「日本語はだれのものなのか? 日本人とは、だれのことなのか?」
(温又柔『台湾生まれ 日本語育ち』)
温又柔は自身のエッセイ集『台湾生まれ 日本語育ち』で、この問いかけを繰り返している。日本語の所在、日本人の輪郭を、自身のとまどいから探し当ててきた。前出の小説について選考委員の島田雅彦は「既に自己の特異性を痛快にエッセイに書いた後、それをノベライズしても二番煎じを越えない」と手厳しく書いている。自己の置かれた立場を「特異性」と確定することができないからこそ小説として記したように思えるが、確かに、このエッセイ集で書かれているエッセンスは多分に小説の中に持ち込まれている。彼女は「台湾人でありながら日本人でいたい」(『台湾生まれ 日本語育ち』)と記す。揺らぎを確保するために書く。だからこそ「対岸の火事」とするのは侮蔑でしかない。
温又柔は高校時代、ザ・イエロー・モンキーの「JAM」の歌詞に共感したという。外国で飛行機が落ちた時に、ニュースキャスターが嬉しそうに「乗客に日本人はいませんでした」と連呼する様子に、「僕は何を思えばいいんだろう」との葛藤を吐露する歌詞が出てくる。彼女と世代が近いこともあり、自分にとってもこの曲は、この国のメディアや文化が持つ閉鎖性を知らせてくれた曲として強い印象を残している。彼女はこの曲を聴きながら「台湾のパスポートを持つ自分が、その事故で死んでも、日本人には数えられないことに気付いた」(サンデー毎日 2016年4月24日号)という。
慎重に育んできた自身のアイデンティティを、芥川賞選評という、小説家にとっては大きな意味を持つ場で、あれだけ軽んじられたのだから、憤慨するのは当然のこと。あまりに基本的なことすぎて、ありきたりな説教のようになってしまうけれど、言語や国籍をめぐる「深刻なアイデンティティ」に目を向けずに、一体何が文学だろうか。この小説を「対岸の火事」「他人事」で片すならば、「新進作家による純文学の中・短編作品のなかから、最も優秀な作品に贈られる賞」(日本文学振興会HPより)の選考委員にはふさわしくないと思う。その姿勢は、新進、を塞いでいる。
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