピンと来なかったのか、何度も「かっこう」と呟いています。あまりにも何度も鳴くので、油断すると吹き出しそうになります。
「りあむさん、カッコウの鳴き声といえば、鳩時計ですよ」
「え、ハトじゃないの? だって、一二時とかになったらハトが出てきて、ちゃんとカッコウカッコウって……カッコウじゃん!」
彼女は叫びながら両手で私を指差しました。さすがに思い出してくれたみたいです。彼女は思い出せたことが嬉しかったのか、私の背中をバシバシと叩いています。私、事ある毎に叩かれてますね……。
写真を撮っていた藍子さんが戻ってきました。
「お、藍子ちゃんすごい! はやくカッコウ見せて!」
「りあむさん、ホトトギスです……」
私たちは四人で顔を寄せ合って、藍子さんが撮った写真を見ました。そこには上下に並んで木に止まっている二羽のホトトギスが写っていました。
「ホトトギスは警戒心が強いですからね。気付いても騒がずに近付きすぎない。遠くから優しく見守ってあげるのが、写真を撮る時のコツですよ♪」
そのコツのおかげか、とても自然な様子のホトトギスの姿が切り取られていました。
「ふふっ。こういう写真を撮ると、季節を感じられて良いですね♪」
「『
目には
青葉山ほととぎす
初鰹』とも言いますからねっ。ホトトギスさんは初夏の訪れを感じさせる代表格ですよっ」
歌鈴さんの解説を聞いたりあむさんは、少し大袈裟に拍手をしながら彼女を褒めました。
「ねえねえねえ! 他にはどんなのがあるの!? ホトトギスで一句!」
「ふぇっ!? あ、あの、沢山は知りませんよ!? ああでも、面白い句といえば『あの
声で
蜥蜴食らうか
時鳥』なんて句もありますねっ」
ホトトギスってトカゲも食べるんですね……。見かけによらず結構な肉食系みたいです。
「あとあと! ホトトギスってあれだな? ほかの巣に卵とか産んじゃうやつ」
「托卵ですねっ。卵を産むどころか、産まれたばかりのホトトギスの雛さんが、元々巣に居た雛さんや卵を巣の外に落としたり……」
ホトトギス、先程から物騒です。
そんな会話を聞きながら、藍子さんはずっと「ふふっ」と笑っていました。彼女は写真に撮ったホトトギスが居る、遠くの木を見つめていました。私は彼女に笑っていた理由を尋ねました。
「あの二羽のホトトギスがなんだか、りあむさんとありすちゃんみたいだなと思いまして」
私にはそれが分かりませんでした。理由を聞いても、彼女は人差し指を唇にあてながら「秘密です♪」と目を細めるだけでした。
どこか不気味な彼女の視線の先。二羽のホトトギスはそれぞれ異なる方を向きながら、別れるように飛び立っていきました。
クレマチスを閉じ込めて
五月二十六日、日曜日、レッスンルーム。
昨日から一変してどんよりとした雨模様です。今はまだですが、この地域ももうじきに梅雨入りらしいです。大半のレッスンは屋内なのであまり支障ないですが、どんよりした空気は気分の良いものではないです。
でも、私の隣で休憩するりあむさんはそのジトジトした湿気をものともせず、先程まで元気よくダンスレッスンを受けていました。
「りあむさん、今日は調子が良さそうですね」
「うんっ、なんか今日はいつも以上にめっちゃ動けた! なんでだ?」
彼女はタオルで汗を拭いながら、笑顔とVサインを私に見せてくれました。
基礎練習だけで疲れていた頃と比べて、りあむさんはこの一ヶ月弱で笑う余裕が生まれるほどに変化しました。音程や振り付けを覚えたり技術面の向上などはまだこれからですが、進展はしています。いい傾向です。真奈美さんたちとの出会いや昨日の出来事などが良い刺激になっているのかもしれませんね。
レッスンを見ていたトレーナーさんも嬉しそうに──ということもなく、少しだけ厳しい顔をしていました。
「夢見さん、こちらが指示しているトレーニング、ちゃんと内容を守っていますか?」
「うん! 怒られたくないし、ちゃんと頑張ってるよ!」
彼女の返事を聞いたトレーナーさんは「そうですか」と言うと、先程より少しだけ眉間にシワを寄せました。彼女の言葉を信じれば自主トレはこなしているみたいですし、特に問題は無さそうですけど。
「……分かりました。また今週も新しいトレーニングメニューを組みますね。夢見さんは、書かれてある通りに、行ってください。良いですね?」
「うん、いっぱい練習やるぞ!」
りあむさんは力強い返事で意欲を見せています。レッスン直後なので声質は少し疲れた様子ですが、気合いの入ったポーズです。
「ではお二人とも。くれぐれも、体調には気をつけてくださいね。それでは、私は報告したい事があるので、これで」
私たちに軽く手を上げながら、トレーナーさんは扉の方に向かいました。そして、部屋を出ようとした瞬間に立ち止まって「私の方こそすみません」と言いました。誰か来たのでしょうか?
その後、彼女と入れ替わるようにして入ってきた方を見て、りあむさんが叫びました。
「あっ、夕美ちゃんだ!!」
「はいっ、夕美ちゃんですよっ♪ お二人に用事があって来ました!」
私たちのレッスン後にやって来た夕美さんは、上機嫌に「渡したいものがあるんだ♪」と言うとバッグの中を探し始めました。一体、何を持ってきたのでしょうか?
「どこだろ、これはひまわりの種だし……あった! はい、これ。りあむさんにプレゼントですっ♪」
りあむさんは彼女からのプレゼントを、首を傾げながら受け取りました。私も横に並んで覗き見ます。これは、本の栞ですね。
細長で淡い色の和紙の上に押し花があって、それを包むようにラミネート加工がされています。鮮やかな青紫色の花びらと緑色のツタがとても鮮やかです。夕美さんらしい、とても美しい栞です。
りあむさんは受け取った栞を大切そうに両手で持っています。そして、少し緊張しながら夕美さんに花の種類を聞きました。
「これはクレマチスっていうお花ですよっ。種類によって色んな季節に咲くお花で、りあむさんの誕生花の一つでもあるんですよっ」
「誕生花!? すごい! 夕美ちゃんありがと!」
「ふふっ、どういたしまして♪」
少し興奮気味のりあむさんは栞を電灯に透かしてみたり、顔に近付けて香りを嗅ごうとしたり、胸に当ててみたり、様々な楽しみ方をしました。その様子を夕美さんが幸せそうな笑顔で見つめています。
りあむさんは夕美さん──あるいは彼女が演じたシオン様という方──を、とても好きだったはずです。いわばこれは、憧れの人からのプレゼントです。恋する乙女のような彼女の仕草を見るだけでも、その嬉しさや幸せが伝わってきます。
夕美さんはバッグの中からまた何かを取り出しました。
「ありすちゃんの分の栞もあるよ。はい、どうぞっ♪」
「あっ、本当ですか!? ふふっ、ありがとうございます♪」
私が頂いた栞にも、同じように鮮やかなクレマチスが閉じ込められていました。上の方に付いた水色のリボンも可愛いです。実際に貰えると、確かに心が踊り出しそうです。りあむさんみたいにフィルム越しに香りを嗅いだりはしませんが、それでもお花のいい香りがしそうなほど美しいです。
りあむさんは栞をなぜかおでこに当てながら夕美さんに尋ねました。
「夕美ちゃん夕美ちゃん! これもやっぱ、花言葉あるの?」
「花言葉は『精神の美』『独創性』『旅人の喜び』などがありますよ」
「よくわかんないけど……すごそう!」
花言葉を聞いた彼女は楽しげに、栞をおでこから離して頭の上へと掲げました。……おでこに当てていた理由がとても気になりますが、夕美さんはそんな様子を意に介しません。
「そのツタはすぐに切れちゃいそうなくらい細いけど、実はとっても強いんですっ♪ ヒモや縄みたいに使われたほど丈夫で、花言葉もそこから連想されたみたい。可憐な姿のなかにある逞しさ……まるで、りあむさんそのものですねっ♪」
夕美さんから褒められて、まるで子犬のように飛び跳ねながらはしゃぐりあむさん。でも、独創性などはともかく精神の美はよく分かりません。夕美さんから見ると彼女はまた違う印象なのでしょうか?
レッスンルームの次の利用者が来たので、私たちはお話の場所を休憩所に移しました。そこのソファーに三人並んで座っています。
今度は昨日のミニライブでの出来事についての話題になりました。
「昨日、藍子ちゃんから聞きましたよ。今以上に沢山頑張るんだー、って」
「うん。ぼくはアイドルになるんだし、ならチヤホヤされるくらい尊くならないとな? すこし無理してでも頑張る」
りあむさんは口に手をあてながら少し見上げています。昨日も口にしていましたが、彼女は尊いアイドルがお好きなのでしょうか?
夕美さんはそんな彼女の方に体を向けています。
「でも、無理はダメですよ?」
「いやいや、ぼくなんかはマジ頑張んないと、みんなに追いつけ──」
「りあむさん!」
夕美さんはりあむさんの両手を取り、強い眼差しで彼女の顔を見つめています。昨日の藍子さんと似た状況ですが、その表情は全然違います。いつも優しく朗らかな夕美さんにしては、珍しく強い顔つきです。
「確かにアイドルは素敵だと思います。尊いものだとも思います。だけど、無理はいけません。頑張り過ぎたら、お花だって枯れちゃうんですよ……?」
彼女はりあむさんの「無理してでも」という発言を気にかけているみたいです。それに対してりあむさんは、その強い眼差しに負けて顔を逸らしました。
夕美さんは続けて話しかけました。
「りあむさんはアイドルである前に、女の子なんです。もっと笑顔になって欲しいな……」
「……わかんない」
「でも、りあむさんは──」
「あーもう、うっさいなー!! ぼくにはわかんない! わかんないけど無理しないと間に合わないの!!」
りあむさんの初めて見せる剣幕に私たちは驚かされました。彼女は夕美さんの両手を振りほどいて、早歩きでどこかへと行ってしまいました。こ、これは、どうしたら良いのでしょうか……。
夕美さんと私は休憩所に取り残されました。りあむさんがどこかへ行ってから、少し不穏な空気になりました。夕美さんは力なく「間違えちゃったかな」と声を漏らすと、ソファーに座ったまま自身のバッグを抱え込みました。
「夕美さん、間違えたというのは?」
「……えっ? もしかして、声に出てた!?」
私が頷くと、彼女は慌てるようにそっぽを向きました。私が隣に座り直すと、彼女は一呼吸置いてから私の方に向き直りました。
「本当は内緒だったんだけどね、実は真奈美さんと私は、プロデューサーさんに色々と頼まれてたんだ。りあむちゃんをよろしくねーとか、無理したら止めてねーとか……」
どうやらプロデューサーさんは七月のライブの共演者全員に対して、彼女のことを依頼していたみたいです。なぜそこまで……。
夕美さんは抱えていたバッグに顔を埋めました。そして、こもった声でこう呟きました。
「りあむさんってね、ちょっと逞しすぎる気がするんだ……」
彼女のショートヘアがしなりとバッグに掛かりました。彼女がここまで気落ちするのは珍しいです。一体、プロデューサーさんにどのような事を言われたのでしょうか。
彼と少し、お話をするべきかも知れません。
夜雨の律動
夕美さんと別れた後、私はプロデューサーさんの事務室に来ました。そして、私はデスクに向かう彼に対して、夕美さんから聞いた話や私の考えなどを話しました。私は特に、彼が私たち三人に何を求めたかったのかが気になりました。
彼は少し考える素振りを見せてから声を出しました。
「ああ。あいつは何というか、様々な意味で非常に不安定な子なんだ」
そう答えた後、彼はこめかみに指をぐっと当ててグリグリとしたまま、しばらく黙りました。普段の陽気な彼と違って、今日はとても物静かです。それに、なんだか悲しい大人の目をしています。
彼は椅子に座り直して腕を組むと、ゆっくりと話し始めました。
「りあむは……そうだな。『十代アイドル』の肩書きのままデビューさせろ、というのが上の考えだ。俺もその意見に概ね賛同している。尤も、正解なんて無いがな。二十代からデビューして売れる者もいれば、若くから何年やっても売れなかったりもする」
確か、今のりあむさんは十九歳です。そして、九月頃に二十歳になるはずです。そこに大きな差があるというのが、事務所のお考えみたいです。
彼女の初ライブに七月が選ばれた理由は分かりました。でも、まだ足りません。
「では、なぜですか? 全くの素人には二ヶ月や三ヶ月は短すぎだと思います。十代でのデビューに価値があるのは分かりますが、未完成のものをお客さまに提供しては、見放されるだけです」
事務所の方針も分かりますが、私たちアイドルにとって大切なのは、ファンの方々に幸せを届けることです。そして、それを届けられるような価値ある存在になることが重要です。
十代アイドルというブランドにどれほどの価値があるかは分かりませんが、そもそものりあむさんが無価値であると思われてしまっては元も子もありません。素直にそれを諦めて、じっくりと彼女の成長を待つのも良い選択だと考えます。
私の意見を聞いた彼は、ゆっくりと背もたれに仰け反りました。そして、頭の後ろで手を組んで、ただ一言「まあ、な」とだけ言いました。
今日のプロデューサーさんは、なんだか怖いです。無慈悲な悪の提督のような、あまりにも尊大で横柄な雰囲気です。普段のとびきり明るくて、何だかんだで優しくしてくれる、そんな彼の様子からは程遠いです。
「……もしかして、りあむさんのプロデュースなんて失敗しても良いや、なんて考えてませんか? 本当はライブを成功させる気なんて──」
「そんなことはない!」
私の声を塗り潰すように、彼は立ち上がりながら強く否定しました。室内に響いた彼の声は次第に消えてゆき、しんと静まりました。雨音だけがやけに耳に付きます。
叫んだ後のプロデューサーさんは、溜め息をつきながらゆっくりと座りました。そして、静かにじっくりと話しました。
「そんなことはない……というのは、俺個人の考えだ。俺が独断でプロデュースするなら、もう少し時間を掛けたい。というのも、今時のアイドルは色々とできて当たり前。認知された時になってから、私は何もやれませんだと遅いからな。何か別の一芸を持たせるとか、どんな要求にも対応可能なだけの基礎を持たせたい。営業の基礎、演技力、トークでの受け応え、発想力など、色々できた上での歌とダンスだと考えている。無論、りあむのプロデュースは成功させる気だし、彼女にとってのより良い実りを目指している。ただ……」
彼はペンを手に取ってくるくると回しながら、軽くため息をつきました。そして、その回るペンを俯くように見つめながら、再び話し始めました。
「ただ、そうだな。俺個人の考えやその是非なんかより、事務所の方針が優先される。俺も提案等はしたが、どのみち長くは待ってもらえない。だから、七月のライブの成功をもって彼女をデビューさせるのは変わらない。そして、需要等に応じた仕事を見繕い、その場しのぎの教育をし続ける。そんな自転車操業に似たプロデュースを強いられるだろうな。アイドルとして飽きられないよう、りあむには常に負担をかけ続けることになりそうだがな……」
彼はどこか疲れた顔をしていました。私が感じた怖さは、そういう理由でしょうか? 彼はりあむさんや私以外にも、真奈美さんたちを含めて複数のアイドルをプロデュースしています。負担はかなりのものでしょう。
「……だからこそ、りあむさんの世話を私たちに?」
「まあ、否定はできないな。いくら仕事だろうと、いくら大人が何人も居ようと、俺達プロデューサーやトレーナーさん達は彼女一人に付きっ切りになれない。どうしても限界がある。だから、俺に配属されているアイドルの中から、選りすぐりの三人をあいつに宛てがった。極力、あいつの事を『お見送り』しなくて良いように──」
そう言った瞬間、彼は手も口も止めました。落下したペンの乾いた音が響きます。彼は俯いたままの姿勢で、視線だけを私に向けました。
「なるほど、そうでしたか。最悪の場合でも、グラビア部門などへの『お見送り』というバックアップがあるという判断。ですよね、『Pサマ』?」
「止めろ、止めてくれ。口が滑ったんだ忘れてくれ。そして、俺の判断ではない。俺はあくまで、りあむをアイドルとして成功させるつもりだ」
彼は落ちたペンを拾いながら、狼狽えるようにそう言いました。
「他にも色々と事情があるが、流石に話せない。というか、さっきの事も本当は話してはいけない。いくら信頼できる相手だとしても、今のありすには駄目だ」
彼には普段の快活さなどはどこにもなく、なんだか情けなさまで感じます。……彼のことを情けないだなんて少しも思ってませんが、でも、そう感じさせられる哀愁があります。
今のりあむさんは、大人の事情に挟まれている。そのようです。
私も時々、耳にします。アイドルのその後を。いえ、アイドルになれなかった者の、その後を。
アイドルとして失敗した人でも、見込みのある一部の方がいます。その方々は問題ありません。そんな彼女たちはモデル、タレント、グラビアなど、別の部門に異動して売り直しが行われたりします。逆に、別部門からアイドル部門へ異動して来られる場合もあります。ある意味の栄転とも言えますね。
ともかく、売れる形や場所はそれぞれでも、実力のある方は成功者となる世界です。一定の地位や人気やお金などを得て、それぞれの幸福の中で過ごすのでしょう。
反対に、失敗者や脱落者の多くの方は、一般人として社会人や学生に戻ったり、ゆくゆくは主婦となって普通の生活に戻っていきます。これも、ある意味では幸福を手に入れるでしょう。
しかし、重い事情を抱えた方の中には、自分の意思のない転身を余儀なくされる。そういうこともあるらしいです。プロデューサーさんの言った『お見送り』は、そういうニュアンスだと思われます。
それは、とても過酷だと聞きました。
大人の皆さんは私を気遣ってか、詳しくは教えないと言います。よく分かりませんが、自分の意志なく道化を演じ続けるのが、きっと大変なんでしょう。そして、りあむさんもその候補者の一人、ということでしょうか……?
りあむさんに何かしらの事情があるのかは分かりません。でも、彼女にとっての成功の意味合いは、他の方以上に重いものかもしれません。事務所の方針はおそらく、アイドルで失敗したらグラビア路線、でしょう。なにせあれだけのスタイルです。彼女の小柄さと胸の大きさは珍しいですから。
そして、その事務所の方針をプロデューサーさんは快く思っていない……。
「……ありす」
「なんでしょうか、プロデューサーさん」
「余計なことを考えたりこなしたりするのは、俺達の仕事だ。お前たちは深く考えずに、ただ真っ直ぐに笑顔を目指し続けろ」
「……はい」
そうです、私たちはファンの皆さんの笑顔のために、様々なことを成功させる必要があります。今から失敗した時の先を考えても仕方ないです。
彼女に会って、少し話をしたいです。そのことをプロデューサーさんにも伝えると、彼はどこかからかバスタオルを取り出しました。彼は「役に立つだろう」と言いました。
確かに窓の外はまだ雨模様です。体を冷やすなということでしょうか? あるいは……?
