むしろ、世界が陽炎だから

■世界の色が変わった日

あの夏は暑かった。
セミは相変わらずにうるさいし、アスファルトには陽炎が立つ。
ジリジリと照りつける太陽に呼応するかのように、止めどなく吹き出す汗。
お使いの帰りでチャリをこれでもかとぶっ飛ばしていたので、
もうこれはどうしたって抑えきれなかった。
何度も何度も腕で額をぬぐったのを覚えている。
もうかなり昔の出来事だ。
干支は既に一回り以上遡って実に17年前。
忘れもしない。8月10日。
お昼を過ぎて確か2時半ぐらいだったはずだ。
あの頃は幼く、無力で、目に映る世界全てがキラキラしていた頃だった。
今でも幼くかつ無力である事をまぁまぁ自覚しているが、
当時に比べれば幾らかの覚悟や諦めが身に付いたかもしれない。

ともかくあの日はとても暑かった。
チャリをマンション備え付けの駐輪場に投げるようにして止めた私は、
家に貯蔵されてるはずのアイスを目指して一目散に駆けたのだった。
そして私はすぐに異変に気が付く事になる。
自宅の玄関。
母が、倒れている。
家を離れたのは僅か30分程度。
その間に、今までの人生で全く見たことが無いことが起こっていた。
さっきまでの暑さが一瞬で冷却され、むしろ寒さすら感じたものだ。
何も出来ずに途方に暮れた。
「心肺蘇生法と時間」に関する知識は後で知った。
人間という生き物は心停止後から1分経過する毎に10%ずつ、
蘇生率を断続的かつ速やかに低下させていく。
あの時は既に7~8分程、経過していただろう。
乗り込んだ救急車両が渋滞で先に進まない。何やら事故渋滞だという。
あの日は夏休みだったが確か土曜日だったから、
送り込める救急病院を探すことにも難儀していたと記憶している。
右往左往、盥回しになる救急車。
無線で怒号が飛ぶ中、車内の隊員が必死に処置をしていた。

3,2,1

ばくんと母の身体が跳ねる。
しかし反応はない。
呼吸が、ない。
心拍が、ない。
そして出来ることさえ、何もない。
私は私を俯瞰して、この世界がこの世界ではないようなそんな感覚に囚われていた。

中学2年の時に私は喘息で母を亡くした。
晩年の母は別件で脚を悪くし殆ど歩けず、
それでも翌年には膝の人口関節を入れる外科手術を控えていた。
成功すれば再び、自由に歩けるようになるはずだった。
料理をあまりせず、変な部分に懲り性で、歌が好き。
車の助手席に座ると首を左右にピョコピョコ倒しながらリズムをとって、
いつも楽しそうに歌詞を口ずさんでいた。私が歌好きなのは多分、遺伝だと思う。
私が悪さをした時には良く頭を叩かれた。
左手に光るシルバーリングが硬くて痛かった記憶も鮮明だ。
お袋の味は殆ど覚えていないが、あれは痛かった。
結婚指輪、外してるのをついぞ見たことがなかったな。
負けず嫌いのゲーム好きで、いざトランプなどしようものなら大人げもなくボコボコにしてきた。
持ち前の懲り性とマッチした収集系ゲームでは、家族全員が閉口するほどの蒐集率を発揮する。
なんでポケモン図鑑コンプリートしつつみんなLv.100なんだよ。暇かよ。
そして今まで十数年生きて見てきた中で母は最も激烈な雨女だった。

だから、降水確率が0%だったにも関わらず葬儀の日は酷い豪雨となったのだ。
みんな泣いていた。
遺影で微笑む母と、地面に打ち付ける雨音だけが全ての空間だった。
人は死ぬ、という事を初めて知った。
何も出来ずに全てが終わる時があるのだ、と初めて知った。
頑張ればなんとかなるという根性論が通じない時もあるのだと、その時に初めて思い知った。

この世というのは肝心な所で儘ならない。
圧倒的な理不尽が平気でまかり通る。
そんな一面が、時としてある。
泣きっ面に蜂とは良く言ったもので、不運はさらなる不運を呼ぶのだ。
雪だるまのように大きくなってしまった不運は、時としてどうしようもなく大きな不幸を誘発する時がある。
複雑なパズルのピースが噛み合った結果、さもそれが当たり前であったかのようにして口を開け我々を絶望に呑み込まんとする。

