第35話 逆行分析者
「ミス……完璧な才能もミスの前ではなんの意味もなさない。さっきあなたがしてしまったようにね、真島さん。あなたはさっきの一発で私を倒しておくべきだったの。でもこれでもう、あなたたちは私に勝てない」
土煙が立ち込める中から現れた薫の顔には冷笑が浮かんでいた。一度にあれだけのスキルプログラムを撃ち込まれたにも関わらず、彼女の身体には傷一つない。
(あれだけの攻撃を全部かわされたってこと……?)
にわかには信じがたいその光景にうろたえる結衣を見て、薫はふふんと鼻を鳴らす。
「渡瀬さんは本当に私のことを知らないのね。いいわ、ちょうどいい機会だから教えてあげる。私はね、バイナリアンシンドロームっていう病気なの」
「バイナリアンシンドローム……」
その病気の名前は聞いたことがある。確か数百万人に一人の割合で存在する原因不明の病気で、患者は自分の意思とは関係なしに
でもそれが一体なんだと言うのだろう?
そんな結衣の疑問に答えるかのようにして、透子が言う。
「アイツはただ読めるだけじゃない。理解してるのよ。メモリ上に展開されているデータの内容を。プログラムの動きを」
「そんなことできるの?」
結衣の声のトーンが跳ね上がる。メモリの中身が見えると言ってもそれは0と1の数列だけの話。とても人間が理解できるような内容ではないはずだ。
「結衣も見たでしょ。さっき奴が私たちのプログラムを全部かわしたところを」
透子の言葉に結衣は先程の光景を思い出す。
確かに。薫は自分たちが放ったスキルプログラムをすべて回避していた。あんな神業、プログラムの挙動を読めていなければ到底不可能だろう。
あれが何よりの証拠だと透子は言いたいわけか。
不意に薫の低く笑う声が聞こえてくる。
「真島さんの言う通り。おかげで世間じゃ私のことを逆行分析者なんて呼び方をする人間もいるくらい。まあ、好きに呼んでくれたらいいけどさ」
「逆行分析者……」
メモリ上に展開されたプログラムコードからプログラムの挙動を読み解くことができる彼女には、相応しい異名というわけか。
(なるほど、
混乱の中で結衣は思う。
プレイヤーが作ったプログラムを武器に戦う電依戦というゲームにおいて、プログラムの仕様とは本来秘匿されるべきものなのだ。何故ならそれは、時に戦況を大きく左右するからだ。
だと言うのに逆行分析者の能力は、それをあっけなく暴いてみせる。
――そんなの、
そんなことを考えていたその時、薫の身体がふらりと揺れたのが見えた。見ると彼女は眉間にしわを寄せて額に手を当てている。心なしか、ただでさえ白い彼女の顔が青白くなったような気がした。
「それよりも久しぶりにクソ野郎の書いたプログラムを読んだせいで、少し気分が悪くなってしまったわ」
「く、クソ野郎……?」
「ほら、あなたたちのところにいるでしょ? 秋名綴が」
そこで結衣と透子は二人揃って首をかしげる。何故ここで薫の口から綴の名前が出てくるのか、その理由がまったく分からなかったのだ。
だが一方で、涼はまるで苦虫を噛み潰したかのような顔をしている。
――何だ? 彼女は何かを知っているのか?
そんな結衣たちの様子を見て最初は不思議そうな顔をしていた薫だったが、やがて口を弧にして不気味に笑う。
「ああ、もしかして聞かされてないんだ。ふふ、流石にあの男も知られたくないみたいね。いいわ、そこの二人は知らないみたいだから教えてあげる」
「やめろ!」
慌てたように涼が声を荒げる。だが、薫の口は止まらない。彼女はさえずるように言った。
「秋名綴。あの男はね、人殺しなのよ」
「人……殺し……?」
突然、薫が言い放った言葉に結衣の頭は更に混乱する。
人殺しというのは、つまり殺人を犯したということか? あの虫も殺せぬような純朴そうな少年が人殺し? いや……そもそも彼女は何故、綴のことを知っているのだ? 二人は一体どういう関係なんだ?