雨はまだ止まず、しとしとと石畳を濡らしています。聴こえるのは雨粒が私の傘をひたひたと叩く音と、水に濡れた私の足音だけ。人の気配はなくてどこか切ない雰囲気です。
厚い雲で覆われた薄暗い夜空。辺りを覆う大きな暗幕から雨漏りしているみたいです。それに、もし雲が晴れたとしても、下弦の月はまだ登っていないでしょう。とても、とても寂しい空間です。
電灯の灯りだけがひっそりと照らす、少し淀んだ気配のカフェスペース。テラスにあるテーブル席は一部がひさしからはみ出していて、そこだけが黒くじっとりと濡れています。
「やはり、ここに居ましたか」
テラス席の建物側、ひさしの根元の床にりあむさんが座り込んでいました。頭を下げているので表情が見えません。彼女は手ぶらでここへ来たらしく、ひさしの下の乾いた空間で一人だけ寂しく濡れていました。
「りあむさん、そのままでは風邪をひきますよ」
私はプロデューサーさんから借りたバスタオルを彼女に差し出しました。座り込んだまま顔だけを上げた彼女は、受け取ったそれにゆっくりと顔を埋めました。そして、バスタオルに声をこもらせながら「なんで」とだけ言いました。
彼女の居場所に気付けたのは、プロデューサーさんのヒントのおかげでした。
りあむさんは事ある毎に星空を見上げています。こんな寂しい雨の日でも、きっと星降る夜を追い求める。そう思ったのです。
夜雨のカフェスペース、ひさしの下にうずくまるバスタオル製のてるてる坊主。私はその横に座りました。
りあむさんは生気が消えた抜け殻ようにとても静かです。テーブルの森の奥に見える雨ざらしの電灯を、彼女はただぼーっと見つめています。
話しかけるべきか悩みますが、私は気になることがありました。彼女に「一つ尋ねて良いですか?」と言うと、小さく気弱な返事がありました。
「今日のレッスン終わり、トレーナーさんとした話を覚えてますか?」
私の問いかけに対して、彼女の返事はまだありません。
あの時、トレーナーさんの「指示を守っているか」の問いかけに対して、りあむさんは「ちゃんと頑張ってる」と答えました。それを聞いたトレーナーさんの顔が、私の中でずっと、心の奥で引っかかっていました。
「りあむさんは、トレーナーさんからの練習メニューを『過不足なく』行っていますか?」
「過不足、なく……」
彼女はそれだけ言うと、被っているバスタオルを更に深く被りました。
私が違和感を覚えたのは、イエスかノーかの質問に対して、彼女がそれ以外で答えたためです。確かにそれだけの理由です。でも、私はそれが気になりました。
彼女はしばらく黙った後、少し掠れたような声で話しました。
「……じゃあさ、ぼくがトレーナーさんの言った量を、無視してたとするじゃん?」
「ええ」
「アイドルってさ、いっぱい練習したら、ダメなの?」
「それは……」
「トレーナーさんのことは信じてる。それに、ぼくだってしんどいのはヤダ。もっと楽にチヤホヤされたい。……でも、それで練習が足りなかったら? それでライブが失敗しちゃったら? ぼくのせいで、ありすちゃんまでダメなアイドルみたいに見られちゃったら……?」
私は何も答えることができませんでした。
トレーナーさんはおそらく、りあむさんの現状に合った練習メニューを組んでいます。サボってそれをこなさないのは、やっぱりいけません。七月のライブまでに間に合わなくなる可能性がありますから。
では、それを超えるのはいけないでしょうか? 怪我をするまで練習を続けるのは勿論ダメです。でも、安全な範囲での、適切なオーバーワークならどうでしょう。適度な練習量であれば、その努力に応じた成果もありそうです。
でも、適度な練習量って? 自分の体調は、自分が最も身近に感じていると思います。その点はトレーナーさんを上回っているかもしれません。とはいえ私たちはトレーナーさんじゃないです。体調を理解したとしても、それに応じた練習メニューはおそらく組めません。
りあむさんの疑問に対する最適な答えが、私には分かりません。怪我をさせたくないトレーナーさんの気持ちも、ライブの失敗を恐れるりあむさんの気持ちも、どちらも分かります。どちらも正しい気がしますし、間違っているような気にもなります。
何より彼女は、私に迷惑を掛けたくないという理由で頑張ろうとしているみたいです。そんな彼女に対して、私はどう答えれば……。
「ぼく、何処へ行けば良いのかな……」
私はりあむさんに対してなにも答えることができずに、ただずっと黙っていました。ひたひたと降り続ける雨音。その小さな音が、私の心をジクジクと刺しています。
「……あの」
「なに?」
「風邪をひいたらいけません。早く寮に戻られた方が、良いと、思います……」
「……そっか。そだね」
私は『保留』を選んでしまいました。
私一人ではどうしても、答えが出せそうにありませんでした。それに、風邪をひいてほしくないのは、私の本心です。嘘は言ってないです。これで、合ってるはずです……。
彼女は夜雨にかき消えそうなほどの小さな声で「ごめんね」と漏らしました。私は顔を逸らすように、彼女に背を向けて立ち上がりました。彼女の表情を見るのが、怖いです。
「ぼくの雨、やまないかな……」
背中の方から聞こえてくるか細い声に、聞こえないふりしかできない私。
私は、私は……。
こうして、梅雨の季節がやってきました……。
狭間が
叫ぶ
夜の
慟哭瞳を
覆う
濁った
雨粒心は
裂かれ
身は
焼かれ
私はしわくちゃの
熨斗袋捨てられた
熨斗袋気付けば
匂う
朝焼けの
露貴方達は
何処へ
来る
私はこれから
何処へゆく
誰か
遠くへ
夜のない
国に
せめて
遠くへ
私を
遠くへ
雨の止まない季節
あれから数日が経ちました。梅雨入りした空はあの夜みたいに嘆いていて、今日も太陽を遮っています。
気付けば何度も、あの濁った雨を思い出します。どんよりと、じっとりと、濡れた雑巾のようにまとわりつくあの感覚。
私は授業中に、その重荷から逃れられました。ただ無心で問題を解いたり、教科書を読んだり、ノートに書き込んだり。せめてその時間だけでも、ただの小学生に戻れました。
でも、彼女は今もきっと、その宿題に向き合い続けています。私が逃げ出したそれから、片時も離れずに、逃れられずに。ずっと、ずっと……。
いつも通りの通学路。でも、傘を差しての帰り道。
うじうじとした雨のせいで、どうしても閉塞的になります。傘を投げ捨てたいですが、そんなことをしても何も変わりません。あの分厚い雲はきっと、私たちの太陽たちを返してはくれません。
交差点での信号待ち。赤ランプが私を縛り付けます。足元で跳ねた水滴が私の靴を惨めにします。雨粒の格子はまるで檻のようで、自分の息まで跳ね返される心地です。
やっぱり、いっそ走り出したいです。ランプが緑色に切り替わると同時に、お馬さんみたいにがむしゃらに、何もかもを忘れて子供みたいに……。本当にそんなことをしたらずぶ濡れになりますし、反対側で信号待ちをしている人にも迷惑です。
こんな気重な雨の日に、対岸に立つ一人。梅雨の暗さを凝縮したような黒色の傘を差して、紺色のスーツを身に纏う男性です。大人も大人でつらそうです。スーツや革靴は濡れたら大変ですからね。そう思うと、ついまじまじと見てしまいます。
目の前を横切る車も止んで、そろそろランプが切り替わります。私も対岸の人も、傘を少し上げて信号機を見ます。対岸の人は少し白髪の方のようで、眼鏡姿で背筋のピンと伸びた……恰幅の良い……?
その男性は、私が知っている方でした。あちらも私に気付いたみたいで、緑のランプが灯っても立ち止まったままでした。
私は横断歩道を渡ります。そのシマシマの一つ一つを飛び越えていくうちに、それは確信に変わります。彼は確か、藍子さんたちのプロデューサーさんの──。
「どうも、橘君。お久し振りですね」
「お疲れ様です。
井伊杉プロデューサーさん、でしたよね?」
「ほほっ、私の名前もご存知でしたか」
彼は先日の『インディゴ・ベル』のミニライブにも居た、彼女たちのプロデューサーさんです。そのミニライブの現場で少し会話を交わしたことがあります。
彼は整えられた白黒のあご髭を触りながら、嬉しそうに笑いました。そして、スーツの胸ポケットから何かを取り出して、両手で私に差し出しながらこう言いました。
「お嬢さんは『アイドル』に興味はお有りかな?」
学校近くにある昔ながらな雰囲気の喫茶店。井伊杉さんに『スカウト』された私は、ここに連れられました。
店内の客はあまり多くなくて、私たちは四人用のソファー席に通されました。
「私はコーヒーとサンドウィッチを注文します。橘君もご自由に注文してくださいね」
「はあ、ありがとうございます……」
私の向かい側に座った彼は、銀色で四角いフチの眼鏡を手に持って、眼鏡拭きで優しく拭いています。
これは、買い食いになるのでしょうか……? それに、例え同じ事務所の方とはいえ、ほとんど交流のない方からの誘いに対して、どの程度の価格帯を頼めば良いのでしょうか……?
この程度のことですら、今の私はすんなりと決められません。店内の食器の音などで頭が一杯になりそうです。
「お待たせしました。では、ご注文を伺います」
「えっ!?」
驚いて顔を上げると、既に店員さんがテーブルのそばに立ってました。いつの間にか井伊杉さんが呼んでいたみたいです。な、なんてことを……。
「橘君。お先に注文してくださいね」
「は、はいっ!? あ、あの、では紅茶と、その、えっと……」
に、二択までは絞れてましたが、まだ決まってません。ど、どちらを選べば……。
「ほほっ、ではその紅茶一杯に加えて、私はコーヒーを一杯。あとはショートケーキとガトーショコラをそれぞれ一つずつ、お願いしますね」
「かしこまりました。……あの、よろしいでしょうか?」
「は、はい……」
まるで嵐のように注文タイムが過ぎ去ってしまいました……。
「橘君。勝手に注文してしまって、申し訳ありませんね」
「いえ、あの……」
眼鏡を掛け直した彼は目を細めながら、お髭を何度も撫でています。聞きたいことが沢山ありすぎて困ります。
「井伊杉さん、サンドウィッチは……?」
「橘君を見ていたら、何故か急にケーキを食べたくなりましてね。ほほっ」
彼はそう言うと、口角を上げながら不敵に笑いました。
どうやら、全てを見透かされていたみたいです。私が注文で悩んでいたことも、その二つの選択肢も、私の動きだけで見抜いたのだと思います。彼の見た目は好々爺のそれですが、とても恐ろしい方です。
ふと、交差点で頂いた名刺を思い出しました。今はテーブルの上に置かれているそれを見ます。
井伊杉さんは部長さんでありながら、少しのプロデューサー業も続けているみたいです。きっと、それだけ人を見る目が鋭い方なんです。そんな方が、なぜ私を『スカウト』したのでしょうか?
そのことを彼に尋ねると、彼は少し苦笑しました。
「大した話ではありませんよ。占い好きの家内が、今日は良い出会いがあると言っていたのでね。新たな卵を探しに、街を散策していたのですよ」
「こ、こんな雨の日にですか?」
「ええ、おかしな話かも知れませんね。私も半ば諦めていましたよ。しかし、家内の占いはこの通り、よく当たりますからねえ?」
彼は両手を軽く広げて、私に向かってウインクをしました。私がその良い出会いということみたいですね。
注文していたものが届きました。好きな方を選んで良いと言われたので、私はショートケーキを選びました。
やっぱりイチゴは最高です。時々は外れたりもしますが、基本的には当たりです。イチゴのショートケーキは、いつだって幸福の食べ物です。間違いありません。
井伊杉さんは笑いながら「元気が出たようで何よりですよ」と言いました。彼の顔のシワが更に深くなります。その見た目の割に大層お元気そうで、こってりと濃厚そうなガトーショコラをものともしていません。
「やはり落ち込んだ時は甘いものですね。ほほっ」
「私たちのプロデューサーさんも、同じことを言ってました」
それを聞いた彼はピンとした背筋を更に伸ばして、何かを主張するようにご自身を指差しました。そう言えばプロデューサーさんは、彼とは先輩と後輩だと言っていました。プロデューサーさんの甘い物好きは、彼の教えなのかもしれませんね。
「時に橘君。何か困り事があれば、私に話してくださいますか?」
それは……どうしましょう。どう話せばいいかも分かりませんし、自分がどう悩んでいるのかもハッキリとは言えません。そんな自分の気持ちを知られたくない、という思いもあります。
少し悩んでいた私に対して、彼は伝票をピラピラと見せびらかしました。なんですか? 奢ってあげたのだから、代金の代わりに話せということですか? そうですか、そうですか。
「ならば、私が自分で支払えば、話さなくても良いですね?」
「構いませんよ。しかし、それでは君は学校帰りに買い食いをした事になりますねえ?」
「うっ……」
屈辱です。華麗なるリターン論破エースでした。全てが彼のペースです。これが大人力……。
私は観念して、井伊杉さんに話せることから順に話しました。七月のライブのこと、そこで何を歌うのか、りあむさんとのレッスンの様子。そして、あの夜雨のこと。
実際に口に出してみると、思ったよりもするすると言葉が続きました。私が言葉に詰まると、すかさず彼が質問を挟んでくれました。
思い当たることは打ち明けました。次はお答えを聞く番です。彼はガトーショコラを半分ほど食べたところで、手を止めました。
「あの、井伊杉さん……」
「ええ、『Absolute NIne』は本当に良い曲ですよねえ」
「はい?」
彼は目を閉じて両腕を組みながら、うんうんと頷きました。
「次回のライブで歌われるのですよねえ、良いですねえ。限界を決めてはいけない。困難こそがチャンス。約束を叶えるために孤独すらも乗り越える。とても感動的な詩です。夢見君は初舞台に、素晴らしい楽曲と巡り会えましたねえ」
またしても彼のペースになってます。確かに心を惹かれる歌詞ですが、私がこれだけ話したのになんでそこに反応したのでしょう。
「何事も初めては印象深く、大きな影響を受けるものです。きっと夢見君も、この詩を何度も読み返して、大きな影響を受けたでしょうね」
「大きな、影響……?」
言われてみるとそんな気がしてきました。彼女は初めて受け取ったその譜面に、一日で沢山のメモを書き込んでました。メモの内容までは覚えてませんが、熱意の強さを感じたのは覚えています。
井伊杉さんは両手をテーブルの上に乗せました。彼の鋭い眼差しが眼鏡越しに私を貫いてます。
「まず、私は夢見君と直接お話したことはありません。今から話す内容は、私の憶測に過ぎません。よろしいかな?」
「……ええ、分かりました」
井伊杉さんは少しだけ考える素振りを見せて、そしてすぐに私をじっと見ました。
「始めに一つ。橘君、貴女は努力というものをどうお考えですか?」
努力は……アイドルに不可欠な要素の一つだと考えます。理論に基づいた効率的な努力は、人を大きく成長させます。努力なくして成功なしです。
「はい、良い考えですね。では、夢見君は努力をどうお考えだと思いますか?」
それは……よく分かりません。彼女と私は、何かが違う気がします。ただ、それが何なのかはよく分かりません。
彼女もきっと、輝くために努力をしていると思います。でも、輝く理由が私たちとは少し違う気がします。それに彼女は、努力の仕方があまり上手じゃない気もします。具体的には言い表せないですが……。
「橘君、そこまで理解していれば十分ですよ」
彼は満足げに微笑むと、人差し指を立ててくるくると回しました。
「そうです。貴女の言う通り、二人の間には様々な差があります。その一つが、経験の有無の差です」
確かに私と違ってりあむさんは、アイドルとしてステージ上で歌った経験はありません。成功の経験がなければ、どこまで頑張れば良いのか不安になるかもしれません。何となく、私にも身に覚えがあります。
「ほほっ、そこではありませんよ」
「えっ……?」
「差があるのは寧ろ『失敗』の経験です。しかも、何年経っても癒えることのない程の、大きな深傷を心に負うような大失敗です。いえ、私の憶測に過ぎませんがね」
遠くを見つめる彼の瞳は、とても鋭くて、とても暗かったです。
「彼女の過去は私には分かりません。ですが、仮に私の憶測が概ね正しいとします。ならば彼女はこう考えるでしょう。自分なんかの努力不足で貴女を裏切りたくない。或いは、貴女に裏切られたくはない、と」
「そんな、私は裏切ったりなんてしません!」
「ええ、勿論そうでしょう。となれば、考えられる可能性は限られてきます」
ああ、またあの時の、彼女の震える声が頭を過ります。
『ぼくのせいで、ありすちゃんまでダメなアイドルみたいに見られちゃったら……?』
私はりあむさんから、どう思われているのでしょうか……。
井伊杉さんは「あくまで私見ですが」と一言添えてから話し始めました。
「夢見君は孤独なのかもしれません。素晴らしい演者達やスタッフ達の中で、素人は自分だけ。失敗するのは自分だけ。全ての責任が自分に懸かっている。そうお思いかも知れません。故に、絶対に失敗をしない為に、何処まででも努力をする。例えその身を粉にしてでも……」
彼は一度コーヒーを飲みました。そして、カップをソーサーに置くと、お髭を優しく撫でながら言葉を続けました。
「我々の事務所内に、他者を裏切るような方はいらっしゃらないでしょう。皆さんとても良い方ばかりですから、他人の努力を笑うことはないでしょう。ですが、努力が報われない時もあります。裏切りが無くとも、どれだけ努力しようとも、失敗は有り得ます」
努力に意味はある。でも、必ず報われるとは限らない。彼のお言葉は少し厳しいですが、努力は決して無駄にはならないとも言いました。
「不運や不幸に依って結果的に報われない、そう感じる時もあるでしょう。しかし、そこで立ち止まってはいけません。ライブとは、そこに携わる全ての要素が相互に助け合えるのです。お客様も含め、全ての者の意志の力に依って、その不幸を打ち消すことができますよ」
「……何となく分かります。ライブは、ステージに立つアイドルだけの努力では完成しません。ライブの成功は、それに携わる皆さんの努力や想いの結晶です」
「ええ、橘君はよくご存知でしょう。努力は一人では成り立ちません。しかし、夢見君は知らない。彼女はまだ、お互いが失敗を補い合えるという事実に、まだ触れられていない。故に、彼女は焦るのかも知れませんね」
彼はコーヒーをクイッと飲みきって、カップをソーサーにそっと乗せました。
「繰り返しになりますが、貴女や夢見君のことは誰も裏切りません。そして、努力も無駄にはなりません。諦めなければ必ず、それは結実します。橘君は安心して、ライブに携わる皆さんと背中を預け合ってください。そして、小さな努力も怠らないように意識されると良いでしょう。……あくまで無理をし過ぎない程度に、ですがね。ほほっ」
彼はご自慢のお髭を触りながら、先程までの真剣な表情とは打って変わって、にこやかに笑いました。彼の目尻のシワが更に深くなりました。
私はショートケーキを食べ終えて、紅茶の入ったカップを持ち上げました。少なくなった紅茶に映る、疲れたような私の表情。それを消し去るように一気に飲み干しました。
「ところで橘君。申し訳ありませんが、この半分残ったガトーショコラ、引き取って頂けませんか? 私の想像以上に、彼らは私の胃袋を熱烈に歓迎してくれまして……」
「……なんで今になってそれを言うんですか」
そのプレゼントの意味は
五月三十一日、金曜日、レッスンルーム。
梅雨も強まる五月末。気付けばりあむさんと出会って、もう一ヶ月近く経ちます。それなのに私にはまだ、夢見りあむという女性が分かりません。頭の中はずっと晴れず、ぼーっとしています。
「橘さん、レッスンに集中してください」
トレーナーさんの声です。レッスン中にも関わらず、私は別の考え事をしていたみたいです。
「ありすちゃん、どしたの? きっと体調が悪いな?」
りあむさんが私のそばまで近付いてきて、私の顔を覗き込みました。悩みっぱなしの私とは違って、彼女は優しく笑いかけてくれました。でも、彼女の顔を見ているとどうしても、この前の井伊杉さんの言葉を思い出してしまいます。
彼の言葉は、きっと正しいです。でも、その先が分かりません。
彼女は失敗を恐れている、じゃあ私は何をすべきか。背中を預け合えと言われても、何をすれば彼女を守れるのか。分かった気でいましたが、具体的には分かりません。
それでもし、私が間違った行動をしたら。そしてもし、彼女が私から離れていったら……。
結局、集中しきれないままレッスンが終了しました。りあむさんにもトレーナーさんにも、体調を心配されてしまいました。私の心は、それほどまで表に出ていたのでしょうか。
床に座り込んでいた私の隣にりあむさんが座りました。彼女は両手に何かを持っていました。
「ありすちゃん、やっぱおかしいよ? とりあえず、冷たい飲み物、どうぞ」
「冷たい飲み物をどうも……」
手渡されたのは、気持ちよく冷えたペットボトルのスポーツドリンクでした。私はそれをぐいと飲みましたが、いまいち味が分かりません。
「ありすちゃん、元気出た?」
彼女は私にもたれ掛かりながら、瞳をとろりと細くしました。彼女の体温は随分と高くて、顔もなんだか赤らんでいます。
……どうでしょうか、私は元気なのでしょうか。私はつい、首を軽く傾げました。彼女も一緒に首を傾げると、自身の持つもう一本のペットボトルに口をつけました。
「……んぐっ……んぐっ、ん? んごほっ! げほっ!」
「え……りあむさん、大丈夫ですか!?」
「んげひーっ、げひーっ! えひっ、えふっ」
私は慌てて彼女の背中を擦ったり、軽く叩いたりしました。この人はよく咳き込むので油断ができませんね……。
彼女が落ち着いたのを確認したら、私はつい「ふふっ」と笑ってしまいました。それがなぜだかとても恥ずかしくて、彼女から顔を逸しました。その私の視線の先に偶然、プロデューサーさんがレッスンルームに入室してくる姿が見えました。
「おう! りあむたち、生きてたか?」
……もしかして私、笑った姿を見られましたか?
