ジンバブエのムガベ前大統領、95歳で死去 政権の座に37年
アフリカ南部ジンバブエの独立後、37年にわたり政権の座にあったロバート・ムガベ氏が死去した。95歳だった。
家族によると、ムガベ氏は4月からシンガポールの病院で闘病生活を送っていた。
軍事クーデターで失脚
ムガベ氏は、ジンバブエが1980年にイギリスから独立後、最初の選挙で勝利して首相に就任した。1987年に首相職を廃止し、大統領に就いた。
以降、2017年12月の軍事クーデターで失脚し、国外追放されるまで、30年にわたって大統領を続けた。首相就任から数えると、ムガベ政権は37年に及んだ。
大統領の初期は、同国多数派の黒人のために保健制度や教育制度を整備したとして、手腕を評価された。
しかし、賛否の大きく分かれた土地改革により経済は破綻。後年は、職権乱用と汚職が取りざたされた。
称賛と批判
ムガベ氏の後任となったエマーソン・ムナンガグワ大統領は、「とてつもなく悲しいことながら」とツイッターで、ムガベ氏訃報を発表し、ムガベ氏を「ジンバブエ建国の父」、「解放運動の象徴」と称えた。
一方、ムガベ氏に「国家の敵」と批判されたデイヴィッド・コルタート上院議員は、「残念なことだが、暴力、法の支配の軽視、汚職と職権乱用という彼の遺産の負の側面は、2017年のクーデターで彼を失脚させた新たな政権にも息づいている」とツイート。
ただ同時に、少数派白人による支配を終わらせた功績や教育制度充実に情熱を注いだ点については、賛辞を贈った。
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ゲリラ闘争と巧みな交渉術
ムガベ氏は1924年2月21日、かつての英領ローデシア(現在のジンバブエとザンビア)で生まれた。
1964年に少数派の白人で構成するローデシア政府を批判すると、裁判を受けることなく投獄され、10年以上拘束状態に置かれた。
刑務所にいた1973年に、自らが設立に関わった黒人組織ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)の代表に選出された。
釈放後は、軍事的な手法を採り入れ、ローデシアにおけるゲリラ闘争を指導。その一方で、交渉も巧みだった。
1980年にジンバブエ共和国として独立を果たすと、総選挙でZANUが第1党となり、ムガベ氏は同国の最高指導者となった。
長期政権で批判高まる
ムガベ政権が長期に及ぶと、独裁者との批判が国外で高まった。
2000年には、政権の座について初めて、政治的に窮地に立たされた。ムガベ氏は、白人が所有する農地を強制接収し、黒人に提供。支持が急上昇したが、経済危機を招いた。
このころから、ムガベ氏を支持する武装勢力が、政治的な目的で暴力をふるうようになった。2008年の大統領選挙の1次投票でムガベ氏が敗れると、対立候補は襲撃を受け、立候補を取りやめる事態となった。
2009年に経済が破綻すると、ムガベ氏に集中していた政治権力を分散を求める声が高まり、野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長を首相に就任させた。
しかし2017年、妻のグレース氏を大統領の後継にしようとしているとの懸念が広がると、ムガベ氏を長年支えた軍が反旗を翻した。クーデターの結果、ムガベ氏は辞任に追い込まれた。
ムガベ氏の略歴
- 1924年 英領南ローデシアのクタマに生まれる
- 1964年 ローデシア政府によって投獄される
- 1980年 ジンバブエ独立後の選挙で勝利
- 1996年 グレース夫人と結婚
- 2000年 国民投票で敗退。ムガベ派民兵が白人所有の農場を襲い、野党支持者を襲撃
- 2008年 第1回投票でモーガン・ツァンギライ氏に敗れる。ジンバブエ全土でツァンギライ氏の支持者が襲われるとツァンギライ氏は決選投票から撤退
- 2009年 経済が崩壊状態のなか、ツァンギライ氏を首相に任命。同氏はその後4年間にわたって国民統一政府の困難な舵取りを強いられた
- 2017年 ムナンガグワ第1副大統領を解任。グレース夫人を後継者に据える準備だとみられた。国軍が介入し、ムガベ氏を辞任に追い込んだ