結衣が思考の泥沼にはまりかけていたその時、遠くから聞こえてきた声が彼女の意識を引き戻す。
「聞いた通りだ! 本当に青山薫がいるぞ!」
興奮気味の男の声。それは別のチームのメンバーのものだった。
「いいタイミングで邪魔が入ったか」
薫は忌々しげに舌打ちすると、身を翻す。
「まあいいわ、ここは一旦引くとしましょう。精々他のプレイヤーに殺されないようがんばってね」
それだけ言い残すと、薫はフラフラとこの場を去って行く。
この時、無防備にも彼女はこちらに背中を向けていたが、この場にいる誰もが攻撃を仕掛けようだなんて思わなかった。
先程のわずかな戦いで理解してしまったのだ。
――あの女には今の自分たちでは勝てない、と。
今はさっさとここからいなくなってくれることを祈るしかなかった。
……やがて薫の姿は完全に見えなくなった。幸いにも他のプレイヤーたちがここにやって来る様子はない。ひとまずこの場は乗り切ったようだ。
そう思った途端、安堵で結衣の身体から力が抜ける。口からは深い息が漏れた。
一度にあまりにも多くのことが起きた青山薫との
彼女は確かに言っていた。『秋名綴は人殺し』と。吐き捨てるようにその言葉を言った彼女の瞳にあったのは、憎悪だった。綴と薫、二人の間に何かがあったのは間違いない。
きっと透子も同じことを考えているのだろう。先程から神妙な顔をしてうつむいている。
結衣は先程の涼の反応を思い出す。彼女は薫の言葉に狼狽していた。まるで何か知っているみたいに。
以前の下校時にははぐらかされてしまったが、今度こそ教えてくれるだろうか。
そんな期待を込めた目線を向けてみる。だが、
「……行くぞ、いつまでもここにいるのはまずい」
そう言って涼は先を急ごうとする。
――やっぱり教えてはくれないか……。
結衣が諦めてうつむいたその時、
「ちょっと待ってください」
涼を透子が呼び止める。その声には緊張が滲んでいた。
「秋名先輩が人を殺したっていうのは一体どういうことなんですか? 篠原先輩は何か知ってるみたいですけど」
そう言って透子は涼に詰め寄る。先輩を睨みつける彼女の瞳には、深い疑いの色があった。彼女も知りたいのだろう。あの青山薫の言葉の意味を。
一方で透子に詰問されている涼は、珍しく後輩に対して苛立ちを露わにする。
「オレは何も知らねえよ!」
「そうでしょうか。さっき青山の言葉に動揺していたように見えたんですが」
「……真島、お前先輩を信じられねえのか?」
「そうですね、先輩の反応を見てたら青山の言葉の方が断然信用できます。それに今私が聞きたいのは、そんなしょーもない言葉じゃないことくらい分からないですか?」
凄む涼相手にも透子は、一歩も引く様子を見せない。
いつの間にか彼女たちの間には険悪な雰囲気が漂っていた。
このままではまずいと、結衣は慌てて二人の間に割って入る。
「ちょっと透子落ち着きなって!」
「結衣は知りたくないの?」
「それは……」
言いかけて結衣は言い淀む。自分だってさっきの涼の反応はおかしいと思うし気になる。でも少なくとも今は荒波を立てるべき状況ではないはずだ。
「青山さんの言ってることが嘘かもしれないじゃん」
「……少なくとも私は彼女が嘘をついているようには見えなかった。それに、つくならもっとマシな嘘をつくでしょ」
透子は結衣に一瞥もくれることなく涼を睨んだまま言う。
「先輩、正直なところ私は別に秋名先輩の過去に何があったかはどうだっていいんです。でもそれが、青山薫と関係しているというのなら話は別です。それが今回の戦いに大きく影響する可能性だってあるかもしれない」
「そんな曖昧な理由で教えられるか!」
「それとも自分のことは信じろって言っておきながら後輩のことは信じられませんか?」
「テメェ……!」
透子の言葉に涼は歯噛みするが、やがて浅く息を吐くように笑う。
「……ああ、信じられないね。テメェだって、さっき青山に突っ込む時にオレたちに何も言わなかったじゃねえか」
「あ、あれは青山を追い込むためだって説明したじゃないですか!」
心外だと言うような透子だったが、涼は鼻で笑う。
「結果仕留められず、まんまと逃げられてんじゃねえか」
「……それは結果論でしょ」
一触即発。
漂う剣呑な空気に押し潰されそうになりながら、結衣は二人の顔を交互に見やる。仲間であるはずの二人は、今にも互いを攻撃しかねないような剣幕であった。
――この状況、最悪だ。
連戦で疲弊しているところに、二人のこのいがみ合い。ここでもしまた薫が戻ってきてしまったら、もし敵が来てしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。
そこまで考えて結衣はかぶりを振る。
『一体どうなるのか』なんて傍観者ぶっていては駄目なんだ。自分たちはチームなんだから、二人がこんな状況なら自分がどうにかするしかないじゃないか。
そう腹をくくったのが先だったか後だったか、結衣はずいと涼の前に出る。
「お願いします、先輩。秋名先輩と青山さんとの間に何があったのか教えてくれないでしょうか?」
結衣の言葉に涼はムスッとした表情をする。
「……お前までなんだよ、渡瀬」
「私は秋名先輩のことを信じたいんです。あんないい先輩が人殺しだなんて、どう考えたっておかしい。でもそれには、事情を知っている篠原先輩の力が必要なんです。だからお願いします。先輩の力を貸してください!」
そう結衣は涼に向かって真っ直ぐと頭を下げる。
そんな彼女をしばらく睨んでいた涼だったが、やがて深いため息をつく。
「……分かったよ。ひとまず安全なところを探そう。そこで話してやる」