渡したいものがある。それが今回のプロデューサーさんの用件でした。
「まずはこれ。二人にプレゼントだぞ!」
彼はポケットから何枚かのカードを取り出して、私たちに手渡しました。渡された二枚のそのカードには、それぞれに別の歌詞といくつかの数字が書かれていました。
「プロデューサーさん、これは何ですか?」
「歌詞カードだ」
「……Pサマ、そんだけ?」
時々出てくる彼の悪い癖です。このままでは説明不足なのに、彼は自慢げにニヤついています。……これまでは自然に見えていた彼のそんなニヤけ顔も、今では少し怖く感じます。
気を取り直して、私は彼にいくつかの質問をしました。
どうやらこのプレゼントは、七月のライブで歌われる楽曲のうちの、りあむさんが歌う予定の『お願い!シンデレラ』と『Absolute NIne』の二曲の歌詞カードのようです。そしてそこに書かれていた数字は、各パートの進行に掛かる秒数だそうです。……それが?
「で、なんでこんなものを用意したのですか?」
「いやさ、何となく思いついたからさ」
彼はいやに怪しい笑顔を浮かべました。何を渡されるかと思えばこんなものですか。拍子抜けです。
まず、この歌詞カードに意味を感じません。各パートの長さは譜面を見れば概ね分かります。それに、今回のライブでの私たちは、イヤモニから流れる音源に合わせて歌うのです。生演奏などではないので、曲の流れも長さも一定です。確かに、りあむさんにとって多少便利かもしれませんが、きっとそれだけです。
プロデューサーさんは肩をぐりぐりと回しながら、「レッスンの進捗はどうだ?」と尋ねてきました。
私の方は大きな問題はありません。私が担当する楽曲の大半は、既に歌ったことのあるものです。学業とお仕事との両立の問題もありますが、過去の経験で言えば問題ありません。
一方、りあむさんは少し唸ってから話し始めました。
「ぼくは……わかんない。頑張って両方とも覚えてるけど、つらいな? 歌詞とか振り付けとか、時々間違える……。特に『Absolute NIne』の方は曲速いし……やむ……」
それを聞いたプロデューサーさんは、急にしたり顔になりました。
「ほらほら、この歌詞カードを見れば良いぞ? 例えば二番のサビ直後、Cメロは十七秒。で、間奏のギターソロは十一秒。数字が見えてると、実感しやすいだろ?」
「……Pサマ。これさあ、この数字だけ聞いて、譜面に直接書いちゃえばよくね?」
「ま、まあ、ほらさ。折角書いたしさ。気が向いたら使ってくれよ」
彼は露骨に目を逸らしました。やっぱり、彼も何となくで作ったのかもしれません。
「プロデューサーさん、大層な贈り物に感服致しました。万が一にでも役に立つと喜ばしいですね」
「まあ、役立たない方が嬉しいけどな」
なんなのですか今日は。彼はこの歌詞カードで、私たちに何をさせたいのでしょうか。今はまだ、これを覚える理由を感じられません。
プロデューサーさんは急に手を叩きながら「忘れてた!」と叫びました。
「プレゼントはこれだけじゃない、こっちが本命だ!」
彼は先程とは別のポケットから小さなケースを取り出して、それを開きました。
「あ、指輪じゃん! Pサマ、結婚するの?」
「いやいや、プレゼントって言ったろ」
「ってことは……ぼくたちに求婚!?」
「いやいやいや……」
お調子者がお調子者に圧倒されています。
改めて彼の手の上を見ると、リングケースの中に水色とピンク色の小さめの指輪が一つずつありました。大きさ的に、これはピンキーリングでしょうか?
「りあむの衣装を作る時にな、余った生地から作ってもらったんだ。りあむとありす、それぞれ一つずつ受け取ってくれ」
「え、私もですか? りあむさんの衣装から作ったのに?」
彼の顔を見上げると、彼は「まあまあどうぞ」と言いながら手を出してきました。仕方ないので受け取ります。私は彼の手の上から──既に指輪が一つしかありません。
おそらく犯人であるりあむさんの方を見ました。彼女は何度も「すごい!」と叫びながら右腕を突き上げてました。彼女の右手小指をよく見れば、水色のピンキーリングが付けられてました。速すぎます。
「ほらほら! ありすちゃんも早くつける!」
私は抵抗する間もなく、左手の小指にピンク色のピンキーリングを付けられました。
「おそろい、おそろい! 神オブ神!!」
彼女の語彙がドンドンおかしくなります。彼女の頬やおでこは赤くて、見るからに気分が高揚してますね。
プロデューサーさんからのプレゼントは、確かに綺麗なものでした。でも、私には状況が掴めません。逆に状況を掴みきっているらしいりあむさんは、先程から元気に叫び続けています。
「この指輪の流れ! 完全に『ハニーズ・ラブ』! 今のぼくは、実質シオン様! ぼくこれずっと付けるぞ!?」
彼女は右手を胸に埋めて力強く鼻歌を歌いながら、高ぶる感情に身を任せてます。余程に嬉しかったのか、フラフラになって転げるまで何度も飛び跳ねました。
どうやらこのお揃いのピンキーリングは、以前も話題になったドラマ『ハニーズ・ラブ』に出てくるモチーフみたいです。きっと真奈美さんや夕美さんも、その劇中で同様にピンキーリングを身につけたのでしょう。
でも、私はそのドラマを観ていないので、なぜそれを真似するかが分かりません。そもそもどうしてこれを私たち二人に? 共にりあむさんの色という印象ですし、二つとも彼女にプレゼントしては?
「まあまあ、ありす。色はともかくとして、この指輪は一応はステージ衣装の一部として──」
「もしかして! 『星降る夜』を歌えるの!?」
「その予定はないが、今日は推理が冴えてるな!」
お二人の会話に上手く入り込めません。ああ、それにまた知らない単語が出ました。また覚えなくては……。で、何ですか? 歌のタイトルだと予想していますけど。
「エンディングなの! ドラマのなの! 最高すぎて常時鼻歌うたっちゃうな!? シオン様とヤナギ様が歌ってて、ジャズっぽくてエンディングで格好良くってふっ、げふっ! ゴホゴホッ!」
「だ、大丈夫ですか? 落ち着いてください?」
今日の彼女はよく咳き込みますね。元気が有り余っているのでしょうか?
私たちの様子を見ていたプロデューサーさんは、いつのまにか少し険しい表情をしていました。
「……りあむ、明日もレッスンの予定があったよな?」
「うん! こんな素敵なプレゼント貰ったし、めっちゃ頑張る! よ!」
「いや、明日は中止だ。体を休めろ」
「……は?」
一瞬、室内の空気が止まりました。彼にレッスンを中止しろと言われたりあむさんは、鋭い目つきで彼に詰め寄りました。
「なんなの、Pサマもそういうこというの?」
「ああ。前に俺から言った通り、今の君の──」
「なんでさ! そんなにぼくが信用ならないの!?」
静まっていた室内に、彼女の怒号が響きます。彼女のその声を聞くと、色々なことが私の頭の中を過りました。
「あの、りあむさ──」
「なんなの! ありすちゃんもなの!? そんなにぼくが嫌いなの!?」
「い、いえ……」
私は彼女の剣幕に気圧されて何も言えなくなりました。例え彼女に寄り添いたくても、今の彼女には近付けそうにないです。
それでもプロデューサーさんは、臆することなく彼女に語りかけました。
「いいか、りあむ。もう一度指示する。明日は丸一日、運動せずに体を休めろ。いいな?」
「…………うん、明日は丸一日、運動しない。それはちゃんと守る」
彼女はとても怖い視線で彼を睨みました。彼女のピンク髪が目立たなくなるほどに、顔がとても赤いです。そして、彼女は大きく足音を立てるようにして退室しました。ここまで荒れた彼女の姿は初めて見ました。
プロデューサーさんは彼女が出ていった扉を見ながら、聞き取れないほど小さい声で何かを呟きました。
私は一先ずレッスンルームを後にして、事務所内を探しました。でも、私が探した場所のどこにも、りあむさんは居ませんでした。連絡を取ろうと思っても、よく考えれば共演者であるはずの彼女の連絡先を、私は知りません。
私はどうすれば良かったの? 我を忘れてた彼女に、私はどう声をかければ良かったの?
なにより、私の言葉は彼女に届いてくれるの……?
予想外の変化
六月一日、土曜日、自宅。
外は久々に晴れましたが、私の体調はあまり優れません。少し寝不足です。
昨日はすぐに寝付けず、自主トレを少し追加してみました。その後は眠れましたが、体がちょっと重いです。ペースを乱すのは良くなかったです。
今日は午前中からレッスンです。予定ではりあむさんと真奈美さんとの三名のレッスンでした。でも、りあむさんは昨日のプロデューサーさんの指示でお休みになりました。多分、真奈美さんと二人でのレッスンになると思います。
ともかく遅れないようにしないと。目を覚ますために軽く体を動かしてから、いってきます。
空にはハッキリとした太陽が浮かんでいました。久々に陽の光を浴びたような気がして、それだけで少し元気が出ました。予定よりは少し遅れましたが、問題なく事務所の前に到着です。
そこで私はあるものに気付いて足を止めました。
事務所前の生け垣のそばにあるプランターたち。そこには、咲きそうでまだ咲かないアジサイがありました。ここの花壇スペースは気付かないうちに、すっかり梅雨らしくなっていました。このアジサイもまた、私が気付けないうちに咲いてしまうのでしょうか……。
「おっと、ありすか。こんなところで立ち止まって、どうしたんだい?」
声のした方に顔を向けると、ちょうど事務所の玄関から出てきた真奈美さんが居ました。いつもの彼女より少ししっとりとした声で、表情も普段よりアイドルオーラが少ないです。それでも格好良いですけど。
そして、彼女はなぜか空っぽの大きな黒色のボストンバッグを持ってました。
「丁度良い。ありすも一緒に、女子寮に来てくれないかい?」
「女子寮ですか。それは構いませんが、レッスンは?」
「おっと、君はまだ連絡を聞いていなかったんだね」
彼女はボストンバッグを持ったまま、考えるように腕を組みました。そして、私をじっと見ながら、こう言いました。
「今朝、夢見りあむが寮の自室内で倒れたようだ」
少し後、りあむさんの寮室内。
室内はアイドルのグッズなどが目に付き、ファンシーながらも雑多ではなく、良い狭さで落ち着いた雰囲気です。でも、今ここにいるのは真奈美さんと私の二人だけ。肝心のりあむさんは、ここには居ません。
「さて、まずは彼女の衣類を用意しよう」
真奈美さんはそう言いながらクローゼットを開けました。彼女の落ち着いた様子を見ていると、私は逆になんだか落ち着かなくなります。
ここへ来るまでに、彼女からある程度の話を聞きました。結論から言えば、りあむさんは生きてます。詳細は分かりませんが、現在は近くの病院に入院しているみたいです。
この寮内には、以前のミニライブで共演した歌鈴さんも入居しています。彼女はりあむさんが食堂に姿を見せないことに偶然気付いたそうです。そして、彼女は何気なくこの部屋に来て、気を失っていたりあむさんを発見したそうです。
事情も事情なので、今日の私たちのレッスンは中止になりました。予定が空いた真奈美さんはプロデューサーさんから、りあむさんの入院に必要なものをまとめてほしいと依頼されました。そして、事務所前で私と出会いました。
私にもプロデューサーさんから連絡があったみたいですが、気付きませんでした。普段ならそんなことはないのに……。
私がぼーっとしている間に、気付けば真奈美さんの隣には様々な服が積まれてました。
「ありす。これを順にバッグに収めてくれるかい?」
言われるがままに、私はその衣類たちを黒のボストンバッグに詰めます。
「彼女は今の所、数日ほど入院する予定だそうだ。衣類の他にも必要そうな物を見つけたら用意してくれ」
「わ、分かりました」
……といっても、入院中に必要な物が分かりません。お泊りに必要そうなもので良いのでしょうか? 私は室内を見て回りながら考えることにしました。
まずは彼女の机です。近くには椅子が倒れてました。
机の上には空になったマグカップや、譜面や歌詞カード、ボールペンやイヤホン、カプセル型の指輪などが散乱していました。ライブに関する物は、外部に持ち出して良いのでしょうか? 分からないので、机の上を綺麗に整理してから、保留します。
引き出しの中には、趣味の物らしきCDや雑貨などがありました。これらは病院には必要なさそうですね。
机から離れて辺りを見回しましたが、目につくのはアイドルのグッズくらいです。ベッドの枕元には、例のドラマのグッズらしい真奈美さんと夕美さんのツーショットや、去年の私のお仕事にまつわるグッズがいくつかありました。……目覚まし時計の隣に私のグッズがあるのは、少し嬉しいですね。
結局、必要なものがピンときません。頭がボーッとしています。一先ず、倒れたままの椅子が気になったので、立て直してそれに座りました。
「おっと。ありす、疲れているのかい?」
真奈美さんがこちらを振り向いたので、私は慌てて立ち上がりました。
「そう急ぐ必要もないさ。少しくらい休んだって怒られないよ」
彼女は作業を続けながら、私に手で促しました。
「いえ、真奈美さんにだけ作業させる訳にも……」
「そうか。なら私も一息つこう」
そう言うや否や、彼女はその場で仰向けになりました。取り敢えず私も椅子に再び座りました。
「真奈美さん、大人が地べたに寝るのは良くないです」
「では、ベッドを借りるか。ありすも一緒に寝るかい?」
彼女はりあむさんのベッドを指差しました。ど、どうしてそうなるのでしょうか。
「フフッ、君は随分とお疲れのようだからね」
私は大人ですし、アイドルです。これくらいで疲れただなんて言えません。私がそう答えると、彼女は寂しそうに「そうか」と返しました。それほど休みたかったのでしょうか?
その後、真奈美さんは反動もなしにすっくと立ち上がり、室内にある洗面所の方へ向かいました。その時にふと、壁に掛かる額縁が目に止まりました。少し遠いのでハッキリとは見えませんが、絵ではない白いなにかが入れられてます。
私は椅子から立ち上がって、その額縁の前まで行きました。その額縁に入れられていたのは、夕美さんから頂いたクレマチスの栞とコピー用紙の譜面でした。折角の夕美さんからの栞のプレゼントを、使わずに飾ってるんですね。……でも、なぜ、譜面?
「ん? ありす、何か必要そうなものはあったかい?」
洗面所から出てきた真奈美さんは立ち止まると、私と額縁を交互に見ました。彼女の手には洗顔用具らしきポーチが二つありました。
「まあ、何かあれば後で取りに来よう。私はこの荷物を届けに行く。君も病院に付いて来るかい?」
折角のお誘いでしたが、私はまだ気持ちの整理がついてません。彼女に会ってどうすればいいのか、彼女と何を話せばいいのか……。私は首を横に振りました。
彼女は「そうか」とだけ言って、手に持っていたポーチなどを手際よくボストンバッグに詰めました。そして、それをひょいと持ち上げるとこの部屋を後にしました。閉じ込められては困るので私も慌てて追いかけました。
結局、私は特に何もお役に立てませんでした。何もできず、今日の予定も無くなって空っぽになった私は、女子寮の外に放り出されました。
肌に当たる、少し重く感じる風。待ち望んでいたはずの日差しが、少し眩しいです。
抱きしめられたら答えが出た
六月二日、日曜日。
昨夜は更に寝付きが悪かったです。無くなった昨日のレッスンを取り戻すため、そしてりあむさんの分も自分がカバーするため、昨夜はいつも以上に自主トレをしました。まだ少し眠いです。
そして、昨日の晴れ間が嘘みたいに今日は生憎の天気です。雨がじっとりと重苦しいです。
今日は午後からレッスンの予定です。でも、家に居ても落ち着かなかったので、朝から事務所に来ました。事務所の前には今日も咲ききらないアジサイの花。つぼみは雨に打たれながら小さく震えていました。私もなんだか肌寒く感じて、体が震えます。
午前中は事務所で自主トレなどをして、軽く食事を取ってから午後のレッスンを迎えました。
今日のレッスンは夕美さんと私の二人だけ。でも、本当はもう一人、居るはずでした。
「ねえ、ありすちゃ──」
「大丈夫です!」
反射的にそう叫びましたが、何が大丈夫なのか、そもそも夕美さんに何を尋ねられたのか、よく分かってません。
「今日のありすちゃん、なんだか動きが硬いよ?」
「そんなことないです! 私は──」
「駄目だよ。はい、休憩っ! トレーナーさん、良いですよね!」
「……ええ、ではそうしましょう。私は少しここを出ていますので、戻ってきた頃に再開しますね」
トレーナーさんはそう言ってレッスンルームを出ていきました。
「はいっ、じゃあありすちゃん!」
私は夕美さんに腕をがっしり掴まれて、強引に座らされました。でも、私に止まってる時間はないです。りあむさんが倒れてしまった以上、私がカバーしなきゃ……。
「もう、ありすちゃん。ぎゅーっ♪」
「ななな、なんですか急に!」
座ってた私に彼女が後ろから抱きついてきました。私はビックリしてもがきましたが、彼女の腕力が凄すぎて全然逃げられません。
「ほらほら、取り敢えず落ち着こっか?」
彼女は私の肩にあごを乗せて、私に寄り掛かりました。
一分でしょうか? それとも三分? 私はずっと、後ろから夕美さんに抱きしめられたままでした。
とても温かくて柔らかかったです。最初は恥ずかしい気持ちで一杯でしたが、彼女のゆっくりとした呼吸音を聞いてるうちに、少し落ち着いてきました。
「ありすちゃん。ずっとこうされてたら、幸せかな?」
彼女は私の頭にゆっくりと触れながら話し続けました。
「きっとね、抱きしめられると『私は一人じゃない』って分かるから、幸せになれるの。私が演じたシオンちゃんも、きっとそうだったんだと思うんだ」
「シオン……。りあむさんの大好きなドラマの……」
「うん。シオンちゃんには色々あってね……とっても辛かったと思うんだ。でも、彼女には大切なパートナーが居たの。ヤナギさんがずっとそばに居てくれたからね。どんなに辛くても、一人なんかじゃなかったの」
幻想の世界の彼女たちは、優しさに包まれていたみたいです。今まさに私が抱きしめられているように、温かく。
でも、私はりあむさんになにも……。
「そんなことない、りあむさんも幸せだと思うよ。だって、ありすちゃんが居るんだもんっ。アイドル活動し始めてからずっと、一緒に付いていてくれた。ちょっと厳しいとこもあるけど、いつでも見てくれて、想っていてくれて、叱ってくれて、そばに居てくれる。だから、りあむさんだって辛くなかったと思うよ」
「……でも、彼女は倒れてしまいました。きっと、私のせいです」
夕美さんは「うーん」と唸りながら、私の手の甲にそっと手を乗せました。
「そうかもね。りあむさんはきっと、『愛し』のありすちゃんのために頑張りすぎちゃったんだねっ♪」
「い、愛しってなんですか!? こここ、根拠がありません!」
どこからそんな発想に飛躍したんでしょうか!?