私は世界に転がっている理不尽が嫌いだ。
そういった理不尽達は今日も世界各地で名も知らぬような人々を襲っているのだろう。
私は今でもそれらをまるで許せずにいて、不幸な事件をワイドショーなんかで見かけるとたまらず咆哮を上げそうになる。
それが人為的なモノならば尚更で、そちらに至ってはもっと酷い。
放火だとか銃乱射、無差別テロなんかのニュースなどは被害者の事を考えるともうとんと見ていられない。
もはやこれはおおよそ、理不尽コンプレックスと名付けても良いものだろうと思う。
先程はちょっと格好つけて、"大人になった今は覚悟や諦めがあるかも知れない"などと言った。
でも多分それは頭の中での処理に過ぎなくて、本質的にはまだダメなんだ。

■キラキラが揺れる世界

担当アイドルへの愛とか好きとかそういう類のモノを語ろうぜ!
といった主旨の「たんあいがたり」。

私は偶然にも当記事にてその最終日を飾る事となったのだが、
なんとこのままではただの「じぶんがたり」ではないか。
アイドルのアの字もない。しかし許して欲しい。
これらの事実や経験,果ては弱みや気質などが、
私と担当アイドルの関係性を語るのに無関係であるはずがないのだから。

そうだね。
それじゃあいい加減に私の担当アイドル、白菊ほたるへ目を向けていこう。
彼女のパーソナル情報についてはここでは深くまでは語らないけど、
一般的に言うならば「不幸or不運の少女」である。
不運が呼んだ不運により膨張した巨大な不幸を、
日夜ギリギリで回避し続けている……
そんなちょっと変な設定の女の子だ。
世界は常に、白菊ほたるを活かさないが殺さない。
以前綴った文章に
「不幸である為にこの世に産み落とされた少女」
と書いた事があるのだが、この表現は的を射たものであると今でも感じている。

私は物語のハッピーエンドが好きだ。
なんでかと言えば単純で、大概のハッピーエンドは主要登場人物が"納得"しているからである。
そういう意味で言えば巷でいうメリーバットエンドだとか、
なんちゃらエンドみたいなタイプのお話も好きだ。
何らかの決意を持って意思決定したものが世界に反映されて、
最終的に皆が納得しているのならば何でも良いのだろう。
体験の成功や失敗、敢えて言うならばことフィクションにおいては
キャラクターの生死さえもあまり問わないとは思う。

じゃあ白菊ほたるは"納得"しているのだろうか。
してる訳ないだろ。してないよ。
納得してたら悲しくて泣いたりなんかはしないし、嘆いたりなんかもしないんだ。
彼女が持つ諦めない心に触れてくれた方々が、
それに感銘を受けて彼女を好きになってくれるのを今まで何度か目の当たりにしてきた。
とても嬉しい。心の底から嬉しい事だ。
それは白菊ほたるを深く探ろうとしなければ気付けない事だから。
一度この女の子の半生を想像してみようとしなければ及びもつかないような事だから。
そして私自身。
白菊ほたるについて紹介する機会があればそういったマーケティングもするし、そうしてきた。
それは間違いなくほたるの魅力の1つだからね。

でもここだけの話。
実際のほたるは意外と弱くて、現に何度か諦めかけている。
様々な事があって必ず首の皮一枚でアイドル生命が繋がるのだけれど、
少なくとも諦めかけた瞬間は断然納得はしていなかったはずだ。
受け入れる事と満足する事は等価ではないのだから。
私には中学二年のあの日まで、目に映る世界全てがキラキラ輝いて見えていた。
それじゃあ、ほたるはどうなのか……。

ほたるは元来、2つの大胆な野望を持っている。
出来るだけコンパクトに言うと、
"自分がアイドルのトップになる事"

"関わる全ての人物にアイドルとして笑顔を届ける事"
の2つ。
仮に地道な活動に華が咲き、ついにほたるがシンデレラガールの称号を得たとして。
その大きな野望の片割れが叶った暁には、ある種の大きな納得を得るのだろう。
物語の中でぐらいは幸せになってもいい。頼む。これはもはや、私の懇願でもある。
ただ夢の成就までは流石にまだまだ遠き道のりなのであって。
逆にそうだとすれば、結局ほたるの目の前には大人の都合によって、
活かされもせず、殺されもしない日々を過ごすという現実が横たわっているのである。
押し寄せる理不尽とはこれからもずっと、ずっと。
ともすれば一生戦い続けるのかもしれない。
もはやそれ自体が理不尽とさえ言えるのかもしれない。
宿命だとか呪いだとか、残念ながらそういう言葉が良く似合う。
そんな存在が白菊ほたるだ。

