『日本国紀』読書ノート(121) | こはにわ歴史堂のブログ

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121】善意やポランティアで、日清戦争で朝鮮を独立させたわけではない。

 

「翌明治二八年(一八九五)、下関で日清講和条約が結ばれた。『下関条約』と呼ばれるこの条約の第一条は、『清は、朝鮮半島の独立を認めること』というものだった。つまり日本が清と戦った一番大きな理由は、朝鮮を独立させるためだったのだ。」(P307)

 

と、説明されています。

あたりまえですが、善意やポランティアで国家予算の二倍ほどの戦費をつぎ込んで戦争をする国はありません。

 

伊藤博文とともに当時の全権にして外務大臣であった陸奥宗光が、当時の外交交渉の様子を『蹇蹇録』に詳細に記しているので、以下それに基づいて説明します。(外交文書をそのまま引用している部分もあるので長く非公開でしたが、1929年に刊行されました。)

 

まず、189410月ころから、諸外国が日清戦争の調停を模索するようになり、11月には日本に対してイギリス、フランス、ロシアが調停の用意がある旨を打診し始めてきました。

 

さて、「休戦」と「講和」は別のものです。

休戦とは、戦いを停止することで、休戦してそれから再戦か講和かはその後の交渉次第、ということになります。

休戦すると、戦いが停止するわけですから、休戦前に占領をしておかないと、講和のときに領土の割譲や領有を主張しにくくなります。

 

海軍は台湾を、陸軍はリャオトン半島の割譲を強くのぞむようになり、これをうけて伊藤博文は、「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スベシ」という「要望」を大本営に出しました。

開戦前の世論の動向をふまえても、リャオトン半島や台湾などを占領しておく必要がありました。

日本が清と戦った「大きな理由」が朝鮮独立「だけ」ならば、朝鮮半島から清軍を撃退した段階で戦争をやめていたはずです。

 

1895131日、清国の使節が来日し、21日に陸奥宗光が会談をおこないました。しかし、使節が全権委任状を持ってないことを理由に、講和の使節にならないとして212日に帰国させます。

こうして319日、清国の実力者、李鴻章が全権大使として下関に来航、翌日から講和会議が開かれました。

李鴻章は、まず休戦を申し出ます。しかし、いろいろな条件を陸奥宗光は提示して休戦を拒否します。(この間、日本は台湾の西にあるポンフー諸島に軍を送り、23日に占領させました。)

24日、李鴻章も方針を休戦ではなく講和(つまりは降伏をみとめる)にならざるをえないと考えるようになりました。

ところが、この会議の終了後、事件が起こります。

なんと李鴻章が日本人の暴漢に襲撃され、負傷したのです。

(清を倒すべし、という甲申事変以来、日本国内は過激な空気がみなぎっていたことがよくわかる事件です。)

 

これをきっかけに、国際世論が、清に同情的に傾きはじめてしまいました。

陸奥宗光はこれ以上、休戦を引き延ばすことが困難と考え、30日に休戦となります。

 

41日からようやく講和会議に入ります。

条約の講和は、だいたいにおいて、まず勝者から案を出し、それに敗者が回答、次に敗者から案を出し。それに勝者が回答、という形式で進行します。

 

まずは日本側から「案」を提出します。日本が出したものは、

「朝鮮の独立」

「賠償金の2億両支払い」

「台湾・リャオトン半島の割譲」

が三つの主な柱となりました。

 

45日、李鴻章は次のように「回答」します。

「朝鮮の独立は清だけでなく日本も認めること」

「賠償金は支払うが減額を求める」

「領土は割譲しない」

というものでした。

 

そして次に清から「案」が出されます。それが49日。

「朝鮮の独立は日清両国が認める形式にする。」

「賠償金分割無利子1億両」

「リャオトン半島・ポンフー諸島は譲るが台湾は認めない。」

というものでした。

領土割譲について譲歩したことがわかります。

 

ここから交渉のテンポが進みます。翌日、日本は、

「朝鮮の独立については、両国が認めるという形式にはしない。」

「賠償金分割有利子2億両」

「台湾を外さない。」

と提示し、これに関する次の回答は、「諾」か「否」かしかない、と迫ります。

李鴻章はなおも「賠償金の減額」と「台湾除外」を求めますが、日本は完全に拒否をしました。

15日に講和が成立しますが、11日~14日の交渉は、割譲地の詳細と分割方法などの調整だけで、日本の要求はほぼすべて認められることになります。

 

さて、賠償金ですが、生徒たちは、「今で言うたらナンボ?」というのが好きですから、私は以下のように雑に答えることにしています。

 

2億両は31000万円のこと。でも当時の国家予算は約8000万円だから、今で言うたら360兆円くらいかな?

 

銀払いで、三年分割。これを金に換算して、イギリスのポンド金貨で支払うことが決められました。

 

さて、この交渉過程をみればわかるように、陸奥宗光は、第一条の「朝鮮の独立」を「日清両国が認める」形式にすることを頑なに拒んできたことがわかります。これをふまえて、次の一文を読むと…

 

「つまり日本が清と戦った一番大きな理由は、朝鮮を独立させるためだったのだ。」(P307)

 

どうでしょう。今後の展開をふまえれば、何のために「独立」させたのかがわかると思います。

 

さて、以下は蛇足ですが…

 

「独立門」についての話で、「多くの韓国人が、大東亜戦争が終わって日本から独立した記念に建てられたものと誤解している。」(P308)とありますが、この話はネット上にもみられ、何より井沢元彦氏の『逆説の日本史』でも取り上げられていました。

しかし、2009年以降、公園の整備も進み、由来の説明、看板も出され、清の皇帝の使節を迎えるための迎恩門が取り壊されたことも、大清皇帝功徳碑の来歴も、知られるようになっています。