私はあの夜雨の中、彼女に謝られてしまいました。きっと、彼女を傷つけたんです。私は愛されるどころか、きっと彼女に軽蔑をされて……。
「だって、りあむさんって初めてのプレゼントを部屋に飾ってたんだよね?」
「えっ? 私は夕美さんと違って、何もプレゼントしたこと無いです」
「でも昨日、真奈美さんから聞いたよ? ちゃんと額縁に飾ってあったって」
「額縁……」
確かに昨日、彼女の寮室で見ました。クレマチスの栞と共に額縁に飾られた譜面。私が手渡した、コピー用紙の譜面。
あれはただ彼女のために用意したライブの資料みたいなものです。決してプレゼント……と口にした記憶がありますね……。
でも、言葉の綾です。練習する上で必要だから用意しただけで、そこまで大切に取り扱ってほしい……とは……言った気がします。……いえ、それも言葉の綾です。だってあれは……ただのコピー用紙……。
私の手に強い力が加わりました。夕美さんが私の手をギュッと握ってくれているみたいです。
「りあむさんはきっと、ちゃんと声に出さないと伝わらないと思うの。彼女の言う『チヤホヤ』って、言葉にして褒めてほしいってコトじゃないかな?」
「褒める……。私はりあむさんのことを、尊敬までじゃないですけど、とても頑張り屋さんだと思ってます。彼女は褒められるだけの努力をしています」
「それ、彼女に直接言ったの?」
…………確かに、ない。
ゼロじゃないですが、口に出した記憶はほとんどないです。とても頑張ってると心の中で思うばかりでした。それも、ただ褒めるのが気恥ずかしいとか、照れるだとか、そんな安い理由です。私は彼女を褒めることを避けていたのかもしれません……。
そっか、私は彼女のことを凄いなと心の中で思っても、彼女からは黙って怒ってるように見えたのかも……。ただ褒めれば良かったんだ。プロデューサーさんみたいに少し大袈裟でも、口に出されると嬉しかったんだ。りあむさんは『いいね』の一言が、ただ欲しかったんだ。夢見りあむは頑張っていると、誰かに認めてもらいたかったんだ……。
「ありすちゃん。ほら、こっち向いて……」
「……はい」
私は座ったままくるりと振り向いて、そのまま夕美さんの胸に包み込まれました。温かくて、優しくて、私の涙はすっと吸い込まれていきました……。
今の私なんかには勿体無いほど、沢山の幸せを注いでもらいました。少し名残惜しいですが、私は夕美さんの元から離れました。
そして、その時に初めて、真奈美さんがレッスンルーム内に居ることに気付きました。
「ありす、私も君を抱きしめた方が良いのか?」
「な、なっ!? どうしてそうなるんですか!?」
いつから彼女が居たのか分かりませんが、確実に見られました。よく見れば彼女の後ろにトレーナーさんも居ます。二人して笑ってます。
「なんで! なんで来たんですか!」
「フフッ、深い理由はないよ。雑誌の取材が早く終わってね、時間があったから立ち寄っただけさ」
彼女は甘い表情でウインクをしながら、両腕を広げて私を手招きしています。
「あの、あれです! そう! これから私たちはレッスンの続きがあります! さあトレーナーさんそこに居ますよね早速続けましょう!」
とにかく恥ずかしいです。一刻も早く体を動かして忘れたいです。
それから一時間弱ほどレッスンを続けました。後半戦はほとんど記憶にないです。色々な意味で無我夢中でした。でも、体がぐったりするほど重いので、レッスンを受けたのは間違いないはずです。
レッスンを見学していた真奈美さんに「良いものを見せてもらった」と言われ、そのお礼なども兼ねて何か温かいものを奢ると誘われました。
そして、今は事務所内のカフェスペース、屋内側のテーブル席に居ます。私は窓の外の雨を右に見ながら、真奈美さんと向かい合うように座りました。
「フフッ。たまには内側から外の景色を眺めるのも良いな」
「外、雨ですけど」
「それがまた、良いんじゃないかな?」
彼女は紙コップのコーヒーを啜りながら、窓の外の景色をじっと見ています。
今はまだ夕方ですが、外は雨雲で少し薄暗く感じます。テラス席の向こうは石畳が濡れていて、人通りもほとんどありません。なんだか、あの夜雨の下でうずくまる二人を、外から客観的に見てる気分です。
「ありす、寂しいかい?」
「い、いえ、寂しいとかではないですが……」
一応否定してみましたが、実際の私はどうなんでしょうか。今は紅茶の入った紙コップを持つ手が温かいだけで、それ以外はとてもひんやりと感じます。
最近の私は雨の景色を見るだけで、少し嫌な気分になります。太陽や星空が見えないことが、なんだか辛く感じます。そんなことを真奈美さんに伝えました。
彼女は紙コップをテーブルに置くと、少し目を細めました。
「私はそうだな、こういった景色を見ると、撮影のことを思い出すね」
「また『ハニーズ・ラブ』の話ですか?」
「フフッ、耳にタコだったようだね」
彼女は少し残念そうに笑いながら右手で頬杖をつきました。そして、彼女はゆっくりと一つ深呼吸をしてから話し始めました。
「例えば……人間なら誰にだって恋が訪れるし、誰を好きになったって構わない。誰にだって、恋は平等だ。そして平等に、誰にも死が迫る」
「死って……」
「私は……いや、私が演じたヤナギだな。ヤナギはすぐに気付けなかった。自分の想いにも、その想い人に迫る死にも……」
彼女の瞳は徐々に湿り気を帯び、閉じられた唇には少し力が入って鼻息も少しだけ乱れてます。何かを悔やむような表情をしています……。
「真奈美さん、演技してますよね?」
彼女はケロッとした表情で「バレたか」と言うと、コーヒーをクイッと飲み干しました。なんだか、遊ばれてる気がします。
真奈美さんは空になった紙コップをテーブルに置きながら「そういえば」と言いました。
「昨日、病院に荷物を持ち込むついでに、りあむとも話をしたよ。大事には至らなかったようで、私の見舞いの時にも元気そうにしてくれていたよ」
「そ、そうですか……」
彼女の話では、りあむさんは復帰に一週間も掛からないだろうとのことでした。その報告は嬉しいのですが、まだ私の心はもやもやとしてます。そんな私の心の中を探るように、真奈美さんは私の目をじっと見ています。
「ありす、やはり寂しいのでは?」
「そ、それは……」
私は自分の感情がよく分からなくなってます。考えようとしても、頭がボーッとしてきます。
彼女は私の目をじっと見たままゆっくりと口を開きました。
「ファンからは天使や神と崇められても、アイドルだって所詮は人の子さ。辛い時は辛いし、寂しい時は寂しいさ。恥ずかしがることなんてないよ」
彼女は椅子から身を乗り出して、私の髪を撫でました。今まさにこの状況が恥ずかしいです。
「……でも、私は子供じゃないです。だから、寂しいだなんて……」
「そうかい? 大人だって寂しい時は寂しいと言って良いと思うよ」
彼女はそう言いながら、今度は私の手をぎゅっと握りました。
「寂しいかどうかに限らないさ。言われないと人は分からないし、言って聞かせるだけでは人は変われない。お互いに想いを伝えあって、お互いにそれを認め合う。それは大人だからこそ大切なことだと思うよ」
握られた私の手に、彼女の指が絡んできました。手の甲や指の隙間が少しそわそわとします。ちょっと驚きましたがなぜか不快ではなくて、手を包まれてるだけなのに心まで温かくなるようです。
「こうやって、直に触れてあげるのも大切さ。感謝を持って優しく慈しむ。そして、相手の心をとろかした所で、渾身の口説き文句で心を撃ち抜いてあげるのさ」
「く、口説き!?」
思わず大声が出ました。素晴らしいアドバイスだと思ったら、急に凄いこと言いましたよこの人!
「おっと、ありすはりあむと、そういう関係をお望みだったのかと」
「ななな、なんですかそれ、変な冗談はいけません! 確かにりあむさんのことは好きですが──」
「ほら、やっぱり」
「ちょ!? 私はただ単に、アイドルとして輝こうと頑張る夢見りあむという存在が好きな、だけ、で──っ!」
わ、私は何ということを口走ったのでしょうか……。
夜に飲まれる院内
同日、午後七時頃、雨に濡れる病院。
私は吸い寄せられるようにここへ来ました。体は芯までじっとり湿ったように重くて、逆に頭は熱くてぼーっとします。それでも私は彼女に会いに来ました。会わなければならない、そんな気がしたので。
入口でアルコール消毒をしてから受付に向かいました。面会の手続きはプロデューサーさんたちのおかげで手早く済みました。早速、会いに行きます。
面会可能な時間は残り一時間ほどだそうです。ギリギリまで居座るのもご迷惑ですし、手早く済ませるつもりです。直ぐに帰ると思います、多分。
彼女の個室の前。私はゆっくりと二度深呼吸をして、静かにノックをしました。中から気の抜けた返事が聞こえたので、ゆっくりと扉を開けました。
とても暖かい室内。視線を遮るカーテンを越えると、お馴染みのピンク髪が見えました。彼女はベッドにて下半身に布団を掛け、体を起こした状態で雑誌のようなものを読んでました。彼女は私に気付いたようです。
「あれ、本物……?」
彼女──りあむさんは雑誌を開いたまま膝の上にパタンと置いて、目を丸くさせたままゆっくりと手を振りました。普段の彼女とは少し違ってゆったりとした動きです。
「ねえ、ありすちゃん。お話、して……?」
ベッドのそばには丸いパイプ椅子があって、彼女はその方向に手を伸ばしてパタパタと動かしました。私は当然、その椅子に座ります。私は彼女とお話をするために来たんですから。
でも、椅子に体がすとんと吸い込まれまれた瞬間、頭の中が真っ白になりました。
彼女の顔を見ていると、頭にめがけて全身の血液が吸い上げられるような気持ちになりました。肩も、首筋も、頬も、後頭部も、全てが何かでパンパンになった心地です。頭がこの想いごと張り裂けてしまいそうに、熱くて、痛くて、グラグラしてます。
何かを伝えなきゃ。いや、何かじゃなく、全てを。そう考えてたはずなのに、考えてた内容が頭のテッペンから全て押し出されました。彼女を見ることすら辛くて、全身に力が入ってしまいます。私は耐えきれずに顔を落としました。
ああ、私は結局、肝心な所で──。
「ありすちゃん?」
「はいっ!?」
その一言だけで今度は全ての血液がスッと引き、胸やお腹にグーッと溜まって押し潰されそうになりました。彼女のルビー色の瞳と見ると、私の中身が更にぐちゃぐちゃになりそうです。
「会いに来てくれるなんて思ってなかった……。ぼく、もう会ってくれないかもって」
「そんなわけ、ないです……」
「だって、ぼくダメな子だし、倒れちゃったし、レッスンにも──」
「そんなこと言わないでください!」
無意識でした。自分でも驚くほどの声量。彼女は澄んだルビーを柔らかくしながら、口元に指を添えて「しぃー」と笑いました。
普段とは真逆の状況。こんな時に冷静な彼女が私とはあまりにも違いすぎて、あまりにも、あまりにも……。
二人とも喋らない、無音の時間。しばらくしてりあむさんは、雑誌の上で手をパタパタとさせながら「病院は慣れてるから」と呟きました。
不思議な言葉でした。病院なんて慣れて良いものじゃないです。何度も入院したいものでもないはずです。
「どうして、りあむさんは倒れたんですか」
やっと絞り出せたのが、こんなひどい言葉でした。何かを伝えるどころか、どう話しかければ良いかも分かりません。
「……ぼく、外見だけはくっそ健康に見えるかもだけど、本当は弱いんだ。……喘息なの」
彼女はすっと瞳を閉じて胸に手を当てました。不器用そうな呼吸にあわせて、彼女の手と胸が膨らんでしぼんでを繰り返します。
「昔と比べて今はちょっとふつうだけど、無理するとちょっとヤバい。ゲーゲーいっちゃう」
「無理すると駄目って分かってるなら、なんで休めと言われたのに自主トレなんてしたんですか?」
私の問いかけに対して、彼女は唇に指を当てながら視線を上げました。
「……テッペンまで自主トレしてた。で、一日体を休めろって言われてたじゃん? テッペン超えてからは、体はちゃんと動かさずにずっと歌詞とかいろいろ覚えてた」
「やっぱり、無理してるじゃないですか……」
彼女ははにかみながら頬をかきました。
「だって、アイドルになるって決めたもん。ぼくは推しのおかげで生きるの辞めなかったんだし、今度は同じやみちゃんたちをぼくが救う番。そう考えてたら、ね。アイドルはやっぱ、尊い特効薬じゃないとな?」
彼女はこともなげに言いましたが、その言葉がとても重たいです。
りあむさんの特効薬という発言を聞いて、彼女のステージ衣装が頭を過りました。
彼女のピンク色とちょっと水色の特徴的な髪に、それに似た色合いのナース服。救いをもたらす看護師のモチーフながら、その随所はファスナーで縛られてました。そして、天使を思わせるような腰元の翼。
自分を抑え込んででも、誰かにとっての救いになりたい。アイドルによる心の救済……。
彼女は何度か大きく呼吸をしてから話し始めました。
「アイドルのおかげで頑張れたりあむちゃんは、アイドルになって早く恩返しをしなきゃいけない。誰かの救いになれなかったぼくに、Pサマがもう一度くれたワンチャン。今度こそって思って……頑張んなきゃって思って、また失敗しちゃった……」
彼女はルビー色を滲ませ、荒れそうになる呼吸を抑えながらゆっくりと告げました。彼女にそう決意させた過去は分かりません。でも。
「だからって、無理なんてしたら……駄目です……」
「みんな、同じこと言うな? みんな無理して鬼のようにレッスンしてるくせに」
彼女は不満そうに口を尖らせて、でもなぜか母親のような優しい目付きをしました。
りあむさんは急に手を軽く合わせながら「そうじゃん」と言いました。
「昨日の真奈美さんも、無理すんなー、みんな心配してんだー、って言ってた。でね、その時にこの雑誌も貰った! ほらほら!」
彼女は膝元の雑誌を持ち上げました。彼女の年齢にはあまり合わない、ローティーン向けのファッション雑誌。彼女が私に見せたページには、一人の少女が写っていました。
見覚えのある、青を基調としたワンピース。ミュールに、ストローハットに、淡い色の麦編みのバッグ。スカートは風になびき、物思いにふけるように遠くを見つめる、橘ありすがそこには写っていました。
「真奈美さんがね、これで寂しくないよって。ありすちゃんを見つけた時は凄くビックリしたし、嬉しかった。希望もわいたな♪」
彼女は幸せそうに頬を緩ませますが、私はこの写真を見た瞬間に何かが胸にグサリと刺さりました。
「ありすちゃんもレッスン以外にめっちゃ頑張ってるし、ぼくだって、もうすこしくらい頑張れるなって♪ いや、頑張ったら怒られるのか? とにかく、元気になったら、今度は怒らんないように頑張る。で、めっちゃレッスンしてライブ成功させる! 元気が出た! よ!」
彼女の陽気さとは対照的に、私は息苦しいです。そのワンピースを見ると、撮影の時の情景と共に、当時抱いてた感情までもが想起されます。
「ぼく、ありすちゃんの大ファンだったしね。いや、どのアイドルも大ファンだけどな? で、ありすちゃんと一緒にステージに立てるって知ったら、嬉しくって……。でも、ありすちゃんがぼくを見捨てるんじゃないかなって、心配だった」
やめてください。やめて、やめて……。
「だから、今日こうして会いに来てくれたの、ぼくはすっごく、幸せなんだ……」
彼女は幸せそうに語りました。希望が湧いたと笑いました。
でも、その雑誌に写ってるのは、あなたを軽蔑していた少女なんです。
彼女は初めから私を信じていたのに。そして、最後まで信じ続けていたのに。私はそんな彼女を信じるどころか、たとえ一時的だとしても、彼女を軽蔑していたのです。
それがあまりにも苦しい。胸は抉れてしまいそうで、手は引きちぎれそうに冷たい。自分の行いが重圧となって、背中から体全てを押し潰します。私は顔を両手に無理やり押し付けて、それでも足らずに全身で押し付ける。膝と顔で両手をすり潰してしまうほどに、自分の顔を無茶苦茶に押し付けます。自分の何もかもを隠してしまいたくて。
苦しい、苦しい。
私は両手に顔を擦りつけながら、息が詰まるほど後悔しました。
せめて、せめてこれからは、彼女に直接想いを伝えないと。彼女が無理をし過ぎないように。
素敵です。頑張ってます。可愛いです。魅力的です。
ただそれだけのことくらいを言えないと。いや、今まさに伝えないと。
そう思って、顔を埋めたまま息を吸おうとして、吸えなくて。
瞬きをするようなほんの一瞬。私は既に、床に倒れてました。
立たなくちゃ。あれ、動けない……。
遠くでなんだか、優しい音楽が……聴こ……える……。
流れ
流れ
露は
零れ
陽は
二つに
夜も
二つ
焼ける
焼ける
床が
溶ける
時は
捻じれこなごな
吐き
気めまい
血の
滲みに
胸までもが
張り
裂け
破れ
辛いきつい
後のまつり
それでも
粒は
落ちゆく
今日は
来ないきっと
来ない
そんな
筈はないのだけど
想う
願う
奇跡祈る
されど
届かず
終わらず
待って
止めて
痛い
怖い
声は
掠れ
意識も
薄れ
刺さる
棘と
注ぐ
毒が
月を
壊し
堕ちゆく
朝が照らすの病室
「ああああぁぁぁぁっっ!!」
私は自分の叫び声で目が覚めました。体が重い……。
とても怖い夢を見てた気がしますが、あまり思い出せません。それに、家でも事務所でもない、見覚えのない天井……。
私は横になったまま辺りを見回しました。左側にある窓のカーテンの隙間から、温かな陽の光が差し込んでました。そのきらめく光が、少し狭い室内全体を爽快に照らしています。
枕側には小さな棚。頭の方にある壁にぶら下がるのは──これ、ナースコールですね。
「病院……」
そっか、私、倒れたんだった。どんどん息苦しくなって、頭がくらんで、気付いた時には意識が遠のいて……。
今は何時だろう。そう思ってゆっくりと体を起こしました。
目の前には細長いテーブル。私の居るベッドに橋を渡すように掛けられてました。
そして、その上には一枚のメモ用紙がありました。花柄のマスキングテープでテーブルに張られていて、見覚えのある字でこう書かれていました。
────
ありすへ
ありす、りあむ、共に命に別状なし。
ありすは単なる過労と酸欠とのこと。
二日間は強制休暇。心身共に休めよ。
これを読んだらナースコールを押し、
看護師の指示に従うこと。
以上
プロデューサーより
────
また、私のせいでご迷惑を掛けてしまいました。
まずはメモに従ってナースコールを押しました。少しの間、なんだか聞き覚えのある音楽が流れた後、スピーカーから看護師さんの声が聞こえました。私が事情を説明したら「すぐに向かいますね」とハッキリした口調で言われました。
……さっきの音楽、どこで聴いたっけ?
