#55.5 週末の大海嘯
「……動いたか」
教皇執務室のモニター表示が切り替わった。それを見てエーリックは呟く。
戦力展開図、出来事と作戦判断のタイムライン、そして今まさに大地に刻まれている新たな川の空撮追跡映像。明らかに
川の周囲と教会本部周辺には異常降雨が発生してた。
「半々と見ていたが……そうか、来るか。愚かな事よ」
飛翔するカメラドローンからの中継。拡大された賢の映像を見ながら、エーリックは溜息をついた。
捕虜を助けにやってくる。
こうでもしなければ下の連中の収まりが付かなかったのか、理想に目がくらんで現実が見えなくなっているのか……
いずれにせよ、それは勝ちの目を自ら小さくする愚策だった。
やはり神とはこういうものか、とエーリックは思う。
人の身に余る力を持ってしまい、それだけで何かができると勘違いしてしまう。神というシステムの過ち。人を率い、人を支配する者は、どこまでも只人でなければならないのだ。この世に英雄は不要。組織と、それを動かす
と、画面にアラートがカットインされ映像が切り替わる。
画面端の座標データによれば第二層。
先ほどとほぼ同じように、豪雨の中、汚染された海水と共に大地を掘り進む船の姿がある。
しかしその船の上に姿を現しているのは『眷属』の少女、スズネ・サカキだ。
「……水攻め、か?」
天候を操って辺りを水で溢れさせ、さらに二方向から(正確には方角は一緒であり、階層が違うだけなのだが)海を引き連れてやってくる。
天変地異を味方に付け、兵の少なさを補うという手だろうか。
だがそこにエーリックは違和感を覚えた。
水を操るとなれば、第一にありがちなのは周囲を水で囲って兵站を絶つ兵糧攻め。それは悠長に過ぎる。この教会本部を飢えさせるまでに処刑の期日は過ぎるだろう。
だとすれば純粋に、洪水によって地を洗い流す算段だろうか。それも決め手に欠く。聖都や周辺施設は被害を被るだろうが、方舟三層をぶち抜いた吹き抜けに建つ教会本部は、低層を除いてろくな被害を受けないだろう。たとえ軍の動きを止められたとしても、対神戦力の要たるサイバネ強化兵や
――何を考えている?
まさか何も考えておらず、適当に派手で強そうな手を使ったとでも言うのか。
正直、その線も否定はできなかったが、それは侮りすぎだろうとも思った。
金と白に装飾された神聖ディスプレイには、作戦司令室の判断が逐次表示されていく。
既に
エーリックは金と白に装飾された天然革製神聖プレジデントチェアに身を沈めて手を組み、頭の中の地図に戦況を描いた。
何か部下達の手に余る事態と見れば、エーリックは即座に介入する。
だがそれまでは、何もしない。
「お手並み拝見と行こうじゃないか」
敵と味方の双方に向けて、エーリックは言った。
*
同時刻。
『シャルロッテ』は教会本部下層である21階の廊下を歩いていて、廊下に鳴り響くアラートを聞いた。
「私は祝福的で心穏やかです」
「私は祝福的で心穏やかです」
金と白の装束を纏った神聖奴隷が、ロール状にされた深紅のマットを転がして『シャルロッテ』の歩く道を作っていく。
背後では別の神聖奴隷が『シャルロッテ』の歩いた後のマットを巻き取って回収していた。
これは職員を鼓舞し、その奉仕をより祝福的なものとするための練り歩きだ。居並んだ誰も彼もが礼拝の姿勢で、廊下に額をこすりつけている。
この辺りは教会官僚達が日々の業務に使うフロアであり、床も(偏執的なまでに磨かれホコリひとつ落ちていないが)ただの石。神が歩くにはあまり祝福的と言えないため、練り歩きの際には特別にマットが敷かれる。
マットが尽きると新たに別の一巻きが供される。新品の高級マットはこの一度きり使われただけでお役御免となり、
「……クララ、今のは?」
一歩遅れて影のように付いてくる護衛に、『シャルロッテ』は問う。
「カルト背教者たちがテロを企てているようです。ですがご安心ください。教会の守りは極めて堅牢。速やかかつ祝福的に処理されることでしょう」
「そうか……」
相変わらず、メイド服の上から無骨なベルトでハルバードを背負っているクララは、表情も変えずに言った。
