【122】大韓帝国の成立の意味と『独立門』建築の意味を誤っている。
「…日本が清と戦った一番大きな理由は、朝鮮を独立させるためだったのだ。朝鮮が清の属国である限り、近代化は難しかったからである。李氏朝鮮は初めて清から離れて独立した。李氏朝鮮は二年後に国号を大韓帝国と改め、君主はそれまでの『王』から『皇帝』を名乗ったが、これも朝鮮史上初めてのことである。」(P307~P308)
と、説明されていますが、これでは、あたかも下関条約で、大韓帝国が成立したかのような印象を与えかねません。
ご存知ないのか説明を省略されているのか、1895年の下関条約成立から大韓帝国成立までの二年間の話が完全に抜け落ちています。
日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清国に認めさせました。
日本にとって「利益線」である朝鮮から清国の勢力を排除することに成功しましたが、ロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」によって日本がリャオトン半島を返還することになってしまいます。
もともと、日清戦争中、朝鮮の国王がロシアに匿われていたこともあり、日本の威信低下に乗じて閔氏政権は、1895年7月、親ロシアの方針をとるようになりました。
1895年10月、日本公使三浦梧楼はこれに危機感をおぼえ、日本の軍人らとともにクーデターを決行し、閔妃を殺害して大院君を擁立したのです。
ところが1896年2月、今度はロシアが後ろ盾となってクーデターが起こり、国王はロシア公使館に居をうつし(露館播遷)、またまた親ロシア政権が誕生します。
世界史では、教科書でもこの説明を簡潔におこなっています。
「日清戦争後、朝鮮は、戦争当時からすすめていた政治改革を継承し、1895年の閔妃殺害事件後は日本への反発を強め、国王高宗はロシア公使館に避難して政治をおこなった。1897年には国号を大韓帝国と改め、国王は皇帝となって清や日本との対等を表現した。」(『世界史B』東京書籍・P330)
このことを記念して「独立門」が建てられたのです。
(「独立門」はロシア人建築家サバチンの設計施工)
「ソウルにある『独立門』はこの時の清からの独立を記念して建てられたものだ」(P308)と説明されていますが、正確には、「日本と清からの独立」を記念して建てられた、というべきでしょう。
下関条約から大韓帝国成立までの二年間の出来事を抜きにして「独立門」の話をするのは、きわめて正確さに欠けている日朝関係の説明です。