今日は六月三日、月曜日だそうです。学校、休んでしまいました……。両親にも、学校にも、事務所にも、色んな方に迷惑を掛けてしまいました。
それでも、看護師さんはとても優しかったです。それに、私のために大事な仕事を休んでくれた両親も、いっぱい心配してくれました。
プロデューサーさんも空き時間に姿を見せに来てくれました。私たち二人がまとめて倒れてしまって、彼はとてもお忙しいはずです。でも、私が謝るよりも先に彼が謝罪しました。「俺の責任だ」とか「俺が悪い」とか言って頭を下げていたので、とても申し訳なかったです。その直後に今後の打ち合わせをしてきたので、いつも通りの方だなとも思いましたけど。
夕暮れ時には、りあむさんも来てくれました。なぜか眠そうだった彼女と私は、こっそりと個人の連絡先を交換しました。とても今更でしたけど、大事な一歩を踏み出したような気がします。
その後は、今する必要もないようなどうでもいい話を二人でしました。何をお話ししたかはほとんど忘れましたが、好きな餃子の話からジャンボ焼餃子を経て今川焼きの呼び方でヒートアップした流れは、強烈に覚えてます。いえ、今でも私は今川焼きという呼び方を認めてませんよ。
……それくらい、なんてことないごく普通を、彼女は届けてくれました。
考えてみれば、ライブやレッスンにまつわる話題以外でりあむさんとお話をしたのは、これまでほとんど無かったような気がします。今になって初めて、知り合いになれたような気分です。
これからはもっと、彼女と仲良くなれるかな……。
だってあなたが黙るから
六月八日、土曜日。私が倒れた日から一週間近く経ちました。
あの日からの私はすぐ退院して、自宅でも休息を取りました。それから、学校に行って休んでいた分を取り戻しました。学校のみんなには少し心配されましたが、「お仕事頑張ってね」と応援されました。
また、りあむさんから毎日のように報告が届くようになりました。レッスンの話よりも何を食べたなどの話が多かったですが、元気そうなのが伝わってきて楽しかったです。
そして、今日は久しぶりのレッスンの日です。しっとりと雨の降る事務所の前には、綺麗に咲いたアジサイがありました。なんだか、頑張れそうな気がします。
レッスン開始のちょっと前、レッスンルームにはトレーナーさんと私の二人が居ます。彼女はあの時のプロデューサーさんのように、深々と頭を下げました。「負担をかけすぎてしまった」とか「皆さんの優秀さに甘えてしまった」といったことを言われて、とてもむず痒かったです。
「橘さん、現在の調子はいかがですか?」
「当然、万全です。一週間も休んでしまった分、しっかり取り戻します」
それを聞いた彼女は手を口に当てながら「ふふふ」と笑いました。
「夢見さんと同じようなことを言ってますね。彼女も、すぐに取り戻さなきゃー、と」
「なんですか! あの人はまた倒れたいのですか!?」
彼女の場合はいけません。きっとまたオーバーワークで倒れます。今度こそ何とかして止めなければ──。
「きっと、そういうところですよ。思ったようにいかなかったのは」
「えっ?」
「素直になってみてください。また、すべてを愛してください。ファンだけでなく、彼女のことも、そして橘さん自身も」
「私を、私が愛する?」
自分を愛するというのは、いったい……。
レッスンの予定時刻、レッスンルームの扉が開きました。
「おはよーござ……ありすちゃん!」
声が聞こえて振り向いた時には、既に私はりあむさんに抱きつかれてました。
「あー! 生きてる生きてる!」
「え、ええ。生きてますよ。そして苦しいです」
「あ、そっか……」
彼女は「むぅー」と不満そうな声を出しながらも、すんなりと離れてくれました。今日の彼女は血色もよく、見た目は問題はなさそうで少し安心しました。
「りあむさん、今日は随分と聞き分けが良いですね」
「それはありすちゃんもだな? 抱きついても全然怒んなかった」
そんなにいつも怒ってません、と言いかけて止めました。彼女に対してもっと優しく、優しく……。
「はいー。私は大人なので全く怒りませんよー♪」
「うわ怖い」
「な、なんでですか!?」
私は彼女に掴みかかろうとして、トレーナーさんに止められました。なんだか不公平です。
りあむさんとの久々のレッスン。今回から本格的に、七月のライブでの楽曲の練習が始まりました。でも、二人とも病み上がりなので、今日は休憩が多めになるみたいです。
まずは、りあむさんにとってのライブ一曲目、『Absolute NIne』を二人で全体通して歌います。お互いに歌詞や振り付けは覚えてきてますが、久々のレッスンということもあって時々つまったり間違えたりしてしまいます。
「し、失敗した……やむ……」
「大丈夫ですよ。間奏抜けサビ、そこから再開します。私に続いてくださいね?」
「……うん!」
まだ上手く通せはしませんが、これから一歩ずつ積み重ねれば問題ありません。焦らずに、二人で頑張ります。
その後は、交互に休みながら相手のレッスンを見学をし合います。
まずは私から。二人のレッスンではあまりやらない、私のソロ曲のレッスンになりました。普段から歌い慣れているはずの楽曲でも、やはり久々のレッスンだと違和感が生まれますね。勉強になります。
休憩中のりあむさんは私の歌を聴き終えると、大きな歓声と拍手で褒めてくれました。彼女が盛大に両手を振るので、私もコッソリと小さく手を振り返しました。これ以上はちょっと、顔が赤くなりそうなので無理です。
今度は交代して、りあむさんの背中を見学です。彼女は歌詞や振り付けを少し間違えたりしながらも、最後までリズムを崩すこと無く、一人きりで一曲歌い切りました。大きく肩で息をするので不安になりましたが、彼女が振り向いてVサインをしたので安心しました。
彼女の動きは、歌詞や振り付けを間違えないように意識をしすぎに見えました。声量そのものは良くなりましたが、ノビがありません。手足の所作にもまだ詰める部分が──。
違います、そうじゃないです。
「順調に成果をあげてると思います。今後は精度の向上を意識した練習が適していると思います。だから、その、良かった……と思い……」
真っ赤です。顔が燃えてます。前すら向けません。面と向かって褒めるだけでここまで照れるのは初めての経験かもしれません。
「あ、ありすぢゃん……」
私が顔を上げると、彼女は今にも泣き出しそうに顔をしわくちゃにさせていました。そして、そのままトレーナーさんの横をすり抜けて部屋の隅まで行き、何も言わずにしゃがみ込みました。普段の彼女と違って、何も言いませんし動きもしません。
彼女は部屋の隅でしゃがんだまま、壁に頭をごちんごちんと当ててます。
「……はぁ……げほっ、ごほっ」
彼女が咳き込むので、慌てて近くへと駆け寄りました。
「り、りあむさん、大丈夫ですか? また症状が悪化しましたか? それとも何処か痛めましたか?」
私もしゃがんで彼女に触れますが、彼女は首を横に振り続けるだけです。
「なにか言ってくださいよ。どうして欲しいか分からないと、何もしてあげられませんから……」
彼女は両腕で自らを抱きながら「うぅ」と唸るだけです。
夕美さんたちが私にしたように、今度は私が彼女の助けにならなくちゃ。そう思って彼女を後ろから抱きしめ──るのは難しかったので、彼女の背中に体を当てました。
「私にできることなら何でもしますから、さあ仰ってください。水ですか? 背中をさすりますか?」
「……ありすちゃん、こわい」
「なっ!?」
彼女は私の脇を器用にすり抜けて、今度は床にうつ伏せになりました。
「やーむー! やーむーのー!」
駄々っ子のように体を左右に揺らしながら、大声で「やむ」と連呼しました。体調に大きな問題はなさそうですが少し不安定な様子です。トレーナーさんと共に私は、彼女の背中などを優しく撫でました。
少ししてりあむさんが落ち着いたので、まずはレッスンを続けました。彼女は体の動きは良かったのですが、なんだかずっと静かでした。喋り方もぎこちなくて彼女らしくありません。そういう私も、彼女にどう話しかければ良いか分からず、黙ってレッスンを受けていました。
レッスンが終わってから二人で休憩所に来ました。二人でソファーに並んで座りながら、二人で黙って飲み物を飲んでます。
今後のためにも彼女と話し合うべきなのは分かりますが、どんな話題が必要なのでしょうか。ずっと黙っている私を見かねたのか、彼女が先に口を開きました。
「……どうやったらアイドルになれるんだ?」
「えっ、りあむさんはアイドルだと思いますけど」
「そじゃなくてさ、どうやったら尊いなって思ってもらえるんだろなって。アイドル追っかけてる間は何となく分かってたけど、ホントにアイドルになるとよく分かんなくなった。頑張ってたら尊いって何となく思ってたけど、なんか違った……」
彼女は話している途中、腕を組みながら何度も首を傾げてました。
「……りあむさん。もしかして普段からずっと悩み続けてるんですか?」
「んや、最近になってから。最初は言われたことをやるので精一杯だったし、とにかく頑張んないと駄目だってことしか考えてなかった。でも、これからはずーっとアイドルだから、何もできないぼくでもずーっと頑張り続けないとなー、って」
その後、彼女は「んにゃー」と変な声を出しながら後ろに仰け反りました。飲み物をこぼしそうだったのですぐに手を出したら、彼女は腑抜けたように笑いました。
二人分の飲み物を近くのテーブルに置きました。彼女はあいた両腕を頭上に伸ばしながら「なーなっななー」とよく分からない声を上げてます。そして、何か恥ずかしがるような、それとも誤魔化すような雰囲気で足をジタバタとさせてます。
きっと彼女は、アイドルというそのものを、分からないなりにも探し続けていたようです。私はそれに気付けていませんでした。
……でも、これからは違います。
「りあむさん!」
「はいっ!?」
私の大きめの声に対して、彼女はビクンと反応して体を起こしました。
「なにも四六時中、ずっとアイドルで居続けなくても良いんです。レッスン中やファンの前ではアイドルですけど、誰も見てないときくらいは休んでください。そして、笑顔になってください」
「なってっていわれても、ぼくもうアイドルだし──」
また仰け反ろうとした彼女を掴みました。今回は逃しません。
「りあむさん、ファンからのアドバイスは素直に受け取ってくださいっ!」
……言っちゃった。
私はずっと前から、彼女ばかりを見てた気がします。叫んでたり、頑張ってたり、夜空を見上げてたり、キラキラしてたり。困っている姿も悩んでいる姿も見ました。彼女の様々な姿を、ずっと目で追っていた気がします。
彼女はワガママというか自分勝手な行動が多かったですが、それでも何かが羨ましかった気がします。……胸じゃないです。
よく分かりませんが、とにかく放っておけませんでした。
私はずっと前から、既に彼女のファンだったかも? アイドルとしてきらめく彼女を見てみたかったのかも? それに気付かない振りをしてたのかも?
だから、彼女に沢山輝いてほしいから、沢山酷いこととかを言ったかもしれません。プロなら妥協しては駄目、それを彼女に押し付けていたかもしれません。良い人の彼女はそれを受けて、ずっとアイドルになり続けようとしてたのかもしれません。
でも、レッスンの終わった後とか、アイドルから降りたときくらいは、人に甘えたって良いと思います。その、私に対して、とか……。
……非常に恥ずかしいことを考えてる気がします。私はとっさに彼女に背を向けました。
「ねえねえねえ! ありすちゃん、ずっと黙ってたけどなに考えてたの~♪」
振り向かなくても声だけで分かります。りあむさんの意地悪なニヤケ顔が目に浮かびます。私はとにかく、平静を装います。
「ど、どうしましたか、急に元気になったりして」
「だって耳がまっかっかーだし」
「りあむさん!!」
とっさに振り向くと、幸せそうな顔をする彼女が私の両耳をつまみました。彼女のその冷たい手の温度のせいで、自分の耳を自覚してしまいます。恥ずかしい……。
「それにさ! ありすちゃんレッスン中に言ったな? 私にできることなら何でもします、って♪」
彼女はそのまま「ウー♪」とか「キャー♪」とか、とにかく甲高い声を上げました。私の耳もつまんだまま引っ張るので、私だって彼女の耳をつまみました。いくら年上だからって、先輩アイドルの耳をつまむなんて許しませんので、お仕置きです。
それが何故か嬉しかったのか、彼女は更にヒートアップして最早聞き取れない程の奇声を上げながら、足をやかましくジタバタさせてます。私の耳もさっきよりもっと痛くなりました。これは本格的にお説教が必要ですね!?
……でも、よく考えれば彼女は、普段から距離感がおかしかったです。やっと、彼女の本来の姿になったのかもしれません。
そうですね、あなたはそうやって、ちょっとうるさいくらいが丁度良いです。
喫茶店が呼んでいる
確かに私は言ったみたいです。できることなら何でもする、と。
六月十六日、日曜日。予想外の、りあむさんとのデートの日がやってきました。
デートと言っても、買い物をしたり何か食べたりしたり普通にお出かけをするだけです。やましいことは特にないです。多分。どこへ行くかは詳しく知りませんが、普通の休日の過ごし方です。ええ。
明け方は小雨が降っていたらしいですが、今は梅雨の時期を忘れさせてくれるほどの青空です。お日様は空高くで気持ちよさそうに輝いてます。雲は少なくないですが、今日いっぱいは晴れるそうです。良いですね。
りあむさんとは環状線の西の端、駅の近くで待ち合わせです。事務所や女子寮やその最寄り駅で待ち合わせをすれば良いのに、そう彼女に伝えたら「それじゃあデートっぽくないし!」と言われてしまいました。
待ち合わせ場所には私が先に着きました。大きな木のそば、見上げれば大型ビジョン。目の前には様々な通行人と、すぐ近くには私のような待ち人たち。
彼女からこの場所を指定された時は気付きませんでしたが、今なら少し分かります。なんというか、いかにもデートって感じですね、これ。人を待つだけがここまで恥ずかしいとは思いませんでした。
通行人の皆さんは大型ビジョンなどに夢中ですし、格好にも気をつけたので私だとすぐにバレないはずです。分かってはいますが、それでも視線が気になってしまいます。
どこかおかしくなってないかな。もしかして、私だとバレないかな。
いえ、バレること自体は構いません。ファン対応には慣れましたし、誠意を持って接すれば皆さんご理解していただけます。でも、少しの騒ぎだって今は困ります。だって……。
りあむさんにお願いされた時のことを思い出します。彼女は人差し指を突き合わせながら、こう言ったのです。
『静かで、優しい、ありすちゃんとのデートがしたい』でしたか。
何でもしますと言われたのに、彼女はそうお願いしたのです。ただ休日に遊びへ行く、それだけを願ったのです。
ですから、私が叶えるのです。だって、私にできることですから。
私の目の前で誰かが立ち止まりました。
「えへへ……ありすちゃん……」
りあむさんでした。彼女は控えめに右手を上げて、グーパーすることで挨拶してくれました。私はなんとなく、その右手に自分の左手をかさねました。彼女の黒いふちの伊達眼鏡越しに目が合って、急に恥ずかしくなって手を引っ込めました。
改めて彼女を見ると、彼女は眼鏡の他にも普段とは印象が違いました。目立つピンク髪の上には大きめのハンチング帽。白のブラウスに、胸が目立ちにくいシルエットのサロペットパンツ。
彼女にしては柄が少なくて、全体的に落ち着いた色合いです。髪色だけが浮いてますが、それがある意味でよく居そうな女子大生の雰囲気になってます。アイドルとはバレないはずです。多分。
「その……可愛い、と思います」
言っていて自分で恥ずかしくなって、つい俯いてしまいました。その時に、彼女が持つ見覚えのある淡い色の麦編みのバッグが目に入って、更に恥ずかしくなりました。
「ありすちゃんも……その髪型、可愛い……よ?」
ほ、褒められたのは嬉しいですが、火が吹き出そうなほど恥ずかしいやり取りです……。
私の方は水色のブラウスにロングスカート、髪はギブソンタックスタイル。後ろから見た程度では、髪型のおかげで誰か分からないはずです。正面は……どうせ顔を見られたらバレますし、諦めてます。
「ねえ、行こっか……」
「え、ええ……」
どこかぎこちないままですが、雨上がりのキラキラちゃぷちゃぷを避けながら、駅へと向かいました。
西に向かって電車に揺られること三十分ほど。目的の駅に到着したみたいです。
ここはいわゆる『ニュータウン』の一角ですね。もっとも、私の世代としては普通に良い町並みという印象です。この駅周辺も割と普通の住宅街に見えますが、雨上がりということも相まって、街全体が輝いているようにも見えます。でも、なぜわざわざここに来たのでしょうか?
駅前の広場に出た所で、りあむさんは立ち止まりました。
「りあむさん、住宅街がお好きなのですか?」
「んー……ちょっと違う……」
彼女は生返事をしながらスマホと街並みとを交互に見ています。どうやらスマホで地図を見ているようです。
お次の彼女はスマホを地面と水平に持ちながら、首や体をぐにぐにと曲げてます。その度に、彼女のハンチング帽や眼鏡が落ちそうになります。
まだ探しものが見つからないのか、彼女は頬に指を突きながら何度も「待ってね」と言ってます。
「りあむさん、落ち着いてください。時間はまだまだありますし私は待てますから、ゆっくりで良いですよ」
私は彼女の背中をゆっくりと擦りました。少し硬かったその背中は少しずつ柔らかくなりました。なんだか可愛らしくて、自然と笑みがこぼれてきます。
「……今日のありすちゃん、なんだか優しすぎてこわい」
むっ。彼女の方から「優しいデート」と頼んでいたのに……。
「ぴゃ! やややめてありすちゃん、くすぐったいって! ひひゃひゃっ!?」
概ねの方向が分かったようなので、私たちは道を調べながら歩き出しました。通り過ぎる車の音がよく聞こえるほど落ち着いた街並みです。りあむさんが秘密にするのもあって、どこへ向かおうとしているのかさっぱり分かりません。それでも景色はゆっくりと、気持ちいい風と共に流れていきます。
見渡しても高い建物は多くなく、空がより大きく感じます。私はつい気持ちが浮かれてしまって、歩きながらくるりと横に一回転しました。何の変哲もない街の風景ですが、周りに誰も居ないこともあって回ってみると気持ちが良かったです。
……あれ、そういえば彼女は?
ぶつかるどころか彼女の気配すら無かったので、私は慌てて歩いてきた道を振り返りました。少し遠くに、歩道の生け垣に向かってしゃがみ込んでいる彼女を見つけました。じっとしたまま動きません。
私は小走りで彼女のもとに駆け寄りました。油断してましたが、もしかして喘息のせいで苦しくなったのでしょうか? それともまた別の問題が?
私も彼女のそばでしゃがみ込みました。彼女の視線や指先を追うと、生垣の根元になにかが見えました。
「見て見て、このミミズすっごいでかいよ!」
濡れた土の上で、とても大きなミミズがうねうねとうごめいていました。どちらが頭か分かるほどの大きさです。……帯がある方が頭でしたよね?
「もしかして、これだけのためにあなたはうずくまってたんですか?」
「うん、そだよ」
心配しましたが、どうやら杞憂だったみたいです。ホッとしながら横を見ると、彼女は「かわいそう」と言いながら先程のミミズをつまもうとしていました。
「いけませんよ、邪魔なんてしたら」
「……そっか」
彼女はあっさりと手を引いてすっくと立ち上がりました。そして、ミミズに対して手を振っています。
「ごめんね。じゃ、行こっか」
彼女は何事もなかったように、また歩き出しました。
土の上、どこか苦しそうにゆっくりとうごめくミミズ。確かに、手を出してしまいたくなります。でも、過度な干渉はよくありません。私もごめんねと言って、りあむさんを追いかけました。
午後ニ時過ぎ。落ち着いた街並みをゆっくりと楽しみながら、私たちはとある喫茶店に辿り着きました。幼稚園のそばに建てられた、小さな木の小屋のような佇まい。いい雰囲気ですね、期待できます。
店内に入るとまず、コーヒーのとてもいい香りがしました。ウッディーで落ち着いた雰囲気で、とても柔らかな空間でした。
私たちは窓際の二人がけのテーブル席に通されました。しっかりとした木のテーブルと椅子です。好きです。
見渡すと、私たちの他にも数組ほどの女性のお客さんが居ました。でも、他の人の気配が感じられないほどの、静かでまったりとしたムードです。なんですか、ここ。まるでドラマのような素敵空間じゃないですか。
「ねえ、どう?」
「最高ですね。何処でお知りになったのですか?」
「えへっ、ないしょ」
彼女はハンチング帽を取りながら、唇にそっと指を置きました。彼女もなんだか嬉しそうです。
料理などを注文した後、お水を飲みながら窓の外の景色を眺めました。住宅街に来たはずですが、窓の外には木々やお花だけが広がっていて綺麗に目隠しがされてました。森の中までやって来たような雰囲気で、ますます気に入りました。
「めっちゃうれしそうで、ぼくもうれしい♪」
幸せそうな声が聞こえたのでりあむさんの方を向くと、彼女は眼鏡を手に持って遊んでいました。彼女は「めがね飽きた」と言いながら、フレームの両方の輪っかに指をいれています。
帽子も眼鏡も無いので、格好いい服のただのりあむさんになってしまいました。彼女が認知されているのかは分かりませんが、変装に関してそのうち注意した方が良いかも知れませんね。彼女が伊達眼鏡を右手の指でさしたままくるくると回し始めたので、さすがにそれは今注意しましたけど。
彼女の右手をよく見れば、小指に水色のピンキーリングをしていました。プロデューサーさんからプレゼントされたものですね。……彼女もつけてましたか。恥ずかしいです。
注文していたものが届きました。りあむさんはコーヒーにナポリタン、私は紅茶にオレンジシフォンケーキです。
私の目の前には、ふわふわのシフォンケーキがお皿の上で、気持ちよさそうにお昼寝しています。お布団代わりのホイップクリームが、とてもかわいらしいです。シフォンケーキにフォークで触れると、それだけで崩れてしまいそうなほどに柔らかかったです。
食べる前から既に幸せでしたが、それをひとたび口に含むと更なる幸せが訪れました。まさしく、口の中でほどけるみたいでした。
そして広がるオレンジの風味。その香りは鼻の中を通り抜け、口の中は酸味と甘味でじゅわりと包まれてしまいました。美味しさのせいで、ぞわぞわが背中から首筋をつたって頭の先に向けて、幸福となって風のように吹き抜けていきました。
どんな魔法を使われたかは分かりませんが、今まで食べたシフォンケーキの中でも格別に美味しいです。ああ、これをホイップクリームと共に食べてしまったら、きっと私はどうにかなってしまいます……。
「ありすちゃん、美味しい?」
「……んぐっ。凄いです。これは美味しいを超えてます。ヤバイです」
彼女はほっと息をつくと、そこで初めてフォークを手に取ってナポリタンを食べ始めました。
「喋るのは食べ終わってからにしてくださいね」
「んんっ!? ……んぐ、んぐ」
何となく気付けました。きっと、彼女は口に物が入ったまま美味いと言います。
「……で、美味しかったですか?」
「んはぁ。ありすちゃん凄いな? テレパシーじゃん」
その時に見せたきょとんとした顔も、その後にこぼれた屈託のない笑顔も、とても愛おしいです。
あまりにも彼女の表情が素敵だからこそ、私に向けたフォークを降ろさせました。
行儀の悪いアイドルは許しません。もっと可愛らしくなってください。
私は今、非常に重大な事に気付いてしまいました。私ともあろうものが、イチゴを差し置いてオレンジのシフォンケーキに陥落していました。すっかり完食した後に気付いたのが、とても悔しいです。美味しいイチゴのシフォンケーキをいずれ見つけて、絶対に食べます。今日のところは、この美味しい紅茶に免じて許してあげます。
私は先に食べ終えましたが、りあむさんはもう少しのようです。彼女は残っているナポリタンをフォークでくるくると弄ってました。彼女はそのまま左手で頬杖をつきながら「そういやさ」と呟きました。
「みんな、マジで心配してたんだな? 今はわかる。ありすちゃんもよく黙っててこわかったけど、今日わかった」
彼女はナポリタンを食べずにフォークを置きました。コーヒーのカップを両手で持って、飲もうとした所でそれも止めました。そして、一つ息をついてからぽつりぽつりと話し始めました。
「ぼく、さ。小学の頃からもう、乳がおっきかった。それでいじめられてた。男子には色々言われた、りあむ星人とか。で、物も投げられた。女子は羨ましがったり、ぼくの乳をぎゅうぎゅう触ったりしてた。……怖かった。でもさ、その頃はまだ良かった」
そう言って、彼女は黙りました。彼女は幾度も何かを言いかけて、それでも続く言葉はありませんでした。
何かを諦めたようにカップをソーサーの上に置くと、両肘を机の上に乗せて両手で頬杖をつきました。
「……ずっとずっと、色々あった。うん、それだけだよ」
私に向けられていた彼女の視線は、すっと下へ向かいました。
「虐められたのにそれだけだなんて、寂しいことを言わないでください……」
「でも、たとえありすちゃん相手でも、これは話せない。めっちゃぶっちゃけたいけど、これはやっぱ駄目だな。……ごめん」
彼女は頬杖をついたまま、視線は窓の方を向きました。
そんな顔をされたら、もう何も聞けなくなってしまいます。知って欲しい、でも私には知られたくない。私は何もしてあげられない。そういうことなのでしょうか。
「……私がまだ子供だからですか?」
「違うよ! いや、違わないか」
彼女は両腕をそのままに頭を抱えました。しばらく瞳を閉じていましたが、やがて両腕の隙間から覗き込むように私と目を合わせました。
「……うん。ありすちゃんだから、ここまで言えた。小学の頃の話すら、ほとんど言ったことないもん。その後のことを思い出しちゃうから。……でもね、ありすちゃんならきっと、助けてくれる。だからちょっとだけ言えた。色んな痛いこと思い出しても、てか今もすごく怖いけど……。でも、ありすちゃんが目の前にいるから、ちょっとだけ大丈夫……」
彼女はルビー色から雫がこぼれる前に、両腕の隙間を閉じました。
その瞬間でした。
ガシャーン!!