私はほたる、勿論好きなんだよ。
個人的な趣向でいえばショートカットの女の子は好きだし、
なんだか背も丁度良さげな所まで成長しそうだし。
胸が大きめの人が好みだと最近気付いたのだが、
まだ13歳だからそちらにも期待は出来るんじゃない?
……でもまぁそんな外見的な話はやはり些細な問題で。

私自身はなんだかんだでいつもなんとなく生きているから。
自分のやりたいことがある人が好きなんだ。
キラキラしようとしている人が好きなんだ。
今でも世界がキラキラしているって、信じたい人が好きなんだ。

間違いなくほたるはそういった子だろう。
好きか嫌いかで言えば当然好きさ。疑いようもない。
そもそも嫌いな子と4年以上も一緒に居て。
事ある毎にその子の事を考えているなんてそんなの普通ありえないから、
そういう意味でもやはり好きなんだろう。
もしもほたるが私を好きだと言って
「大きくなったら結婚して欲しい」
みたいに言ってきたとして。
あー……正にそれこそが彼女の最も満足出来る選択なのだと確信したのならば、
その時にはちょっと考えるかもしれないけれど。
それでも。
白菊ほたると私はいつまでも。
野望を互いに叶えていけるような相棒であって欲しいし、
世界の原理に楯突く共犯者であって欲しいのだ。
ほたるにはほたるにしか出来ない演技があり、彼女にしか歌えない歌がある。
ほたるだけに許された、特殊な表現者としての道がある。
未知を切り拓く為の力がある。
そう信じさせてくれた出会いがあったから。
だから、私とほたるの今がある。

そしてこれからも私は私のエゴで、彼女は彼女のエゴで動いていく。
でも目指す所は一緒だったのだ。
私を満たせば彼女が満ちる。
彼女が満ちれば私が満ちる。
大いに結構じゃないか。
歯車が奇跡的に、これ以上ないほど噛み合っている。
どちらかが施しを与え続けるような上下の関わりでは決してなく、
極めて対等なWin-Winの間柄。
私は担当アイドルと呼称する女の子を半ば"相棒"だと感じているが、これがその由縁なのである。
だから少なくとも私の方からアプローチしたりすることは、
「ほたる不幸のパラドクス」が絶対に解決されないので絶対に起こらない。
私なんかに振り回されて、ほたるが夢を諦めるような事があってはいけない。
三者による回避不能な介入で、選択したかった事が選べなくなるのはダメなんだ。
それは私が吐きそうになるほど嫌いな、理不尽そのものなんだから。

さぁ暴力的な理不尽を全て回避し捩じ伏せて、破壊し虐げ征服してやろう。
たまにはそんな世界があったっていいじゃないか。
これはおおよそ私のエゴだが。
しかし利害は一致した。
支援は惜しまん。
さぁ存分に戦え、白菊ほたる。
そしてそれぞれの幸福を同時に勝ち取ろう。
これが我々の場合における「共に幸せになる」という言葉の定義である。
叶えるのは無謀に思えるだろうか?
だがそれも結構だ。
もとより承知の上だろう。
だからこれからも1歩1歩、進むのだ。
牛歩でも良い。確実に。

例えそれが夏の陽炎のように儚くて曖昧な。
つまるところ嘘にまみれた虚構世界の上であったとしても。
君は君の意志を確かに貫いて、最期には心から満足して果てて欲しい。

そしていつか全てに納得した笑顔を見せてくれたなら、
もはや私は死んでしまっても構わないのかもしれない。
今の私には特段守るべきものが他にはないから、そう思っている。

■おわりだよー🍄🍄

なんかスマンな!
バレンタイン反省会もビックリのヘビーさだったかもしれん。
だが知らん。嘘はついてないし。
これが私と担当アイドルの関係なのだ!
決してラブラブ出来んぞと念を押したのにオッケーしたやきゅ氏を恨むんだな。
そして、こんなとこまで読んでくれてありがとう。
そんな貴方には1ほたpt進呈だ。
う~ん、もしやこれは所謂怪文書なのではないか?
ガハハ!まぁいいな、気にすんな!
私の時計は一度13歳で止まったのだ。
身体は大人、頭脳は子供!
黒歴史万歳ってもんだぜ。

ではなっ!
先日のライブレポは別の記事にてまとめるぜ。
みんなの担当語りも是非読んでみてくれよな!
それじゃあまた会おう!アディオス!!