確かにそれくらいはよくある事だ。暴徒(民主主義者とか)やサンタクロースカルト過激派などが聖都近隣で騒ぎを起こすことは少なくない。そして彼らは聖都の
だが『シャルロッテ』はこの警報に常ならざる予感を抱いていた。
背教者の一味を捕らえたという噂。見せつけるような公開処刑……
それと、自分の中で抜け落ちている一日を結びつけて考えるのは簡単だった。
あの運命の日まで、彼女はオリジナルのシャルロッテとして生きてきた。少なくともその記憶を持っているのだから、本人としてはそうした認識だ。
だがこの『シャルロッテ』は、気が付けばクローンとして複製された側となっていた。その理由も、
モニター越しに祖父から見せられた
幽閉同然の状態に置かれた、自分と同じ姿の少女。
何かを察したように監視カメラを睨む彼女と画面越しに目が合った。
それは残酷な一瞬だった。何かが違うと思った。あれは自分よりも完成された自分だった。
記憶から抜け落ちた一日はどれほどのものだったのかと思うと同時に、自分は不完全で御しやすいコピーに過ぎず、彼女こそが真のシャルロッテなのだと思わずには居られなかった。
自分が自分では無かったという恐怖。
その鍵が、迫っているのではないだろうか。
真なる神を名乗る一派。その出会いは自分に何をもたらしていたのか?
「失礼……少し離れます。じき戻りますゆえ、それまではお一人でご辛抱ください」
唐突にクララが言った。
何か緊急の連絡でも受けたのだろうと、シャルロッテは思った。
「ふん、わらわとて右も左も分からぬ幼子ではない。道案内など要らぬわ」
「そのお言葉、信じさせていただきます」
言うや、クララは物音ひとつ立てず、影も残さず消え失せた。
「クララ……?」
振り向いてもそこにクララは居ない。
『シャルロッテ』は、精神的に追い詰められていたせいで、常であれば気づけていたであろう兆候を見落としていた。
クララが消えたその瞬間、ようやく彼女は思い至った。この状況でクララが取るであろう行動に。
――まさか、あやつは……!
* * *
音も無く廊下を駆け抜け、誰ひとりの目にもとまること無く移動したクララは、38階にあるふだん使われていない会議室に飛び込んで一息ついた。
クララは当然、ふたりのシャルロッテについて知っている。
特定幹部向け祝福的精神養成プログラム(正式名称が長すぎるので教会内部からすら『洗脳』と呼ばれている)を受けたクララは、教会の上位者からの命令に逆らうことができない。そのため逆に信頼されている面もあり、神の護衛をする上で不都合が無いようにという理由から多くの極秘事項を知り得ていた。
今、彼女が守っているクローンの『シャルロッテ』は、表面的にはそれまでのシャルロッテと同様に過ごしている。
だが、彼女の傍近くに護衛として仕え、寝所にすら立ち入れるクララは、『シャルロッテ』が不安で仕方ないのを悟っていた。それでも彼女は弱みを見せようとせず、毅然として神であり続け、さらに自らの存在に折り合いを付けようと苦闘している。
そんな健気な姿が、のたうち回りたいくらい可愛……もとい、胸が張り裂けそうに痛ましいとクララは思っていた。
そして、今やクララですら顔を合わせられないシャルロッテ……
この世界を救うと決意を固めたその途端に、籠の鳥にされてしまった彼女の胸中はいかばかりか。
彼女の苦しみを思うと、クララは我が身を引き裂かれるようだった。
会議室に飾られているのは七代前の神の絵。
金と白に装飾された神聖額縁の中には、身長30mを超える筋骨隆々たる大男が手にしたスマホから発せられるビームで背教者を焼き払う姿がある。宗教画としてはありふれた題材と構図であり、半端な会議室に適当に飾る絵画として及第点だ。
クララはその額縁を軽く小突く。
すると、その裏に隠していた小さな注射器が転げ落ちた。
「はぁ……こんな無粋な薬品より、シャルロッテ様の唾液でも注入したいところなのですが……」
クララは溜息をつき、そして一息に注射器の中身を静脈へと叩き込んだ。
「しばしのご辛抱を。お二方は、このクララがお救い申し上げます」
遠く雨の音が聞こえる、窓の無い会議室の中。
クララは糸を切られた操り人形のように倒れた。