静かな喫茶店には似つかわしくない騒音に、私は驚いて振り向きました。一瞬だけ遅れて厨房の方から悲鳴が上がり、その後店員さんが出てきてへこへこと何度も頭を下げました。
どうやら、厨房の方で食器が割れてしまったみたいです。事情が分かったので、私は一先ずりあむさんの方を向きました。
でも、そこには誰もいませんでした。
私は立ち上がって辺りを探しました。見つけました。彼女は机の下で頭を抱えるように震えてました。
「だ、大丈夫ですか!?」
私はテーブルに潜り込みました。彼女はピンク髪を両手で引きちぎりそうなほどに握りしめながら、震える声で何度も「ごめんなさい」とうわ言のように呟いてました。
「りあむさん、謝らないでください。落ち着いてください!」
私はまず、彼女の両手を取りました。このままでは綺麗な髪が台無しです。彼女は力無く頭を左右に振り続けていますが、構わず彼女の両手を握りしめました。
気付けば周りのお客さんなども駆けつけてくださって、りあむさんの背中を擦ったりしてくれました。
程なくして、りあむさんは落ち着きを取り戻しました。私たちは店員さんやお客さんたちにお礼を言いました。そして、それぞれがそれぞれの場所に戻りました。
「……ありすちゃん、ごめん」
彼女はそれだけ言って、残っていたナポリタンを一気に食べました。すぐに口を拭いた彼女は皿を横によけて、口をもごもごさせながら机にうつ伏せになりました。私が何となく頭を撫でると、彼女は「んーんー」と声を漏らしました。
食べ終わった彼女はコーヒーを飲みながら、先程のことについて少し話してくれました。
どうやら彼女は大きな物音が苦手なようです。そういえば以前にも、似たようなことがありました。
その時と違って、今日の私はちゃんと力になれたでしょうか? 直前にも彼女は、私が居るから大丈夫、と言ってくれてました。私がそばに居るだけで彼女の助けになるなら、良いなあ……。
自分でも、少し自惚れてるなと思います。でも、それで良いんです。私が自惚れるだけで済むなら構いません。彼女の助けになれるなら、きっとそれが良いんです。
命をかけるだとか、そんな大層なことはできませんが、私にできることならやりたいです。どんな細かな努力だって、私がやれるのなら、やりましょう。
夜空の丘でまた逢えたら
しばらくしてから、私たちは喫茶店を後にしました。彼女が帽子や眼鏡を店内に忘れそうになった時はビックリしましたが、ちゃんと身につけさせました。
その後は気の向いた方に歩いてみたり、雑貨屋に立ち寄ってみたりしました。目的もなしにさまようというのも、案外楽しかったです。
りあむさんと共に時間を過ごす間に、気付けばすっかり日も傾いてました。
私たちは薄暮の中、降り立った駅より北東の方角にある大きな公園まで来ました。丘を覆うように広いその公園の中には、自然がいっぱいでした。
周りの木々は私たちに優しく囁きかけて、少しずつ黒く染まっていく遊歩道を白い電灯が導いています。まるで私たちのいる地表と、星空に変わりゆく天空と、二つを繋ぎ合わせるような神秘の丘でした。
私たちは星空へ向かうこの滑走路を、ゆっくりと共に進んでいます。二人の間に会話はありませんが、りあむさんの陽気な鼻歌が私たちを繋いでいました。
それに、この左手にある温もりのおかげで寂しさなんて感じません。
やがて私たちは、見晴らしのいい展望台に辿り着きました。
夜空には綺麗にまたたく星々が、見下ろせば先程まで私たちがいた町並みが、それぞれがキラキラしてました。この輝きがきっと、私たちの目的地です。
いくつもあるベンチのそれぞれには、恋人同士と思われる二人組が座ってました。私たちはその中で、たまたま空いていたベンチに吸い寄せられました。
少し固くて、背もたれもない木のベンチ。寄りかかるものがなく、二人の体は自然と引き寄せられます。左側だけが温かくって、なんだかちょうど良い感じです。
「ねえねえ、今日行った喫茶店、どこだろな?」
「……どこでしょうね。駅らしき場所は分かりますが」
「見下ろしちゃうと、思ったより分かんないな」
りあむさんは少し残念そうな声を出しながら、体だけでなく頭も私に寄りかけてきました。彼女から漂う甘い香りが、私の胸をキューッとさせました。でも、私より彼女が心配です。
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
「流石にちょっと疲れたけど、足がしんどいだけだから、だいじょーぶ」
彼女はゆっくりと姿勢を正すと、右手を星空へとかざしました。指の隙間から見える輝き。そして、その小指には水色のピンキーリング。彼女はそれをたゆたわせています。
「星はいつだって、ぼくたちを祝福してくれる。その光の雨は、ぼくたちの過去を洗い流してくれる。雨が止んだ時こそが、ぼくたちの新しい船出の時なのさ。……なんてね」
「ふふっ、空に向かって漕ぎ出しますか?」
私はそう返しながら、彼女の右手の隣に私の左手をかざしました。
夜空に並んだ、私たち二人分のピンキーリング。私たち二人が繋がっている証。
しばらくして彼女も気付いたのか、私の手の甲に彼女は手のひらを重ねました。私の左手だけが、かあと熱くなった気分です。
そして、私の指の隙間は彼女の指で満たされました。彼女は私のピンク色のピンキーリングを、親指と人差し指で挟んでくにくにと弄ってます。なんだか妙に恥ずかしいです。
私たちは夜景を眺めながら、特に何を話すわけでもなく、ゆっくりと時間を過ごしました。それでも、とても輝いたひとときでした。
「りあむさん、今日はありがとうございました。とても素敵な一日になりました」
彼女が求めたのは、静かで優しいデート。それを頼まれた時は少し戸惑いましたが、とても素敵な時間でした。
左を向くと、彼女はなぜか目を丸くして私を見つめてました。眼鏡越しに見えるそのルビー色に私は吸い込まれてしまいそうです。
彼女は大きく二度まばたきをして、「なーんだ」と言いながら両腕をあげて天を仰ぎました。
「いやさ、聞き覚えあるセリフだったし、ありすちゃんも観たのかなって」
彼女は被っていたハンチング帽を取って指にさして、くるくると回し始めました。
「そんな事をしてたら帽子が飛んじゃいますよ。気をつけてください」
「んもー! ちょっとぐらい良いじゃん、オカンありすめ」
彼女はそう言いながらも素直にハンチング帽を被り直しました。そして、急に体を左右にゆっくり揺らしながら鼻歌を歌い始めました。彼女は上機嫌になると、同じこの鼻歌をよく歌ってます。
その鼻歌を急に止め、彼女は「そうだ!」と声を上げながら私の左肩をパンパンと叩きました。
「ありすちゃんありすちゃん! たしかタブレットとか持ってたな? 今ある?」
「え、ええ。それがどうしました?」
「ここに来たらね、観せたいのがあったの! もう観せたことあるけど!」
彼女は私が取り出したタブレットを取り上げると、それでネット検索をしてとある動画を再生しました。そこには、夜景を背景に聞き覚えのある歌を歌う、真奈美さんと夕美さんが──いえ、ヤナギさんとシオンさんが映ってました。
『ハニーズ・ラブ』。りあむさんが今再生したこの動画は、彼女が愛するそのドラマのエンディングですね。今まさに、私たちが居るこの展望台で二人が歌ってます。この動画は以前、真奈美さんたちと初めて四人揃ったときにも見ました。
よく聴いてみればこの曲、りあむさんが普段鼻歌で歌ってるメロディと同じなようです。確か『星降る夜』という曲名だったと思います。彼女が上機嫌な時によく口ずさんでますし、彼女にとってよほど大切な歌なのかもしれません。
彼女は手に持つタブレットを前に突き出して、動画と実際の映像とを重ね合わせようと試行錯誤しています。その動きにあわせて、彼女のピンク色の髪がサラサラと綺麗に揺れています。
振り返ってみれば、今の私たちと同じようにスマホを前へ突き出して、それを仲良く覗き込む二人組が見えました。どうやらここは、ドラマファンには有名な夜景スポットのようです。りあむさんは、だからこそここに来たかったのかも知れませんね。
そのドラマを観れば、この夜景もまた違って見えるのかな……。
りあむさんのこと、もっと知りたいかも。
まだ
薄汚れた
灰被りが、これから
羽ばたとうとしている。
今はまだ
弱いけれど、いつかきっと、この
川から
飛び
立つんだ。
私たちはデネブだ。
どんなに
遠くたって
届けてみせる。
太陽だって
超えてみせる。
何千年を
掛けてでも、
北の
頂上を
目指して
輝き
続けるんだ。
人が実る時
「──ということで、今週のラジオ『フラワリー・ウィークエンド』はここまでっ♪」
「ゲストは橘ありすちゃんでした。皆様の週末が、華やいだものになりますように。またね~♪」
六月二十八日、金曜日、十九時五十八分。
ラジオの生放送が今まさに終わりました。
事務所内のラジオスタジオ。夕美さんと藍子さんのお二人によるラジオ番組にゲスト出演した私は、半月後のライブの宣伝などを含めて、たっぷり一時間のトークをしました。
生放送を終えた私たちは、スタッフさんに誘導されながらブースから退出します。
「ありすちゃん、今日はありがとうございました」
「ええ、私の方こそありがとうございました。藍子さんのお陰で、落ち着いてお話できました。夕美さんのサポートも助かりました」
「ふふっ、ありすちゃんは真面目だねっ♪」
ブースからスタンバイエリアに出る直前、夕美さんはそう言いながら私の頭を撫でました。褒められるのは嬉しいですが、子供扱いされているみたいでとてもむず痒いです。
「真面目と言えば、ありすちゃんのファンの方からメッセージが有りましたよね」
「あの『いつも以上に真剣に宣伝していて珍しかったです』という内容ですか。私、宣伝は普段からちゃんと真面目だと思いますが……」
「んー、どうだろうね。私はいつものありすちゃんって思ったけど、やっぱりファンの方から見ると違うんだろうねっ」
そんな会話をしながら、今度は藍子さんまで私の頭を撫で始めました。これを拒絶すると余計に弄られそうですし、非常にむず痒いです。
スタンバイエリアに移動すると、そこのソファーにりあむさんが座っているのが目に入りました。
「あっ、ありすちゃんズルいズルい! 正しく両手に花じゃん! ぼくもなでる!!」
彼女は立ち上がって私の目の前まで来ると、彼女まで私の頭をわしゃわしゃと撫で始めました。
「……夕美さん、藍子さん、彼女にもやっちゃってください」
私の左右に居たお花さんたちは、お次はりあむさんの両脇にそれぞれが掴まり、彼女の頭をたっぷりと撫で始めました。
「えっ、ちょっ、ほんとにやられると怖、だっ、ひゃっ!?」
ガッチリとホールドされた彼女は、恥ずかしさを紛らわすようにジタバタともがきます。でも無駄です。特に夕美さんは、華奢な見た目とは裏腹にガーデニングで鍛えた筋力があります。お二人に掴まっては為す術などありません。りあむさんも存分にむず痒くなってください。
生放送の後のお片付けも終わりました。
りあむさんの「ナタ・デ・ココが飲みたい」という謎の要求により、休憩所にある自動販売機前に二人で来ました。ここの自動販売機って、こんな変わり種まで売られてたんですね……。
彼女はそれを買うと近くのソファーにどかっと座り、早速缶を開けて飲み始めました。
「んー! うまい!」
彼女は足をバタつかせたり、両足揃えて床をタンタンと鳴らしたりしました。私も飲み物を買ってから彼女の隣に座りました。
彼女は手に持つ缶を揺らしながら「あ、そうだ」と呟くと、私を見ながら楽しげに、先程のラジオの感想やライブに向けた意気込みなどを話してくれました。彼女は何を喋るときでも何かしらの身振り手振りを交えて、その度に彼女の手足や髪や胸などが感情をあらわにしてくれます。見ていて飽きません。時々動きを止めてゆっくり呼吸をするので不安になりますが、その慣れた対処を見ると少しだけ安心します。
ライブへの意気込みを語るりあむさんに、私はレッスンの進み具合を尋ねました。彼女はぴちぴちと音を立てる缶の中身を一気に飲み干しました。
「んぐんぐ……んぐっ。とりあえず歌詞も振り付けもちゃんと覚えたな? ド忘れしなきゃ、多分だいじょうぶ、かも?」
「それ、本当に大丈夫なんですか?」
「んっふふー! りあむちゃんは歌鈴ちゃんに、めっちゃ良いこと聞いたから! イケる!」
彼女は親指を突き上げて高らかに宣言して、その内容を力説してくれました。その宣言は格好良かったのですが、肝心の内容というのが歌鈴さん直伝の「ドジした時の挽回の仕方」だったのが少し気になります。確かにそれも一つの成長ですが、どうせなら失敗しない方法とかを見に付けてほしいです。
「えっと……その……その努力の成果を期待してます……よ?」
「いやいや、無理して褒めなくてもいいぞ? ……でも、なんか嬉しいな♪」
彼女が笑うので、きっと正解ですね。
その後も、りあむさんはレッスンの進み具合を元気に話してくれました。彼女がレッスン中に、トレーナーさんから褒められる機会が増えたことを、嬉しそうに話してくれたのが印象的でした。
彼女は着実に成長をしてます。初めて会った時はレッスンを受けるのもままならなかったですが、彼女は変わりました。彼女のレッスンは時々しか見れませんが、だからこそ、その変化を実感できます。レッスン中に私が彼女を褒めると嬉しそうにしてくれるのが、最近では一番の楽しみになってきてます。
確かに、完璧のライブまではまだ遠いです。仕方がないというか、残念ながら当たり前です。
でも、彼女の歌声を聴いた人たちが喜んでくれるくらいには上達しています。完璧じゃなくても、それに近いくらいの出来栄えまで育つはずです。それだけ彼女は頑張りました。彼女は凄いです。本当に──あ、違います。
「りあむさん、凄いです」
「……ん? なにが?」
彼女にキョトンとされてしまいましたが、そのまま続けて、声に出して彼女を褒めます。
「初めてりあむさんに会った時、ダメな大人だなと私は思ってました。でも、全然違いました。りあむさんは、なんていうか、その……。凄いです」
ああ、いざとなると胸が苦しくなって、上手く言葉が浮かびません。ただ上手いとかを褒めるのと違って、想いを打ち明けるのはやっぱり大変です……。
恥ずかしながら彼女の方を見ると、彼女まで恥ずかしさをこらえるような表情をしてました。そして、彼女は頬を少しかきながら「えへへ」とはにかみました。
気持ちは言葉にしないと伝わらないと教わりましたが、今回だけは言葉じゃなくても何かが伝わったみたいです。……多分。
私は改めて、ライブに向けての意気込みをりあむさんに話しました。
「りあむさん、まだ半月あります。無理のない範囲でレッスンをやりきりましょう。何かがあっても私が守りますから、一緒に頑張りましょうね」
彼女もファイティングポーズのような姿勢をとって意欲を見せてくれました。そして、なぜか急に私に抱きついてきました。
「あぁ~ん、ありすママぁ!」
「ななな、なんでママなんですか! せめて妹にしてください!」
依然私に抱きついたままの彼女は、私の言葉を聞いて急にニンマリと笑いました。
「妹にしてください……?」
「あっ、その、それは言葉の綾です! 勘違いですから!」
「ああもうありすちゃん可愛い! めっちゃすこ!」
今度は私の頬に自身の頬を擦り寄せてきました。彼女に子供扱いされるのは構いませんが、でもやっぱり少しだけ悔しいです。大人扱いだってしてほしいです。
「ぶぃー。なになに、急にほっへはを引っはるなよう!」
「私がアイドルとしては先輩です! たまには敬ってください!」
彼女が何度も「わかっやかりゃ!」と言ったので手を離しました。彼女は自分の頬を両手でむにむにと触ってから、真剣な眼差しで私を見ました。
「……でも、ありすちゃんも、お姉ちゃんに頼ってくれていいよ?」
「そ、そうですね。ちょっとくらいなら、頼るかもしれませんね……」
「やぁぁああん♪ ありすちゃん、しゅきー!」
「ぶへー。ひあふはん! ほっへはを、ひゅーっへ、ひにゃいへふははい!」
笹に願いを
七月六日、土曜日、レッスンルーム。
ライブを来週に控えた私たち出演者四人は、事務所のレッスンルームにてリハーサルを行いました。
本番でのステージの上とは多少勝手が違いますが、機材も含めて極力本番に近い環境で歌いました。とても有意義な時間でした。
「よ、四人ともぉ! 最高だ! 最高の演技だったぞぉ!」
レッスンルームの片隅では、暑苦しい三十路の男が泣き崩れてます。きっとプロデュース業でお疲れなのでしょう。……でも、その原因の大半は私たちでしょうね。申し訳ないことをしました。
そんな彼をよそに、トレーナーさん、真奈美さん、夕美さんの三人は、りあむさんの元に集まりました。私も近付きます。
「りあむ、イヤモニの付け心地はどうだったかい?」
「片耳だけ音きいてると、変な気分する。イヤホンとか使って練習しないと……」
「ふふっ、あとで一緒に練習しましょうね♪」
りあむさんが皆さんにチヤホヤされていて、なんだか私も嬉しいです。でも、本人はあまり浮かない様子です。
「もしライブでオタ……お客たちに『帰れ!』とか『引っ込め!』とか言われたら……ひさびさにマジやみするかも……」
彼女は人差し指を突き合わせながら、不安そうに誰も居ない所へと目を逸らしました。そんな彼女の両方の耳たぶを、真奈美さんが優しくつまみました。
「大丈夫さ、りあむ。さっきの練習を思い出してごらん。たった数ヶ月で一生懸命に練習をして、何も間違うこともなく美しく華麗に歌いきった。……君ならファンになるんじゃないかな?」
「……うん。推せる、かも」
先程まで固かったりあむさんの表情も、少し落ち着きました。わ、私もなにかしてあげたいです。
「そ、そうですよ。それに一曲はアンコール曲ですから全員居ますし、もう片方だって私が一緒に歌いますから。……ずっと私と一緒です」
私は彼女の頭を撫でながら、精一杯彼女を落ち着かせようとしました。
「あれあれ~? ありすちゃん、今日は大胆だねっ♪」
「なっ!?」
気付けば夕美さんと真奈美さんは、お二人とも口を手で覆いながら目を細めてました。トレーナーさんも私の様子を見ながら微笑んでます。も、もうこれからは、人前でこんなことしません!
