近代以降、日本語が大きな危機に直面したのは二度か。最初は明治の初め、初代文部大臣の森有礼(ありのり)が提唱した「日本語廃止論」、欧米列強に追いつくには英語の国語化が必要と考え日本語を廃止しようとは大胆な話である▼近代化に焦っていたのだろう。結局、米言語学者から外国語による近代化に成功した国はないとたしなめられて、立ち消えになった▼もう一つの危機は終戦直後。連合国軍総司令部(GHQ)が日本語のローマ字化を検討していた。漢字を覚えるのが学生の負担になっているという理屈だったらしい。これを持ちかけた米軍中佐に作家の山本有三が一喝したのは有名である。「日本人の文字は日本人自身が解決する」▼森有礼やGHQに比べれば、さほどでもない話だが、権力者が言葉について何か言いだすと身構えたくなる。ローマ字表記を現在一般的な「名・姓」から日本人らしく「姓・名」にするという政府方針である▼欧米に合わせるのが卑屈とお考えなのだろうか。日本の伝統に則した形がよいというのがその言い分らしいが、ローマ字で書く場合は姓と名をひっくり返すという方法は明治以降、広く定着し、もはやこちらの方が伝統であろう▼「姓・名」の順で表記したい人はもちろん、そうすればいい。だが、国が旗を振る問題なのだろうか。作家の言葉を借りれば、「自身で解決する」である。