『日本国紀』読書ノート(135) | こはにわ歴史堂のブログ

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135】大韓帝国を近代化によって独り立ちさせるために保護国化したのではない。

 

「日本は大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には保護を解くつもりでいた。」(P326)

 

と説明されていますが、これを示す一次史料は何でしょうか。

これは保護国化、さらには植民地化にあたっての後付け説明でしかありません。

「保護国化」とは、百田氏が説明しているように「外交処理を代わりに行なう国」(P326)のことですが、近代化するために、なぜ外交権を奪う「保護国化」する必要があったのでしょうか。

 

日清戦争の下関条約の締結過程をふりかえればわかるように、第一条の

 

「清国は朝鮮の独立を認める。」

 

という項目をめぐって、李鴻章はこれを「日清両国は朝鮮の独立を認める」ということにしようと要求したことを陸奥宗光は頑なに拒否し、清国一方による「独立の承認」を認めさせています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440840209.html

 

ところが、その「清国から独立した」大韓帝国は、今度はロシアに接近し始めました。

皇帝の高宗も政府も、ロシアの協力による日本離れを示し始めていたのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440878205.html

 

ですから、ロシア(あるいはその後、他の国)と手を組ませない、ということの延長線上に保護国化がありました。

 

「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつまりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」(P326)

 

という説明も、大きな誤認のもとに展開されている説明です。

 

インターネット上の説明などでも、「日本の植民地支配は欧米とは違う。」「ヨーロッパの植民地支配は収奪を目的としていた。」という説明を散見できます。

一般に「植民地支配」は、「収奪型」である、というイメージが広がっています。

 

ですから、「ヨーロッパと違う」と説明されると、日本の植民地支配はそうではないんだ、と、納得してしまいやすいものです。

 

そもそもの「植民地支配=収奪型」というのが誤った「植民地支配」の理解です。

スペインがその初期において南米におこなったような「植民地支配」は19世紀後半以降、おこなわれていません。

 

イギリスの植民地支配は、現地に鉄道を敷き、インフラを整備していくものでした。そして学校も設立し、教育をおこなっています。

フランスの植民地支配は、「同化政策」が中心で、街並みなどもフランス式のものに建て替え、フランス語の教育を進めていきます。

フランスによって植民地化される前のアルジェリアの人々は、犬小屋とかわらぬ家に住み、食べ物がろくに手に入らぬ状態であり、伝染病も蔓延し、子供の半数が5歳を迎えず死亡している状態で人口は150万人くらいでした。しかし、フランスが植民地支配してからは、これらは「改善」され、1890年代には450万人と三倍になっています。

(『チュニジア・アルジェリア・モロッコ(世界の国ぐにの歴史6)』林槙子・岩崎書店)

インフラを整備し、公衆衛生を向上させ、現地の「野蛮な習慣」を廃止し、奴隷取引を停止、「近代的な」ヨーロッパの法律を適用し、教育を施して文字の無い世界に文字を与え、人口が増加しているから良好な植民地支配である、というならヨーロッパ諸国の植民地支配はすべて良好であったことになります。

 

「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約二倍に増やした。同時に二十四歳だった平均寿命を四十二歳まで延ばした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰を廃止した。これらのどこが収奪だというのだろうか。」(P327P328)

 

と説明されていますが、はい、もちろん「収奪」ではありませんが、20世紀に世界でよくみられた列強の「植民地支配」と、だいたい同じ、といえます。

帝国主義諸国の植民地支配の多様性を研究したことがある方ならば、べつに「驚くべきこと」ではないでしょう。

 

奴隷の廃止、というのは19世紀前半からイギリスが進めていますが、それは人道的な理由で進めているのではなく、安価な労働力の創出のためです。

南北戦争による奴隷解放も、ロシアの農奴解放も、産業革命と資本主義の発展が背景にあります。

帝国主義時代は、植民地支配をその地域に「近代化」をもたらした、というのは、支配する国にとって都合の良い経済構造に改造することです。

 

「たしかに当時の日本の内務省の文書には『植民地』という言葉があるが、これは用語だけのことで…」(P328)

 

と説明されていますが、はい、そうです、としか言いようがありません。われわれは、「植民地」という言葉をよく使いますが、文字通り「植民」つまり、人を移動させる場所が、もともとの「植民地」の意味である、ということを忘れています。「植民のために」支配する場所が「植民地」です。

「植民」先として適合するように「改造」するのが植民地支配です。法律も刑罰も社会制度も変えるのはあたりまえです。

また、この段階で唐突に「また、日本名を強制した事実もなければ、『慰安婦狩り』をした事実もない。」(P328)と説明されていますが、韓国併合後の植民地支配は、1910年以降、一貫して同じだったわけではありません。1912年の辛亥革命、第一次世界大戦、恐慌前後、満州事変前後、日中戦争前後、と状況に応じて変化してきています。

 

「韓国併合」時における支配のあり方を一元的に説明するのは無理があります。