いつの間にか泣き止んでいたプロデューサーさんが「そういえば」と言いました。振り向くと彼は上の方を指差してました。
「みんなは笹に短冊は飾ったのか? 今年も屋上に七夕飾りがあるから、まだなら行ってみると良いぞ!」
今日は七月六日。確かに七夕の季節ですね。私以外に皆さんもまだだったようなので、これから四人で屋上に行くことになりました。
同日、午後六時三十分頃、事務所の屋上。憩いの場にもなっている緑地スペースの一角に、飾り付けをされた大きな笹がありました。分かりやすく七夕です。
先に短冊を作った真奈美さんと夕美さんが、それを笹の葉に飾り付けています。夕日にそよぐ笹の葉が綺麗です。七夕だと夜を思い浮かべますが、夕暮れに馴染む笹とお二人の姿は趣があって美しいです。
「ありすちゃんは書けた?」
「ええ、勿論です」
りあむさんと私も笹の前まで来ました。さらさらと気持ちよさそうに揺れるそれに、彼女は背伸びをしながら短冊を高い所に飾りました。私はそこから少しだけ離れた位置に飾りました。
「ありすちゃん、短冊なに書いたの?」
「見せませんし、見ませんよ」
「……もしかして、なに書いたか言ったら、叶わなくなるか?」
彼女は私を見ながら首を傾げました。私が見せたくないのは単純に恥ずかしいからですが、実際は見てしまうといけないのでしたか……? 後で調べなくては。
「……まあいいや! で、そっちのしわくちゃの短冊は良いの?」
「はい、このカードはただの私物ですから」
バッグの中から別のものを取り出そうとした時に、たまたま手に持っただけですね。でも、このカードも確かに、私の願いを叶えてくれるおまじないです。これも彼女には見せません。
「それよりも、渡したいものがあります。これです」
「ん? なになに?」
私はバッグから取り出した、包装されたとあるものをりあむさんに手渡しました。
「さあ、これが私からの『初めての』プレゼントですよ」
私が渡したのは、指輪を首から下げられるようにするためのネックレスチェーンです。彼女のためにアクセサリーをと思いましたが、何が正解か分かりませんでした。でも、これならきっと彼女も喜んでくれるはずです。
プレゼントを確認した彼女は、少し上ずった声で何度も「ありがと」と言ってます。
「……うん。ぼく、これずっと付けるよ! 飯も風呂も寝る時も! ずっと!」
「ふふっ、嬉しいです。でも、壊してほしくないので、外す時は外してくださいね?」
彼女はどこかそそっかしいですから心配です。特に寮内では、お風呂の時などでなくしてしまいそうですし。
「……あれ、りあむさん。寮のお食事は良いのですか?」
「マジだ! もうすぐじゃん! ありがと、行ってくるね!」
彼女は私からのプレゼントを大切そうに両手で持ちながら駆け出しました。そして、屋上を後にする直前、彼女はこちらを向いてからぴょんぴょんと飛び跳ねました。
「あーりすちゃーん! 来週、がんばろーねー!」
「……ふふっ。はーい! がんばりましょー!」
風が吹きました。
私たちに向かって、びゅーっと、気持ちのいい風が吹きました。もやもやとした不安や怖さを、夕焼けに向かって洗い流してくれるみたいです。
気付けば夕美さんと真奈美さんが私の左右に立っていました。
「ありすちゃん、私たち二人も一緒だよ。忘れてもらっちゃ困るんだからねっ♪」
「そうさ、我々四人──いや、プロデューサー君やスタッフやファンのみんな、全ての人間で必ず成功させてみせよう」
「……はいっ!」
夢見りあむさんは、もう独りではありません。ライブは絶対に、成功させます。
私たちが梅雨明けを告げよう
「お空ーーっ!」
「そうですね、いい天気です」
七月十四日、日曜日、ライブ会場。
ついに、この日がやって来ました。
都内の国立公園。そこに斜めから降り注ぐ明るい日差し。夏を感じさせる色濃くて澄んだ青空。そして、くっきりとした綿雲たち。雲の量は少しだけ多いですが、雨の心配はないみたいです。少し暑いですが、いい天気になって嬉しいです。
園内の草原っぱらに立つ、私たちのステージ。青く茂った木々を背負うようにそびえ立っています。りあむさんと私とプロデューサーさんは、そこへ向けて歩いてます。私は当然ですがりあむさんも気合が入っているみたいで、飛び跳ねるように元気よく歩を進めてます。
「ねーねーPサマ! もう梅雨明けした!?」
「いや、まだらしい。だが、西の方では既に梅雨明けしているらしいぞ! 夏は目の前だ! いいか二人共、お前たちが梅雨明け宣言してこい!」
彼は拳を握りしめて力強く語りました。
「プロデューサーさん、私たち民間は梅雨明け宣言を行えません」
「おう、ありすも調子良さそうだな。安心したぞ!」
彼は右手の親指を立てながら、左腕の腕時計を確認しました。
「おっと、すまん。俺は先に行く。直前リハーサルは少し後だし、それまでお前たちは近くでゆっくりしていてくれ。……りあむ、お客さんには絡むなよ?」
「しないし! ひどいこと言うなー!」
彼はりあむさんの反論に笑顔で返すと、急ぎ足でステージの方へ向かいました。さて、これからどうしましょうか。
私たち二人は一先ず、ステージの方へ向かうことにしました。まだステージ付近は人がまばらで、スタッフさんたちの動きの方が目立ちます。
「なんか、ちょっとずつ緊張してきたな……?」
会場の様子を見たりあむさんは手を口元に当てながら、周りをキョロキョロと見ています。そんな時、不意に後ろから声がしました。
「おはよう! お二人とも、元気かい?」
振り向くと少し遠くに、大きく手を振る真奈美さんが居ました。私たちもお返事します。
「おっはよーございまーす!」
「真奈美さん、おはようございます!」
「うん、体調は良さそうだね」
彼女はタオルで汗を拭いながら、私たちの方へ駆けつけました。りあむさんはぴょんぴょんと飛び跳ねながら彼女を迎えました。
「真奈美さん、何してたの!?」
「ウォーミングアップを兼ねて、辺りをランニングしていたところさ」
真奈美さんはウインクをしながらりあむさんの目の前に立ちました。そして、正面からりあむさんの両肩を掴みました。
「えっ、なになに!?」
「フフッ、気にするな。そら、力を抜いて」
真奈美さんはりあむさんの両肩を楽しげにぐにぐにと揉んでいます。突然のことで何もできないりあむさんは、目をぎゅっと閉じながら口や両手をパクパクとさせています。
「えー、りあむさん。憧れの『ヤナギさん』に肩もみをされている感想は?」
「はうっ、はうっ!」
彼女は真奈美さんからの熱い激励に為す術がありません。でも、その緩んだ表情を見ると彼女の緊張は解けたように見えます。……別の理由で緊張してそうですが。
三人でステージ付近を歩いてる途中、真奈美さんは何かを思い出したように「そうだ」と言いました。
「二人共、セットリストの変更の話は聞いたかい?」
「いえ、初耳ですね」
りあむさんの方を見ましたが、彼女も知らないみたいです。
「大した変更ではない。ライブの最初に一曲、私と夕美のデュエットが追加されただけだ。セットリスト全体が一つずつ後ろにズレる形だよ」
つまり、夕美さんと私のデュエットはニ曲目になりました。私は少し気楽になりますね。
「なになに! 真奈美さん、なに歌うの!?」
「おっと、残念ながらプロデューサー君に口止めされていてね。本番でのお楽しみだ」
彼女は「リハーサルでも歌わない」とも言ったので、どうやらファンに対してのサプライズも兼ねているようです。どこからバレるか分かりませんし、直前まで秘密なのでしょう。
「折角だ、ステージ袖からになるが、二人にも聴いてもらいたいよ」
彼女はりあむさんに横から近付き、こう続けました。
「特にりあむは、折角の初めてのライブ出演なんだ。せめて最初の一曲だけでも、アイドルのステージをゆっくりと楽しんでほしい」
彼女はりあむさんに顔をズイっと寄せて、その頬に優しく手を添えながらこう囁きました。
「プロデューサー君に頼んで、時間を作って貰うよ。アイドルだって女の子。特別なひとときを、君に届けたいんだ。……良いよね?」
「は、はいぃ……。楽しみましゅぅ……♪」
あ、落ちました。完全に虜ですね。
心を撃ち抜かれたりあむさんは、先程からウキウキとしながら鼻歌を歌ってます。緊張した様子はすっかり消えました。もしかしたら、あれが真奈美さん流の緊張のほぐし方だったかもしれません。かなりの荒療治にも見えましたが。
そのおかげか、直前リハーサルもつつがなく終わりました。現場まで来てくださったトレーナーさんも安心したような表情を見せてくれました。
りあむさんは時間を掛けながらでしたが、段取りや立ち位置などを問題なく把握していきました。彼女にとってはまだ不安かもしれませんが、そういった要素は私たちでもフォロー可能です。それに、彼女が歌い出してしまえばこちらのものです。彼女はそれだけ頑張ってきましたから。
日は高く、光は雲の隙間から会場に降り注いでいます。私たちの時まで、もうすぐです。
夢見りあむはまだ生きている
ライブ開始目前。客席には既に大勢のお客さんが集まっています。
全ての準備を終わらせたりあむさんと私は、ステージ裏にスタンバイしています。そして、トップバッターを務める真奈美さんと夕美さんは、既にステージ袖で自らの出番を待っています。いよいよですね。
そんな中、肝心のりあむさんはというと……。
「つらい……やむ……んぐんぐ……」
ナース風の衣装を着た彼女は、泣き言を漏らしながらケータリングのサンドイッチを食べてます。
「んぐんぐ……うまい……やむ……」
「あまり食べすぎると体調を崩しますよ。程々にしましょうね」
次のサンドイッチを手に取ろうとしていた彼女は、すんでのところで手を止めました。その手をしばらく空中でパクパクさせ、そのパクパクで私を掴みかかりました。
「やーむーのー!」
「はいはい、大丈夫ですよ。あと、声が客席に届いてしまいますので、小声でお願いしますね」
「や……む……」
「はいはい、あなたの出番はまだ先ですよー」
彼女は黙ってコクコクと頷きながら客席を指差しました。何を伝えたいかは分かりませんが、緊張してるのは伝わりました。
「りあむさん、まずは落ち着きましょう。何か飲み物でも飲みながら、真奈美さんたちの一曲目を聴きましょうね」
「……忘れてた。超見るし」
急に冷静になった彼女は夕美さんが居る側のステージ袖まで移動して、観戦の準備を始めました。さすがの追っかけ根性です。
「あっ、りあむさんにありすちゃん、いらっしゃい。それじゃ、私は行ってきますねっ♪」
夕美さんは私たちに明るく振りまいた後、ステージに向かって飛び立ちました。
今日のライブの一曲目。真奈美さんと夕美さんが奏でるそれは、私たちにとって意外な一曲となりました。いえ、私たちだけでなく、お客さんにとってもどうやら衝撃だったようです。
アイドルソングとしては珍しい、ジャズのような曲調。トランペットやサックス、シンセサイザーなどの音が特徴的なイントロ。ステージ上の『ヤナギさんとシオンさん』が歌ったのは、彼女たちが主演を務めたドラマの主題歌『星降る夜』でした。
お二人が織りなす明るく陽気ながらも落ち着いた曲調とは対照的に、客席のボルテージは開幕からいきなりヒートアップしました。そのドラマのファンらしき方からの悲鳴にも似た歓声もありますし、中には既に泣き崩れている方も居るみたいです。無理もありません、私には分かります。りあむさんにはまだ内緒ですが、私もそのドラマを最近観ました。
ヤバかったです。毎話の最後に二人で歌ってきたエンディングが、九話目辺りでヤナギさん一人で寂しく歌う映像に差し替えられた時は泣きそうでした。そして、最終話のエンディングで二人肩寄せあって星空を見上げながら歌うシーンで、私泣いちゃいました。誰も死なないということがこれだけ感動できるだなんて、思いもしませんでした。私も客席に混ざりたいくらいです。
そんな大盛り上がりの会場と違って、りあむさんは真剣な表情でステージの上に見入ってます。
「ありすちゃん、このこと知ってたの?」
「いえ、私も当然、知りませんでしたね」
でも、実は少し期待してました。だって、それこそ客席がこれほど盛り上がるほどにいい曲なんですから。りあむさんにとっても、真奈美さんと夕美さんからの最高の『プレゼント』になったと思います。
会場中が熱狂のままに一曲目が終わりました。
「やばい……感動しすぎて感動できなかった……」
りあむさんは半ば放心したような様子のまま、ステージ上のお二人を眺めてました。お二人は客席に手を振りながらMC中です。すっかり心酔したお客さんたちは、お二人の一挙手一投足に沸き立っています。……どうやら、プロデューサーさんの作戦通りらしいです。
ステージ上の夕美さんが、私たちの方をチラと見ました。合図ですね。
「──ということで、少し早いですが、もうお二人もお呼びしますねっ♪」
彼女のその言葉で客席からは温かい拍手が起きました。りあむさんはにわかに慌てだしました。
「えっ、えっ! ステージあがるとか、ぼく聞いてないけど!?」
「ほ、本当ですねー私も初耳ですねー」
嘘をつきました。これは彼女の緊張をほぐすための作戦、と聞いてます。
「……大丈夫ですよ、ただ四人で少しお話をするだけですよ。一緒に行きましょ?」
私は彼女の手を取りました。彼女が握り返したのを確認して、二人で飛び立ちました。
温かい拍手の中、りあむさんと私は、真奈美さんと夕美さんに挟まれる形で、ステージ上で一列に並びました。その瞬間、客席からは更に大きな歓声が上がりました。
ハンドマイクを持っているのは真奈美さんと夕美さんだけです。なので、私たちは手を振ったり、お辞儀をしたり、笑顔を返したりでお客さんたちにお答えします。
りあむさんは客席を最初に見た時は緊張した様子でしたが、夕美さんに頬を突かれたりする内に落ち着いたようです。
マイクを持たない私は、小声でりあむさんに話しかけました。
「ほら、大丈夫でしょう?」
「ま、まあ、みんな応援してくれてるな……?」
そんな時、夕美さんがりあむさんの方を向いて話し始めました。
「りあむさんは今日がアイドルデビューですよね? 初めての方々のためにも、ちょっと自己紹介をしていただけますか?」
りあむさんはギョッとした表情で勢いよく夕美さんの方を向きました。そして、少し躊躇いながらもマイクを受け取ろうと手を伸ばしました。でも、夕美さんは微笑みながら彼女に対して軽く背を向けました。
「……え?」
りあむさんが正面に回り込もうとすると、今度の夕美さんはマイクを頭上高くに掲げました。……これ、マイクを渡さない気ですね。
その様子を見ていた真奈美さんはマイクを私に預けて、りあむさんの背後に回り込んで彼女の肩を掴みました。そして、彼女を客席に向かせると、大きな声で叫びました。
「そーら、りあむ! 大声で叫ばないと! お客さんに聞こえないぞー!」
マイクを通さずとも会場中に聞こえるほどの真奈美さんの大声。りあむさんは放心気味です。
私が預かったマイクをりあむさんに渡そうとすると、真奈美さんは目でそれを制止しました。
「……あの、りあむさん、頑張ってください」
りあむさんは瞳を震わせながら顔をキョロキョロと動かしています。でも、夕美さんからの耳打ちを聞いて、彼女は意を決して叫びました。
「あっ、ひっ! ゆ、夢見りあむ! 生きてますッ!!」
それを受けて、湧き上がるお客さんたち。中には「りあむー!」や「可愛いぞー!」と叫ぶお客さんも居ました。変わった自己紹介になりましたが、彼女の想いは確かに届いたみたいです。
……そうですね。りあむさんは、今も生きてます。一度は倒れてしまいましたが、今は確かにこの場に立ってます。それは実はとても凄いことです。後でステージ裏に戻ったら彼女を褒めましょう。
でも、彼女が普段言う通り、アイドルとは尊いものです。その苦労も、辛さも、生い立ちも、ファンの皆さんには伝わらない方が良いかもしれませんね。
歌声で真夏を呼ぼうホトトギス
それから歌ったりMCをする内に、セットリストの半分ほどを終えました。今は、真奈美さん、夕美さん、私の三人での曲を歌い終えたところです。
次にステージ上で歌われる真奈美さんのソロ曲、その次がいよいよ、りあむさんと私の歌う『Absolute NIne』です。
夕美さんと共にステージを降りた私は、その準備を行います。衣装替えが無いので少しは余裕があります。そんな時、夕美さんが私を向いていきなり「ここで一句!」と言いました。
「『
歌声で
真夏を
呼ぼうホトトギス』なんてのはどうかな?」
私は面をくらってしまいました。
まず彼女はどうして私に対して俳句を詠んだのでしょうか。予め用意してたんですか? それにホトトギスは真夏ではなく初夏に訪れる渡り鳥です。真夏とホトトギスで意味がおかしくなってますしあと──。
「ほら、やっぱり。ありすちゃん、緊張してる? 凄く早口になってるよ?」
「あれ……?」
言われてみれば、慣れたはずのステージなのに、いつも以上に気分が高揚してます。直前まで歌っていたとはいえ、脈も少し強いですし、頭も少しかーっとしてます。
「ありすちゃん。ほら、大丈夫だよっ」
彼女は私をそっと抱き寄せました。フローラルの優しい香りがして、温かいです……。
「大丈夫。私も少し、緊張してるから。自分がステージに立つわけじゃないのにねっ。でも、私たちだって近くに居るから、心配しないでね? 二人っきりになんてさせないから……」
今度は彼女に優しく頭を撫でられました。子供扱いみたいですが、今は心地いいです。
「はい、おしまい。時間がないからね。次は、ありすちゃんがりあむさんにする番だよ?」
「は、はいっ」
彼女は私から離れて「準備があるから」と言って笑顔のままどこかへ行きました。
私の番、ですか……。
私はりあむさんの元へ向かいました。彼女のそばには、私たちのプロデューサーさんの先輩にあたる井伊杉さんが居ました。確か彼はリハーサルにも居ましたね。
「夢見君、イヤモニの調子はよろしいですかな?」
「うん……きこえてる」
どうやら彼はりあむさんの準備のお手伝いしていたみたいです。
「おっと、橘君がいらっしゃいましたか。では、後はお任せしますよ」
彼はそう言って、夕美さんが向かったのと同じ方へ行きました。
「……ありすちゃん、さっきのおじさん、誰?」
「ま、まあ、気になさらずに」
その後、準備終えたりあむさんと私は、ステージの上手と下手に別れる前に少しお話をします。少し不安な様子の彼女を少しでも安心させたいです。
「大丈夫ですよ。最初にステージに上がった時、お客さんたちから応援してもらったじゃないですか」
「うん。オ……客たちが頑張ってーとか言ってたな」
彼女はなにかを思い出すように、胸に手を当てながら瞳を閉じました。
「……緊張とはなんか違うな? でも、みんなに尊いとこ見せないと。推したいって思わせないとダメだし……。もしファン増やせなかったら、特効薬になれなかったら……」
彼女は自分のためというより、お客さんや他の誰かのために不安になっている様子でした。ある意味彼女らしいです。
大丈夫です、大丈夫です。彼女にそう言い聞かせるために、私も夕美さんのように抱きしめよう。そう思って私は、両手を左右に大きく広げて、抱きしめ……て……。頑張ってください、私。次は私の番です。私が誰かに助けられたように、私も彼女の助けになるんです。抱きしめて、想いを伝える……。
「……ありすちゃん?」
「い、いえ、なんでもないです。りあむさん、みんなで力を合わせて、とびきり楽しいライブにしてやりましょう」
私は誤魔化すように彼女の両肩を掴んでから、顔を逸しました。夕美さんのように抱きしめるのは、私には勇気が要ります……。
私の手に何かが触れる感覚がありました。顔を向けると、彼女はルビー色の瞳を細めながら、私の手の上に手を重ねてました。
「……えへへ。今日はみんな、ぼくの肩を持つな? なんだか元気が出てきた。……ありがと♪」
「え、ええ、そうです。二人で元気に笑顔で歌いましょうね。それじゃあスタンバイしますよ。りあむさん、行ってらっしゃい」
私たちは互いに手を振り合いながら、ステージの両脇へと別れました。
雲はほぼ消えていて、日差しが強くてなんだかとても暑いです。
もう少し、上手く伝えられたら良かったな……。
夢を掴む為の歌声
真奈美さんが今、自身のソロ曲を美しく歌いきりました。彼女は客席に深く礼をすると、りあむさんが居る上手側へと進み、りあむさんをステージ上へと手招きしました。私もステージに上ります。彼女たちはステージの端でハイタッチをしてすれ違いました。さあ、次は私たちの番です。
りあむさんと私は定位置でハンドマイクを構えながら、彼女の右手のひらと私の左手のひらとを合わせました。客席から見えない場所で触れ合う、水色とピンク色のピンキーリング。私たちは一緒です。
今日一番と言えるほどの大きな歓声と拍手が、客席から巻き起こりました。りあむさんは少しビクッとしましたが、すぐに笑顔になりました。
『Absolute NIne』にはイントロがなく、いきなりサビから始まります。それを補うガイドが、イヤモニから流れてきました。……始まります。
りあむさんは開幕こそ少しバタつきましたが、取り乱すこと無く続けました。ここさえ乗り切れば大きな問題はありません。開幕のサビと一番のAメロとの間奏で、彼女は感覚を取り戻すでしょう。
未来への道を勝ち取るため、戦う者の歌。初めはこの選曲に疑問がありました。でも、このステージで実際に歌うと分かりました。この曲は確かに、りあむさんにとってもお似合いの歌だったかもしれません。
一番までは無事に歌い切りました。間奏に入った時には、客席から温かい拍手が起こりました。りあむさんが確かに、受け入れられています。
序盤の彼女の歌声は、ほんの少しだけ固かったです。でも、客席からの愛情を受け取った彼女は、二番から更に持ち味を見せてくれました。声量をカバーするような、柔らかでありながらハリのある声色。彼女の目立つ見た目とは一味違った、スッキリとした歌声。客席からは更に歓声が上がりました。
当然です、彼女はあれだけ練習したんですから。このままの様子なら、問題なく歌いきるでしょう。
私はそう思っていました。
しかし、二番のサビの最中。
パーン!!
その時、一瞬だけ、会場中の全ての音が消えました。
それはすぐ元通りになりましたが、ステージライトも、マイクも、イヤモニも、全てが一時的に止まりました。唐突に訪れた、空白の一秒間。
私は止まらずにサビを歌い続けていました。でも、すぐに気付きました。
声が足りない。
慌てて左を向くと、りあむさんが立ち尽くしてました。彼女のマイクを持つ手はわなわなと震えて、すぐにマイクを落としました。
その落ちたマイクが発した大きな音で、彼女はついに頭を抱えてしゃがみ込みました。
わ、忘れてました! 彼女は大きな音が苦手でした!
私は無我夢中で彼女のそばまで駆け寄りました。絶対に、もう二度と彼女を独りぼっちになんてさせない。そんな強い想いで、とにかく必死でした。
それが、いけませんでした。
私、今、歌ってない……。
どよめく客席の声。それに気付いてから、もう何もできなかった。
イヤモニの伴奏を聞いても今がどこだか分からない。
私はマイクを持ったまま、彼女の横でただしゃがむだけ。
心臓の音がうるさい。顔が熱い。血が巡る。頭が破裂しそう。
呼吸の音すら耳障りで、余計に心が張り裂けそう。
パニックになったのは私だった。せめて、冷静に、冷静になろう。
そう思って伴奏に耳をすましても、客席のどよめきが耳に付くだけ。
そして伴奏に気を取られると、彼女がますます震えていく。
私は何もできないまま、ついに伴奏まで消えてしまった。
私が手放してしまったから。最後の灯火まで、消えてゆく。
失敗した。失敗したしっぱいしたしっぱいした。
せめて私だけでも歌っていたら、彼女はまた帰ってこれたかもしれないのに。
私のせいだ私のせいだわたしのわるいわたしがわたしが。
さっきまでの私たちの歌が、今はどこにも聞こえない。
しんと静かで、もうざわめきすらも聞こえない。
私のせいで全てが台無し。彼女の道が途切れた。
何もかも失った私は、呆然としながら空を見上げる。
雲ひとつない、ぽっかりとあいた青空。
とても暑くて、燃え尽きそうで、息もくるしい。
青色と太陽で目がチカチカする。
幻聴だ。真奈美さんや夕美さんの歌声まで聞こえ……て……?
……聞こえる、歌が聞こえる!
手放してしまったはず私たちの歌が、今はちゃんと聞こえています!
真奈美さんたちの歌声が、会場中に響いてるんです!
直後、アカペラを止めたお二人が、私たちに語りかけてきました。
「二人ともっ! 自分たちの未来を響かせてっ!」
「心を惑わす迷路なんて、君たちの手で今、ぶち壊せ!」
何が起こったかは分かりませんが、今まさに助けられていると理解しました!
彼女たちからのメッセージは、確かに受け取りました。
そして、聞こえた。イヤモニからまた伴奏が聞こえてきました!
ここは……二番サビを抜けた直後! Cメロは十七秒!
「りあむさん!」
「ハッ……ハッ……!」
駄目、まだ正気じゃない。
まず彼女のマイクを拾って、彼女の左手に渡して強く握らせます。
「りあむさん、一人じゃないですから!」
「あっ……あっ……りっ……」
違う、きっと言葉じゃない。
彼女の右腕を掴んで力任せに引き上げます。
凄い力が出て驚きましたが、それは後です。
ギターソロ! 間奏は十一秒! 間に合わせます!!
彼女は立ち上がりましたが、まだ目は虚ろ。
私は抱きしめました。想いの限り、苦しいほどに。
「あっ……」
「居ます。ありすです。私たちは生きてます」
「ありす、ちゃん……?」
「間奏抜けサビ、練習通りです。ありすに続いてください」
「……うん!」
私は彼女を正面から抱きしめたまま、まずは一人で歌い出しました。彼女の胸で少し苦しいですが、不思議とすんなり声が出ました。
直後、今度は二人の歌声が会場に響きました。彼女と触れ合う部分から、お互いの歌声が体に響いてきます。なんだか、凄くホッとします。
私の肩に彼女の右手が触れました。もう大丈夫そうです。
彼女のその右手を私は左手で取り、ゆっくりと離れました。手を繋いだまま広がって、二人で客席を向きました。目の前に広がる景色は、とても暖かかったです。
確かに、私は一度、失敗しました。ですが、次はありません。
見守ってくれている大勢の人がいます。手助けしてくれた仲間がいます。
ですから、不都合な過去なんて、私がビシっと、修正いたします。
もう二度と、この手は離しません! 絶対に!
今より素直になれるなら
気付けば私たちは、割れんばかりの拍手の中に居ました。歓声もとても大きいです。
口元から離れたマイクはとても重くて、右腕が地面へと引っ張られるみたいです。
繋いだままのりあむさんの手を通して、お互いの荒れた呼吸が伝わります。彼女の気持ちごと伝わってきてるみたいで、なんだか幸せです。
とにかく、これで私たちのライブが無事に終わっ──てないじゃないですか!?
「り、りあむさん! 気をつけ、礼!」
二人で慌てて客席に挨拶をして、そのまま手を引っ張ってすぐにステージ袖へ向かいました。この後は夕美さんのソロ曲を挟んでから私のソロ曲です。急いで準備を整えないと。
ステージを降りる間際、夕美さんとすれ違いました。その時に何かを言われた気がしますが、それに気付いたのはステージを降りきった時でした。
ステージ裏まで回り込むと、そこには不思議な光景が広がってました。プロデューサーさんに混じって、藍子さんと歌鈴さんもが拍手で出迎えてくれたのです。藍子さんは飲み物と共に、なぜかステージ衣装らしきものを持ってました。
プロデューサーさんが手を止めて、親指を立てました。
「よし、まずはお疲れ! で、高森ちゃんはありすの方をヨロシクね。よーしりあむ、俺の所へ来ーい!」
彼のその声を聞いたりあむさんは駆け出して、彼──の隣に居た歌鈴さんに抱きつきました。抱きつかれた歌鈴さんは彼女の背中を優しく叩いています。
「はい、ありすちゃん。ぼーっとしている暇はありませんよ♪ 私が衣装チェックをしますね。あ、冷たい飲み物をどうぞ」
「冷たい飲み物、どうも。……あの、藍子さんたちはなぜここに?」
「あとでゆーっくりお話しますから、まずは次の出番のことを考えていてくださいね♪」
飲み物の冷たい心地よさが、喉をすっきりと洗い流しました。少し、目が覚めた気がします。
私はまだ出番を残してます。切り替えて、切り替えて……。
あっという間に次の出番が来ました。
まだ少し気持ちが浮ついてましたが、ステージに立てばすっと切り替わりました。歌いなれた私の曲。そして、私の大切な曲です。いつだってイントロを聴けば、最後まで歌い切れます。私はアイドルですから。
でも、今日はちょっとだけ違いました。歌いなれた歌詞なのに、その意味が胸の奥をじくじくと刺すようです。
今よりももっと、素直になれるならば。今よりももっと、言葉を伝えられたならば。そして、それを初めからできていたならば……。
歌い終えた後の歓声は、なんだかとても新鮮に感じました。
ライブの後半戦はあっという間に過ぎ去りました。あまり実感がありません。
一通りのプログラムを終えて、アンコール直前のMCタイムがこれから始まります。ステージ上に四人が登る時、特にりあむさんが登場した時は、客席から一際大きな歓声と拍手が起こりました。なんだかとても誇らしいです。
MCタイムでは、ライブ中でのトラブルの話になりました。
プロデューサーさん曰く、あの時は気温などの影響で、会場のメインの発電機が悲鳴を上げたそうです。その時に一瞬だけ電力の供給が止まって、あの破裂音が発生したそうです。誰も悪くない、不慮の事故。
そして、彼はそんなトラブルにでも対応可能なように、真奈美さんや夕美さんを裏に控えさせたかったみたいです。夕美さんの持ち歌でもある『Absolute NIne』をりあむさんに歌わせたのも、そんな理由があったのかもしれません。
プロデューサーさんお手製の歌詞カードも、不本意ですが役立ちました。無駄だと思いながら覚えたあの各パートの秒数が、私に心のゆとりをくれました。そして、一筋の希望を冷静に掴み取ることができました。
客席から藍子さんたちが駆けつけてくれたのは、プロデューサーさんからすれば偶然だったみたいです。彼女たちは最悪の場合、衣装を着てステージで歌うつもりだったみたいです。実際にはそうなりませんでしたが、おかげでスタッフさんたちがトラブルの収拾に追われる中でも、人手不足にならずにライブをスムーズに進行できました。
全てがプロデューサーさんたちのおかげでした。全ての大人たちの大人力のおかげでした。
……そんな裏話は、裏話のままに終わります。お客さんたちに向けては、そんなお話はされません。
りあむさんはトラブルの中でも最後まで歌いきった。デビューでの初ライブで力強く歌いきった。そんなお話になりました。そこで改めて客席から大きな拍手が起こったのが印象的でした。
後は、恒例のアンコールの一曲を残すだけです。私たちの事務所のお決まり、『お願い!シンデレラ』です。
りあむさんがステージ中央になるように並びました。四人での歌声はまるで彼女を称えるような、夢見りあむのための賛歌でした。
彼女の楽しげな笑顔。柔らかい歌声。落ち着いたダンス。私がこれまで見てきた中で最高のパフォーマンスでした。きっと、彼女は会場中を虜にしたと思います。
夢を叶えるため、誰かにとっての星になるため、病める者の救いとなるため。手を伸ばし続けた彼女が讃えられたひとときでした。
ダリアが咲く夕暮れ
夕暮れのこの国立公園内に、爽やかな風と花の香りが流れています。
りあむさんにとっての初ライブは、途中にトラブルがありながらも大団円を迎えました。
ライブを終えた私たちは、アイドルから女の子へと戻りました。そんな女の子四人で園内を散策してます。オレンジ色に輝くお花畑がとても綺麗です。
興奮さめやらぬ様子のりあむさんは、上機嫌に飛び跳ねながら前を歩いています。
「ありすちゃん! この白い花とかどうよ! めっちゃ綺麗!」
彼女が指差したのは、地面から力強く伸びているお花でした。
お花畑から溢れんばかりに、白色や黄色、ピンク色や赤色と、色とりどりに咲いてます。小さな花びらがいくつも折り重なって、まるでチアリーダーが持つポンポンのように元気に開いてます。背の低いものでも私の腰ほどまでありますし、支柱をつたって私の背丈ほどまで伸びたものもありました。
夕美さんがそのお花に触れながらこう話しました。
「ふふっ。これはね、ダリアっていうお花なんだよっ。メキシコが原産とされるその球根は、こうやって夏に向けて力強く花咲かせるんだよっ♪」
解説を聞いたりあむさんは「おぉー!」と歓声を上げて、より一層喜びながら私に飛びかかりました。
「ねえねえ! ぼくは白! ありすちゃんは何色が良い!?」
「そうですね。白色も良いですが、こちらの黄色もたくましくて綺麗だと思いますよ」
風を受けて寄り添った白色と黄色のダリアたちが、とても可愛らしく見えます。
その後、真奈美さんの提案で四人で写真を撮りました。夕暮れの空と色とりどりのダリアを背景に、りあむさんの初ライブを記念に残しました。
今回は落ち着いて、みんなの綺麗な笑顔をパシャリ。色鮮やかに撮られたその一枚は、以前の記念写真とは比べ物にならないほどにきらめいてました。
今日はりあむさんにとって、輝かしい記念日になったはずです。
名残惜しいですが、閉園の時間になりました。
私はプロデューサーさんに少しのお願いをした後、りあむさんと共に彼の運転する車に乗りました。
実は真奈美さんたちからささやかな打ち上げのお誘いがありましたが、私は丁寧にお断りしました。だって、私には絶対に行きたい場所がありましたから。
そんな、夜に変わりゆく空の下、揺れる車内。
「はー……やむ……」
隣のりあむさんは後部座席の窓に顔を押し付けながら、なぜか落ち込んでいました。
確かにトラブルなどはありましたが、彼女は再び立ち上がって力強く歌い、最後には盛大な拍手を受けたはずです。
彼女は窓にもたれて外の景色を見ながら話しました。
「成功したっぽさあったけどさあ。でも、あの時尊かったのって、ありすちゃんの方じゃん? あと真奈美さんたちもだな? ぼくはただ、泣き虫でひっぱり上げられて、雰囲気に流されてただけだし……」
彼女はとても独特な落ち込み方をしていました。どうやら、彼女には実感がないみたいですね。
「りあむさん。落ち込んでいるのなら、気晴らしに夕美さんのSNSでもチェックしてみては?」
直後、彼女は姿勢を正してスマホを取り出し、かじりつくように操作し始めました。なんだか、彼女の扱いに慣れてきた気がします。そう考えれば、私はこの数ヶ月で彼女のことを沢山知れたのかもしれません。
彼女と私は、やはり違いました。
彼女にとってアイドルとは、救いそのものでした。彼女自身が救われたように、彼女も誰かのための特効薬になることを望んでいました。ある意味で彼女は、人の身でありながら天使や女神になろうと夢見ていました。
でも、アイドルは自ら輝くものですが、一人だけの力で輝くものでもありません。私も忘れていましたが、彼女もそれを知りませんでした。彼女はまるで、初めての自転車なのに補助輪もなしに漕ぎ出そうとしていたようなものです。けれど、彼女は周りのその支えを実感して、成長できたのです。
ステージに立った今日の彼女はアイドルとして、ファンの方々に希望や感動を届けられたはずです。彼女の努力は、彼女の夢への道を繋いだのです。
勘違いをしてたのは私の方だったかもしれません。
りあむさんの方をふと向くと、彼女は笑ってました。夕美さんのSNSへのコメントを見たんだと思います。そこにはきっと、りあむさんのファンからのメッセージもあったでしょう。
彼女は目を輝かせながら窓の外の景色を見ました。
車はちょうど、橋に差し掛かったところでした。夜空から降り注ぐ星のきらめきが、川の水面を美しく彩っていました。
「……え? Pサマ、なんで川渡ってんの? 来る時こんなのなかったじゃん。おかしくない?」
「あ、言い忘れてました。私たちはこれから、ちょっと寄り道します。もう向かってます。事後報告になりましたけど、良いですよね?」
「いいけど……。なに、打ち上げ?」
あどけなく首を傾げた彼女に顔を向けながら、私は唇にそっと人差し指を当てました。
星降る夜を歌おう
今夜の目的地に到着しました。三人で車を降りて、上を目指しました。
ここは星降る展望台。
ここから見える夜景は、りあむさんと私のとても大切な想い出の一つです。
でも、その時と今夜とでは少し様子が違いました。
麓の方でカップル向けらしいイベントが開催されていて、そこに人集りがありました。そのおかげか、普段ならカップルなどが多いはずのこの展望台には、珍しく私たちしか居ませんでした。眼下に広がる美しい夜景を、私たちだけで独占できそうです。
プロデューサーさんは周囲を見渡しながら「人の居ない展望台を撮影したい」と言って、カメラを片手に頂上へ向かいました。その途中、彼はこっそりと合図をしてくれた気がします。
私の隣にいたりあむさんは、私の腕を強く引っ張りました。
「ねえねえ! 折角だし、ぼくたちも一番上まで行こうよ!」
「いえ、このベンチも良いと思いますよ」
「おっ? ……うん、そだね」
他のベンチよりも少しだけすり減った座面。そこに私たちは座りました。
目の前に広がる夜景は以前より更に輝いていて、星空はまるで私たちを頭上から包み込んでくれているようでした。私たちの周りに広がる全てが、私たちのためだけに存在しているみたいです。
りあむさんと私は、たまたま同じタイミングで顔を見合わせました。それがなんだかおかしくて、一緒に笑ってしまいました。そして、彼女は夜景を見ながら「ねえ」と言いました。
「ぼくさ、オーディションの話ってしたっけ? こないだPサマがなんか言ってた。今度オーディション受けるぞーって。何のやつか知らないけど」
彼女は足を前にピンと出して体を伸ばしました。彼女が「ふう」と息をついた後に、私はこう返しました。
「……よく知らなくても、先を目指す心掛けは良いと思います。りあむさんは良い子です」
急に私を見た彼女は「何か違くない?」と言いましたが、その表情はとても柔らかかったです。
その後の彼女は、営業の予定だったり他の新人アイドルと一緒に歌う予定だったり、色々な今後のアイドル活動について、嬉しそうに話してくれました。今の彼女はまだプロデューサーさんにお任せ状態ですが、未来へ向けて歩みだそうとしているみたいです。初めて出会った頃と比べて、気持ちの面も大きく成長してると思います。
そんな彼女が自身の頭を叩いたので、私は彼女をゆっくりと撫でてあげました。ピンク色の髪のこの指通りや、褒められて幸せそうにする彼女の笑顔が、とても愛おしいです。
人として彼女のことを大好きだとか、こ……恋してるだとか、そういうんじゃないですけど。でも、私は夢見りあむというアイドルの、大ファンになっちゃったと思います。アイドルがアイドルのファンになっただけなので、とても普通です。問題ありません。
だから、彼女の頭を撫でるのは、唯一の大ファンである私だけの特権です。普通のファンにはあげません。
見上げると、星空の少し高いところに、丸くなりきらないお月さま。
まるで宇宙の輝きをまとめて吸い込むように、これから丸く満ちてゆくお月さま。
そして、それを包み込むは、雄大な『星降る夜』。
「あれ? ありすちゃん、その歌……」
りあむさんは驚いたような声を出しながら、ゆっくりと私の方を見ました。
「全部観ましたよ。『ハニーズ・ラブ』」
「やっぱり!? えっと、えっと! 凄いでしょ!? シオン様と一緒に──」
「しぃー、ですよ?」
彼女は慌てて口を両手で塞ぎました。一つ一つの仕草があいくるしいです。
そして、今度は私たち二人で歌いました。
りあむさんにとって、様々な想いがあるこの夜景。
だから、プロデューサーさんにお願いしました。
彼女と二人で『この展望台』に行きたい、と。
そして、彼女のための『賛歌』を歌いたい、と。
彼女はきっと、ファンにとってのお星さまになれます。
そして、私にとってのお月さまにもなりました。
そんな彼女を祝福したい。この歌を届けたい。
この星降る夜に響く、二人だけの静かな歌声。
今日のライブで聴いた本物には、やっぱり勝てません。
ここには賑やかな伴奏もなければ、本人の歌声でもありません。
でも、私の横には、りあむさんがいます。
私たちにしか歌えない、私たちにとっての、本物の歌。
私たちは違う。でも、同じように輝ける。
空にある未来は、あんなにも明るいのだから。
さあ、星降る夜を歌いましょう。
《終》